鳥                津木林 洋  退屈な日  二人はその日、退屈していた。だから相棒が日曜遊歩道にでも行こうかと言ったとき、彼は即座に賛成したのだった。  しかし、遊歩道を歩いても、やはり退屈だった。出店もパンフレットも聖書も演説も男も女も親も子もすべて退屈だった。 「ちょっと面白いことを思いついたんだけど」  と相棒が言った。どういうことかきいてみると、人をだまして楽しもうというのだ。手頃なビルの屋上を指さして、騒ぎ、あたかも何かを発見したかのように見せかけて、人を集めるのである。  相棒は円盤を架空の発見物にしようと言ったが、彼はそれでは真実味に欠けるとして、ただの鳥を主張した。二人はしばらく、そのことで言い争ったが、結局、相棒が折れて、鳥に決まった。二人はもう退屈してはいなかった。  首を上げる角度のちょうどよいビルがあって、そこで二人は屋上を指さして、叫び始めた。「鳥だ……」  始めのうちは、そばを通る人々は物珍しそうに二人を見るだけで、誰も立止まらなかったが、二人がしんぼう強く続けていると、やがて、一人の中年の男が立止まって、二人と一緒に屋上を見上げ始めた。 「何か見えますか」と、しばらくして男がきいてきた。 「鳥ですよ、鳥」と相棒が答えた。 「鳥、ですか」 「そうですよ。ほら、あそこの金網のそばに、わしみたいな鳥がいるでしょう」  男は眼鏡を持上げて、目を細めた。そして、「鳥がねえ……」とつぶやいた。  一人が立止まると、二人目はすぐで、それから次々と人が集まりだした。始めのうちは彼と相棒が、「ほら、あそこに……」と説明していたが、人が多くなってくると、めいめいが勝手に、そばにいる人に、「何かあるんですか」と聞き始めた。聞かれた人は、訳がわかっていると、「あのへんに鳥がいるらしいんですよ」と答え、わからないと「いえね、わたしもそれが知りたくて、こうしているんです」と答える。特に、最初に立止まった中年の男が、二人より熱心に、周りの人々に説明していた。  彼は背伸びをして、周りを見た。四十人ほどの人間が顔を上げて、上を見ていた。彼は急に恐ろしくなって、相棒に、「もうそろそろ逃げようぜ」と小さな声で言った。相棒は気づかず、「あそこに見えるでしょう、鳥が」と屋上を指さしている。彼は相棒の腕を引張り、相棒が振返ると、「周りを見ろよ」 と言った。背伸びをした相棒は、「ずいぶん集まったな」とうれしそうに言った。 「もう逃げようぜ」 と彼が言うと、相棒は意外そうな声で、「どうしてだ」と聞き返してきた。  そのうち、後ろのほうで、「どうしたんだ」 という叫び声が上がり、それが引き金になって、「何だ、何だ」「おれにも見せろ」という声や、「何も見えないじゃないか」「本当に見えるのか」といういらだった声が聞こえ始めた。ようやく相棒も逃げることに同意して、二人は人々の間をぬって、群れから出た。しかし、その時、群れの中から、「見えた」という大きな声が聞こえてきた。二人は驚いて、立止まった。 「あ、ほんとだ。いる、いる」 「鳥だ」  彼もその叫び声につられるように、顔を上げた。屋上の……金網の……そば……。何もいなかった。鳥の影も見えなかった。彼は相棒に、「見えたか」ときいた。相棒は呆然とした顔で首を横に振った。「見えた、見えた」という声の輪は、徐々に広がっているようだった。  彼は魂の抜けたような相棒の腕を引張って、急いでその場を離れた。鳥を見ている連中は興奮して、口々に何やら叫んでいた。なるべくはやく、ここから離れなければ、と彼はあせった。  だが、「わあ、飛んだ」という声と共に、騒ぎが最高潮に達したとき、相棒が急に、彼の手を振りほどき、「おれにも見えるんだ」と叫んだ。何を馬鹿な、ともう一度腕を取ろうとすると、相棒はそれよりもはやく、人々の方へ駆け出していた。「鳥が見えるぞお、鳥が見えるぞお」と相棒は叫んでいた。  逃亡者  彼は三十歳にもならないのに、もう逃亡者だった。あまり長い間、逃げ回っていたので、どういう理由で逃亡者になったのか、わからなくなっていた。しかし逃げなければならないことだけは、確かだった。それはもう本性になっているみたいだった。  彼は今、初めての街を歩いていた。一日中歩き回ってどこかの片隅にでも安住の場所がないかと探してみたが、やはり駄目だった。