蹄の音が聞える             津木林洋 1  葉子の死の知らせを受取ったのは、夜の八時頃だった。いわば予定の死だったので、ぼくはべつに驚きはしなかった。その時、ぼくが真っ先に思ったことは、もうあの声は聞けないんだなということだった。ねえ、どうして生きてるの? 三週間程前に見舞に行ったときに、そう尋ねられ、ぼくは答えることができなかった。これは葉子の口癖みたいなもので、彼女と初めて寝たときも同じことをきかれたのだ。もう十年も前のことである。 「ねえ、どうして生きてるの?」  不意に葉子が尋ねた。ぼくは吸っていた煙草を、腕を伸ばしてサイドテーブルの灰皿でもみ消した。ぼくたちはホテルのベッドに横たわっていた。 「どうしてって、なぜってこと?」  ぼくはそんなわかりきった質問をして、考える時間をかせいだ。 「そう」  もちろん、女と寝るためである。それまで付合った女たちの一人が相手だったら、ぼくはためらわずにそう答えただろう。冗談には冗談で、だ。ところが葉子にはそれが通じない、というか、彼女の質問が冗談ではないからだ。  もともと彼女と知合ったのが、大学の聖書研究会という変な場所だった(などと言うと、研究会のメンバーに叱られるかもしれないが)。なぜぼくがそんなところに行ったかというと、偶然貼紙を目にして、入ったというのに過ぎない。様子を見てすぐに帰るつもりで、ぼくは一人の女の子の横に坐った。一人の男が前でマタイ伝のことを何やらしゃべり、それから聖書を読んだ。ぼくはもちろん聖書など持っていなかったから、教室を見回して、女の子が何人いるか数え始めた。十二まで数えたとき、横の女の子が、「よかったら、一緒に見ませんか」と聖書をぼくの前にずらした。  その女の子が葉子だった。ぼくは翌日、彼女とデートをし、彼女がクリスチャンでないことに驚き、次の次のデートのとき、つまり三回目に彼女と寝たのだった。ぼくは聖書を読むくらいだから、処女だろうと勝手に決めていたがそうではなかった。ぼくはちょっと失望したが、そうでないから三回目のデートで、ということも言えるわけだ。 2  ぼくは真面目に考えてみた。女と裸でベッドにいて、なぜ生きているかなんてことを考えるのは、最高の冗談ではないかという気がしたが、葉子には人を真面目にさせる何かがある。というより、質問に人を試すという響きが全くないから、そうなるのか。  初めてのデートのとき、いきなり、「神様はいると思います?」ときかれて、ぼくはぎょっとしたのだ。ぼくはどういう答え方をすべきか迷った挙げ句、こんな風に答えた。 「基本的に言うと、神がいてもいなくても同じというのがぼくの考え。つまり、神様はかなり忙しい人で、というか神で、われわれ人間一人ひとりにいちいち気を配っていられないわけだ。そこで、神様は死んだ人間を片っ端から天国に放り込んで、すましている。だから人間が現世で何をしようと知ったことじゃない。何をしようと構わないんなら、神がいてもいなくても一緒というわけさ」  もちろん冗談半分である。といっても、全部が嘘というわけでは、もちろんない。  葉子はうなずきながら聞いていたが、ぼくが話終ると、しばらく黙ってから、 「それじゃあ、人間は何をしても許されるんですか」  あまりに真面目に受取られたので、ぼくは言葉に詰ってしまった。この子は普通の女の子とは違うぞ、とそのときぼくは思った。  だからぼくは真面目に考えたのである。しかし真面目に考えたからといって、答えの出るものでもない。 「生きるように作られているからだろう」  ぼくは観念して、そう答えた。 「神様がそういうふうに作ったと思う?」 「いや、そうじゃなくて……」  ぼくは、人間プログラム説というやつを話始めた。もちろんぼくが冗談半分に作り上げたものだが、その根底には人間は物理的化学的反応体系に過ぎないというサイバネティックスの思想があるわけだ。ぼくの専攻はコンピューターに関することだから、そういう話を作り上げるのはお手のものといえばそれまでだが、しかし、コンピューターを一度も扱ったことのない人間にその話を納得させるのはかなり難しいことだ。実際コンピューターを使ってみると、あたかもコンピューターに人格があるような錯覚に捉えられることがある。精神と言いかえてもいいかもしれない。ところが精神と見えたものの本当の姿は、プログラムされた反応に過ぎないわけで、そこから、人間も結局は複雑にプログラムされた反応体系だと見るわけである。  まあ、そういったことを、できるだけわかりやすくぼくは話した。ごまかしよと言われれば、その通りだと答えようとぼくは思っていた。 「だったら、愛ってことも、その……プログラムされてるの?」 「え?」  突然「愛」という言葉が出てきて、ぼくの頭は少々混乱した。ぼくはそういう言葉を口にする葉子の真意をどう理解すればよいのか、迷い、結局のところ、ごく一般的な質問だと解釈した。 「まあ、そういうことになるのかな」 「ほんとに、そう思う?」 「人間プログラム説を取るなら、そうなるね」 「さびしいわ、そんなの」  ぼくは驚いて、葉子を見た。葉子はまっすぐ天井を向いて目を閉じており、ぼくは鼻梁の線を一瞬、美しいと思った。  しばらく黙ってから、 「ねえ人を愛したこと、ある?」  と葉子が言った。ぼくはもう驚かなかった。 「ないよ、きっと」少し考えてから、ぼくは答えた。 「きみは?」 「いつも愛そうと思ってるわ」 「それで?」 「それで、おしまい」  ぼくはもう結婚しているが、かみさんを愛しているかときかれれば、おそらく、愛していると答えるだろう。しかしぼくは、葉子と一緒になっても、うまくやっていけただろうと思うし、葉子の死を知らせてきた真由美ともうまくいっただろう。それに、大学四年のときに奇妙なかかわりあいをした直子とも、もちろん一緒に暮せたと思う。どの場合でも、愛しているかときかれれば、愛していると答えただろう。もっとも葉子も直子も死んで、いまはいないのだが。 3  ぼくは受話器を置いてから、かみさんに、「お通夜に行ってくる」と言った。 「葉子さん?」 「ああ」  かみさんはぼくと葉子のことについては、すべて知っている。ぼくが全部話したのだ。葉子に会うまでは、かみさんは彼女に対して、嫉妬というか、面白くない気分らしかったが、彼女に一回会うと、すっかり変ってしまった。 「葉子さんは、ホーリー(聖なる)だから」と言うのが、かみさんの口癖になった。  もっとも真由美のことは、ほとんど何も話していない。葉子の友達だとだけ言ってある。実を言うと、真由美ともかつて関係があったのだが、真由美は「ホーリー」ではないので、話すわけにはいかないのである。  通夜は葉子の実家で行れていた。彼女は家を嫌っていたが、死ねば帰るところはそこしかないのである。家族のことはほとんど話さなかったが、父親が愛人の家に入りびたっているという話を、いつだったかちらっと聞いたことがある。  傷害事件の執行猶予期間中に、ぼくのアパートに転がり込んできて、ぼくを驚かせたこともある。  葉子は二回結婚したが、最初の夫がその傷害事件の相手なのだ。幸い情状が酌量されて刑務所行きは免れたが、後に離婚という結果が残った。 4  ぼくはその当時まだ独身で、別に彼女が来たからといって、どうということもなかった、が、彼女は親に無断で飛出してきたらしく、執行猶予の身で居所を知らせなくてもいいのだろうかとぼくは心配したものだ。  とにかくぼくと葉子はそれから約三週間に渡って、アパートの一室で生活を共にすることになる。  三日間、なにごともなかった。  四日目、ぼくたちはずいぶん久振りに抱合った。  しばらくして、葉子は少し寒いわと言って蒲団から出、そばに丸めであったぼくのパジャマを着た。彼女は本当に何も持たずに、ぼくのアパートに転がり込んできたのだ。 「寒くない?」  蒲団の中に戻ってきた葉子が言った。 「いいや」  ぼくは裸のままでいた。 「これでも?」  葉子はだぶついた袖をたくし上げて、掌をぼくの胸に押しつけた。冷たい手だった。 「気持がいいよ」  葉子はしばらくそうやっていたが、やがて手を離すと、肘をつき、上半身を少し持上げて、ぼくを見た。 「何も聞かないのね」と葉子が言った。 「聞くことなんかないよ」とぼくは答えた。  葉子が自分の夫を刺したと聞いたとき、ぼくは何となくわかる気がした。というより、あり得ることだと思ったのだ。そう思うことだけで十分だった。  ずっと後になって、真由美が話してくれたところによると、そもそもの発端は、葉子の浮気、というより恋愛だったらしい(そのことはぼくを少し驚かした)。それが見つかって、ごたごたしたが、それも一応おさまって、さあ新しくやり直そうとしたときに、今度は夫が浮気をしたらしい。そして葉子が刺した。  なぜ葉子が急にアパートを出たのか、ぼくは後になっていろいろ考えてみたが、思い当ることはひとつしかない。