エレベーター                   津木林 洋  強烈な夏の日射しが頭上から照りつけている。ぼくは半分がたの来た自転車を、入口の庇の影の部分に停めると、荷台にくくりつけた箱の中から配達品を取出した。両手に乗るぐらいの軽い包みで、貼ってある伝票の写しの見にくい字から、バスタオルであることが判った。住所の終りに七一三四号と書かれてある。  七階か、とぼくは心の中で舌打ちし、中へ入った。このアパートにはエレベーターがあるので肉体的に辛いということはないが、こういうアルバイトをしていると時間的に非常に損をしている気になるのだ。時間単位ではなく、配達品の個数単位で賃金が決るからである。とにかく早く済ませるに限ると思いながらエレベーターの方へ向ったが、途中でトイレに行きたくなって向きを変えた。こういう場合、すぐに決着をつけておかなければ後でひどい目に会う。二日前、好機を逸したばかりに配達途中で我慢できなくなり、あちこち公衆便所を探したが見当らず、やむなくパチンコ店で用を足す始末だった。  エレベーターの回りには四人の人が所在なさそうに待っていた。主婦然とした中年女性、スーツケースを持ってこの暑いのにきっちりとネクタイを締めた背広姿のセールスマン、紙切れを片手に事務服を着たOL、それに一見しただけでは何の職業か判らないが、日焼けしたあとの色の黒さや無精ひげからおそらく労務者だろうと思われる男、皆、エレベーターが降りてくるのを待っている。表示ランプは最上階の八階から次第に下がってくるところだった。途中、6と5と3でしばらく止まってから一階に降りてきた。扉が開くと、中から出前もちの少年や着飾った婦人など五人が出てきて、替わりにぼくらが入った。中では扇風機が鈍いうなりを発しながら、生温かい空気をかき回していた。ぼくは急いでいたので、7のボタンを押すと、すぐに『閉』のボタンを押した。と同時に三本の手が伸びてきて、4・8・5のボタンが明るく点灯した。もう一人は誰かと同じ階なのかとぼくは思った。  扉が半分ほど閉まりかけた時、「待って」という若い女性の声が聞えてきた。ぼくはあわてて『開』のボタンを押し、大丈夫かなと思ったが、ほとんど寸前で扉は再び開いた。飛込んできたのは、予想通り若い、人妻風の女性だった。息を切らしていた。象牙色のツーピースにハンドバッグという身なりで、外出からの帰りらしかった。 「どうも、すみません」  その女性は息を整えながら皆に向ってそう言うと、ぼくの方を見て同じ言葉を繰り返した。ぼくは照れ臭くて、視線が合うのをわざとはずした。視線の代りに甘い香水の香りが鼻腔をくすぐって、ぼくは思わず上気してしまった。特に狭いエレベーター内で汗臭さが充満しているところだったから、それはより一層効果があった。  再び、今度は最後まで扉が閉まって、エレベーターは始動時のぎこちない動きから、キューンという音と共に滑らかに上昇し始めた。中は無気味なほど静かである。誰も乗っていないみたいだ。咳ひとつするのにも気が引ける。ぼくはこの手の沈黙が大の苦手で、ひとつ口笛でも吹いてやろうかなと思ったが、そんなことをすれば周囲からこづかれそうだったので止めにした。  まず最初に四階に着くと、セールスマン風とOL風が降り、五階で中年女性が降りた。残ったのは飛込んできた人妻風と無精ひげをはやした労務者風とぼくの三人だった。次は六階を飛ばして七階だ、とぼくは両手に持った包みの宛先を確かめてそう思った。扉が閉まると、エレベーターは軽い振動と共に動き始めたが、その時、ぼくはそれまでとは違った異常な音を耳にしたように思った。上昇し始めてすぐに、微かだが耳ざわりな振動音が聞えたようだった。空耳かなと思った時、突然、がくっとエレベーターが止まった。六階に止まったのかと思っているうちに扉が開いたが、そこは六階ではなく、ただのコンクリートの壁だった。ぼくはその灰色の壁を唖然として眺めた。ひょっとしたら馬鹿みたいに口を開けていたかも知れない。突然六階が消失してエレベーターがコンクリートの壁に閉じ込められたような錯覚に陥った。 「どうしたんだ」  背後から男の声が聞えてきた。ぼくは何かとんでもないことをしでかした子供のようにうろたえて、包みを左脇にかかえると、あわてて扉を閉めるボタンを押した。しかしいつまでたっても閉まらない。ぼくは不審に思って指先を見ると、『閉』ではなくて『開』のボタンを押しているのだ。ぼくはますます狼狽して、顔が赤くなるのを感じながら、『閉』のボタンを押した。扉が閉まるのを、ぼくは何か恥ずかしいことをやっと隠したようなほっとした気持で見ていた。  扉が閉まってからエレベーターはさっきと同じような異常音と共に動き始めたが、三十センチと上がらぬうちに、再びがくんというショックを与えて止まってしまった。今度は扉も開かない。それでもぼくは扉が開くのを数呼吸の間待っていたが、いよいよ開かないと判ると、非常ボタン以外のボタンを片っ端から押してみた。しかし無駄だった。どうしたんだという思いで、ぼくは反射的に右足を振って、爪先でエレベーターの扉をけろうとした。だが、あと一センチという所で思い留まった。もし余計なことをしてエレベーターが落ちたらという恐れが、急にぼくの体を包んだからだ。しかし次の瞬間、そんな恐れを抱いた自分がおかしかった。というのもエレベーターはケーブルが切れたりして落下しそうになった時は、自動的にブレーキが働いて絶対に落ちないようになっているのだ。  ぼくは気を取直して、もう一度同じ動作から爪先で扉をけった。その途端、大きな音がエレベーター内に響いた。