もうここにとどまることもできない。この街も通り過ぎるだけの街になってしまう。もう二度と来ないだろう。そう思うと、周りの風景は急に静止して、彼は自分だけが空しく足をから回りさせているような、もどかしい気持になるのだった。これは今までにも度々経験することだった。一方ではそういう自分を遠くから眺めている自分というものがあり、実際に足を忙がしくから回りさせている自分の姿が見えるのだった。  鳥を逃がしてやったことで、この街を決して忘れないだろうと彼は思った。昼間、街の一番にぎやかな通りを歩いていて、鳥の鳴声に足を止めたのだった。  その声は弱々しくて、ふつうだったら聞きのがすところだったかも知れないが、そのときは、なぜか自分に向って救いを求めているように聞こえたのだった。彼は小鳥屋の店に入っていき、その鳴声の鳥を探した。店の片隅の目立たないところに、その鳥はいた。三十センチ四方の小さな鳥かごに入っていた。灰色がかった白い羽毛に、ところどころピンクのにじんだ斑点があった。 「その鳥がお気に召したようですね」と、そばにやってきた店の主人が言った。 「これは何という鳥ですか」 「………」  主人は早口で外国名の難しい名前を言った。 「この鳥はいくらですか」  彼がそう言うと、主人は、ほうという顔で彼を見て、 「お客さん、今までに鳥をお飼いになったことは……」 「いいえ、ありません」 「それなら、この鳥はおやめになったほうがよろしいですよ。こいつは初めての人には、難し過ぎますからね。どうです、文鳥やインコなんかでは」  彼は買ったらすぐに逃がしてやるつもりだったので、難し過ぎる云々はどうでもよかった。 「この鳥が欲しいんです。いくらですか」 「それは商売ですから、是非にとおっしゃれば、お売りしないこともないですが。くどいようですが、文鳥か何かになさったほうが、よろしいんじゃないですか。慣れたら結構かわいいもんですよ、文鳥も」 「いいえ、いいんです。この鳥を下さい。いくらですか」  主人は少しためらっていたが、彼の意志がかたそうなのを見てとると、小さな声で値段を言った。それは彼にとって、少なからず大きな金額だった。しかし彼は後へは引けない気持で、お金を払い、鳥の入ったかごを受取った。「サービスです」と主人はえさをつけてくれた。必要ないと思ったが、断わることもないので、彼は素直にそれをもらった。  店を出るとき、主人が「水は毎日かえてやって下さい。菜っ葉もね。それから、かごの中はいつもきれいにしておいて下さい」と言ったが、彼は聞き流しただけだった。  小さな公園を見つけると、彼はそこで、かごの入口を開けてやった。鳥は始めのうちは、入口が開いているのにも気づかないみたいに止り木に止って、身づくろいなどをしていたが、やがて気づくと、入口のところに止った。しかし、いくら待っても、外に出てこようとはしなかった。彼はいいかげん待つのに疲れて、入口近くの地面に、えさをまくと、少し離れて様子を見た。  しばらくして、鳥は地面に降り立った。彼がかごに駆け寄ると、鳥は驚いて飛び立ち、そばの木の枝に止った。彼は満足して、かごの入口を閉め、そして、えさを全部まいて、その場を離れた。公園の出口で振返ると、鳥がかごの上に止っているのが見えた。  駅のベンチに坐って、夜行列車を待ちながら、彼は、かごの上に止っていた鳥の姿を思い出していた。今頃、あの鳥はどうしているだろう。だが、列車が入ってきたとき、彼は不意に、気がついたのだった。鳥はすでに死んでいるのに違いない。店の主人が難し過ぎると言ったのは、十分保護しなければ死んでしまうという意味だったのだ。彼は一瞬、列車に乗るのを止めて、鳥を探しに行こうかと思った。しかし列車の扉が開くと、引き込まれるように中に入ってしまった。列車が動き出し、離れていく街の明かりを見ながら、こうしておれも逃亡者になっていくのだなと彼は思った。  港の会話  二人は港に突き出た防波堤の突端に、並んで坐っていた。白い客船が、彼らの前をゆっくりと通り過ぎていく。舞い上がっていたカモメが、そのあとに、またゆっくりと降りてきた。  ねえ、今の船、外国の船よね、子供が手を振っていたわ。らしいな。どこへ行くのかしら。さあ。あたしも行きたいな。どこへ? だから、あの船に乗って。