もっとも、ぼくが会社に行って昼間いない間、葉子が何をしていたのか、ぼくは全然知らなかったのだが。  ぼくが風邪をひいて寝込んだときのことである。会社のその頃付合っていた女の子が見舞に来たのだ。もちろん部屋には葉子もいた。  女の子は葉子を見て、驚いたようだった。ぼくは蒲団を首のところまで上げて、女の子が部屋の中を珍しそうに見回すのを見ていた。葉子のおかげで部屋は驚くほど整頓され、カーテンや座蒲団は明るく派手な色に変っていた。それに女の匂いというものがある。葉子はとっさに嘘をつかなければいけないと思ったようだ。 「兄さんがいつもお世話になっています」  と葉子が言った。  確かにぼくには妹がいるが、そして、葉子がそのように言っても年齢的にはおかしくないが、残念ながら、そのとき妹はもう結婚していて、北海道にいたのだ。そして、女の子はそのことを知っており、葉子は知らない。  ぼくは声が出にくい振りをして、ほとんどしゃべらなかった。  それから三日ほどして、葉子は出ていき、半月後、女の子は結婚のためと言って、会社を辞めた。 5  通夜の席には、真由美と坂井がいた。坂井のそばには十五、六歳の女の子がぴったりと寄添っている。 「子供はどうしたの?」とぼくは真由美にきいた。 「姉に預ってもらったわ」 「幼稚園だったね」 「ええ」 「可愛い盛りだな」  真由美はそれには答えない。葉子の見舞に行ったときも似たような会話があったことをぼくは思い出し、自分でもちょっとおかしかった。 「葉子さんの顔、見た?」と真由美が言った。 「ああ」 「やせてたわね」 「恐しいくらいにね」 「人間て、あそこまでやせられるものなのね」  葉子は骨肉腫だった。左腕を切落したが、すでに手遅れで、ぼくたちが見舞に行ったときには、肺に癌が転移していた。 「坂井は見たのか」 「おれは駄目だ。気が弱いからな」と坂井は言い、それから「な」と横の女の子に相槌を求めた。女の子は小さく笑い、ぼくのほうをちらっと見た。 「こんなところにも、その子、つれてくるのか」  見舞のときにも、その子は一緒だった。 「何しろ、手を離したら、風みたいに飛んでいってしまうんでな」  ぼくは二人(真由美と坂井)と同時に知合っている。つまり、葉子とデートをしていたとき偶然、葉子が真由美と出合って、真由美は坂井と一緒だったというわけだ。今偶然という言葉を使ったが、実を言うと偶然ではなくて、葉子と真由美が仕組んだことなのだ。そのことは後で葉子が話してくれた。ダブルデート。なつかしい言葉だ。  坂井は法学部の学生で、小説を書いていると言った。 「なぜ小説なんか書く?」 「六法全書を読むより、少なくとも退屈はしないからね」 6  ぼくが真由美と二人きりで会ったのは、それから二ヵ月ほどたったときだった。 「何か用?」  喫茶店のボックスに坐って、いきなり真由美が言った。 「べつに」 「そう」  ぽくはそのとき、本当に何も話すことがないことに気づいた。ウェイトレスがやってきて、ぼくたちはコーヒーを頼んだ。 「いつも何してるの?」  とりあえずという感じで、ぼくはきいた。 「朝起きて、大学へ行って、帰ってきて寝るだけよ」 「それだけ?」 「ときどきお酒を飲むわ」 「友達と?」 「ええ」  何かもっと面白い話はないかなと考えてみたが、何もなかった。 「あなたは何をしてるの?」 「ぼく?……朝起きて、大学へ行って、帰ってきて寝るだけだよ。ときどきお酒を飲むよ。友達とね」  真由美は小さく笑った。  ウェイトレスがコーヒーを持ってくる。ぼくは砂糖をスプーンでかき回しながら 「ねえ、変なこと、きいてもいいかい?」  と、またとりあえずきいてみた。 「なに?」  砂糖を入れる手を止めて、真由美がぼくを見た。ぼくは彼女の目を三秒ほど見つめてから、 「きみはどうして生きてるの?」  真由美は、え? という顔をし、それからゆっくりと微笑んだ。 「葉子ね」 「ああ」 「それで、あなたはどう答えたの?」 「わからないって」  人間プログラム説を話す気にはなれなかった。真由美はふーんと言って、褐色の液体をスプーンでかき回した。ぼくもかき回した。真由美が、ミルクを入れる。ぼくも入れる。またかき回す。真由美が一口飲み、ぼくも飲み、そして同時にカップを置いた。 「どうして真似をするの?」 「答えを待っているんだ」  真由美はその言葉を無視してバッグから煙草を取出して一本を口にくわえた。ぼくもポケットから押しつぶされた煙草を取出して、くわえた。真由美はライターで火をつけそれをバッグに戻した。ところがぼくには、ライターがない。ポケットのあちこちを探したが、マッチもなかった。テーブルの上の灰皿にもなかった。ぼくは中腰になって、空いている隣の席を覗いたが、やはりマッチはなかった。  突然、真由美が笑い出し、そしてむせた。ぼくは腕を伸ばして、彼女のコーヒーカップを灰の落下地点からずらした。真由美は目尻を小指で押えた。  咳がおさまってから、真由美はバッグから再びライターを取出し、ぼくの煙草に火をつけてくれた。 「教えてほしい?」 「うん」 「……愛する人に巡り合いたいから」  それは葉子の言った言葉だ。  その夜、ぼくは真由美と寝た。 「あなた、葉子と寝てるんでしょう?」  終って、しばらくしてから、不意に真由美が言った。ぼくはちょっと驚いた。 「うん?……ああ」  組んだ両手を枕にした姿勢のまま、ぼくは答えた。 「だったら、どうしてわたしと……」 「彼女はぼくを愛していない。ぼくも、彼女を愛していない。だからさ」 「わたしを愛しているの?」  ぼくはしばらく考える振りをした。 「わからない」  真由美は上半身を起した。毛布が持上がって、冷たい空気がぼくの胸の上を流れた。ぼくは彼女の細い背中を眺めた。 「そんなの、卑怯だわ」  真由美はゆっくりと、おさえつけるような声で言った。お、とぼくは思った。 7  真由美が五十歳を過ぎた男と愛人関係にあることを初めて聞いたのは、たしか葉子と短い同棲をしていたときだった。葉子が教えてくれたのだ。 「四年くらい前かららしいわ」  いつ頃からというぼくの質問に、葉子はそう答えた。四年前と言えば、ぼくが真由美と初めて寝たときよりも前である。  ぼくはちょっと複雑な気分になった。真由美とは半年ばかり関係があったが、そういう気配はまるで感じなかったからだ。ぼくがそのとき半信半疑だったのも(少なくとも四年前に関しては)仕方がないだろう。  男は独身で、ちょっとしたエッセーを雑誌に寄稿して、食扶持を稼いでいるということだった。 「どうして結婚しないんだろう」 「わたしも同じことをきいてみたんだけど、真由美さん、笑って答えなかったわ」  それから三年たって、ぼくはその男と初めて会うことになった。  真由美が妊娠して、そのことについて、話合うためだった。真由美はすっかり弱気になっていて、別れてもいいから子供だけは育てたいと言っているのだった。そんな真由美に代って、葉子が話合いをすることになり、ぼくは要するに付添いに過ぎなかった。  待合せの喫茶店に現れたのは、ごく普通の男だった。ごく普通の、というのはそのときぼくの感じたことで、ぼくは愛人というからにはもっと愛人らしい(といっても、具体的にどんなのか見当がつかないが)、少なくとも真由美が好きになるような、どこかぴんと引っかかる感じの男が現れるのではないかと思っていたのだ。ところがそうではなかった。顔の真中に、「愛人」と書いたお札をはっておけばいいのに、とそのときぼくは思い、笑いを抑えるのに苦労した。  男は白髪まじりの、いわゆるロマンスグレーというやつで、ブレザーにポロシャツという姿だった。あごのあたりが尖っている感じだった。  話は要するに、結婚するかしないかということだった。男は、約束が違うと言った。結婚しない、子供は作らないということで、今までやってきたと言うのだった。実際、真由美は二度も中絶をしたということだった。 「佐野さんは真由美さんを愛しているんですか」  と葉子が言った。  男は質問の意味がわからないというように、ぽかんとしていたが、やがて小さく苦笑いの表情を見せると、コーヒーカップに手を伸ばした。 「どうなんですか。答えて下さい」  葉子の言葉に問詰める口調はない。ぼくはいつものやつが出たなと思い、何だかおかしかった。  男は少し驚いたように葉子を見つめてから、ゆっくりとカップを降ろした。 「そんなことねえ……」 「そんなこと、何ですか」  男はようやく、葉子の真面目さ、というか、本当にそのことを知りたいと思っていることに気づいたようだった。  ちょっと姿勢を正してから、 「そんなことは当り前です。