朝 津木林洋  電話が鳴っている。亮は目を覚まして、ナイトテーブルの腕時計を見た。午前六時である。夢の中でも鳴っていたような記憶があって、あれは現実だったのかと彼は思った。隣の男はまだ眠っている。体を丸めて、背中を向けている。  男はバーで会ったとき、ユキと名乗った。ユキオあるいはユキヒロという名前が思い浮かんだが、もちろんそんなことは口に出さない。男は薄いピンクの口紅にアイシャドウ、それにファンデーションだけで、他に取立てて変ったところはなかった。縞のズボンに黄色いポロシャツという姿が場違いで、変と言えば言えたが、まるでゴルフにでも行くみたいだなと亮が言うと、男は笑ってウィンクしてみせた。バーを出るとき、男がレジでゴルフバッグを受取ったので、亮は驚いたが、男は何も言わないし、亮も何も訊かない。  ベッドで、男の突き出た腹や、たるんだ尻の肉を見て四十五は越えているなと亮は思った。それまでは四十前後だと踏んでいたが、男の声にだまされたのだ。  亮が相手をする男は四十過ぎであることが多くなった。自分が三十を過ぎて、もう若くはないということもあったが、それよりも、年寄りになると即物的になるんじゃないかと彼は思っていた。性器の大きさだけが問題になる……。それを目当てに来る女も、彼は相手をした。そうやって得た金で、3DKのマンションを借り、生活していた。  電話に出ようとベッドから降りた途端、呼出し音が止んだ。彼はもう一度ベッドに戻り、頭から毛布をかぶった。しばらくすると、また電話が鳴り始めた。亮はもう出る気はなかった。というより腹を立てていた。亮の感じで言えば、朝の六時は真夜中である。亮は片方の耳を枕に押しつけ、もう一方の耳に腕を当てた。ベルは十回ほど鳴ってから止んだ。もう一度眠り直そうと頭を起した時、また電話が鳴り出した。変に頭が冴えてきて、仕方なく亮はベッドを降りた。  キッチンまで行って、受話器を取った。 「もしもし」亮は不機嫌な声を出した。 「………」 「もしもし」  いたずらかと受話器を置こうとしたら、あたしよという掠れた声が聞えてきた。 「あたしって誰だい」わかっていたけれど、亮はそう尋ねた。 「あら、ごあいさつね。もと恋人の声を忘れるなんて」 「昔のことはすぐに忘れるたちなんでね」 「いやだあ、昔だなんて」 「酔ってるのか」 「いいえ、酔ってなんかいませんよ」相手はわざとろれつの回らない言い方をした。 「今は眠いから、話なら昼過ぎにしてくれ」 「ごめんなさい。お楽しみのところを邪魔して」 「何か話があるんだろう」 「話? ええ、話なら山ほどあるわ。一晩でも語れないくらい」 「昼過ぎにしような。そっちも酔いから醒めてるだろうし、こっちもすっきりとした頭になってることだし。だから切るぜ」 「待って。お願いだから切らないで」  亮は電話を切った。そして少し考えてから、電話機を冷蔵庫の中に入れた。  ベッドに戻っても、眠気は戻ってこなかった。亮はモリに腹を立てた。話を聞かなくても、モリの話はわかっていた。よりを戻そうと言うのだ。何度聞いても、亮にその気はなかった。  眠れないままに、亮は目覚める寸前に見た夢のことを思い出していた。どこかの料理屋で、見覚えのない板前が次々に出してくれる鯛や鮪、鯵などの刺身を口に入れては、吐き出している夢だった。どれもこれもゴムを噛んでいるようだった。小皿が出てこなくなったなと思って顔を上げると、いつの間にか目の前に漁港が広がっていた。その光景には見覚えがあった。というより、十数年前には実際にそこにいたのだった。一隻の漁船が入ってくる。魚の陸揚げが始まる。亮が近づいていくと、一人の漁師が何かをわしづかみにして、亮に向って投げた。数十のきらめきが目の前に広がり、手に受けてみると、小いわしだった。自然に指先が動いて、頭をむしり、骨を抜いた。海水で洗って口の中に入れると、微かな臭みが鼻腔をついた。そのとき、電話のベルが聞えてきたのだ。  あの漁師は親父ではなかったのかと亮は思い、おお、いやだ、いやだ、とわざとおどけて独りごちた。隣の男は軽い寝息をたてて、気持よさそうに眠っている。亮は不意に、その男の背中を思い切りけりつけたくなった。  どうしてあんな夢を見たのかわからなかった。今まで一度も刺身をまずいと思ったことなどなかったのに。