船旅は金がかかるんだぜ、すごく。十万円じゃ無理かしら? え? 無理よね、やっぱり。  恐くなったのか。ううん。だったら、どうしてそんなこと言うんだ。ただ言ってみただけ。  なぜ、あたしたち、こんなところにいるの。こんな冷たい風の吹くところに、よりにもよって。だって海を見に行こうと言ったのは、そっちだぜ。  ねえ、このままほっておけば、どうなるの? どうなるもなにも、生まれるんだよ。そうよね。何もしなければ、あと七ヶ月くらいで生まれるのね。一体、何を言いたいんだ。え? だから何を言いたいんだ。ううん、別に意味はないのよ。ただ、おもしろいなあって思ったの。何が。だから、何もしなければ生まれるってことよ。そんなこと当り前じゃないか。その当り前のことがおもしろいのよ。だって他のことなら何もしなければ、何ともならないのに、このことに限って、何もしなければ大変なことになるんだもの。なんだ、そんなことか。おもしろくないかしら。ちっとも。  考えてみたら変よね。何が。ここでこうしていることよ。別に変じゃないぜ。変よ、何だか変だわ。変じゃない。そうかしら。そうさ。でも……やっぱり変だわ。おれたちが変なら、世界中の人間はみんな変さ。  あれ、なあに? どれ? ほら、あれよ、ちょっと白くて浮袋みたいなの。  ああ、カモメだな。死んでるのね。そうさ、重油にまみれて、おぼれ死んだんだろう。子供よね、きっと。親鳥さ。  女は突然立上がると、両腕を羽のようにはばたかせた。赤いコートが風を受けてふくらみ、本当に空を飛んでいるように、男には見えた。  何してたんだ。ちょっと寒かったから運動したの。鳥の真似だろう? そう見えた? そりゃ見えるさ。  で、どうして、鳥の真似なんかしたんだ。何となくよ。そうか。寒かったから、何となく手をばたばたさせたのか。  どうなるのかしら、あたしたち。どうもならないさ。このままずっと? そう、このままずっと。今まで通り? そう、今まで通り。信じられないわ。え? そんなこと、信じられないって言ったの。どうして? どうしても。そんなことないさ。あたしにはわかるのよ。何が。きょうのあたしと、あしたのあたしが違うってこと。  ねえ、あたしたち、一体、何してんのかしら。どういう意味だ。だから、こんなコンクリートの上に坐って、何してんの。何もしてないさ。だったら、どうしてこんなところにいるの。海を見るためさ。なぜ、海を見るの。そんなこと知るか。海を見たいと言い出したのはそっちなんだから。そうよね、あたしよね。でも、どうして海を見たくなったのかしら。海を見てもどうってことないのに。何だかわけがわからなくなってきたわ。何しにこんなところへ来たのかしら。自分が自分じゃないみたい。何だかおかしいわ。あたし、何をしようとしているのかしら。何のためにここにいるのかしら。ねえ、あたしは何をすればいいの、どこへ行けばいいの。何を見、何をさわり、何を抱き、何を捨て、そして、どこからどこへ行けばいいの。一体、あたしはどうすればいいの、どうすれば本当なの。  さあ、行こう、と男は立上がった。  バードシット  きみは「バードシット」というアメリカ映画を見たことがあるかな。六、七年前のやつで、しかも三流映画だったから、おそらく見てないと思うけど、ぼくはこの映画を、デビッドという変なやっと一緒に、ロサンゼルスのダウンタウンで見たのだった。ぼくはその頃、親のすねをかじりまくって、私費留学生としてアメリカにいたのだ(といっても、日本にいたときと同じように、ぶらぶらと遊んでいたんだけど)。  デビッドというのは、その頃、よくつるんで遊んでいたやつで、大学を出たり、入ったりしていて、ぼくよりも五歳くらい年上だった。一回結婚して、離婚していた。  そいつが、「バードシット」を見に行こうとしきりに誘うので、ついていったが、彼が言うほどには面白くなかった。どんな映画かちょっとだけ筋を紹介すると、ある少年に鳥の女神だか何だかが目をつけて、彼に鳥のように空を飛ばせようといろいろと訓練させるのである。その訓練を、麻薬やらセックスで妨害しようとする人間達がいて、女神がそいつらを次々と殺していく。最後にはその殺人の容疑が少年にかかって、彼は追い詰められアストロドーム(ほら、あの屋根つきの野球場だ)に逃げ込む。