でなかったら、七年間も続きはしない」 「だったら、どうして一緒に暮さないんですか」 「一緒に暮す必要がないからです」 「そこのところが、わたしにはよくわからないわ」  変った人だ、と男は呟くように言い、それから急に、ぼくのほうを見て、 「どうです、場所を変えて、一緒に飲みませんか」  いきなり言われて、ぼくは戸惑った。「どうする?」と葉子にきいた。 「行こう、行こう」と葉子は答えた。  男が案内したのは小さなバーで、物静かなバーテンが一人でやっていた。  葉子を真中にはさんで、カウンターの前に坐った。男はぼくたちと真由美との関係を尋ね、葉子が大学時代からの友達だと答えた。ぼくは真由美とのことを葉子に話したことはなかったが、ひょっとしたら真由美から聞いているのではないかと思い、そして、今、そのことを話すのではないかとひやひやしたが、葉子は何も言わなかった。しかし、男が今度は、ぼくと葉子の関係をきいたとき、ぼくが「ただの友達で、何となく気が合っているもんですから……」と答えているにもかかわらず、葉子は、ただの友達ではなかったことを話してしまった。 「一ヵ月ほど同棲したこともあったんです」と笑いながら葉子が言った。そして、「ね」とぼくのほうを見た。 「うん」仕方なく、ぼくはうなずいた。 「一ヵ月ねえ」男は感心したように呟いた。 「佐野さんは神様を信じていらっしゃいます?」  話が途切れたとき、葉子が男に尋ねた。 「ええ、信じてますよ」  男が無造作に答えたので、ぼくは驚いた。 「それじゃあ、クリスチャン?」  葉子の声が明るくなった。 「ええ」  男は洗礼名を口にし、両親がカトリック教徒だったので子供のころ洗礼を受けたこと、そして葉子の質問に答えて日曜学校のこと、戦争のせいで次第に圧迫を加えられたことなどを話した。戦争の話が出てきたので、ぼく、が「戦争には行かれたんですか」ときくと、男は「ええ」とだけ答えた。  ずっと後になって、真由美が話してくれたところによると、男は南方戦線に送られて、もう少しで死ぬところだったらしい。クリスチャンということがわかって、上官ににらまれたのだった。両親は空襲で死んでいた。それから後のことは真由美も知らない。  その夜、ぼくは酔っぱらった男を、彼のアパートまで運んでいった。六畳一間の古ぼけた部屋で、家具らしきものといえば、タンスと本棚くらいだった。窓際に小さな机があり、本や原稿用紙で埋まっていた。  男は流しの下の開きから、一升びんを取出して、一杯やろうと言った。ぼくがしぶっていると、彼はぼくを強引に坐らせて、手に湯呑茶碗を持たせた。 「真由美はどうして今頃になって、子供が欲しいと言っているんだ。わかるか、きみ」と男が言った。  ぼくは酒を一口飲んでから、「たぶん、もう若くはないからでしょう」と答えた。 「若くはないって? ふん、それはおれが言うセリフだ」 「だったら、こういうのはどうですか。彼女は昔の彼女にあらず」  男は鼻先で笑い、シー・イズ・ノット・ワット・シー・ウォズ、かと呟いた。 「きみは、まだ独身か」と男が言った。 「ええ」 「真由美とは大学のときからの付合いだと言ったね」 「ええ、大学三年のときですね、知合ったのは」 「どう思う?」 「……何が?」 「真由美のことだ」  ぼくはそのとき、男はぼくと真由美との間にあったことを知っているのではないかと思った。 「どう思うと言われても……。そりゃ、好きですよ、友達としてね」 「結婚する気はないか」  何だか奇妙な気分だった。愛人というより、父親から責められているような感じだった。 「残念ですが、ぼくには約束した女性がいますので」  これは嘘だ。ぼくがかみさんと知合うのは、二年も先の話だ。 「さっきの女性か」 「いいえ」  男は立て続けに酒を流し込んだ。 「あと二十年たったら、おれが何歳になるかわかるか」 「さあ」 「七十五だ。子供が成人するとき、おれはじじいなんだ。いや、もう死んでるかもしれん」  ぼくは帰る潮時ばかり考えていた。 「きみのおやじさんはいくつだ」 「おやじはもう死にました」  男はぼくの答えに戸惑ったように口をつぐんだ。 「最近か?」 「いいえ、ぼくが四つのとき」  そうか、おやじさんは死んだのか、と男は呟いて、湯呑茶碗を胸に抱く恰好でうな垂れた。  ぼくは湯呑を畳の上に置いて立上がり、それじゃ、これで、とうつむいている男に向って言った。ドアのところで靴をはいていると、突然、「おれは一人で死にたいんだ」という男の大声がした。驚いて振返ると男はさっきと同じように、あぐらをかいて、背中を丸めた姿勢でいた。  ドアを閉めるとき、これはもうだめだな、とぼくは思った。そして、何とも奇妙なことに、三十年後の自分の姿かもしれないという気がした。 8  男はぼくの思いとは裏腹に、真由美と一緒に住みはじめた。きっと結婚するわよ、と葉子が教えてくれた。それはよかったとか何とかぼくは答え、それっきり、そのことは忘れていた。  そして十一月の急に冷え込んだ晩だったと思う。葉子から電話があった。すぐに来てほしいと言う。場所をきくと産婦人科の病院だった。 「彼女、どうかしたのか」ぼくは思わず早口で尋ねた。 「え? ああ、真由美さんは大丈夫よ。赤ちゃんも無事に生れたわ。男の子よ。ただね……」  葉子は黙り込んだ。 「ただ、どうしたの?」 「……佐野さんがいないのよ」 「いないって、そりゃ、どういう意味だい?」 「だから消えちゃったのよ。子供が生れてすぐ」 「消えた?」 「ええ、だからはやく来て」 「ああ」  病院の待合室で、葉子は腕を組んで坐っていた。ぼくが顔を見せると、はじけるように立上がった。  葉子の話によると、三時間前に子供が生れたとき、男は煙草を買ってくると言って出ていったが、それっきり帰ってこないと言うのだった。真由美のアパートへ電話をしても誰も出ない、と葉子は言った。 「彼のアパートは?」 「そんなもの、半年も前に引き払ってるわ」  とにかく真由美に会っておこうと、ぼくは葉子と一緒に新生児室の前を通って病室へ行った。二人部屋で、一人はまだ大きいおなかをしていた。真由美はピンクのパジャマを着て、胸のあたりまで毛布をかけていた。 「わざわざ来てくれたのね」と真由美が言った。目のまわりがむくんでいるようだった。 「まずは、おめでとう」とぼくは言った。 「ありがとう。子供、見てくれた?」 「ああ、元気に手足を動かしてたよ。やっぱり男の子だなあ」  真由美はぼくの隣にいる葉子と顔を見合わせて、うれしそうな顔をした。 「きょうはとりあえず、お祝いを言いに来ただけで、何も持って来なかったんだ」 「いいのよ、そんなこと」  それからぼくたちは、子供の名前についてちょっと話をし、ベッドを離れた。病室を出る間際真由美が、「葉子、あの人は?」と声をかけ、葉子は部屋に残った。  その夜、ぼくと葉子は十二時ごろまで待合室で男を待った。しかし無駄だった。それきり男はいなくなり、今だに消息はわからない。  結局、ぼくが彼を最後に見たのは、あの初めて会った晩の、背中を丸めた後ろ姿だった。  子供の名前は葉子がつけた。忠惟という。十二使徒のひとり、タダイから名付けたということである。 9  真由美は宣伝会社をやめて、フリーのコピーライターになった。赤ん坊を育てる時間を作り出すためである。しかしそれではやはり食っていけず、一年後、子供は保育所に預けて、また別の宣伝会社に勤めることになる。  その間、一度、葉子とぼくと坂井が集って、真由美に経済的援助をしようかと話合ったことがある。言い出したのは葉子で、ねらいは坂井にあったようだ。  坂井は四ヵ月ほど前にアメリカから帰ってきて、「アメリカン・ライフスタイル」というルポルタージュの本を筆名で出しており、結構売れているようだった。内容は、サンフランシスコ、ロサンゼルスを中心とした西海岸と、ニューヨークを中心とした東海岸の最新の風俗を紹介したもので、その中でも性風俗に力点が置かれていた。  本が売れはじめると、早速、アメリカ風俗評論家という肩書を与えられて、テレビにも顔を出すようになる。  坂井がアメリカへ、いわば逃げるようにして渡っていったのは、三年前のことで、それまで勤めていた商事会社をくびになったからである。原因は強姦罪で警察につかまったから。新聞にも小さくではあったが、記事が載った。  もっとも坂井に言わせると、どうもだまされたらしいということになる。  彼は今でいうディスコで少女(おれには高校生に見えたんだがと坂井は言うが)と知合って、ホテルに行き、別れるとき求められるままに金を渡した。そして数日後、警察から呼出され、少女と寝たかどうか尋ねられた。 「おれはね、最初、売春の相手として調べられているんだなと思ったんだよね。それならまあ大丈夫だから、ちょっとは安心していたんだ。しかしそれが会社に知れたら、やはりまずいんで、おれは否定したよ。そうしたら、取調べの刑事が、ホテルの従業員の証言や精液の血液型がおれのと一致したことを言うんだな。