どうでもいい、もう一度眠ったら忘れてしまうだろう。亮は男と尻がくっつかないように注意しながら、毛布をかぶった。  チャイムが鳴っていた。隣の部屋だろうと思ったが、そうではなかった。腕時計を見ると、九時過ぎだった。いつの間にか眠ったらしい。亮はガウンを着て、玄関に出た。ドアチェーンをはずさずに、扉を小さく開ける。 「おはよ」  モリが顔を見せた。声とは裏腹に、疲れた表情をしている。マスカラが流れ、アイシャドウが隈になっている。見られないなと亮は思う。「完璧化粧」をすれば、まだ男が振返るほどなのだが、色褪せる時間が、だんだん早くなっている。 「まさか電車で来たんじゃないだろうな」 「あら、いけない?」  モリは自分の服装を点検するように、胸元に目をやった。銀ラメのドレスに、薄物のカーディガンをはおっている。口から酒の臭いがした。 「時間を考えろよ、時間を」  歳も考えろと言いたかったが、それはやめた。モリは笑った。 「タクシーに決ってるじゃないの、馬鹿ね。それより、中に入れてよ」 「駄目だね」 「お客さん?」  モリは背伸びをして、中を覗いた。 「関係ないだろ、そんなこと」 「ねえ、おなかすいてない?」 「え?」 「すいてるって言いなさいよ、ほら」  モリは後ろに回していた手を前に持ってきた。指先には紙包みがぶら下がっている。 「**のお、す、し」  上目使いをしながら、モリは包みを振ってみせた。亮はわけもなくかっとなった。 「いらないよ」  意識して普通の声で言った。 「あら、どうして。もう、朝ごはん食べたの」 「これ、いつ買ったんだ」 「きのうの晩よ。わざわざタクシーの運ちゃんに遠回りしてもらって、買ってきたのよ」 「今、何時だと思う?」 「え?」  モリは腕時計をみた。 「九時十分。それがどうしたの?」 「だから食えないんだよ」  モリははじめ訳がわからず戸惑っていたが、やがて笑顔を見せると、 「これ、**のよ。時間がたっでも食えるのは、ここのだけだって、言ってたじゃない。だから買ってきたのよ。早く、ここ開けてよ。お客さんがいてもいいじゃない。みんなで一緒に食べようよ。ねえ」  モリは隙間から紙包みを差し入れ、亮に渡そうとした。 「いらないって言ってるだろ」  亮はそれを押し返した。それでもモリは押しつけてくる。亮は紙包みをつかんで取上げると、モリの頭越しに通路の向こうに放り投げた。鈍い音がした。モリはあっという口のまま、首をひねって落ちた紙包みのほうを見た。数呼吸の間、動かなかった。やがて、ゆっくりと紙包みに近づくと、それを拾い上げ、ドアの隙間のところに戻ってきた。 「このやろう」  低い声でそう叫ぶと、いきなりモリは紙包みを亮の顔にぶつけてきた。折りの角が額に当った。 「帰れ、馬鹿」亮はドアを閉めようとしたが、閉まらない。おかしいと思って下を見ると、モリの足がはさまっている。 「ここを開けなさいよ。卑怯者。そこから出てこい」  モリは腕を突っ込んで、亮の顔をかきむしろうとする。亮はモリの指先を避けながら、ノブを思い切り引っ張った。モリが唸った。銀色のハイヒールをはいた足がねじれて、足の甲がはさまれている。亮は、ふっと狂暴な気持になって、ノブを引く手にさらに力を込めた。 「何すんのよ」  悲鳴に近い声を上げて、モリはドアの角を両手でつかんだ。 「帰れ」  モリの顔がゆがんでいる。亮が力を緩めると、モリは足を抜き、うづくまった。帰れ、馬鹿ともう一度口の中で毒づいてから、亮はドアを閉め、鍵をかけた。  ベッドルームに戻ると、男はすでに起きていた。素裸のままベッドの上に坐って、不安そうに亮を見ている。 「心配ない、心配ない。もうすんだ」  亮は手を振って、笑って見せた。男も笑顔になり、よかったと両手を胸の前で合わせ、上半身を軽くねじった。亮はうんざりした。  ナイトテーブルの上にあった煙草を取って、火をつけると、亮は男の横に腰を降ろした。ねえと言って、男が体を寄せてくる。亮は無視して、煙草を立て続けにふかした。男はガウンの割れ目から下腹部に手を伸ばす。ざらついた感触がした。亮は無性に腹が立っていた。こいつの腹に一発食らわしたら、かせぎはパーになるだろうなと考えていた。  突然、ドアを叩く音がした。男が急に手を止める。手の平で叩いているような音が、途切れ途切れに聞えた。 