踊る人              津木林洋  ディスコの出入口でダンス・マラソンのポスターを見つけ、優勝したらサイパンに行けるとわかったとき、浩一は即座に参加することに決めた。サイパンは浩一の祖父つまり母の父親が戦死した島なのである。といっても祖父の霊を弔うといった殊勝な気持からではなく、母のなかにある祖父のイメージをぶち壊したいためなのだ。どうやったら壊れるか浩一自身にもわからないが、行けば何かあるんじゃないかと彼は思った。行ってやろうじゃないかという気持だった。  浩一は一緒に来ていた悟や由美、それに悟の彼女に声をかけた。三人ともすぐに、おもしろそうと承知したが、誰も本気で優勝しようなんて思っていないのは明らかだった。ここでおれが本気だといったら、どうなるか。ウッソーと言われるのが、おちである。  次の日の日曜日、浩一は目が覚めてもベッドから起きずに、そのことを考えていた。そして本気に徹することに決めた。大会までにはまだ一カ月半もある。まず体力を鍛えることが先決だ。浩一は一年前まで高校でバレーボールをやっていたから、体力には自信があった。自信があったから、本気になったともいえる。  問題は相手だった。ポスターのマラソン規定という欄には、男女がペアーになってジルバを踊ること、という一文があった。由美を相手に選んだのでは、勝目がないに決まっている。かといって、他に適当な相手も浮かんでこない。  浩一はまずトレーニングをすることに決め、ベッドから飛び起きると、洋服だんすの一番下の引出しから、選手時代のユニフォームを取り出した。ユニフォームといっても、ショートパンツにシャツという姿だ。三月中頃でちょっと肌寒いので、そのうえにトレーナーを着た。洗面所で顔を洗い、台所へいって牛乳を飲んだ。居間のソファーに投げ出されているバッグを見て、おふくろ、帰っているのかと浩一は思った。彼が昨夜ディスコから帰ってきたのが午前一時過ぎで、寝たのが二時だったが、母の帰ってきたのは全く知らなかった。昼も近いのに、まだ起き出してこないところをみると、朝帰りかもしれないなと浩一は思った。  浩一の母はキャバレーでホステスをやっている。二十六歳のときに、三つになる浩一をつれて離婚し、それから弁護土事務所や印刷会社の事務や、スーパーマーケットのパートの仕事をして、三十五歳を過ぎて、ホステス募集の広告に応募したのだ。夢の中に父つまり浩一の祖父が現れて、浩一を大学までやるように言い、キャバレーに勤めなさいと指し示してくれたという。おじいさんはどんな顔だったと浩一がきくと、軍服姿の髭をはやした立派な顔だったと母は答えた。それは唯一残っている祖父の写真の顔だった。母が二歳のとき、父親は戦場にいってしまったから、顔を覚えているはずがないのだ。浩一はちょっといじわるく、おじいさん、キャバレーなんて知ってるのかなとつぶやいてみたが、おじいさんはね、いつもあの世から私たちのことを見守っているから、何でも知っているのよと軽くいなされてしまった。  母が離婚したのは、浩一の父が飲んだくれで、ばくち好きだったせいだと母は浩一に説明したが、浩一は作り話じゃないかと思っていた。離婚の原因は祖父にあるんじゃないかと漠然と思っていた。つまり母のなかにある祖父と父を比べて、その落差にがくぜんとなって……。高校生になってから、浩一はそんなふうに考えるようになった。  バスケットシューズをはいて表に飛び出し、堤防に向かって十分ほど走ると息が切れてきた。浩一は体力が落ちてしまったことに驚いた。バレーをやっていたころは三十分走っても何ともなかったのに。浩一の仕事はある出版会社の出庫係で、伝票を見ながら国語や数学などの参考書や問題集を揃えるのだが、百冊二百冊を一度に運ぶので足腰の鍛練にはなっていたが、スタミナの維持にはなっていなかったわけだ。  こんなことじゃ、とても優勝はおぼつかないなと、浩一はいささかがっかりした。それに、たとえ自分が鍛えたとしても、相手の女の子の体力も同等に追い付かなければ、やはり優勝は望めない。諦めるかと浩一は思った。こんなふうに、一度やろうと決めたことを簡単に放棄すると、おふくろなら、あんたのおじいさんはね、サイパンで飲まず食わずでふらふらになりながらも、日本のために戦って死んだのよ、それがなんですか、と見当違いなことを言って説教するだろうが、あいにくおふくろは何も知らない。浩一があくまで大学にいかないことを押しとおせたのも、一度も大学にいきたいと言わなかったからだ。浩一は勉強が嫌いだったし、何よりも母に面倒を見てもらうことにうんざりしていたのだった。  浩一はいかにも走りますという恰好をしてきたので、歩いてばかりいるのも居心地悪く、他に走っている連中につられるように堤防の上を走った。河原のグラウンドで高校の野球部が練習試合をしているのを、しばらく見てから、マンションに帰った。  母はすでに起きていて、昼食の用意をしていた。 「昨夜はごめんね。お客さんにどうしても付き合ってほしいって、頼まれたものだから。おかあさんの商売ってお客さんあってのものでしょう。断わりきれない場合もあるのよ。本当にごめんなさい」  いつもと同じ言訳にうんざりしながら、浩一は「毎度のことですから、気にしてませんよ」とこれまた同じように答える。 「その言い方はやめてちょうだい」これも同じだ。  ハムエッグと野菜サラダの昼食のときも、いつもと同じ話が蒸し返された。浩一の大学進学のことだ。 「きのう来たお客さんがね。大学へやる金があるなら、子供は大学へやった方がいいっていうのよ。その人ね、高卒なんだけど、大分苦労したみたいね。出世は遅れるし、結婚にも差がつくし、銀行から金を借りる場合でも信用がまるで違うって言ってたわ」 「で、その人、今何してるの」 「独立して、印刷会社を経営しているらしいわ」 「だったら大学を出なくても、立派にやっていけると証明しているようなものじゃないか」 「何言ってるの。成功した人の言葉だから、重みがあるんじゃないの」  失敗した人の間違いではないかと思ったが、浩一は黙っていた。母は浩一が何も言わないでいると、どうして大学に行ってくれないの、わたしがこんな商売をしているのも、みんな浩ちゃんに立派な人になってもらいたいからなのよ、こんなことじゃ死んでも死にきれないわ、あんたのおじいちゃんに申し訳なくて天国にも行けやしない、とどんどん愚痴が続くのである。  浩一は無視して昼食を食べ終えると、ごっつあんと言って立ち上がり、自分の部屋に引っ込んだ。彼はその時やっぱりサイパンに行かなきゃ駄目だと考えていた。  翌朝、浩一は一時間ほど早く起きて、ショートパンツのジョギングスタイルに着替えた。母が物音に気づいて起きてきて、浩一の恰好を見るなり「きょうは会社は休みなの?」ときいてきた。 「いいや、きょうから会社へは、走っていくことにしたから」と浩一は答え、母がまた何か尋ねようとするのも構わずに、マンションを出た。  堤防まで行ってその上を走り、国道の通っている橋を渡れば、すぐ右側に会社があった。会社へはいつもバイクで通っていたが、大体十分くらいかかっていた。三倍かかるとして三十分、大目にみて四十分もあれば着くだろうと思っていたが、途中でへたばってしまい、会社に着いたときには定刻を過ぎていた。主任や先輩が浩一の恰好を見て、どうしたんだと不思議そうな顔をしたが、浩一が、足腰を鍛えるために、あしたから走ってきますのでよろしくと答えると、呆れた顔をした。帰りはさすがに疲れていたので一時間も走る気にはなれず、バスで帰ってきた。  