仕方がないから、おれはあっさりと白状したよ。そうしたら逮捕だものね、まいったよ、全く」  少女は中学一年生で、十三歳未満の女性とのセックスはたとえ同意の上であっても、強姦罪に問われるのである。坂井は少女を高校生だと思っていたと言張ったが、罪を認めれば示談、あくまでも否認すれば裁判と二者択一を迫られ、彼は示談を選んだのだった。彼の身元がわかったのは、少女が彼の財布から名刺を抜取っていたせいで、少女は彼を金づるにしようとしていたらしい。  そういうふうな娘に育てた親の責任は問われないんだからなと、坂井は真由美のことで集ったときに笑いながら話してくれたが、それは今だから話せるというふうだった。  アメリカに立つ前の坂井に会ったのは葉子だけだった。ぼくも一緒にと彼女から誘われたが、ぼくは断った。自分の坂井を見る態度に自信が持てなかったからである。 10  学生時代に、坂井の書いた小説をいくつか読んだことがある。不老不死の薬ができたために革命が起る話とか、わいせつの観念が法律によって次々に変る国に紛れ込んだ男の話(これは「不思議の国のアリス」を下敷にしている )とか。  その中で最も印象に残っているのは、溝を掘る男の話である。ストーリーはいたって単純で、一人の男がだだっ広い草原に溝を掘っていくというだけである。幅一メートル深さ一メートルの溝を、スコップとつるはしだけで、しかも限りなく真直ぐに。何年も何年も男は掘り続け、ある日力尽きて、溝の中に倒れる。何日かたって、人々が彼の死体を発見する。死体は内臓が腐って発生したガスで、ぱんぱんにふくれ上がっている。顔はボールのようになり、人相が見きわめられない。見ると、眼の中からうじ虫が規則正しい間隔で、ぽとりぽとりと落ち、まるで白い涙のように見える。死体の回りに集った人々が目を上げると、四角い溝がどこまでも真直ぐに伸びていて、はるか地平に接している。人々は死体を共同墓地に埋葬し、溝の長さを測る。溝は草原の何の変哲もないところからいきなり掘られていて、そこから彼の倒れたところまでの距離が、三〇・二七六キロメートル。 「こんな広い草原が実際にあるのかい?」と読み終ってぼくは尋ねた。 「そりゃ、どこかにあるだろうさ」 「この男は何をして食っているんだ。まさか溝掘りで金にはならないだろう?」 「これはリアリズムじゃないんだから、いいんだよ」 「それにしては、死体の描写だけはやけにリアルだな」 「まあな」  彼がアメリカに行ったあと、葉子から、彼の母親が自殺していることを知らされたとき、ぼくは真っ先に、この死体の描写を思い出した。 「この最後の具体的な距離はよかったよ。ちゃんとメートルの単位まで測ってあるのには感心した」  ぼくがそう言うと、坂井はえらく嬉しそうな顔をした。  坂井が評論家としてテレビに出だした頃、ぼくは彼に、「もう小説は書かないのか」ときいたことがある。彼は、「そのうちに書くよ」と答えたが、それは二年後ぼくとかみさんが結婚した年に実現することになる。「貝の沈黙」と題された小説で、ホモ相手に尻の穴を貸して生活しているアメリカ滞在の日本人の姿を描いたものだ。作者の体験だという噂が流れ、坂井は否定も肯定もしなかったが、それは定説になった。過去の強姦罪の件も暴露され、坂井は「本当です」と一言いっただけで、あとは沈黙した。不思議なことに、その暴露記事が出たために、一層彼の本が売れる結果になった。  ぼくの結婚式の前かあとか、葉子と真由美とぼくの三人で、酒を飲んでいたときのことである。真由美が坂井のことを、「あの人はホモよ」と言った。「貝の沈黙」について話合ったあとである。 「今だから言うけど、わたし、大学のとき、彼と二、三回ホテルに行ったことがあるのよ。でも何にもなかったわ。彼、立たないのよ」  ぼくは不意を突かれたように黙り込んだ。「今だから」という話に戸惑ったのかもしれなかった。葉子も口をきかなかった。 「しかし強姦罪でっかまっているんだぜ。ホモってことはないだろう」とぼくはしばらくして言った。 「少女を犯すのも、ホモもたいした違いはないわ」 「おい、おい、ぶっそうなことを言うなよ。少女を犯すなんて、響きが悪いよ」  ぼくはカウンターの回りを見回してから、坂井が強姦の件について語ったことを、真由美に話した。 「へえ、そうなの。でも、わたしのときは立たなかったのよ、ほんとうに」 「そんなことないわ」  横から葉子が少し強い口調で言った。ぼくと真由美は葉子を見た。葉子は目を伏せ、持っていたグラスを回した。 「そんなことないって、葉子、どうして知ってるの?」 「わたしと寝たとき、坂井さんはちゃんと立ちました」  葉子は歌うように言う。 「いつ?」 「だから大学のとき」  これも初耳だった。そうすると、とぼくは思った。あの当時、ぼくと坂井は相手を取替えて寝ていたわけだ。ひどくなつかしくて、愉快な気分になり、ぼくはウイスキーを一気に飲み干した。そしてグラスをカウンターに置く時、ほんの少し寂しい気持が混じった。 11  この辺で、直子のことについて、簡単に触れておきたいと思う。彼女とは大学四年の初めに知合い、七十年安保の月をはさんで、七ヵ月後、彼女が自殺するまで付合いが続く。  ぼくは今まで直子のことを誰にも話したことがない。ほんの時たま、なぜ彼女が自殺したのかと考えることがあるが、結局のところはよくわからない。最後に会ったとき、もっと突込んだ話をしていれば、あるいは納得したかもしれないが、今となってはどうしようもないことだ。  ぼくが研究室で大学院生と卒業研究の打合せをしていたときである。いきなり、ドアが開いて、へルメットを被った男が(と最初は思った)入ってきた。タオルで顔の下半分を覆い、すり切れたジーパンに、草色の作業服という姿だった。ぼくと院生はちょっと呆気に取られて、その男を見た。 「この建物は占拠されましたから、速やかに出て下さい」  女の声だった。 「センキョ?」と院生が言った。 「そうです」  ぼくと院生は顔を見合わせ、どうなってるの、とかなんとか言葉を交わし、それでもまだ椅子に坐っていた。そのとき、五、六人の同じような恰好をした男たちが、何だ、まだいたのかなどと言いながら入ってきた。そのうちの二人は身長の半分くらいの長さの角棒を持っていた。  ぼくと院生はゆっくりと立上がった。 「出ていって下さい」と女の横にきた男が言った。  ぼくたちは仕方なく研究室を出た。出る間際に、ぼくは女に向って、「これ、いつまで続くの?」と軽い口調できいた。女はこたえなかったが、目が笑っているのがわかった。  次の日、ぼくは卒業研究の資料と院生に頼まれた学術雑誌を取りに、占拠された建物へ行った。出入口には机やスチール製のロッカーが積上げられ、その向うに何人かの男たちがいた。床に寝袋や新聞などが散らばっていた。ぼくは机の鉄パイプのすき間から、一番近くにいる男に声をかけた。そして用件を告げた。男は中に向って誰かの名前を呼び、しばらくして目の細い男がやってきた。ぼくはもう一度用件を言い、そのとき、「何を寝ぼけたことを言ってるんだ」という声が聞えた。ぼくはその声を無視し、用件を繰返した。目の細い男は「裏へ回れ」と低い声で言ってあごを動かした。裏の鉄扉のところで、男は待っていた。 「あんた、ほんとにこの中に用があるの?」 「ええ」 「誰かに様子を見てくるように頼まれたんじゃないの?」 「そんなことないですよ」  男がぼくをじっと見るので、ぼくは思いついたことを口にした。 「きのう研究室にいたとき、女の人に追出されたんだけど……」  男は二、三度うなずき、少しの間、宙を見て考えてから中に戻っていった。しばらくして「入ってこいよ」という声が聞え、ぼくは、ロッカーで狭い通路になったところを体を横にして入っていった。  きのうの女が男と一緒にいた。相変らず、タオルで顔の下半分を隠していたが、目だけですぐに、彼女だとわかった。  ぼくは彼女と一緒に、というより見張られて、研究室に行った。資料や雑誌類をロッカーにあった紙袋に詰込んでぼくは出ようとしたが、ふと思いついて、「コーヒー飲みません?」と女に向って言った。女は首を振ったが、構わずぼくは「ここのはね、インスタントじゃないから、ちょっといけるんですよ」と紙袋を椅子の上に置いて、流しのところに行った。女の顔を見てみたいと思ったのだ。 「**さんはね」とぼくは、卒論担当の教授の名前を言った。「困難な問題にぶつかったときは、コーヒーで頭をもみほぐすのが一番というのが持論でしてね。それも、上等の考えは上等のコーヒーからってね」  ぼくは素早く、やかんに水を入れて火にかけ、フィルター式のセットをテーブルの上に置いた。女は黙ってぼくの様子を見ていた。 「こうやって、外側から注いでいくのがコツでしてね」と言いながら、湯を注ぐと、すぐにコーヒーの香りが立上ってきた。