「もうやめたのか」と亮は男に言った。 「大丈夫?」 「何が」 「あの人」 「関係ないよ」  男は再び手を動かし始めたが、指先からは先程の熱っぽさは失われている。 「出てこい」ドアの外から声が聞えてきた。 「ここから出てきて、勝負しなさいよ。やったろうじゃんか、卑怯者」  男がまた手を止めた。 「どうしてやめるんだ」 「だって」  男は声のするほうに目をやる。こういう時に無理矢理押さえつけるのも乙なものかもしれないと亮は思ったが、思うだけで決して実行しないだろうということははじめからわかっている。 「コーヒーでも飲むか」と言って、亮は立上がった。 「賛成」と男もベッドから降りる。脱ぎ捨ててあるパンティをはこうとしたので、亮はハンガーにかかっている赤いガウンを放ってやった。モリの残していったやつだ。  モリはまだドアを叩きながら、わめいていた。手で叩く代りに、ハイヒールで叩いているらしい。甲高い音が断続的に響く。  フィルターでいれたコーヒーを飲んでいると、亮は不意にどこかに引越したくなった。全然知らない遠くの街に行って、全く新しい生活を始められたらと思った。亮は自分にできる仕事を具体的に考え始めたが、すぐにおかしくなってやめた。こういうことを考えるのは疲れている証拠なのだ。  チャイムが鳴った。無視していると、二度三度と続けて鳴り、それでも亮は聞えない振りをしていた。 「西江さん」外から声がした。モリではない。ドアを叩きながら、「西江さん、開けて下さい。管理人の大下です。西江さん、いらっしゃるんでしょう」  亮は、ガウンのままで出ていっていいものか、ちょっと迷ってから、ドアを開けた。 「おはようございます」管理人が頭を下げた。  ドアの隙間からは、モリの姿は見えない。 「いやあ、ちょっと隣近所から苦情が来ましてね。何とかしてくれって。私も人のことにはあまり口出しなんかしたくはないんですが、苦情があれば、仕事上、放っておくわけにもいきませんしね。何とかなりませんか」 「何のことですか」 「何って、その……」  管理人は頭に手をやって、苦笑いした。 「とにかく、この……おねえさんを中に入れてあげたら。中に入ったら、おとなしくするって言ってるんだから。そうでしょ」  管理人はドアの陰に目をやった。モリが顔を出す。疲れた顔に、無理に笑顔を浮べている。 「おれには関係ないよ」 「まあ、そんなことを言わずに」  管理人の顔から笑いの影の消えないのが、亮の癇に触った。 「そいつが一人で騒いでいるんだから、そいつをここから追い出しゃいいだろ」  管理人はモリのほうを見た。 「あんた、もう諦めて帰りなさい」  モリは返事の代りに、ドアを叩き始めた。 「ばか、やめろ」 「やめないと警察呼ぶよ」管理人が言う。モリは叩くのをやめない。 「警察でも何でも呼んだらいいじゃない。おまわりさんが来たら、あたし、この男が何をしているか洗いざらいしゃべってやるから」 「ばか」 「いいんですか、呼んでも」  管理人が亮にきく。客のいる今はまずいと亮は素早く考えた。ドアチェーンをはずす。 「さっさと入れよ」 「ほらね。警察は弱い者の味方なんだから」  モリは誰に言うともなく言ってから、体を滑らすようにして、中へ入ってきた。 「せいぜい仲良くして下さいよ」と管理人が言う。 「おじさん、ありがと」とモリが答える。  ドアを締めてから、亮はモリの両肩をつかんで、自分のほうに向き直らせた。 「一体、何の話があるんだ。よりを戻そうっていう話はいくら言ってもお断りだ。それとも他に話でもあるのか」  モリは答えないで、しきりに首をねじって後ろを見ている。 「何だ」 「おすし」  亮は殴りつけたくなるのを我慢した。 「そんなことより、何の用だ」 「せっかく買ってきたんだから、おすしでもつまみながら、ゆっくり話そうよ」 「話なら、ここで十分だ」 「こんなところじゃだめよ」  モリは体をひねって、亮の手から逃れた。 「おすし、外に置いてきちゃった」  モリは鍵をはずしてドアを開け、「締めたら、また同じことの繰返しよ」と言って、外に出た。  すし折りを手にモリがまた入ってきたとき、亮は玄関で話をつけるという考えを放棄していた。アメーバのように、どんな隙間からも侵入してくるという奇妙な幻想を抱いたほどだった。  亮はキッチンまで行き、寝室を覗いて、男に絶対に出てこないように言った。