次の日、ふくらはぎや太腿の筋肉が痛かったが、やめようという気などさらさらなくて、浩一は一時間半ほど早く家を出た。母はまだ眠っていた。平日は二人が顔を合わすことは、ほとんどなかった。浩一は十二時前に寝てしまうし、母が帰ってくるのは一時か二時、朝は母の起きる二時間前に浩一が起きるという具合だ。  浩一は堤防の上まで来ると、トレーナーを脱いで腰に巻いた。体が暖まってくるからである。ランニングシャツ姿になって再び走り出す。十分ほど走って息が上がってきたころ、彼はトレーナーがなくなっていることに気づいた。立ち止まって振返ると、二十メートルほど向こうに紺色の塊が落ちている。浩一はゆっくりとした足どりで戻っていったが、十メートルくらいまで近づいたとき、横から黒い犬が現れたと思ったら、トレーナーをくわえて河原のほうへ降りていってしまった。あっと思って見ていると、今度は白いトレーニングウェアを着た女の子が堤防の下から上がってきて、「タロー、タロー」と叫んだ。下を見ると、河川敷の道のところで、犬がトレーナーと格闘していた。浩一はあわてて堤防を降りていった。  犬はドーベルマンの子供らしかった。トレーナーを歯で引き裂いている。浩一はしっしっと言いながら、トレーナーの袖をつかもうとしたが、犬の動きがはやすぎてつかまえられない。 「タロー、やめなさい」と言いながら、女の子がやってきた。彼女は犬の頸を腕で抱え込むようにしておとなしくさせると、トレーナーを引っ張ったが、犬はくわえたまま放さない。「タロー、放しなさい」と言って、女の子は犬の頭をぽんぽんと叩いた。それでようやく犬は口を開けた。手にとってみると、トレーナーは胸のあたりに大きく穴が開いていた。 「どうも、すいません」女の子は犬に鎖をつけると、浩一に深々と頭を下げた。「今はお金を持ってませんが、必ず弁償させていただきますので、おところとお名前を教えてもらえますか」 「いいよ、いいよ、そんなの。どうせ古いトレーナーなんだから」 「いいえ、それじゃ申し訳ありませんから」 「いいよ、ほんとに。それじゃ」と浩一は破れたトレーナーを首に巻いて走り出した。 「ちょっと待って」と女の子も堤防を上ってくる。 「悪いけど、会社に遅れるから」 「会社って、どこにあるんですか」少し後ろから、女の子が犬と一緒に走ってくる。 「※※大橋を渡ったところ」 「あんなところまで走るんですか」 「そう」 「※※電機にお勤めなんですか」 「いいや、ただの出版会社」  声がしなくなったなと思って後ろを見ると、女の子は立ち止まって手を振っていた。  昼休みが終って仕事を始めようとしたとき、浩一は面会の人が来ているということで事務所に呼ばれた。行ってみると、朝の女の子だった。浩一はちょっとびっくりした。テニスウェアを着ているせいだろうか、朝のときより大人っぽく見えた。高校生のような感じがしていたが、ひょっとしたら自分より年上かもしれないと浩一は思った。 「けさはどうもすいませんでした。タローはまだ子供だから、何にでもじゃれつくくせがあって。これ、受取ってください」  女の子は白い封筒を差し出した。浩一は何だかよくわからないまま、素直に受取ってしまった。「じゃあ」と言って女の子は事務所を出、浩一も一緒に出た。 「でも、どうしてここがわかったんだろうなあ」  独り言のように浩一がつぶやくと、女の子は含み笑いをしながら、 「このあたりに出版会社って、ここしかないでしょう。それに、ジョギングしながら出勤する人って、あなたしかいないみたい」 「なるほど」  女の子は待たせてあった乗用車に乗り込むと、手を振ってみせた。浩一も手を振って返したが、いささか驚いていた。乗用車は国産の最高級車だったし、その車に乗ってテニスに行くなどというのは、いかにも金持のお嬢さんというのにぴったりだった。車が角を回って見えなくなってしまうと、浩一は急に腹が立ってきた。わざわざ自分をさがしにきたのも、金持の退屈しのぎのような気がしてきたからだ。  浩一は封筒を開けてみた。中には一万円札が入っていた。彼はその金額の大きさに、また腹を立てた。  翌日、浩一はもらった封筒に五千円札を入れ、それを手に持って出勤した。あの娘に突っ返すためである。だが、きのう彼女と会ったあたりに来ても、それらしい姿は見当たらなかった。浩一は十分ばかり様子をみていたが、諦めて会社に向かった。  次の日も封筒を持って出たが、会えなかった。浩一は返すのを諦めた。  そして土曜日、浩一が堤防を走っていると、「おはよう」と後ろから声をかけられた。見ると、彼女だった。犬も一緒だ。浩一はしばらく肩で息をして呼吸を整えてから、「この前からあんたに会おうと思って、さがしていたんだ」と言った。 「あれじゃ不足だったかしら」 「多過ぎるんだよ」  女の子はおかしそうに笑った。 「だったら、いいんじゃない?」 「とにかくおれは気分が悪いから、五千円だけはもらっておくけど、あとの五千円はあんたに返すよ」  女の子は浩一の剣幕に驚いたふうだったが、すぐに笑顔に戻ると、ぺこりとお辞儀をした。 「ごめんなさい。わたし、別にそんなつもりで一万円にしたわけではないんです。最初はわたしも五千円くらいが適当かな、なんて思ったんだけど、少ないって文句を言われたら困るなって思い直して、一万円にしたんです。本当にごめんなさい」  女の子があまりにも素直に謝るものだから、浩一は何か悪いことをしているような気になった。 「別にそんなに謝らなくてもいいよ。おれはただ五千円でいいって言っているだけなんだから」 「わかりました。それじゃあ」と言って、彼女は左手を差し出した。 「お金? 悪いけど、今は持ってないんだ。おとといまでは手に持って走ってたんだけどね。月曜じゃどう?」 「月曜日?」女の子は思案する顔つきをした。 「じゃあ、火曜日は」 「火曜日ねえ……」  犬がじれったくなったのか、河原に降りようとし、女の子は鎖を引張って支えた。 「わかった、わかった。あんたの家まで持っていくよ。家はどこ?」 「大きいけやきのあるロータリー、ご存じ?」 「ああ、知ってるよ」 「あそこのそば」 「わかった。それじゃあ持っていくよ」  そう言うなり、浩一は走り出した。そして、しばらく行って振返ると、堤防を降り始めている女の子に向かって「名前は何?」と大声で聞いた。 「柳原でーす」と女の子は答えた。  土曜日は三時で会社は終りだった。浩一は土曜日くらい走って帰ろうかと思ったが、どうせ踊るんだから無理することはないとバスにした。マンションに帰って悟と由美に電話すると、二人ともいて、踊りにいくと言う。いつものように八時に店の前で落ち合うことにした。八時まで大分時間があるので、映画でも見て、どこかで食事をとることにした。土曜日だけは、夕食の用意がされてないのだ。食事の用意がしてあっても、土曜日は食べないことが多くて、いつのまにか土曜日は夕食なしということになってしまったのだ。  母は風呂に入っていた。特別製のへちまでボディマッサージとかいうやつをするので、一時間くらい入っているのはざらなのだ。それがすむとさらに一時間かけて化粧をし、和服ならば三十分、ドレスならば十五分。それで準備完了。あとはタクシーで出勤するわけだ。浩一は母の化粧をする姿も、化粧のあとの姿も見たくないのでさっさとマンションを出るのである。  浩一はついでに、あの女の子のところに金を持っていこうと封筒をポケットに入れて、表に出た。バイクに乗って、ロータリーのところまで行った。あたりには金持の屋敷が石塀や生垣を境にして、並んでいた。