あらかじめ洗っておいたカップに、コーヒーを注ぎ、一つを「どうぞ」と言って、女の近くに置いた。ぼくは椅子に坐って、砂糖を入れた。 「クリームもよかったら」とクリームパウダーのびんも砂糖の袋と一緒に女のほうへ押出した。  女はためらっていたが、やがて思い切ったように椅子を引くと、そこに腰を降ろした。そしてタオルをはずした。 「へルメットも取ったら」とぼくは言った。  女は少し考えてから、へルメットも取った。ぼくはカップを口に当てながら、じっと彼女を見た。髪を後ろでしばっているため、顔の輪郭がはっきりしており、耳からあごへの線がいいなとぼくは思った。意志の強そうな感じが口のあたりにあった。 「いけるでしょう?」とぼくは言った。 「ええ」  女が笑った。右の頬に小さなえくぼができ、それを見てぼくも笑った。 12  三週間後、機動隊が導入されて、占拠は終った。  それからしばらくたって、安保反対集会に行く人間達の集っているそばを通ったとき、ぼくは中に見覚えのある顔を見つけた。  近寄っていって、ぼくはその女の肩を軽く叩いた。女は振返ってぼくを見、険しい顔をした。へルメットもタオルのマスクもしていなかった。 「コーヒー、おいしかったでしょう?」とぼくは言った。  女はじっとぼくを見、それから急に柔らかい顔になって、 「ああ、あのときの……」と呟くように言った。  隣の男が何か言い、女が早口で説明した。男はうさん臭そうにぼくを見た。 「機動隊につかまらなかったの?」とぼくはきいた。 「あのときは、もう誰もいなかったのよ」と言って、女は小さく笑った。 「デモ、行ったことがある?」と女がきいた。 「ないよ」 「一緒に行かない?」 「今から?」 「ええ」  ぼくはどうしようかと考えた。真由美と会う約束があったのだ。 「安保反対なんでしょう?」と女が言った。 「さあ、わからない」 「どうして?」 「考えたことないからさ」  女はあきれたというように、ぼくの顔を見た。ぼくばちょっとうんざりした。  結局、ぼくはデモに引張られ、それが流れ解散になってから、今度は彼女をバーに引張っていった。真由美との約束を無断で破った恰好になった。  そこでぼくは彼女の名前が佐伯直子であること、文学部社会学科の三回生であること、全学共闘会議の一員であることなどを知った。 13  それから二週間たって、ぼくはぼくのアパートの部屋で直子と一つの蒲団の中にもぐり込んでいた。もうすぐ六月という少し蒸し暑い晩だった。 「あなた、何者?」  ぼくが腕を伸ばして、ラジオのスイッチを入れたとき、直子がそうきいた。ぼくは、ディスクジョッキーのおしゃべりに耳を傾け、聞えなかった振りをしようとしたが、やめた。 「何者だと思う?」とぼくは答えた。 「ほら、すぐにそんなふうに言う」 「癖なんだ」 「ほら、また」 「だったら、どう言えばいいんだい? 本籍地とか家族構成を話せばいいの? もっともそんなことはみんな話しちゃったけど」 「そうじゃないのよ。そうじゃなくて……」  ラジオからはアダモの「ブルージーンと皮ジャンパー」が流れていた。なつかしい曲だった。ぼくたちは(少なくともぼくは)その曲に聞き入った。 「わたしの聞き方が悪かったわ」 「………」 「ねえ、聞き方を変えてもいい?」 「いいよ」  彼女は少し考えてから、 「あなた、これからどうするの?」  と言った。あまり変っていないとぼくは思ったが、黙っていた。 「そうだなあ」と言って、ぼくは考える時間をかせいだ。しかし頭の中は空っぽだった。「まずは就職して……」ととりあえずぼくは答えた。 「一流の企業ね」 「できたらね」 「それから?」 「それから……二十七か八で結婚して、子供は二人だな。男と女、一人ずつ。……それに、まあ、郊外に庭つきの家でも持てたら最高だね」  直子は声を立てずにおかしそうに笑い、額をぼくの左肩につけた。 「おかしいかい?」 「あなた、それ本気?」 「ああ」 「うそよ」 「どうして?」 「そんなの、予定じゃないの。夢も希望もないわ」 「いや、これは夢だよ」 「そんなの、夢じゃないわ。予定よ、予定。自分の現在の力で実現できる望みはすべて予定よ」 「でも、二十八で結婚できないかもしれない」 「………」 「たとえ結婚できたとしても、子供ができないかもしれない」 「………」 「郊外の家がマンションに変るかもしれない」  直子は天井を向いて、小さく笑った。そして、目を閉じた。 「それで、自分が嫌にならないと思う?」  しばらくして直子が言った。 「そりゃ、時には嫌になるだろうね」 「そんなときはどうするの?」  ぼくは未来の自分を想像し、嫌になった気分を感じ取ろうとしたが、できなかった。 「酒を飲んで、寝てしまえばいい」 「寂しいのね」  ぼくは何だか一方的に非難されているようで、割に合わない気持だった。 「それじゃ、きくけど、きみはこれからどうするの?」とぼくは尋ねた。 「わたし?」 「ああ」  直子は黙った。ラジオからは、リック・ネルソンの「アイル・フォロー・ユー」が流れていた。これもなつかしい曲だった。確かぼくが中学三年のときにヒットした曲だ。あの頃はどんな夢を持っていたんだろうと、ぼくは思ったが、思い出せなかった。 「ねえ、この曲、知ってる?」とぼくはきいた。 「え?」 「今、流れてるやつ」  直子はラジオに耳を傾けた。 「知らないわ」 「それじゃ、さっきのアダモは?」 「アダモの何?」 「ブルージーンと皮ジャンパー」 「聞いたことないわ」 「そう」  ディスクジョッキーのおしゃべりが始り、ぼくは腕を伸ばして、ボリュームを少し絞った。 「わたしはね」と直子が大きな声で言った。「ずっと一人で生きていくつもり。どんなことがあってもよ。だから今はね、そのための力を養っているところなの」 「具体的には?」 「ひとつは教員免許ね」 「先生になるの?」 「おかしい?」 「いや、別におかしくはないけど……」  ちょっと面くらったことは確かだった。 「ほかには?」 「そうね……子供ができないように不妊の手術をしたわ」 「ほんと?」 「ええ、ほら、ここよ」  直子は蒲団をめくって、下腹を指さした。ぼくは上半身を起して、彼女の示したところを見た。 「これ、盲腸じゃないの?」 「そう見えるところがみそなのよ」  ぼくは少し盛上がった手術痕を、指でなぞりながら唸った。突然、下腹部が波打ちだし、驚いて直子を見ると、彼女は笑いをこらえているのだった。 「冗談よ、じょうだん」  直子が笑い声で言った。 「なんだ」 「ごめんなさい。でも、見事にひっかかったわね」 「まあね」  しかしそのとき、ひょっとしたら「冗談よ」というのが冗談ではないかという気が、ほんの少しばかりした。 14  直子はぼくに、ぼくの読書歴に欠けているいろいろな本(つまり社会科学の本)を読まそうとし、ぼくはなるべく読まないでおこうとした。それでも(書名は忘れたが)社会思想史とか現代民主主義論などの本を読んで、直子と話合ったこともある。どんな話だったか、皆目覚えていないが、はっきりとわかったことは、直子は政治(というかつまり人間に訴えようとする行動)に血が騒ぐ人間であり、ぼくはそうではないということだった。人間という曖昧なものを相手に、理論を実践化しようとするよりも、コンピューターを相手にしているほうが、ぼくとしてははるかに血が騒ぐのである。  ぼくがこういうことを少しでももらすと、直子は決って情けない顔をし、「人間として生きている限り、社会的なことから目をそむけては生きていけないわ」と言うのだった。確かにその通りで、ぼくは返す言葉がなかった。 「あなたって、変ってるわ」  ある時、直子がそう言った。ぼくたちはバーのカウンターに並んで坐っていた。 「どんなところが?」 「主体性がないようでいて、本当はあるみたいだから。そのあなたの基礎になっている考え方が何なのか、わたしにはわからないけど」  ぼくはしばらく考えた末、「わからない」と言った。それは、自分に主体性があるのかないのかわからないという意味でだ。 「ぼくに主体性があると思う?」 「そりゃ、あるわ」 「例えば?」 「二度とデモに参加しようとしないでしょ」  確かに、直子に引張られて参加したデモが最初で最後だった。直子はしきりに誘ったが、ぼくはいろんな口実をこしらえて断った。特に六月に入って安保条約が延長される日の前あたりは、何かというと集会やデモがあって、ぼくは直子とほとんど会えなかった。それがすむと、直子たちの目標は本来の大学改革にもどり、学内デモが頻繁になった。 「デモのいいところは」とぼくは言った。「まず運動不足の解消になるし、女の子と腕が組めるし、何となく連帯したような気分になって、孤独感から解放されることかな」 「だったら、参加したらいいじゃない?」 「ぼくは他の方法で同じことをやってる」  直子は笑って、ウイスキーを一口飲んだ。 