ベッドの上で膝を抱えながら、男は小さくうなずいた。扉を閉めて、椅子に腰を降ろす。レースのカーテン越しに朝の光が背後から射し込んでいる。どこか知らない所に行きたいという思いがまたふっと浮かび、通り過ぎていった。  モリが片手を壁につけ、もう一方の手に折りを持って入ってきた。 「あら、お客さんはまだお休み。これはほんとにお邪魔しちゃったわね」  そう言いながら、寝室の扉に近づこうとしたので、亮は立上がって、押しとどめた。 「そこは絶対にだめだ」 「玄関にゴルフシューズがあったけど、あれはお客さんの?」 「関係ないだろ、そんなこと」 「そりゃ、そうだけど」  モリはカーディガンを椅子の背にかけて腰を降ろすと、テーブルの真ん中で折り詰を開け始めた。赤いマニキュアの指が動くさまは、なぜか蜘蛛を連想させる。 「あ、そうそう、お茶、お茶」  モリは立上がると、近くにあったやかんに水を入れ、ガスにかけた。椅子に戻って、折りのふたを開ける。 「ほら、こんなに片寄っちゃったじゃない。食べ物を粗末にすると、バチが当たるわよ」  言いながら、折りの縁を指で叩く。 「小皿がいるわね」  立上がって、食器棚を探す。一番小さいのを取ると、「ついでに急須も」と右手で傍にあった急須の柄をつかむ。そして、小皿を持った手でふたを取って、中を見る。 「お茶の葉はどこ?」とモリは亮を見た。亮は寝室の扉にもたれて見ていたが、何も答えない。 「教えないつもり。いいわよ、自分で探すから」  小皿と急須をテーブルの上に置くと、モリは、勝手知ったる他人の家ってねと呟きながら、次々と戸棚を開けていく。 「あった」  モリは茶筒を持った手を上げて、小さく振って見せた。 「リョウちゃんにも入れてあげようか」  亮は答えない。 「いれてほしいって言えば、いれてあげるわよ」  モリは急須に茶の葉を入れ、沸騰しているやかんの湯を注いだ。食器棚から湯呑茶碗を取り出して椅子に戻り、添えてある醤油を小皿に移す。割箸を割って、鮪をつまむと、醤油をつけ、左手で受けながら口に運んだ。 「おいしい」モリは目を閉じた。再び目を開けると、「時間がたっても食べられるのは、ここのだけね、誰かさんが言ってたみたいに。あ、お茶が出過ぎちゃう」  モリは湯呑にお茶を入れていくが、一つだけでは足りなくて、もう一つ取ってくる。急須のお茶を空にすると、湯呑を一つ両手で持ち、ゆっくりと唇のところに持っていく。しばらくモリはじっとしていた。 「ねえ、ここに来て、一緒におすし食べない?」  亮は黙っている。 「一人で食べるのって、何だか味気ないのよね。食べなくてもいいから、ここに来て、坐ってよ。それならいいでしょ」  それでも亮が答えないとわかると、モリは続けざまにすしを口に放り込んだ。そして流し込むようにしてお茶を飲んだ。 「ねえ、隣にいるお客さん」モリが急に大声を出した。「そんなところに隠れてないで、出てきなさいよ。おいしいおすしがあるわよ。出てきて一緒に食べましょうよ」  寝室は静かなままだ。 「そこにいるのはわかっているのよ。何もしやしないから、おとなしく出てきたらどう」  モリは立上がって、亮の前まで来た。 「そこをどいてよ。男の顔を見てやるわ」  亮は首を振った。 「どけと言ったら、どけ」  いきなりモリが右膝を突き上げた。全く警戒していなかったので、下腹部にまともに受けた。亮は一瞬、息が詰って、体が折れ曲がり、横倒しになった。モリが扉を開け、寝室に入っていく。 「あら、あんた、いいもの着てるわね」  モリの声が聞えてくる。 「このゴルフバッグ、あんたのでしょう。やっぱりね。玄関にあった靴もそうね」  ようやく亮が立上がり、寝室に行くと、モリが男の着ているガウンの襟をつかんで、引っ張っているところだった。男は両手両足を縮めて、それに抵抗していた。 「このガウンはあたしのよ。脱げ、脱げよ。あんたみたいな人間に着られちゃ、汚らわしいんだよ」 「やめろ」  亮はモリの両手首をつかんで、ガウンの襟から引き離した。そしてそのまま、ひきずるようにして寝室の外に連れ出した。 「はなせ、はなせ」モリは両腕を上げさせられた姿勢のまま、もがいた。 「あんな野郎は許せないんだよ。女房や子供もあって、世間では一端の社会人みたいな顔をしながら、日曜になると、ゴルフバッグかついで、リョウといちゃつきやがって。