けやきの回りには石のベンチが四つ置いてあって、浩一はその前にバイクをとめ、柳原という家を探した。だがなかなか見つからなかった。ロータリーのそばというには当たらないと思われるところまで見て回ったが、なかった。彼女が嘘をついたのかと思いながら、石のベンチに坐っていると、フリルのついた白いワンピースを着た女の子がやってきた。ちょうどいい、ちょっと尋ねてみようと思って顔を見ると、あの女の子だった。何だか狐につままれたみたいだった。 「こんにちわ」と女の子が言った。 「どこから出てきたの。このへんに柳原なんて家はないよ」 「あそこよ」女の子の指を差した方向を見ると、もうひとつ向こうの辻にある屋敷が目に入った。庭にある樹木の切れ目から、二階の部分が見えた。 「あそこじゃロータリーのそばとは言えないぜ」 「いいじゃない。こうして会えたんだもの」  そりゃそうだけどとつぶやきながら、浩一は尻のポケットから封筒を取出し、女の子に渡した。礼を言って受取ると、彼女は、バイクに目をやり、「これで来たの」ときいてきた。ああと答えると、「※※ビルの前まで乗せていって下さらない」ときた。 「これは五十ccだから、人は乗せられないの」 「おまわりさんに見つからなきゃ、いいんでしょ」 「大胆なご意見ですねえ」  ※※ビルはディスコにも近いことだしと、浩一は女の子を乗せた。彼女は叶子といい、良家の子女の集まる女子大の二年生で、柳原産業という住宅設備をつくっている会社の社長の娘だった。運転手つきの車で行けばいいのにと言うと、きょうはお休みなのということだった。  警官にも見つからずに※※ビルの前に着き、行こうとすると、「ついでに買物につきあって下さらない。もしお暇でしたら」と叶子は浩一の腕をとった。図々しい女だなあと浩一は思ったが、どうせ八時までは暇なんだからとつきあうことにした。  叶子はビルの一階にある大きな靴屋の中に入っていった。一緒に入っていくと、奥にいた四十半ばの男が叶子を見つけて、やってきた。 「これは、これは、柳原のお嬢さま。いつもお引きたてにあずかり、ありがとうございます。それできょうは何を……」 「テニスシューズを見せていただこうと思って」 「それでしたら、こちらへどうぞ」  男は右手を伸ばして叶子を案内し、そのとき浩一と目があうと、丁寧に礼をした。浩一はばつが悪かった。彼の恰好はといえば、体にぴったりと張りついたスリムのジーンズに、履き心地はいいけれど薄汚れてよれよれになったバックスキンの靴、それを素足に履いている。上は格子縞のスポーツシャツに黄色のセーターを背中から首に巻いており、頭はリーゼントだ。どうみても叶子の連れにしては、おかしいだろう。店の人間はそう思っているだろうと思うことが、浩一を居心地悪くさせたが、彼はそんな気持に逆らうように、店の奥のほうを見て回った。そこには彼の一カ月分の給料と同じくらいの額の靴が並んでいた。  叶子はカードで支払いをすませ、届けてくれるように頼んでから店を出た。 「どこでもあんなふうに最敬礼で迎えてくれるのかい」 「お金に最敬礼してるのよ」 「金があるって、いいねえ」 「本当にそう思う?」 「ああ」 「金持はね、みんな自分に価値があるって思っているけど、価値があるのはお金なのよね。お金っていう価値にくっついているだけ。その錯覚に気づかずに生きているのよ」  おかしな女だと浩一は思い、ちょっと彼女に興味を覚えた。 「ねえ、お腹すかない? 何か食べましょうか」 「おれはどうせ外食だから構わないけど、そっちはいいの」  それには答えないで、じゃあ行きましょうと叶子は歩き出した。彼女の案内で、二人はスパゲッティとサラダの店に入った。店内は女の子でいっぱいだった。浩一はナポリタンの大盛を頼んだが、大盛はやっていないと言われ、あわててメニューを見て、チーズバーガーとサラダのセットを追加注文した。「よほど、お腹がすいているのね」と叶子はおかしそうに笑った。 「なにしろ、八時から夜中まで踊らなくちゃならないから、腹ごしらえだけはたっぷりしておかなくちゃあね」 「踊るって、ディスコ?」 「もちろん」 「おもしろそう。ねえ、ねえ、わたしもつれていって下さらない」 「一度も行ったことないの?」 「ええ」 「そりゃもったいないよ。健康増進、ストレス解消にはもってこいだし、長いこと踊っていると、体中の骨が体の中で浮いているような感じになってさ、これがまたいい気持なんだ」  食事がすんで、二人はバイクに乗って『ジミーの店』に行った。食事代は叶子がおごってくれたので、ディスコの入場料は浩一が払った。出入口の壁のところに張ってあるポスターを指差して、「これに出ようと思ってるんだ」と浩一は叶子に行った。 「優勝したらサイパンへ御招待って書いてあるだろう。サイパンは、おれのおじいちゃんの戦死したところなんだ」 「優勝するつもり?」 「まあね」 「ジョギングで会社に通っているのも、そのため?」 「それだけじゃあないけど、まあ、それもある」  店の中は七時前だというのに、もう人いきれでむせかえっていた。フロアに近づくと、鼓膜を圧するディスコサウンドが響き、音が皮膚を打った。浩一はぞくぞくと身震いがくるのを感じた。後ろを振返ると、叶子が人波に押されて、壁際で小さくなっていた。浩一は叶子に近づき、彼女の手を取ると、フロアを取り囲んでいる小さなテーブルの間を進んでいき、女の子が二人いるところに相席させてもらった。そして、カウンターにいき、チケットをコーラに替えて席に運んだ。  浩一はすぐに踊りたかったが、叶子が感心したような表情で踊っている連中を眺めているだけなので、我慢した。曲と曲の合間には、DJのボックスのある位置だとか、振りの練習をするための鏡が壁一面に張ってある場所、ドリンクをもらうカウンターの位置などを、指で教えた。四曲ほどサウンドが流れると、浩一は我慢できなくなり、踊ろう、踊ろうと叶子の手を取って、できるだけ人波の中へつれていった。まわりに人のいるほうが、初めてでも大胆に踊れるし、気分がでるのである。  始めのうち叶子は手足の動きも小さく遠慮がちであったが、浩一が、もっと大きくと手本の踊りを見せると、だんだん調子に乗ってきた。叶子の踊りが滑らかになってくると、浩一もうれしくなり、得意のエレクトリックダンスもやってみせた。  五曲続けて踊った後、叶子が思い出したように腕時計を見、「大変、もうこんな時間」と驚いてみせた。「帰らなくちゃ」 「まだ八時過ぎだぜ。宵の口だよ。面白くなるのはこれからなんだけどなあ」 「わたしもそう思うけど、世の中にはそうは思わない人もいるものだから」  次の曲が始まり、二人は踊っている男女の間をぬって出口に向かった。浩一はフロントに声をかけてから、叶子と一緒に店を出た。悟と由美と悟の彼女が、ネオンサインの下で人待ち顔で立っていた。悟の名前を呼ぶと、三人はいっせいに振向き、何だ、来てたのなどと言いながら近づいてきた。悟はまた別の女の子をつれていた。 「それじゃわたし、帰ります。どうもありがとう」  叶子は浩一に言い、やってきた悟たちに「ディスコっておもしろいですね」と声をかけてから、大通りのほうに歩いていった。 「何だ、あの子」悟が怪訝な顔をした。 「先約があるんなら、言ってくれればいいのに。わたし来なかったわよ」と由美が怒ったように言った。 「なりゆきだよ。なりゆき」浩一はわざと素っ気なく言った。  次の日浩一は由美を誘って、映画に行った。母と一日中顔をつきあわせているのが嫌だったせいもあるが、由美に、ダンスマラソンのパートナーになってくれるよう頼み、勝つためにはスタミナをつけるために毎日走らなければならないことを、確実に約束させたかったのだ。