「あなたが変っている第二の点はね、決して本当のことを言わないってことよ」 「ぼくは本当のことしか言わないぜ」 「ほら、それが嘘よ」  ぼくは肩をそびやかして、グラスの底に残っていたウイスキーを一気に流し込んだ。 「それじゃあ仕方がない。この際本当のことを言おうか」  とぼくは言った。 「ええ、そうしなさい。そのほうが楽よ」  ぼくは直子の耳許に口を近づけていき、一呼吸間を置いてから、「アイしてる」と囁いた。直子は顔を引いて、一瞬悲しそうな目でぼくを見た。そして次に吹出した。  ぼくは自分のしたことに、嫌な気持になった。 15  夏休みが過ぎて直子に会ったとき、彼女は元気がなかった。ぼくたちはほとんどしゃべらずに酒を飲んで別れた。そういったことが三回ほど続いてから、突然、直子は姿を消した。  次に直子に会ったのは、一ヵ月ほどたった十月の終りだった。学生課に後期の授業料を納めにいったとき、建物から出てきた直子と会ったのだった。いや、会ったというのは正確ではない。ぼくは最初、彼女だとは気づかなかったのだから。  建物に入ろうとしてぼくは気づき、直子を呼びとめた。直子は振返ってぼくを見、驚いた顔をした。彼女はブルーのワンピースを着、パンプスをはいていた。髪形も変っていて、少しパーマがかかっているようだった。そんな直子を見るのは初めてだった。  ぼくは驚いて五秒ほど見つめてから、近寄っていった。直子は薄く化粧をしており、それもぼくを驚かせた。 「やあ」とぼくは言った。「どうしてたの?」  直子は少し笑ってから、「ええ」とだけ答え、歩き出した。答えにはなっていなかったが、ぼくは黙って彼女と並んで歩いた。 「体を悪くしてたの」  しばらくして直子が言った。 「それで、もう直ったの?」 「ええ、なんとか」  ぼくは直子の横顔を見た。化粧をしているにもかかわらず、ずいぶん老けこんだように見えた。 「実家に帰ってたの?」 「ええ」 「アパートへ何回か電話したんだけど、いないから、おそらくそうじゃないかなってね」 「ごめんなさい」  いや、何も別にあやまらなくてもとぼくは口ごもり、黙った。何となくちぐはぐな感じがあって話しにくかった。 「それで、試験はどうしたの? 受けられたのかい?」  とぼくは尋ねてみた。 「いいえ、受けなかったわ」 「でも、医者の診断書があれば、追試を受けられるんだろう?」 「追試も受けないわ」 「どうして?」  直子は少し黙ってから、「わたし、退学したのよ」と答えた。 「いつ?」とぼくは驚いて尋ねた。 「たった今」 「いま?」 「ええ、今、退学届を出してきたところなの」  ああ、なるほどとぼくは呟いた。ぼくはてっきり、彼女も授業料を納めにきたものとばかり思っていたのだ。 「先生になるのはやめたのかい?」 「ええ」 「一人で生きるのは?」  彼女はそれには答えず、曖昧に笑っただけだった。  ぼくたちは繁華街に出て早い夕食をすませ、それからいつものバーへ行った。退学の理由をきいたほうがいいのだろうかと思いながら、ぼくは関係のないことをしゃべり続けた。最近観た映画の話とか本の話、それに実験のことや就職のこと。ぼくは外資系のコンピューター会社に落ち、十月初めに別のコンピューター会社に就職が決っていた。 「あなたもわたしも、とにかく大学を去るわけよね」  直子は冗談めかして言った。ぼくは、それできみはこれからどうするの? ときこうとしてやめた。  その晩、ぼくたちは競いあうようにウイスキーを飲み、一本のボトルを空けてしまった。ひどく浮かれた気分になって、退学に乾杯、などとぼくははしゃぎ、直子も同じように調子を合わせた。  バーを出たのは十一時過ぎだった。送っていくよとぼくが言うと、直子は、いい気持だから少し歩くわと一人で歩き出した。足許がふらつき気味で、ぼくはあわててそばに寄って、彼女の腰に右腕を回した。微かにオーデコロンの匂いがした。  ぼくたちはほとんどしゃべらずに、ゆっくりと歩いた。直子の頭の重みを肩に感じながら。近くにかなり大きな公園があって、ぼくたちはそこへ入っていった。水銀灯の明りがぽつぽつと見えるだけで、人通りはなかった。たまに男女の二人連れがベンチに坐っていた。  中に、野球場よりも少し小さいくらいの池があって、ぼくたちはそのそばの石のベンチに腰を降ろした。直子は池を見つめ、ぼくも見つめた。水銀灯の硬質な光が三方から池を照らしており、時間が止ってしまったような錯覚を覚えた。  ほとんど風はなく、水面は鏡のようだった。ぼくは何となく息苦しくなって、そばに落ちていた小石を拾うと、立上がって思い切り放り投げた。小石は闇の中に消え、少したって池の中に落ちた。波紋が広がったが、それは岸まで届かなかった。  ぼくは再び腰を降ろし、鏡に戻った水面を見つめた。 「何もかもおしまいだわ」  直子がぽつりと言った。ぼくは驚いて直子を見た。 「何もかも?」とぼくはきいてみた。  直子はそれには答えず、自分の膝のあたりを見つめるだけだった。 「ねえ、ひとつだけ質問していい?」  しばらくして直子が言った。 「うん、いいよ」  直子は少しためらってから、 「あなたの考え方ってなに? 教えてちょうだい。できればわたしもその考え方を自分のものにしたいわ」 「考え方って、何に対する?」 「もちろん、生きるってこと」  ぼくは急に動悸を感じた。酒のせいばかりではなく、何か追いつめられているような気持だった。ぼくは頭の中で考え方、考え方と呟きながら、それらしいものが詰まっている場所を探してみたが、なかった。ないことははじめからわかっていた。  ぼくが黙っていると、直子は不意に明るい声で、「さあ行きましょうか」と言って立上がった。ぼくも立上がり、少し歩きかけたが、直子は急に口を押えると、体の向きを変え、石のベンチに右腕を置いてかがみ込んだ。そして吐いた。ぼくは呆然としてそれを眺め、次の瞬間気がついて直子の背中をさすろうとした。しかし彼女の背中に掌が触れたとき、「触らないでちょうだい」という直子の強い声がした。ぼくは驚いて手を引っ込めた。直子はじっとして動かなかった。  どのくらいぼくは突立ったまま、直子の背中を見つめていたのだろう。やがて直子はバッグからハンカチを取出して口のまわりを拭き、再びバッグにしまうと、ゆっくりと立上がった。 「ごめんなさい」と直子が言った。 「ちょっと飲み過ぎたね」 「ええ」  ぼくはタクシーで、直子を彼女のアパートまで送っていき、「一緒にいて」という彼女の言葉で、彼女の部屋にとまった。ぼくたちは黙ったまま抱合い、そして眠った。  翌朝、部屋を出るとき、直子は、「ありがとう」と言った。ぼくは何か適当な言葉を返そうと思ったが、思い浮ばなかった。仕方なく、ぼくは笑ってうなずいた。 16  それから一週間たって、ぼくは直子のアパートへ電話してみた。何となく気になったからで、彼女が出てきたら、引越しをするなら手伝うよとかなんとか言おうと思っていた。  管理人が出てきた。ぼくが直子を呼出してくれるよう頼むと、相手は一瞬黙り込んだ。 「おたくはどちらさんですか」  問い詰めるような口調だったので、ぼくは驚いた。 「彼女の友達ですけど……」  相手はまた黙り込んだ。 「あのね」と少したって相手が言った。「佐伯さんは、三日前になくなりましたよ。ガス自殺でね。おかげでこっちはてんてこまいだよ。警察に事情はきかれるし、部屋は当分貸せそうもないし、全くはた迷惑もいいところだ」  ぼくは受話器を耳から離して、管理人の大声を避けた。 「あんた、ほんとに佐伯さんの友達か」と相手が言った。  ぼくはそれには答えず、「佐伯さんはほんとうに死んだんですか」と尋ねた。 「おれが嘘をついているとでも言うのか」  ぼくは黙って受話器を置いた。  その夜、ぼくは一人でいつものバーに行き、とまり木に坐ってウイスキーを飲んだ。バーテンが一週間前のことを覚えていて、直子のことをきいた。 「自殺したよ」とぼくが答えると、彼は戸惑ったように黙り込んでしまった。きっとぼくの言い方が悪かったんだと思ったが、ほかにどう言っていいのかわからなかった。  バーを出て、ぼくは公園に行ってみた。風があって、池にはさざ波が立っていた。ぼくは石のベンチに坐って、さざ波が現れては消える様子を眺めた。水銀灯の光はこの前よりも柔らかい感じだった。  ぼくは父の死んだときの唯一の記憶――白いシーツと母の泣いている姿を思い出していた。そして、小学校六年のとき、犬のマルが死んだことを思い出していた。  一時間かあるいはそれ以上たって、ぼくは石のベンチから立上がった。少し歩いてから、ぼくは戻って、ベンチの根元にかがみ込んだ。ポケットからマッチを取出して、一本すってみたが、風ですぐに消えてしまった。四本たばねて火をつけ、掌で消えないように囲いをして、根元を照らした。雑草の緑色はよみがえったが、直子の吐いた跡はどこにも見当らなかった。