リョウちゃんと寝たかったら、みんな捨ててから来い」 「あんまり騒ぐなよ」  モリがおとなしくなったので、亮は手を離した。 「何よ、あんな男。ジジイじゃないの。どうしてあんな男と寝なきゃならないの。お金のためだって言いたいんでしょ。お金なら、あたしがかせいであげるって言ってるのに。リョウちゃんは好きなことをしたらいいのよ」 「その話にはもうケリがついているはずだぜ」 「だからもう一度考え直してよ」 「いくら考えても、同じだ」 「どうしてこんな風になってしまったの。あたしたち、最初はうまくいってたじゃない」 「最初からうまくいってなかったさ」 「うそよ、そんなの」 「うそじゃないさ。本当の話さ」 「うそばっかり」 「うそじゃないって言ってるだろ。おまえとのことなんか、最初からでたらめだったんだ」 「ひどいわ、そんなこと、いまさら」  モりの顔がゆがんだ。 「これで話はついただろ。だから、もう、さっさと帰れよ」  モリは宙に焦点を合わせたような顔で、黙ってしまう。構わず亮は、モリのドレスの襟を右手でつかみ、左手を腰に当てて、モリを追い出していく。  キッチンを出る間際に、「カーディガン」と言って、モリは亮に手を離させたが、椅子の背にあるカーディガンには触れもしないで、流し台のほうに走って行った。そして振返ると、モリは手に果物ナイフを握っていた。 「馬鹿な真似はやめろ」 「リョウちゃんとあの男を殺して、あたしも死ぬわ」 「何、言ってるんだ。冗談はやめろ」 「あたし、本気よ」  亮が近づこうとすると、モリはナイフを振り回した。モリが進み、亮が後ずさりしていく。二人が寝室に入ると、男がかすれた悲鳴を上げた。モリが男のほうを見た。 「あんたを殺そうと思ったけど、今、もっといいことを思いついたわ。あんたの鶏肉みたいなちんぽを切ってやるわ。そうしたら、家庭もパー、会社もパー、晴れてあたしたちの仲間入りよ」  男は、ベッドのところまで後退した亮の陰に隠れた。 「冗談もいい加減にしろ。そんなことをしたって、何の得にもならないじゃないか」 「あたしの気持がスカッとするのよ」 「どうしてもやるって言うんなら、おれが相手になるぜ」  亮は、サイドボードのブロンズ像に手を置いた。 「おお、こわい。でも、今、もっといいことを思いついたわ。何もあたしが直接手を下さなくてもいいのよ。あたしがちらっと会社か奥さんに、あんたがホモだってことをばらしゃいいんだから。そうよ、この手が最高よ。どうしてこんな簡単なこと、気がつかなかったのかしら」  男は亮のガウンをつかんで、離さない。 「何とか言わないの。それとも言えないの。あんたねえ、自分がどこの何者かわからないって、タカをくくっているんでしょ。ところがそうは問屋がおろさないのよ、し、の、は、ら、さん。どう。ゴルフバッグにネームプレートがついているわ。ほら、顔色が変った」 「それだけいじめりゃ、十分だろ。もうナイフかせよ」  亮が手を伸ばした。 「何、すんのよ」  モリが叫んで、ナイフを振り上げた。人差し指に痛みが走り、亮は左手で押えた。指の間から血が染み出して、滴り落ちる。男が小さく唸ってベッドから飛び降り、壁に張りついた。  モりは目を見開いている。ナイフを握り締めたモリの両手が微かに震えるのを見ながら、亮は笑おうとした。しかし頬の筋肉が固くていうことをきかない。それでも無理に唇を開いて、笑い顔を作りながら、亮はナイフを渡してくれるように手を出して、一歩モリのほうに近づいた。  そのときモリがわけのわからないことを叫んで、突っ込んできた。腹に衝撃があった。焼けた火かき棒が食い込んだようだ。足から力が抜け、亮はカーペットの上に崩れ落ちた。  口から生暖かい血が、心臓の鼓動に合わせて、あふれてくる。  腹に突き刺った果物ナイフに触れながら、やられたなと亮はぼんやりと考えた。以前、一度、こういう経験をしたことがあるような奇妙な感覚が亮を捉えた。  ベッドの足の所に、フルコートのチューブが落ちている。昨夜、いくら探しても見つからなかったやつだ。  あんなところにあったのかと亮は思ったが、そんなことを思う自分に対して、なぜか不思議な気がした。  意識がもうろうとしてくる中で、亮は、誰かの長く尾を引く悲鳴を聞いた。