しかし由美はパートナーになることはすんなりと承知したが、走る話になると「どうせ遊びじゃない」と相手にしなかった。「勝ったらサイパンだぜ」と言っても、「二十万も出せば行けるじゃない」ときた。  確かにその通りだった。だが浩一にとって、金で行くことには何の意味もなかった。ダンスマラソンに勝って行くからこそ、祖父をたたきつぶす何かが得られるかもしれないのだ。金で行けば、祖父に敗北することになるだろう。そんなことを話してもわかってくれそうもないので、浩一は由美を説得することを諦めた。  翌朝、浩一がいつものように堤防を走っていると、河原の道を叶子が犬をつれて走っているのが見えた。白のトレーニングウェアと黒い犬ですぐにわかった。 「おーい」と浩一は呼んでみたが、彼女は気がつかない。浩一はちょっと考えてから、「タロー」と大きな声を出した。叶子が振向いたのを見て、浩一は手を振った。叶子は気づいたらしく、鎖を引張って犬を制した。堤防に上ってくる叶子に合わせるように、浩一はゆっくりと走った。 「この間はどうもありがとう」叶子が息を弾ませながら言った。「でも迷惑じゃなかった? わたしがむりやりついていって」 「全然」 「お友達と約束があったんでしょう?」 「ああ、あれ。向こうが早過ぎたんだよ。それより、そっちは大丈夫だったのかい?」 「なに?」 「門限だよ」 「ああ、門限ね。でも、そんなものないのよ」 「だったら、何もあわてて帰ることもなかったのに」 「ないほうが余計に厳しいってこともあるのよ」  犬が浩一の靴を臭ぎまわり、鎖が脚に巻きついた。 「タロー、やめなさい」叶子が鎖を引張った。「タローったら、あなたの匂いを覚えてしまったみたいね」  そのとき浩一はふっと、この子をパートナーにしたらいいんじゃないかと思った。 「変なこときくけど、体力に自信ある?」 「え?」 「テニスをやってるくらいだから、スタミナはあるだろう?」 「一体、何のこと? どうしてそんなことをきくの?」 「おとつい、おれが、ダンスマラソンに出るっていうことは話しただろう。そこでお願いがあるんだけど、おれのパートナーになってくれないかな」 「わたしが?」 「そう」 「あなたのお友達に大勢いるんじゃないの、もっとふさわしい人が」 「誰も優勝なんか狙っていないから、おれが走ろうなんて言ったら、降りちまうんだよ」 「ダンスマラソンて、何時間くらい踊るの?」 「さあ、二十時間か三十時間じゃないのかな」 「うわー、そんなに長いの。とっても無理ね」 「やっぱり、だめか。仕方がない、他を当たるか」 「ごめんなさいね」 「あんたの友達にさ、何時間踊ってもびくともしない女の子がいたら、おれに紹介してよね」 「心当りを当たっておくわ」と叶子は笑いながら言った。  じゃあと言って、浩一は再び会社に向かって走り出した。  次の日から、浩一は三十分遅く家を出るようになった。息が切れなくなり、途中で休む必要がなくなったからだ。そのため叶子と顔を合わさなくなったが、金曜日に反対方向から走ってくる彼女に出会った。犬はつれていなかった。叶子は走る向きを変えながら、「ダンスマラソンのパートナー、見つかったの」ときいた。浩一は叶子に合わせて速度を緩めた。 「だめ、だめ。努力してまで勝とうなんて物好きはいないね。走るくらいなら、自分のお金でいくわって言われちゃったよ」 「それで、どうするの」 「どうもこうも、オリーブみたいな女の子で我慢するしかないな」 「わたしはどう?」  浩一は立止まった。 「やってくれるの」 「そのつもり」 「毎日走るんだぜ」 「もちろん」 「やったね。これでちょっとは希望が出てきたな。それじゃあ、ジルバを教えなきゃいけないから、明日この前行ったディスコで会おうか」 「明日はちょっと無理だわ」 「だったら、日曜日は?」 「日曜のお昼なら」 「昼はディスコやってないからなあ。……そっちの家はどう。おれ、教えにいくよ」 「わたしのところより、あなたの家のほうがいいんじゃない。レコードもあるんでしょ」 「おれのマンションでもいいんだけど、おふくろがいるからなあ」 「お母さんがいてもいいじゃない。わたしにはそのほうが安心だし」 「おれにはそんな気はないぜ」 「冗談よ」 「よし、決めた。日曜の二時にバイクで迎えにいくよ」 「いいわ」  日曜日、ロータリーのところを曲がると、叶子がこちらに歩いてくるのに出会った。浩一はバイクの後ろに彼女を乗せ、来た道を戻った。  浩一の母は居間にいたが、二人が玄関を入ると、ドアを開けて顔をのぞかせた。 「こんにちわ。 おじゃまします」と叶子が頭を下げた。  母は叶子を上から下までじっくりと見てから、「いらっしゃい」と抑揚のない声で言った。浩一は叶子を玄関横の自分の部屋に入れてから、居間へ行った。 「きょうは何をするの。また踊りの練習?」 「ああ」浩一は冷蔵庫を開けて、缶入りコーラを一本取出した。 「レコードをかけるのはいいけど、あまりうるさくしないでね」 「わかってるよ」 「きょうの子は、今までつれてきた女の子のうちで、一番感じがいいわね。高校のときのお友達?」 「大金持のお嬢さんなんだから、粗末に扱ったらばちが当たるよ」 「何言ってるの。馬鹿なことばかり言って」 「うそだと思うのなら、直接本人にきいてみなよ。柳原産業の社長の娘だって言うぜ」 「柳原産業って、一部上場会社の?」 「一部上場かどうかは知らないけど、住宅設備をつくっている会社だよ」 「それならやっぱり一部上場の会社よ。そこの娘さんがどうしてこんなところへ。まさか、おまえ、だまされてるんじゃないだろうね」 「うるさいなあ。だまされているかどうか本人に、きけばいいだろう」  浩一が盆にコーラとコップふたつをのせて持っていこうとすると、母が「わたしが持っていくから、おまえ先にいってお相手してなさい」と盆を取り上げた。そして浩一が部屋へ戻る後ろから、財布を持ってついてきた。 「どこへ行くの」 「ちょっとケーキを買ってくるのよ」  浩一は母の態度の変わりようにあきれた。  部屋では叶子がLPレコードをいろいろ取出して、眺めていた。LPレコードは二百枚くらいあり、浩一の唯一の財産だった。まず基本ステップから教えた。男とは全く正反対の足の動きを浩一がやってみせ、それを叶子が真似をすることから始まった。何回かやって要領が飲み込めたところで、今度は実際に組んで踊ることになる。ジルバの曲をかけ、浩一は左手で叶子の手をにぎり、もう一方の手を彼女の脇腹に当てた。弾力があって、意外としっかりとしていた。  始めのうちは叶子のほうがリズムに乗れなくて立往生したが、そのうち慣れてきて、叶子も楽しむ余裕が出てきた。基本ステップを覚えたところで、次は右廻りと左廻りを教えることにした。ダンスマラソンの規定では三ステップ以上の踊りの連続ということになっているからだ。他にもいろいろ変化はあるが、体力を消耗しないためには、この三つが適当だろうと考えたのだ。  足の動かしかたを教えているとき、母がコーラとケーキを盆に載せて入ってきた。 「浩一、ひと休みしたら」母は机の上に盆を置いた。 「こんな狭い家にお出でいただいて、申しわけありませんね。踊りの練習ですか。この子はね、どういうわけか踊りだけは得意なんですよ。だれに似たんでしょうね。この子の父親もダンスなんかからっきし駄目でしたし。わたしの父が若いころ、ダンスホールに通っていたという話を聞いたことがあるから、あるいはおじいちゃんの血かもしれないわね。