昼下がり                  津木林 洋  腕を伸ばして目覚し時計を見たら、もう一時過ぎだった。この前は十一時だったから、あれから起きよう起きようと思いながら、二時間も寝たことになる。ぼくは逆光でカーテンの染みが浮出ているのを見て、晴であることを確かめてから上半身を起した。晴れているからといって別にすることはなかったが、何か動機づけをしなくては起きるのも億劫だったのだ。  昨夜、といっても時間的にはきょうにはいるのだが、その時飲んだウイスキーのせいで、胃の辺がきりきりと痛んだ。酒を飲んだ翌朝はいつも胃が痛んで、その度にぼくは、これは胃癌の徴候だと思い、白いベッドに横たわっている、まさに死にかけの自分を想像する。この時ばかりは心配そうにしているだろう両親をベッドのそばに配置して、ぼくは必死に手を伸ばしながら、仕方がないよ、人間一度は死ななければならないんだから、とか、長い間どうも有難う、先に参ります、などというセリフを吐く。ぼくの想像は大抵そこで自分から吹き出しておしまいになるが、たまにそこを切り抜ける時があると、遺書のことまで想像が及ぶ。真白な紙に、ただ、灰はガンジス川に捨てよ、とだけ書く。  その儀式を終えた時、ぼくは不意に昨夜Kの言った、宇宙の始まりは一体何なんだ、という言葉を思い出した。  昨夜、零時頃、ぼくは扉をたたく音で起された。いつもなら寝ている時刻ではなかったが、あの時は徹夜麻雀の疲れが取れずに、早々と床についていたのだ。明りをつけて扉を開けるとKが立っていた。何か言おうとして考えがまとまらずにいると、Kが、酒ないかとぼそっと言った。酒、酒、と頭の中で反芻しながら、ぼくの足は自然と二階のPの部屋に向っていた。この下宿で酒のストックのあるのはPぐらいだ。他の連中はぼくを含めて酒を飲まないのではなくて、あったらあるだけ飲んでしまうので、ストックのできる暇がないのだ。三分の二ほど入ったオールドを拝借して部屋に戻ると、Kはぼくの万年床に仰向けになっており、ぼくはその時、Kがスーツを着て、ネクタイをきちんと締めていることに初めて気付いた。不思議なことだと思ったが、すぐにデートだったことを思い出した。 「成果はどうだった」  ぼくはオールドを下げてKの横に坐ると尋ねた。二、三日前に、次のデートの時には必ずものにするという彼の決意を聞いていたからである。Kは黙ったまま答えず、頭の下に両手を入れて天井を眺めていた。そのうちにしゃべるだろうと思いながら、 「ネクタイぐらい取れよ」  とぼくは言った。Kは言われるままに、ピンを取ってネクタイをはずした。ぼくがウイスキーの底にこびりついたグラスを二つ洗いに行こうとすると、Kが、 「そのままでいい」  と抑揚のない声で言った。ぼくは眉を上げてグラスを見、別に病気になる訳でもなしと洗うのを止めにした。先輩から譲り受けた旧式の冷蔵庫から氷を取出してグラスに放り込み、ウイスキーを半分ほど入れた。埃が表面に浮いた。ぼくは酒を飲む前に、パジャマを脱いで服を着替えたかったが、それほど寒くもなかったので、そのままでいた。  ぼくもKも黙って飲んでいたが、三杯目を注いだ時、Kが急に、 「宇宙の始まりは一体何なんだ」  と突拍子もないことを言い出した。ぼくは訳が判らず黙っていたが、Kは続けて、 「例えば、時間をどんどん逆上っていくとするだろう。そうすると地球も太陽も星はすべて渦状のガスになってしまう。その渦もなくなった宇宙がスープみたいに一様なガスで充たされたとしたら、時間という概念は一体どうなるんだ。それにそのガスはどこから生れると思う」  ぼくはKの話をまともに聞いていなかったので、さあとしか答えようがなかった。Kはぼくに構わず、さらに続けた。 「宇宙が脹らんでいることは知っているだろう。それに対して二つの説があるんだ。一つは、このまま永遠に膨張し続けるという説。つまり宇宙は初め非常に小さな体積しかなく、それが何らかの原因で爆発して脹らみ始めたというやつだ。もう一つは、その膨脹がいつか収縮に転じて、膨張、収縮を繰り返しているという説。現在の宇宙は膨張の時期に当っているという訳だ。お前なら、どっちを選ぶ」  ぼくは首を傾げた。そんなことはどうでもいいことだと思った。Kは残ったウイスキーを一息に飲むと、 「おれは循環説の方に賛成だな、でないと時間の始まりという問題が出てくる。大体、時間なんてものは、それこそ物質がなければ存在しないんだから、時間というのは物質が生れた時をもって始まる訳だ。もっとも、質量とエネルギーは等価だから、物質という言葉をエネルギーという言葉と入替えても差し支えない。そうするとだな、物質つまりエネルギーはどこから生まれたかという問題にぶち当る。