燃えつきたマッチ棒を捨て、ぼくは手でさわってみた。しかし砂のざらついた感触があるだけだった。  ぼくは地面に膝をつき、石のベンチに両腕を置いて、頭をのせた。耳のあたりで、風が鳴っていた。ぼくは長い間その風の音を聞き続けた。 17 「貝の沈黙」の中に次のような一節がある。主人公がロサンゼルス近くの海岸で、ガラスびんを売りつけられる下りである。 「おまえは中国人(チャイニーズ)か」と太っちょが言った。 「いや、日本人(ジャパニーズ)だ」とおれは答えたが、すぐに、しまったと思った。素直に「そうだ」と答えておけばいいものを。  案の定、太っちょは「ほっほっ」と出っ張った腹を揺らして笑った。金色のひげ面が正午の光を受けて、縞模様をつくる。 「日本にはなあ」と太っちょがおれの右腕を取った。「大勢友達がいるんだ」 「ほう、そいつはよかった」と答えながら、おれは腕を引抜こうとしたが、丸太のような太っちょの腕が、ナッツクラッカーズよろしくおれの腕を締めつけている。 「おまえ、日本のどこから来たんだ」  太っちょはおれの頬にひげをこすりつけんばかりにして言う。 「下関だ」とおれは嘘をついた。 「シモノセキ?」太っちょは変な発音をした。 「そうだ」 「東京や京都には友達がいるんだが、シモノセキにはいないなあ」  太っちょはおれをどこかにつれていこうとしているらしかった。砂地は歩きにくくて、強く足を踏みだすと、バスケットシューズの中に砂が入った。 「日本人は金持だ」と太っちょが言った。おれは黙っていた。 「こんな遠いところまで観光にやってくる。……ところでおまえは観光客か」 「いや、留学生だ」とおれはまた嘘をついた。 「うん、そうだろう、そうだろう。おまえは頭のよさそうな顔をしているからな」  太っちょは真面目な顔でおれを見た。 「しかし金をもうけるばかりが能じゃない。人生にはロマンも必要だ。そう思わないか」 「さあ」 「そこでだ。おれはおまえにロマンを与えたいと思う」  太っちょとおれは、小さなベニヤ板一枚に足のついた屋台の前で立止った。ベニヤ板の上には直径五センチ、高さ十センチばかりのガラスびんが二十個ほど並んでいる。小さくカールした髪を長く伸ばした女が屋台の向う側に立っていて、おれに笑いかけた。と思ったが、実は太っちょに笑いかけたのだった。 「お客さんだ」と太っちょが女に言った。女は今度は本当におれに笑いかけた。やせぎすで、太っちょとの取合せがおかしかった。 「これは何だ」とおれは尋ねた。 「おお、よく聞いてくれた。これこそロマンを詰込む魔法のびんだ」 「何に使う?」 「子供の頃、やったことないか。びんに手紙を入れて、海に流すってことをさ」 「ああ、なるほど」  おれは正直言ってがっかりした。ロマンを詰込む魔法のびんがあっけなく砕け散った感じだった。  太っちょは、二年か三年で日本に着くから、その頃帰れば自分で拾える可能性もあるとか、素敵な美人に拾われてそれがきっかけで結婚に至るかもしれないとか(これは実際にあった話だと太っちょは言ったが)、次から次へと、いわゆるロマンをかき立てようとした。しかしおれにはちっとも効果がなかった。  太っちょのおしゃべりをやめさせようと思って、「いくらだ」ときいたのが悪かった。 「たった十ドルだ」 「高い」 「おれのガラスびんは他で売っているのとはわけが違うんだ。ハンマーで叩いても割れないし、栓だって、ガラス製だ。他のものを見てみろ。みんなゴムかスチールだ。あんなものは一年もしないうちに腐って穴があき、びんはボコボコって海の底さ」 「高い」  太っちょは苦笑いし、少し考えてから、「じゃあ、七ドルでいい」と言った。 「高い」 「日本人は金持だ。七ドルくらい何だ」 「おれは貧乏だ」 「じゃあ、五ドルだ」 「高い」  太っちょは急に、腕に力を入れた。おれの右腕は筋肉に押しつぶされた。 「あんまりおれを甘く見るなよ。ジャップの一人や二人いなくなったって、誰も騒ぎゃしないんだぜ」 「わかったよ」とおれは言った。「買うから腕を放してくれ」  おれは五ドルを払って、女から紙とボールペンを受取った。しばらく考えてから、おれはベニヤ板を下敷にして、手紙というより、ただの戯れ文を書いた。太っちょは日本語が珍しいのか、おれの書く字を見ており、書き終えると何て書いたときいてきた。 「お父さま、アメリカの生活はきびしくて、お金が足りません。どうか至急、お金を送って下さい」  おれは手紙を読む振りをして、でたらめを言った。太っちょは腹を抱えて笑い、おまえはジャップにしてはユーモアがあると言って、おれの肩を叩いた。  手紙はびんに詰められ、女が接着剤を使ってガラスの栓をくっつけた。おれは太っちょに教えられたとおり、ガラスびんを持って、海に突出た岩場までいき、そこから力いっぱい沖に向って放り投げた。ガラスびんは太陽の光を受けて、きらきらと光り、いつまでたっても同じところに浮んでいるように見えた。  おれの書いた戯れ文は次のとおり。  あるところにひとりのおとこのこがおりました。かれはたいへんすなおなよいこでしたが、ななつのときにははがしに、ほうろうのたびにでました。たびさきでかれはいっしょうけんめいにべんきょうしました。ひとのためになにかよいことをしたいとベんきょうしました。しかしかれのしたことはすべてじぶんのためでした。かれはひとをふみだいにしてかねもちになっていきました。かねもちになるにつれ、かれのまわりからともだちがさっていきました。かれはますますおおがねもちになり、そしてひとりぼっちでしにました。かれのおはかには「ここにゆめをいだいてねむる」ときざんであります。しかしそのゆめがなんであったのか、だれにもわかりません。  この一節を読んだのは、直子が死んで七年後のことだった。ぼくは不意に直子のことを思い出し、彼女の夢が何であったか考えてみた。しかしわからなかった。あるいは一緒に暮したとしても、わからなかったかもしれない。 18  葉子の病室は二人部屋だったが、一つのベッドは空だった。ぼくと真由美と坂井は付添っていた葉子の母親に挨拶をし、果物の缶詰セットの包みを差出した。母親は礼を言ってそれを受取ると、葉子に見せ、棚の上に置いた。そして隣の空ベットのほうに控えた。 「こんにちわ」と葉子が明るい声で言った。葉子の顔は土気色で、頬骨が目立つほどやせていた。真由美から、もう手遅れだということを聞いていた。 「気分はどう?」 「きょうはだいぶいいのよ。でもときどき手がとってもかゆくって」  葉子はひらべったくなったパジャマの左袖を右手でつまみ上げた。真由美が小さく笑った。ぼくと坂井がぼんやりしていると、真由美が、手がかゆいといっても、ないほうの手なのよと教えてくれた。 「ああ、なるほど」しかしぼくと坂井はあまり納得した顔つきをしなかった。 「坂井さんもお忙しいのに、どうもありがとう」 「いや、ぼくなんて、忙しいといえば忙しいし、忙しくないといえば忙しくないしでね。自分でもどっちなのかわからないんだよ」  葉子は笑ってうなずいた。 「きょうは女の子は一緒じゃないの?」 「外にいるよ」 「そう。しあわせね」  坂井は苦笑いをした。 「実は、ぼくも忙しいんだけど」とぼくは言ってみた。 「ごめんなさい、気がつかなくて。お忙しいのにどうもありがとう」  真由美が笑い、ぼくも坂井も笑った。 「奥さん、お元気?」 「ああ、元気だよ。ぴんぴんしてる」 「赤ちゃんはまだ?」 「それがまだなんだ。ぼくもかみさんも頑張っているんだけど、どういう加減かできなくてね」 「神様に祈らなきゃだめよ」  真由美が、この言葉で思い出したかのように、葉子が洗礼を受けたことを話した。神父がベッドのそばまできて、バプテスマをおこなったのだった。 「真由美さんも一緒に受けたらって誘ったんだけど、断られたの」 「断るって言っても、ただふんぎりがつかないのよ。曖昧な気持のまま洗礼を受けても、神様が迷惑すると思うのよね」  ぼくと坂井は真由美からバプテスマの様子をくわしく聞き、葉子の洗礼名も聞いた。葉子が衿元から銀色の鎖をたぐり寄せて、十字架を見せてくれた。そして枕許にあった聖書も。  聖書は皮表紙のもので、ところどころ擦りきれ、手垢で汚れていた。それを手に取ったとき、ぼくは、ひょっとしたらこの聖書はぼくと葉子とを結びつけたのと同じものかもしれないと思った。そのことを葉子に尋ねようとして、ぼくはできなかった。急に胸のあたりがおかしくなったからだ。  ぼくたちは三十分ばかりして、ベッドを離れた。病室を出るとき、葉子がぼくの名前を呼び、ぼく一人だけがベッドに戻った。母親は真由美たちと一緒に外に出ていた。  葉子が小さく手招きをし、ぼくは彼女の枕許までいって箱形の腰掛に坐った。 「真由美さんのことだけど」と葉子が言った。 「彼女がどうかしたの?」 