わたしは踊りなんかより勉強をしてほしかったんだけど、この子ったら大学には絶対いかないなんて強情はって。お嬢さんはどちらの学校ですの。……あら、名門じゃないの、えらいわねえ。浩一、あなたも少しは見習ったら」 「何かこげてるんじゃないか」浩一は鼻をひくつかせた。 「ほんと? 何かしら」母はあわてて出ていった。浩一はドアを閉め、鍵をかけた。 「ぺらぺらとよくしゃべるだろう。参っちゃうよ」 「でも、おもしろそうなお母さんね」  その日は三時間ほど練習をして、終りにした。叶子は飲み込みがはやくて、三つのステップのほかにいくつかの変化も覚えてしまった。バイクで叶子を屋敷の近くまで送っていった。門の前まで送るよと言うと、モニターカメラがあるからここでいいわとバイクから降りた。毎日ジョギングだぜと言うと、叶子はうなずいた。  翌朝浩一が堤防を走っていると、下から名前を呼ぶ声がした。叶子だった。浩一は足踏みをして待った。 「時間どおりね」と叶子が言った。 「毎日同じことの繰返しだからね」  叶子は橋のたもとまで一緒に走ると言った。二人は並んで走り始める。一人で走るより二人のほうが充実した感じがあった。走っているということが、より強く意識されるのだった。浩一はバレー部でのランニング練習を思い出していた。  叶子は途中であごを出したが、橋まで一度も休むことなく走り通した。欄干に片手を置き、体を折り曲げた姿勢で叶子はしばらく荒い息をしていた。 「無理することはないんだぜ。徐々に鍛えていけばいいんだから」 「でも」と叶子は呼吸を整えながら言った。「あなたがいくら鍛えても、わたしがあなたと同じくらいのスタミナをつけなくちゃ、優勝は無理でしょ。わたしのせいで負けたなんて言われたら、しゃくだもの」 「えらい」  二人は橋を渡っていき、真中あたりで欄干に両腕をのせて川の流れを見た。春の風が川を渡って、二人に吹きつけていた。二人の後ろをときどき自転車が通り、さらに後ろを自動車が通り過ぎた。 「お父さんは亡くなったの?」と叶子がきいた。 「生き別れ」 「じゃあ離婚されたの?」 「そういうこと」 「変なこときいて、ごめんなさい」 「別にどうってことないよ。よくある話なんだから」 「それでさびしくない?」 「何が」 「お父さんがいないってことが」 「こんなもんだと思っているから、何ともないね」 「いくつのとき、別れたの」 「三つのとき」 「それから一度もお父さんには会ってないわけ?」 「ああ」  しかしそれは嘘だった。叶子がしつこく質問してくるのを避けたかったからだ。本当は十歳のときに、一度だけ会っている。小学校の帰り道で男の人に呼止められ、その人は父だと名乗った。その人は紺の背広を着て、浩一の目にはとても立派な人に見えた。その人は車に乗せてあげようか、とか、おもちゃを買ってあげよう、何か食べたいものはないか、などと矢継ぎ早に言ったが、浩一はその都度首を振り続けた。その人は最後に内ポケットから財布を取出し、千円札を引抜くと、浩一の手に握らせた。浩一は握りしめた千円札をしばらく見ていたが、突然こぶしを開くと盲滅法に走り出した。アパートに帰り着き、浩一は水道の蛇口から直接水を飲んだ。胸の動悸がなかなか治まらなかった。浩一はそのことを母には黙っていた。  それから何日間か浩一は道を歩くとき、あたりに注意を払ったが、二度と父という人は現れなかった。 「それじゃ、お母さんは一人であなたを育てたわけね」 「そういうこと」 「えらいわねえ。わたしの母なんかとは大違い」 「おふくろさんのこと、嫌いなのかい」 「好きとか嫌いとかの問題じゃないのよ。母はそれはとってもいい人よ。それは認めるわ。でも、父がいなければ何もできない人なのよ。そのことに自分で気づいてないし。わたし、そんな人になるのはごめんだわ」 「金があれば、別に苦労することなんかないと思うけどなあ」 「父と同じようなことを言うのね。でも本当にお金さえあれば幸せになれると思う?」 「幸せになれるかどうかわからないけど、ないよりもあったほうがいいっていうことだけは確かだね。そっちには本当に金がないときのみじめな気持なんかわかりっこないだろうけど」 「そんな時があったの?」 「中学二年まではね。おふくろが水商売に入ってからは楽になったけど」 「お母さん、水商売だったの」 「ああ。きのう会ったとき、気づかなかった?」 「いいえ、全然」  叶子は黙り込み、川の流れをみつめた。 「わたしに姉が二人いるんだけど、二人ともわたしと同じようなことを言っていたのよ。それが両親の勧める結婚にあっさりと乗っちゃって。一種の政略結婚よ。父の思惑どおりに」 「それであんたは、そういうことは絶対にしないっていうわけ?」 「当たり前よ」  ふーん、そういうもんですかと浩一はつぶやいた。 「わたしの考えって、わがままかしら。ねえ、どう思う」 「どう思うって言われでも、ただ、金持は金持なりにいろいろと悩みがあるんだなあと思うぐらいで」  あなたっておもしろい人ねと言うなり、叶子は吹き出した。浩一もおかしくなって、一緒に笑った。  土曜日、一時間だけ踊るという約束で、二人は開店早々のディスコに入った。一時間の間、ジルバばかり踊っていた。テンポの早過ぎる曲でも、適当にステップを踏んで踊った。まだ満員ではなかったので、体を大きく動かせるのが気持よかった。  店の前で別れるとき、叶子が一冊の本をバッグから取出した。「父の本棚にあったから、借りてきたの」と言って、叶子はその本を浩一に手渡した。ある新聞社の発行しているサイパン島での戦闘を記録した本だった。浩一の家にはそういう類の本は一冊もなかった。 「おじいさんのことが載っているかも知れないわよ」と叶子が言った。 浩一は叶子の勘違い――彼がサイパンに行きたがっているのは、祖父の供養のためだという――に気づいていたが、黙っていた。  翌日昼まで寝ていた浩一は昼食もそこそこに自分の部屋に引っ込むと、借りた本を読み始めた。休日だというのに部屋にこもっている息子を珍しがって、ときどき母が顔をのぞかせたが、浩一はその都度ひろげた週刊誌を本の上にのせて隠した。  浩一は四日間かかって、その本を読み終えた。彼がその間ずっと思っていたのは、日本軍というのはどうしてこんなに愚かだったんだろうということだった。戦争に勝つにはまず合理的でなければならないのに、日本軍のやっていることは合理とは全く反対のことだった。まるで負けるために戦っているようなものだった。浩一は腹を立てながら読んだ。負け戦の記録を読むのは気持のいいものではなかったが、日本軍が奇襲をかけて戦果をあげたり、鳴りをひそめていた榴弾砲が火を吹いて米軍に損害を与えた箇所にくると、浩一は思わずやったと声を出したりした。祖父の名前はどこにも載っていなかった。ないことは読むまえから、大体察しはついていた。名前が載るくらいなら新聞記者が取材にきただろうし、そうなればおふくろはこの本を買っただろうと浩一は考えたからだ。名前が載っていなくても、浩一は祖父がどこの戦闘で戦い、あるいは戦死したのか知りたい気がして、愛知県一宮市出身ということだけを手掛かりにして探してみたが、やはりわからなかった。日曜日を待って、母に祖父の所属部隊の名前や、サイパン島のどこの戦闘で死んだのかをきいてみたが、母は何も知らなかった。「戦友の名前なんか聞いてないかな」と言うと、「どうしてそんなことをきくの」と逆にきき返された。  浩一は自分の部屋から本を持ってきて、母に見せた。きっと驚くだろうと浩一は思ったが、母はぱらぱらとめくってみただけで、すぐに返した。