一番簡単な解決法は神を持ち出すことだ、でなければ無から有が生じたか」  Kは少し間を置いた。 「循環説ではその問題をうまく切り抜けることができるんだな。つまり物質が存在するということが大前提で、時間は閉じている。判り易く言えば、物質の存在が幾何学の公理に当り、時間は円のように始まりも終りもないという具合だ。最初言ったように時間をどんどん逆上っていっても、膨張、収縮の過程があるだけで、無から有が生じる場面は絶対に見られない」  断定するようにそう言うと、Kは再びふとんの上に仰向けになった。こんなことを言い出すのは、デートの相手の女の子と何か関係があるんだろうなと思ったが、そのことを訊く気も起らなかった。 「だから、宇宙の始まりなんてないのさ。始まりという時間概念が存在しないんだから」  Kは天井を向いたまま、結論めいたことを口にした。この下宿の六人のうちで、Kは実際一番頭が良くて、時々難しいことを言うが、この時は特に酷かった。ぼくとKは三時頃まで飲んだが、これきりKは殆んどしゃべらず、結局デートのことについては何も判らずじまいだった。  変なことを思い出したと思いながら、ぼくは冷蔵庫から缶入りコーラを取出して飲んだ。喉を、痛みにも似た刺激が走り、口の中の粘り気も幾分取れた。机の上の煙草を手に取ったが、中身がなく、昨夜全部喫んでしまっていた。無いと判ると無性に喫みたくなって、ぼくはパジャマ姿のまま、下宿の連中に当ってみた。服を着替えて買いに行ったらよさそうなものだが、今一本欲しいだけで、わざわざ外に行くのは面倒臭いのだ。  五人のうち四人はいなくて、一番後回しにしたPだけが部屋にいた。一本だけ要求すると、紙袋の中からチェリーを一箱くれた。オールドのことは何も言わなかった。もし訊かれたら、全部飲んだと答えるつもりだったのだが。本当は少し残っていた。部屋に戻って一服つけると、やっと起きたという気分がした。ジーパンとシャツに着替えて、めしに行こうとしたら財布には百円硬貨二枚と十円硬貨が四枚、それに一円硬貨が二枚、しめて二百四十二円しかない。月半ばにしてもう底をついてしまっていた。二十日過ぎれば家に電話をして、来月分を送ってもらうこともなんとか可能だが、今では少し早過ぎる。  さてどうするかと考えるまでもなく、ぼくの頭にはIのことしかなかった。Iにはもう一万円余りの借金があって、これ以上借りるのは悪いような気がするが、かといって他に金を貸してくれそうな余裕のある奴はいない。  Iの新しい仕事振りでも見に行こうかとぼくは思った。五日前に夜のスナックから昼の喫茶店へとアルバイト先を変えているのだ。彼が授業を終えて帰ってくる十時頃まで待っていようかと思ったが、下宿で面と向って借金を申込むのは何となく嫌だったし、ひょっとしてただのコーヒーでも御馳走になるかも知れないという期待で出掛けることにした。  外は天気が良過ぎて、まぶしかった。それに汗がにじむくらいの暖かさである。ぼくは途中でマッチ箱の番号を頼りにIの勤めている『コスモ』に電話をして、道順を教えてもらった。Iの話によると『コスモ』という店はかなり大きくて名が通っているということだったが、ぼくは全く知らなかった。あるいは何度か入ったことがあっても、記憶に残っていないだけかも知れない。ぼくはそういう店の名前や場所を覚えるのが苦手だから。  地下鉄のO駅で降りて、そこから歩いた。両側に大小のビルの建並んだ通りを歩いていると、人々の騒いでいる声が聞えてきた。『コスモ』とは反対の方角だったが、別に急ぐ必要もなかったので、騒ぎの方へ行ってみると、飛び降り自殺をしようとする女性が、十数階のビルの屋上に立っているのであった。 後ろに金網があるので、おそらくよじ登って縁に出たのだろう。回りを見回すとまだ警官の姿は見えず、サラリーマン風の男が屋上を見上げながら、片腕を左右に大きく振っていた。今、始まったばかりなんだなと思い、そう思うと、急に何だか嬉しくなってきた。  ぼくはこういったハプニングにはとんと縁がなく、火事にしても火が燃え盛っている場面には出食わしたことがない。駆けつけた時には消防車が消し回った後で、煙だけが名残りをとどめているといった具合だ。だからこのハプニングは、火事で言えば火の出始めたところから見出したようなもので、始めから終りまで充分に見ることができると思った。それに、もし女性が実際に飛び降りでもしたら、一生に一度、見られるかどうかという劇的な場面も目撃することができる。それに続く死体も。ぼくがこの目で死体を見たのは、小学校一年の祖父の葬式の時だけで、それ以来一度も見ていない。その時の記憶も死体の回りの花ばかりが残っていて、肝腎の姿は覚えていない。