そして訓練の成果によって、複雑な羽根の恰好をした器械をあやつり、飛び回るが、しまいには力尽きて、墜落死する。ざっとまあ、そんな話だが、最後の、アストロドームで少年が必死に飛ぶ場面は結構面白かった。しかし、デビッドは結構どころか、すっかり興奮してしまって、その場面にくると、急に立上がって、手を叩き始めたものだから、ぼくは全く驚いてしまった。しかも「飛べ、飛べ」とか「屋根を突き破るんだ」とか、でかい声でスクリーンに向って吠えるものだから、他のお客も呆気にとられて、映画を見ずにデビッドを見る始末だった。ぼくは隣で、こいつとは関係ありませんよ、という顔で、スクリーンに視線を固定していたが、本当に冷汗ものだった。  終ってから、デビッドに、ちょっと皮肉を込めて、「鳥に嫉妬したな」と言ってやった。彼が、どういう意味だときき返してきたので、ぼくは、「シット」というのはそのままの音で、日本語の嫉妬に当たるから、「バードシット」つまり「鳥に嫉妬だ」と教えてやった。彼はそれを聞くと、えらく喜んで(ということは、ぼくの皮肉は通じなくて)、それからしばらくの間、周りにいる人間に、「おれはバードシットだ」と言いふらして、煙に巻くといった有り様だった。  デビッドがマリファナパーティで、鳥の真似を始めたのは、おそらくその頃からだったと思う。あるいはもっと前からだったのに、映画館での印象が強烈だったから、ぼくが勝手に結びつけてしまっているのかも知れない。とにかく、彼はLSDを飲むと素裸になって、腕を羽のようにはばたかせて、部屋の中を飛び回る、いや走り回るのだ。ときには、ソファーやテーブルの上から、飛び上がり、できるだけ床に着く時間をおそくしようというのか、足を胸につくくらいまで曲げ、腕を思い切りばたばたとさせる。しかし、(当り前の話だけど)デビッドの体は一秒と空中にはとどまっておらず、すぐに地上に落ちてくるのだ。そんなとき、ぼくらは笑いながら、「どうした、バードシット」と声を掛けるのだった。  ところが、ある晩のパーティで、デビッドは本当に空を飛んだのだった。つまり、窓から鳥の真似をして、飛び降りたというわけだ。  ぼくはそのとき、女の子に膝枕という日本語を実地で教えているところだったが、彼が「飛べ、飛べ、バードシット」という合唱に送られて、ベランダに出ていくところまでは見ていた。しかし、そのとき、女の子が、しびれたわ、といって膝を崩したから、ぼくは起上がって、そんな時はこうするんだといって、彼女の足先をつかんで、足首を直角方向に曲げてやった。「あっ」という声が聞こえたのは、そんな時だった。思わず声のした方を振返ると、女の子が口に手を当てて、ベランダを見つめており、反射的にその方に目をやると、デビッドの姿はなかった。ぼくは一瞬、彼が本当に空の彼方へ飛んでいってしまったような錯覚に襲われた。  部屋は三階にあったが、幸いにもデビッドの飛び降りたところには生垣があって、しかも芝生だったから、彼は右腕の骨折だけですんだ。  病院に見舞いにいって(そのとき、デビッドの別れたかみさんのローズマリーがいて、驚いたんだけど)、ぼくは彼に、鳥になったときの気分なんかをきいてみた。 「そりゃ、最高だったよ。体がすうっと軽くなってさ、本当に空を飛んでいる気分だったな。もう、どこへでも行けると思ったよ。あの気持は口じゃ、ちょっと説明できないな」  デビッドはよほど退屈していたらしく、何度目かに見舞いに行ったとき、ぼくに、「ドール(LSD)持ってないか」と冗談めかして言った。「持ってない」と答えると、「今度来るとき、持ってきてくれないか」と彼は頼んだ。持ってくるつもりはなかったけれど、ぼくは、「手に入ればな」と答えた。  そのことがひっかかって、ぼくはそれから見舞いに行かなかったが、一週間ほどたってデビッドが病院の窓から飛び降りて死んだという知らせを受取った。そのとき、ぼくは、とっさに、ローズマリーのことを思い出した。デビッドは彼女からLSDを手に入れたのではないかと思ったのだ。  埋葬の日、ぼくは何度か、そのことを彼女に尋ねようと思ったが、彼女の一種近よりがたい表情を目にすると、結局できなかった。穴に沈められた棺桶を見ながら、デビッドはやっぱり鳥のように手をはばたかせて死んだのだろうか、と思ったりした。