あまりにそっけなかったので、「読んでみる?」とも言えないほどだった。  ダンスマラソンを一週間後にひかえた土曜日、浩一と叶子は開店直後のディスコに入って、小さく踊る練習をした。いつもなら七時に叶子は帰るのだが、今夜は予行演習ということで、九時までぶっ通しで踊ることにしたのだ。浩一は一時まで踊り続けて、疲労の具合がどの程度になるのか確かめてみたかったが、叶子の方は九時が限度だった。来週はテニス部の一泊合宿旅行という名目で両親の許可を取ってある。  八時過ぎに悟と由美がやってきた。浩一たちが踊っている横に、彼等も踊りながら近づいてきたのだ。 「浩一、おまえ、来週その子と出場するのか」悟がディスコサウンドに負けないように大声を出した。 「ああ」 「ランニングしてるんだってな」 「ああ」 「自信はあるのか」 「まあな」 「無理するなよ」悟が笑っている。 「あんたもランニングしてるの?」叶子に近づいたとき、由美が大声で言った。叶子はターンをしてから、由美にうなずいてみせた。 「ランニングよりも踊りのほうを鍛えるのが、先決じゃないの」と由美が皮肉ったが、叶子には聞こえなかったようだ。 「踊りは関係ないよ。問題はスタミナだ」と浩一が代わりに答えた。  九時過ぎに叶子が帰り、浩一は悟たちと一時ごろまで踊った。店の前で彼らと別れ、バイクに乗ったが、しばらく行って信号待ちで止まったとき、横のほうから派手な女の笑い声が聞こえてきた。見ると、ビルの中から中年の男と水商売風の女がからみ合いながら出てくるところだった。ビルにはアダルト専用のディスコがあった。女のドレスが、おふくろの持っている服に似ているなと思いながら浩一は見ていたが、二人が車道のほうに向き直って、すぐに女が母であることに気づいた。浩一はあわてて首を横に向けた。  信号が青に変ったが、浩一は発車しなかった。二人に変に思われてはと、彼はヘルメットをかぶることにして時間をかせいだ。二人は彼の後ろでタクシーを待っていた。浩一はサイドミラーでその様子を盗み見ながら、ときどきアクセルを空ふかしして、エンジンの調子を見ているふりを装った。客の乗ったタクシーが五台通り過ぎ、六台目がようやく空車だった。二人はそれに乗り、浩一はそのタクシーの後をつけた。ここを右に曲がれば自分たちのマンションの方角だという交差点を、タクシーは左に曲がった。浩一は急に動悸を感じた。  タクシーは十分ほど走って、ある高層ホテルの正面玄関に乗りつけた。浩一はだいぶ手前でバイクを止め、様子をうかがった。男の肩につかまるようにして女は車から降り、二人は腕を組んで中に入っていった。浩一はしばらくの間、二人の入っていったガラス張りの玄関を見つめていたが、まあ、そういうこともあるさとつぶやくと、再びエンジンをスタートさせた。  あからさまな連れこみホテルでなかったことに、浩一はいくぶん救いに似た気持を感じていたが、そのうち自分が、ひょっとしたらただの話をするだけのため、ホテルのバーにでも入ったのではと考えてしまうことに気付いて、逆に腹が立ってきた。これからは、じいさんの話を持ち出しておれのことをとやかく言うのは、絶対に許さないという気持だった。  マンションに帰り、浩一は風呂に入ってすぐにベッドにもぐり込んだが、なかなか寝つかれなかった。こうなったら朝まで起きていておふくろを迎えてやろうかと思ったが、どうしようかと考えているうちに眠ってしまった。  翌朝十一時ごろ起きた浩一は真っ先に玄関を見て、母の靴があることを確かめてから服を着替えた。居間にいったが、母はまだ起きていなかった。浩一はトーストにバターとマーマレードをたっぷりとぬって食べ、牛乳を紙パックから直接飲んだ。ゆでたまごが欲しくなって、小鍋に卵二個と水を入れ、ガスレンジにかけた。こうしているうちに、おふくろが起きてくるだろうから、そのときはきのうのことを聞き出そうと浩一は思っていたが、よく考えてみると、わざわざ聞き出してもどうということはないことに気づいた。そう思うと急に、こうして母の起きるのを待っているのが居心地悪く感じ出した。浩一はガスの火をとめ、半熟にもなっていない卵をスプーンですくって食べると、表に飛出した。  堤防の上を走って橋のところまで行き、再び戻ってくると、河原の芝生に腰を降ろして少年野球を見物した。近くの外野にあたるところでは、五、六人の女子高校生が輪になってバレーボールをやっていた。めったに球が飛んでこないのだ。浩一が横になって野球を見ていると、バレーのボールが目の前に飛んできた。彼は上半身を起こしてボールを両手でつかみ、やってきた女の子に投げ返したが、急にバレーボールがやりたくなって「ちょっと入れてくれないかな」と女の子に声をかけた。女の子は戸惑ったような顔をして戻っていき、仲間の女の子と浩一のほうを見やりながら、何やら相談しているふうだった。だめかなと思ったが、すぐに、いいですよという声が返ってきた。浩一は立上がってジーンズの尻を手で払い、彼女たちの輪の中に加わった。  浩一はらくらくとボールを返し、隣の女の子がそらしたボールをダイビングレシーブで拾ったりした。女の子たちは歓声を上げ、彼女たちの質問に答えて、バレーの選手だったことや高校の名前を教えた。スパイクを見せてほしいというので、一番上手な女の子のトスでスパイクをして見せた。レシーブするわと三人の女の子が待っていたが、球の勢いに悲鳴をあげて体をよじった。ついでに浩一は変化球サープも披露した。右に曲げたり、左に曲げたり、あるいは回転をつけずにふらふらと落したり、その度に女の子たちは派手な声を上げて喜んだ。一球一球サーブしていると、バレーボールをやめて一年余りにしかならないのに、浩一は自分がずいぶん歳をとってしまったような気がした。高校時代のことがひどく昔のことのように思えてならなかった。  夕方マンションに帰ると、母は食事の用意をしていた。浩一は母が呼びにくるまで、自分の部屋でスイングジャズを聞いていた。  夕食は野菜スープにロールキャベツ、それにかにサラダだった。浩一は黙って食べていたが、母は叶子のことを話題にし、どこで知り合ったのかとか、どういう付合いなのか、向こうの両親には会ったのか、彼女のことをどう思っているのか、果ては、悪い遊びに引張り込むんじゃないよなどと言った。浩一は食べながら生半可な返事ばかり繰返した。 「ちょっと聞いてるの」と母は浩一の腕を押えた。「お母さんがちゃんと尋ねているんだから、もっとまじめに答えなさい」  浩一は母の手を振りほどいた。 「おれが、どこのだれと、どういう付合いかたをしようと、そっちの知ったことじゃないだろう」 「何てことを言うの。わたしはあんたの母親よ。母親が子供のことを心配して、どこがいけないの」  浩一は黙って残りのスープを飲み、ロールキャベツを半分に割って口に入れ、ゆっくりとかんだ。そしてかにサラダのかにだけ箸でつまんで食べた。 「ゆうベ一緒にホテルにいった男の人は一体誰だい。お客かい?」浩一は口からこぼれ落ちるような言い方をした。 「え? 何のこと?」 「ディスコからタクシーでホテルへいっただろう、中年のはげかかったおっさんと」 「何言ってるの。そんなこと人違いよ、人違い」  しかし母は明らかに狼狽していた。 「あの時ちょうどおれ、ディスコから出てくるところを見てたんだよね。それでタクシーの後をバイクでつけたのさ」  母は黙ってしまった。ざまあみろと浩一は胸の内でつぶやいた。しばらく無言の食事が続いた。 「今まで黙っていたのは悪かったけど」と母が箸を置きながら言った。「お母さんね、今度再婚することにしたのよ」 「再婚?」 