だからもし見られたとしたらこれが最初と言ってもよく、ぼくは少なからず興奮を覚えた。  五分ほど経ってサイレンを鳴らしたパトカーがやって来て、警官がぼくら群集を整理し始めた。ロープを群集の前面に張って、それを徐々に広げ、ビルの前にぽっかりと空間ができた。サーカスみたいだとぼくは思った。屋上にも警官が上ったらしく、時々女性が後ろを振り返り、首を振っているのが見えた。逆光で表情が判らないのは惜しい気がした。もし双眼鏡でもあれば仔細に眺められるのだが、特に、飛び降りる寸前の表情は見る価値がありそうに思った。頭の中で考えただけでは、どんな表情をするのか皆目見当がつかない。  しばらく膠着状態が続いて、女性は飛び降りようとも止めようともしなかった。中途半端なまま、ただ立っているだけだった。時折、風がオレンジ色のスカートをはためかせる以外は、動きというものが殆んどなく、ぼくはいい加減にどちらかに決めてくれないかと苛立ってしまった。こうして上を向いたまま立っていると、栄養不足に運動不足の重なった身体に、今にも貧血が起りそうだった。  我慢できずに人の群れから抜け出すと、ぼくはKを呼び出してやろうかと思った。それは仲々良い思いつきのように思えた。昨夜のことからして、ひょっとしたらKは思い当ることがあって飛んで来るかも知れない。ぼくは辺りを見回して、三十メートルほど先のアクセサリーの店の前に赤電話を見つけた。ちょうどいい所にと思って歩きかけたが、考えてみるとKは大学に行っていて下宿にはいないのだ。まさか大学まで電話をして呼び出す訳にもいかないしと思いながらも、ぼくは歩くのを止めなかった。一旦やり始めたことを途中で止める気がしないのだ。  赤電話の所からでも、屋上の女性はよく見えた。ぼくは下宿に電話をした。Kが帰っているかも知れないと思ったからである。おばさんが出て、とにかくPを呼んでもらった。 「もしもし」  Pの声だった。 「おい、おれ、高嶋だけどな、Kいるか」 「Kさん? まだ帰ってませんよ」 「やっぱりそうか」 「何か用事ですか、よかったら伝言しときますけど」 「いや、大したことじゃないんだ」  ぼくはその時、どうせ電話をしたのだから、Pを呼出そうと思った。 「おれ、今Oにいるんだけどな、お前、出てこないか」 「どうかしたんですか」 「どうもこうも、今、向いのビルの屋上に飛び降り自殺しようとしている女がいるんだ。それでこの辺はえらい騒ぎだぜ、警官や人で」  ぼくは屋上から目を離さずに言った。 「へえ、面白そうですね」 「だろう、だから出て来ないか」  Pは一瞬沈黙した。 「きょうは駄目なんですよ」 「どうして」 「女の子が来るんです」 「おい、おい、こんな真昼間からか」 「いやだな、高嶋さんは。すぐ変な方へ結びつけちゃうんだから、ただのギターの練習ですよ、演奏会の」  結局Pを呼出すこともできず、十円玉と労力の浪費だったと思いながら受話器を降ろした。屋上の女性はまだどちらとも決めかねているらしく、じっと立ったままだった。飛ぶんなら飛べよと呟いて、ぼくは歩道を『コスモ』の方へ向って歩き出した。他人が死ぬかどうかということに気を揉むのが馬鹿らしくなったのだ。  もし本当にあの女性が飛び降り自殺をしたら、後で後悔するだろうなと思いながらも、ぼくはどんどん歩いていった。まるで今までの無駄な時間を取戻すかのように。しかしぼくの決意も次の曲り角までであった。ぼくは一つの思いつきのために、そこから引き返したのだ。それは、彼女が飛び降りたら『コスモ』へ行く、飛び降りなかったら大学へ寄ってみるという一種の賭けであった。今から大学へ行ってみたところで授業がある訳でもなかったが、何となく咄嗟に賭けの対象に選んでしまっていた。思いつきのために引き返すのか、引き返すために思いついたのか自分でも判らなかった。  ぼくが引き返したのと殆んど同時に、女性はその場に腰を降ろし、人々の間からざわめきが起った。どうしたのだろうと思っているうちに、警官が二人金網を登って、屋上の縁に降り、両側から抱え上げるようにして女性を引上げた。どうやら急に恐くなって、体の自由がきかなくなったらしい。女性は仲々金網に登ろうとはしなかったが、警官に促されて、ゆっくりとよじ登り始めた。その時、ぼくの目に彼女の白い足の裏が映り、裸足であることが判った。いやなものを見たとぼくは思った。それ以上見る気がしなくて、ぼくは再び『コスモ』の方角へ歩き始めたが、十メートルほど行くと、背後から拍手の湧き起るのが聞えてきた。ぼくは立ち止まりも振り返りもぜずにそのまま歩いた。奇妙だなと思った。途中で賭けのことを思い出したが、そんなことはもうどうでもよかった。