「今まで以上に力になってあげてほしいの」 「うん、わかってる」 「できればいい人を見つけて結婚すればいいんだけど」  葉子の二度目の結婚も失敗だった。半年暮しただけで別れている。二年前のことだ。 「わたしはもうだめだから、あなたにお願いしておこうと思って」  ぼくは一瞬黙り込んだ。 「そんなこと言わずに、またみんなで一緒に騒ごうよ」 「ありがとう。でもわたしはもうすぐ死ぬからだめよ。お医者さまは何もおっしゃらないけど、わたしにはわかってるの。だからあわてて洗礼なんか受けたのよ。神様もきっと苦笑いされていると思うわ」  ぼくは何と言ってよいのかわからず、黙っていた。 「ねえ、どうして生きてるの?」と葉子が突然きいた。  ぼくは驚き、何か答えようとしたが、できなかった。葉子は目をつむった。 「眠っていたらね、ときどき蹄の音が聞えてくるのよ」 「蹄の音?」 「そうよ、覚えてない? ほら、いつかわたしが朝早くあなたを起したことがあったでしょ。早朝の街を歩きましょうって言って。そのとき靴の音が蹄の音みたいに聞えて」  少し考えてから、ぼくは思い出した。  あれはたしか知合って一ヵ月くらいたったころだったと思う。葉子の突然変ったことを言出す癖に慣れてしまったぼくは、素直に彼女の言うことに従ったのだった。ぼくたちの泊ったところは安ホテルで、ビル街の裏手にあった。午前四時で、空はまだ薄暗かった。ぼくと葉子は人気のないビル街を歩き、突然、葉子が「蹄の音みたいね」と言ったのだ。 「なに?」とぼくはきき返した。 「ほら、こうすれば蹄の音みたいでしょ」  そう言って、葉子は踵の低い靴を踏みならした。靴の音はビルに反射して、こだました。 「ね」と葉子が笑いかけた。 「そうかなあ」 「そうよ。一緒にやってみて」  ぼくは二、三度足を踏んでみた。そして耳を澄ますと、確かに葉子の言うとおり蹄の音のように聞えてきた。 「ほんとに蹄の音みたいだな」 「そうでしょう」  それからぼくたちは肩を組んで、ビートルズの「ゲットバック」を口ずさみながら、靴をならしたのだった。 「思い出した」とぼくは言った。 「あのときね、今考えても不思議なんだけど、すごく楽しかったのよね。生きてるなあって感じがしたの。ただもう生きてるってことがうれしくて仕方がなかったわ。だから蹄の音が聞えるとね、そのときの気持がよみがえってくるの。胸のあたりが、こう、熱くなってくるのね。それに、いままでのいろんなこと――あなたのアパートに押しかけたときのことや、真由美さんが赤ちゃんを生んだときのこと。あのときあなたが来てくれて、わたし本当にうれしかったわ。それに坂井さんとのことや父や母のこと、そして二度の結婚。そういったことが、それこそいっぱいよみがえってくるのよ。どんな嫌なことも、今思い出せば、やさしくわたしを包んでくれるわ。そうしたら、死ぬことなんかちっとも恐くないって気持になるの」  葉子はそこで大きく深呼吸をした。そして右手でぼくの手をつかんだ。 「だから心配しないで」  ぼくはうなずいた。ぼくたちはしばらく見つめあってから手を離した。  ベッドから離れるとき、さようならと葉子が言った。ぼくは一瞬迷ってから、さようならと応えた。 19  ぼくたちは通夜の席を抜け出て、駅前まで歩いた。そして誰が言うともなく、小さなスナックに入った。カウンターの中に、三十半ばの素人っぽいママがいるだけの店だった。  ぼくたちはとまり木に坐り、ウイスキーの水割を注文した。坂井のつれてきた女の子には、彼がジンフィーズを頼んだ。  しばらくの間、ぼくたちは黙って飲んでいた。お客はぼくたちだけで、妙に静かな夜だった。ママはカウンターの隅に控えていて、グラスが空になると、黙って水割を作った。バルバラの透き通る歌声が流れていて、ぼくはそのシャンソンに聞き入った。 「考えてみれば、不思議な人だったね」と坂井が言った。 「不思議な人、か」とぼくはひとり言のように答えた。 「アメリカへ行く直前だったか、あるいはもっと前だったか、とにかくあの頃、彼女が訪ねてきてくれたことがあってね。近くのバーで飲んだんだ。彼女、どうも本気でおれのことを心配してくれてね、一所懸命、励ましてくれるんだ。おれも何だかじんときてね、やけ酒というんじゃないが、何て言うんだろう、無性に酔いたくなって、次から次へと飲んだんだ。彼女に泣言を言ったみたいなんだけど、そんなことはまあどうでもいい。次におれが気がついたのはもちろんおれの部屋だった。朝の五時ごろだったと思うよ、空が薄明るかったからね。そのとき彼女何してたと思う?」 「彼女もいたのか」 「ああ」  ぼくは少し考えてから、さあと首をひねった。 「彼女ね、畳に膝をついて、ベッドのところにこうして」  と坂井はカウンターに握り合わせた両手を置き、その上に額をつけた。そして再び顔を上げると、 「祈っているんだよね。おれ、その姿を見たとき、何て言うんだろう、心がこう、透明になったみたいで、すべてのことから解放されたみたいに感じたよ。あんな気持になったのは初めてだった。ほんとうに不思議な人だったね」  ぼくたちは再び黙り込んだ。坂井が隣の女の子に小声で何か言い、ブレザーのポケットからハンカチを取出した。見ると、女の子が泣いているのだった。顔を上げて、涙が流れるのに任せている。 「感受性の強い子でね」と坂井が笑いながら言った。  しばらくして坂井は、あした朝早い仕事があるからと、女の子をつれて帰っていった。ぼくと真由美はまだ坐っていた。真由美はほとんどしゃべらず、ゆっくりとグラスをあけた。  どのくらいそうしていただろう、不意に、真由美が「葉子はほんとに死んだのね」と呟くように言った。ぼくは黙っていた。真由美は水割を一口飲むと、カウンターの一点を見つめた。 「わたしも死にたい」  口の中から押出すような言い方だった。子供はどうするんだと言おうとして、やめた。ぼくは真由美の肩に腕を回し、上半身をぼくのほうに引きつけた。頭がぼくの胸のあたりにきて、ぼくは両手でその柔らかい髪を持った頭を抱くようにした。  真由美は泣いていた。ママが驚いて、ティシュペーパーを二、三枚持ってきてくれたが、ぼくは首を振った。このままそっとしておいてほしいとぼくはママに目で頼んだ。 20  その後のことを記しておく。  もちろん真由美は自殺などしないで、毎日、広告の文案をひねり出すのに苦労している。坂井も相変らずで、ときどきテレビで見るが、好きなことを言っている。  ぼくたちは一年一回、葉子の命日に集ることにした。つい先日、その第一回目があったばかりである。坂井は例によって女の子をつれてきたが、前とは違った子である。髪が長くて、透き通るような肌をしている。真由美は羨しがって、その子の手を取ったり、頬に触れたりしたが、その子は静かに笑うだけで何も言わない。大体、坂井のつれてくる女の子はものを言わない子が多いが、そのほうがぼくたちのささやかな集まりには都合がいい。  ぼくたちは主に葉子に関する思い出話をしたのだが、不思議なことに、全く色あせないのだ。いやむしろ、より鮮明になるといったほうがいい。真由美が「今、葉子が入ってきてもちっとも不思議じゃないわ」と言ったが、ぼくも全く同感だった。  何年かたって集ったとき、思い出はどうなっているのだろう。ぼくたちは確実に歳をとっているのに、葉子だけが昔のままというのは、何とも奇妙なことに違いない。  余計なことだが、ぼくもいよいよ父親になる。来年の三月に生れる予定だ。そのことを話したら、真由美が「わたしが名付け親になってあげましょうか」と冗談めかして言ったが、もちろんぼくは丁重にお断りした。あるいは葉子なら、かみさんは承知するかもしれないが。  かみさんは男だと言い、ぼくは女だと言う。本当を言えば、どっちだっていいのだが、まあ、逆らってみるのも一つの愉しみだろう。かみさんは男女生み分けの記事を示して、理論的に男を主張する。しかし今さら言ってみたところで始らない。男か女かは受精の瞬間に決っているのだから、あとは神のみぞ知るだ。  直子のことは、ここに書かれたことがすべてだ。思い出そうと努力すれば、もっと細かい事柄も出てくるかもしれないが、そんなことは書いたって仕方がない。  ぼくはもう誰にも二度と彼女のことを語るつもりはないが、もしかみさんがこの手記を読んだら、「いろいろあったんだ」とだけ言ってすまそうと思う。  ほんのときたま、猛烈な「ふさぎの虫」に取りつかれることがあって、そんなときぼくはあの公園まで行って、石のベンチに腰を降ろすことにしている。そこで池を見つめながら、直子や葉子やその他の人間達のことを考えると、「生と死にはほんの小さな違いしかない」という誰かの文句が浮んできて、ぼくは安心する。ぼくの頭の中を、溶け去った人間の水素や炭素や酸素の原子が宇宙に飛散っていく光景が流れるのだ。あるいはそれは、ぼくの「蹄の音」なのかもしれない。