「そうよ。許してくれるでしょ」  頭の中がぎゅっと詰まった感じになり、思うように言葉が出てこなかった。 「おまえが大学へいっていたら、再婚話になんか耳を貸さなかったんだけど、おまえももう社会人で一人前になったことだし、お母さんの役目も一応果たしたと思ってね。おじいさんも許してくれると思うんだけど、どう思う?……相手の人は柴田さんといって、小さな鉄工所の社長さんなのよ。七年前に奥さんをなくされて、男手ひとつで娘さんを育てられたのよ。その娘さんも去年の秋にお嫁にやって……」 「無理しなくてもいいよ、そんな作り話をしなくったって。客と寝るのも商売のうちだろ。おれは別に気にしてないぜ」 「何てことを言うの、この子は」  母は椅子から立上がろうとして足をすべらせ、再び椅子の上に尻もちをついた。浩一は笑った。母は今度は椅子を後ろに倒して立ち、浩一のそばまでやってくると、「この恥知らず」と言うなり、彼の頭を叩こうとした。浩一は母の手首をつかんで、立上がった。「わたしをそんな女だと思っていたの」と母はもう一方の手で浩一の顔のあたりを叩いた。浩一は手でそれを防いだ。 「息子にそんなことを言われるんなら、キャバレーなんかに勤めるんじゃなかった」母は涙声になりながら、防いでいる浩一の手を何度も叩いた。 「おじいさんに申し訳ない、おじいさんに申し訳ない」と母は念仏のように繰返した。浩一は何だか馬鹿ばかしくなって、母の手首を体ごと押すようにして放した。母はよろめいて倒れ、しばらく伏せていたが、ゆっくりと起きあがると自分の部屋に入っていった。浩一は次第に腹が立ってきた。 「じいさん、じいさんとあんたはあがめたてるけど、じいさんはな、サイパンで犬のように逃げ回ったあげく、殺されたんだよ。ひょっとしたら鉄砲の代わりに鍬を持って死んだのかもしれないぜ。籠城のための食糧生産部隊というのがあったからな。それとも竹槍一本で突撃して、ふっ飛ばされたかだ。どっちにしても、あがめたてるほどの大した死に様じゃないことは確かだよ」  浩一はドア越しに叫んで、幾分すっきりした気持になった。その夜母とは一度も顔を合わさなかった。  翌朝ジョギングスタイルに着替えて居間にいったが、母はまだ起きていなかった。流し台の中には、きのうの汚れた食器や調理器具が放り込んであった。浩一は立ったままトーストと牛乳の朝食をすますと、早目にマンションを出た。いつもより速度を上げて走った。叶子との合流地点が見えてくると全力で走り、その場所に着くと腰に両手をついて呼吸を整えた。  叶子はなかなか姿を見せなかった。浩一は柔軟体操や逆立ちをして時間をつぶしたが、これ以上待てば遅刻するという時刻になっても叶子は現れなかった。今まで雨の日を除いて叶子の休んだ日はなかった。風邪でもひいたのかなと思いながら、浩一は会社に向かった。  次の日もその次の日も叶子は現れなかった。  木曜日になって浩一は叶子の家に電話をかけることにした。彼女から電話番号を教えてもらっていないので、かけるのはまずいかなという気がしたが、この際仕方がなかった。電話帳で調べて、受話器を取った。出てきたのはお手伝いのようだった。 「叶子さん、いらっしゃいますか」 「お嬢さまは、ただいまご旅行中です」  浩一は驚いた。 「いつから?」 「この前の日曜にご出発なさいました」 「どこへ」 「ヨーロッパでございます」 「それで、いつごろ帰ってくるんですか」 「さあ、存じあげておりません」 「おれ、新藤っていうんだけど、何か言づけなかったですか」 「聞いておりません」  電話を切っても、浩一は狐につままれたような気持だった。土曜日に会ったときも、そんなことは一言も言わなかったのだ。浩一はどうもおかしいと感じ始めた。旅行中というのは嘘ではないかという気がしてきた。  サイパン戦の本を返すという名目で、叶子の屋敷に行くことにした。本の間には紙切れをはさんだ。そこにはダンスマラソンに備えての注意事項をいろいろと書いた。前の晩はできるだけ早く寝ること、当日もできれば学校を休んで三時ごろまで寝ていたほうがいい、食事はボリュームのあるやつを十分とること、靴はいつものはき慣れたやつをはくこと、服はゆったりとして動きやすいものにすること。その他浩一は思いつく限りの注意をこまごまと書いた。そして最後に、電話するようにと書いて番号を記した。  バイクで屋敷の近くまで行き、そこから歩いて門の前に立った。 インターホンの釦を押すと、モニターカメラがこちらに首を振るのがわかった。 「どちらさまでございますか」インターホンから女の声が聞こえてきた。 「藤井と申しますが」と浩一は嘘をついた。「叶子さんにお借りした本を返しに来たんですが」  浩一はモニターカメラに向かって、本を振ってみせた。 「藤井さまとおっしゃいますと、失礼ですがお嬢さまとはどういうお知合いでいらっしゃいますか」 「……テニスクラブでときどき一緒にプレーをすることがありまして」 「ああ、テニスのお友達でいらっしゃいますか。これはどうも失礼いたしました。ただいま参りますので、しばらくお待ち下さい」  浩一は自分の服装を点検した。紺のブレザーにグレーのズボン、そしてスリップオンの皮靴。リーゼントのへヤースタイルもやめて、七三に分けてきたし、ちょっと見には金持のお友達に見えるだろう。  横の通用門が開いて、五十くらいの女の人が顔を見せた。浩一は本を渡し、ちょっと思いついて「叶子さん、ここしばらくクラブのほうにはお見えになりませんね」と言ってみた 「ちょっと事情がございまして。来週になればテニスもされると思いますので」 「叶子さん、いらっしゃいますか」 「あいにくただいま外出中でございまして、お預かりしました本は、お帰りになりましたら確かにお渡しいたします」  浩一は深々とお辞儀をして、門を離れた。  マンションに帰って、用意されていた夕食をとっていたとき、電話が鳴った。早速叶子がかけてきたと彼は思った。 「もしもし新藤ですが」と浩一がいうと、相手は一呼吸間を置いてから「やっぱり新藤さん、それとも藤井さんかしら」と答えた。浩一はどきりとした。 「だれですか」 「これは申し遅れました。わたくし、柳原叶子の母でございます。新藤さんには叶子が大変お世話になりまして、お礼の言葉もございませんわ。それに何ですか、この度はダンスのマラソンとかにお誘いいただきまして、ありがとうございます。ですが、娘は行きたくないと申しておりますし、たとえ行きたいと申しましても、母であるわたくしが許しません。ですから……」 「本当に娘さんは行きたくないと言ってるんですか」 「ええ、そうですよ」 「叶子さんに代わってもらえますか」 「娘はただいま出かけております」 「それじゃあ帰ってこられたら、こっちのほうへ電話してくれるように伝えて下さい。本人の口から直接聞かなきゃ信用できないものね」 「あなた、わたしの話を聞いてないの。娘が何と言おうと、わたくしが許さないと言ってるでしょ」 「おたくね、娘さんを縛りつけて自分の思い通りにしようとしてるらしいけど、そんなことをしたら死んでしまうよ。わかってんの」  向こうで息を飲む気配のするのがわかった。 「何を言ってるんですか。叶子はうちの大事な跡取り娘ですよ。あなたみたいな悪い虫がつかないように注意するのが、親の義務ってものでしょう。いいですか、今後は金輪際娘に近づかないようにして下さい。もしも近づいたら承知しませんからね」 「わかった、わかりましたよ。では、さようなら」  切れた受話器に向かって、バーカと毒づいた。本に紙切れをはさんだのはまずかったなと思ったが、これで叶子がダンスマラソンに来られないことがはっきりしたんだから、むしろよかったんじゃないかと浩一は自分を慰めた。  浩一はダンスマラソンを見にいく気はなかったが、土曜日になると何だか体がむずむずしてきた。三時過ぎに会社から帰ってくると、悟たちの応援に行くという口実を思いついて、出かけることにした。  浩一が服を着替えていると、化粧中の母が顔をのぞかせた。 「また、ダンス?」 「ああ」 「あしたは、家にいるの?」 「どうして」 「いるかって、きいてるのよ」 「今のところ、別に何もないけど」 「だったら、あした連れてくるわね」 「何のこと」 「柴田さんを連れてくるって言ってるのよ」 「おれ、関係ないよ」 「そんなことないでしょ。おまえの母親が結婚する相手よ。関係ないことないでしょ」 「そっちがオッケーなら、おれは文句ないよ」 「柴田さんがおまえに会いたいとおっしゃってるのよ。ごちゃごちゃ言わずに会ったらどうなの」 「わかった、わかった。ハゲでもデブでも連れていらっしゃい。会いますよ」 「あした十二時ですよ。昼ごはんを一緒に食べますからね。わかった?」  母は何度も念を押してから、部屋を出ていった。  五時前に『ジミーの店』に着いた。すでに五十人くらいが並んでいた。五時から受付け開始で、六時スタートだった。悟と由美は中ほどに並んでいた。 「おまえのパートナーはまだ来ないのか」と悟が言った。 「彼女は肺炎で入院。したがっておれは棄権なのさ」 「ランニングをしすぎて、本番前にダウンっていうわけね」と由美が笑った。  腹ごしらえのため向かいのハンバーガーショップでチーズバーガーを食べていると、悟が走ってきた。 「おまえの彼女、病院から脱け出してきたぞ」笑いながら悟が言った。 「まさか」  ハンバーガーを手に持って走っていくと、由美の横に叶子がいた。白いトレーニングウェアを着ている。浩一は叶子の腕を取って、ビルのかげまで引張っていった。 「どうしたんだ」 「テニス部の合宿というのがばれて、本当のことを話したら、見張りつきになっちゃったのよ。どこへ行くのもその男と一緒。おかげで電話もできなかったのよ」 「それで大丈夫なのか」 「ええ。ジョギングの途中でタクシーに飛乗って、まいてきたから」 「じゃあ、オッケーなんだな」 「もちろん」  やったねと浩一は叫んだ。急にうれしくなってきた。叶子のトレーニングウェア姿はいくらマラソンだからといっても合わないので、近くのなるべく安そうなブティックでフレアースカートとブラウスを買った。叶子はほとんどお金を持っていなかったから、浩一が出した。そしてスタミナをつけるため、レストランでステーキを食べた。時間がなかったので急いで詰め込み、ディスコに戻った。いつもの三倍の料金を払い、九十五番のゼッケンをもらった。参加料の中には、食べ放題のサンドイッチの値段も含まれていた。  フロアーは肩からゼッケンをかけた男女でごった返していた。浩一は悟たちを探したが、見つからなかった。六時になって、スピーカーから声が聞こえてきたが、会場がざわめいているため何を言っているのかよくわからない。そのうちみんなが回りの人間に静かにするように言い出し、ようやくはっきりと聞こえるようになった。  スピーカーはルールの説明をしているのだった。特に強調しているのは、一時間に一回ある五分間の休憩以外どんなことがあっても休むことは許されないということだった。違反者はただちに失格とスピーカーは告げていた。  ベルの合図とともに音楽が流れ出し、二百人を越える人間がいっせいに揺れ始めた。浩一も叶子の腰に手を回して踊り始めた。人がいっぱいなので自然とステップが小さくなった。 「本を返してもらったかい?」と浩一は話しかけた。 「何の本」 「サイパンのやつさ」 「いいえ」  そこで浩一は一昨日のあらましを話して聞かせた。 「きみのおふくろさんから電話をもらったときは、びっくりしたぜ。今後娘に近づいたら承知しません、て言われちゃったからな」 「ごめんなさいね。母もけっして悪い人じゃないのよ。いい人なんだけど、ただ自分の世界を守ろうとだけするから、おかしくなってしまうのね」 「守れる世界があるだけ立派だよ」 「じゃあ、あなたにはないの?」 「ないね」 「あら、簡単に言うのね」  イン・ザ・ムード、バードランドの子守歌、夕陽のサファリといったスタンダードナンバーで始まり、二十曲ほどぶっ続けに踊ると休憩になった。休憩といっても、フロアーの回りにいつもあるテーブルやスツールは取払われているので、床に腰をおろすしかない。  始めのうちは勢いよく踊っている組がたくさんあったが、十二時を過ぎるころになると、いなくなった。踊っている組も半分以上減り、三十組くらいになった。休憩時間に浩一たちは横になってサンドイッチを食べた。  三時を回ったころ、急に疲れが襲ってきた。新学期が始まってまだ間がないので、参考書や問題集の出荷が多く、浩一は倉庫を動き回っているのだ。出るとわかっていたら、仕事なんか休んだんだがと浩一は舌打ちをした。脚が棒のようになり、膝が落ちやすくなった。叶子は頭を浩一の胸に預け、右手で肩にぶら下がっている。三つ以上のステップの連続というのは、予想以上に厳しかった。まだ十組ほど残っていたが、どの組も基本ステップの変形だけですませており、それは見た目には基本とほとんど変わらなかった。浩一たちも同じ方法をとった。  疲れてくると、トイレに行くときが一番失格になる危険が大きかった。したくなると合図をして、トイレに近いところまで踊りながら移動した。そして休憩のベルが鳴ると同時に飛込むのだ。でないと順番を待っているうちに、開始のベルが鳴ってしまう恐れがあった。  悟と由美は五時過ぎに脱落した。それを見て、浩一はいくらか気力を回復した。やつらがあそこまで頑張ったんだから、トレーニングをしたこっちがそれ以上いかなくては笑われるぞと思ったのだ。ただ心配なのは叶子の体力だった。ステップが足を引きずるような感じになっている。 「大丈夫か」と叶子にささやいた。「どうしてもだめだったら、やめてもいいんだぜ。無理するなよ」  叶子は顔を上げた。目の回りが黒くなっている。 「まだまだ。これくらいのことで、ばてたんじゃ、生きていけないわ。わたし、やるわよ。絶対にサイパンに行くわ」 「サイパンか」  密林を逃げ回る祖父の姿が一瞬頭を通り過ぎた。  八時ごろには、残っているのは三組になった。浩一はジョギングパンツをはいた組が要注意だとにらんでいた。着ているものを軽くして臨んでいるということは、体調のほうも十分整えてきているに違いなかった。それに休憩時間に飲むものも、浩一たちのただの水とは違って、彼等自身が用意してきたポットから何か飲んでいた。  三組になってからは、膠着状態が続いた。浩一はもう一組のひょろ長い男とずんぐりむっくりの女が次に脱落すると踏んでいたが、やつらもこっちが落ちると考えているだろうと思うと、何だか意地でもやつらより先には降りたくなかった。  ほとんど惰性で体を動かしていた。休憩時間には床に寝て、目を閉じた。昼過ぎになってようやく、ひょろ長組が脱落した。休憩のとき、浩一は横に寝ている叶子に「もうやめるか」と声をかけた。「まだいけるわ」と叶子は目を閉じながら答えた。  腕時計を見ると、十二時半だった。おふくろの再婚相手が来ているころだなと思い、これからは自分の世界を探さなくちゃいけないなとぼんやり考えた。  ベルが鳴った。「さあ行くぞ」浩一は自分自身に声をかけて、立上がった。