それまで静かだったので一層大きく聞こえ、思わずぼくは体をすくめた。背後の二人の視線を強く感じて、何か自分が悪いことをしでかしたような気持にさせられた。エレベーターには結局何の変化もなく、馬鹿なことをしたという後悔だけが残った。  ぼくは二人の視線なんかという意気込みで振り返ったが、実際に彼等の目を見ると、その意気も霧散してしまい、 「どうも故障らしいです」  と情けないほど恥ずかしげな声になってしまった。労務者風の男と人妻風の女性は、ぼくのその言葉を聞くと怪訝な顔をし、人妻風はさらにスローモーションでも見るように、ゆっくりと目を見開いた。 「一体、何をしたの」  人妻風が鋭い語気でぼくに詰寄った。何でぼくが責められなければならないんだと思いながらも、ぼくはその勢いにたじろぎ、あわてて否定した。 「ぼくは何もしません。これはエレベーター自身の問題で、ぼくは何も」  労務者風の方をちらつと見ると、気のせいか彼もぼくを責めるような目つきをしていたが、別に何も言わなかった。 「だったら、どうして止まったの。何もしないのにどうして故障するのよ」  人妻風はあくまでぼくが故障を起したかのような口振りで叫んだ。ぼくはうんざりだった。第一印象は見事に崩れて、香水の匂いさえも、もはや気分を悪くする原因にしかならなかった。ぼくは曖昧に笑いながら、 「とにかく故障ですから、非常ボタンを押して知らせます」  と言って操作盤の方に向き直った。切込みの入ったプラスチックのふたを割ると、『非常ボタン』と白い字の刻んであるボタンを押した。反応は何もない。ぼくは十秒ほど押してから指を離し、しばらくしてからまた押した。しかしやはり何の変化もないのでぼくは不気味になり、指を離すともう二度と押す気にはなれなかった。二人の視線がぼくの指先に集中していることを感じたが、それはぼくの体を硬くさせるだけだった。ぼくがじっとしていると、人妻風が横に来てぼくを肘で押しのけ、非常ボタンに触れた。と同時に操作盤の下からピーという高い音がした。人妻風は反射的に手を引っ込めた。かがんで音のしている部分を見ると、『非常電話』という文字があり、取手がついていた。配達品を横に置き、取手を引いて開けると、急に音がはっきりし電話が見えた。ぼくはそのままの姿勢で受話器を取った。 「もしもし」 「あー、聞こえるかね。わしは管理人だけど、一体、どうしたんだ。非常ベルが鳴ったんで急いで飛んできたんだが、何かあったのかね」 「ええ、エレベーターが故障して途中で閉じ込められてしまったんです。モーターがいかれたんじゃないかと思うんですが、とにかく会社に電話をして、直してもらって下さい」 「故障? 本当に故障かね。何か変なことをしたんじゃないのかね」 「そんなんじゃありません。とにかく早く会社に電話して下さい」  ぼくはこの管理人と称する六十前後であろう男のゆっくりとした、しかも歯切れの悪い口振りにいらいらし、つい声を荒らげた。 「ああ、判った、判ったよ、今すぐ電話をしてくるから、ちょっと待って」  それで電話は切れた。ぼくは受話器を置くと人妻風の顔を見上げて、 「このエレベーターの会社の人がやってきますから、すぐに出られますよ」  とやっと責任を果したような気持で言った。そして立ち上がると、いつの間にか床に腰を降ろして隅の壁に背をもたせかけている労務者風に向って、「もう大丈夫です」と声を掛けた。男は聞いているのか、いないのか、胸のポケットから煙草を取出すとマッチで火をつけた。それが返事なんだな、とぼくは勝手に解釈した。男の口から吐き出された白い煙は天井に取付けてある扇風機によって床に吹きつけられた。ぼくはその時、扇風機が回っていることを改めて思い知った。天井を見上げると、蛍光灯の光が白い覆いを通して目に入った。故障はしていても、こうして電気が来ていることは不幸中の幸いだった。これでもし真暗だったら、どうなっていたか判らない。考えただけでもぞっとするほどだった。 「ねえ、さっきの電話は誰だったの」  人妻風が問詰めるように訊いてきた。 「このアパートの管理人ですよ」 「それでいつ頃出られるって」 「さあ、それは会社の人が来てみないことには」 「どうしてなの。何もしてないんだから、すぐに出られるはずよ」  全くやり切れない思いだった。労務者風の方を見ると、煙草をふかしてまるでぼくらのやりとりを聞いていないようだった。どうしてこんな風に立場が分れてしまったんだろう、とぼくはその男に羨望を感じながら、人妻風の化粧の匂いからさり気なく顔をそらせた。  しばらくして再び管理人から電話があり、エレベーターの会社の技術者がすぐに来るということだった。人妻風が「話させてほしい」とぼくに言ったが、受話器を渡そうとすると、「もういいわ」と言って受取らなかった。  それから十五分とたたないうちに電話が鳴り、管理人とは違った声が聞えてきた。 「もしもし、K会社の山崎という者ですが、エレベーターが止まった時の状況を詳しく教えてもらえませんか」  耳にきんきん響く声だった。ぼくは受話器から少し耳を離しながら聞き、相手が言い終るとゆっくり話した。 「初めは急に、がくんという衝撃があって止まったんです。そして扉が開いたら、コンクリートの壁が目の前にありましてね。あわてて扉を閉めると、今度は三十センチほど上がったところでまた同じようにがくんと止まって、それっきりです。それ以上動かないんです」 「上りの時に止まったんですか」 「ええ、五階から上に上がる時に」 「お宅は一階から乗られたんですか」 「ええ、一階からです」 「それじゃあ、止るまでに何か異常な音か振動がなかったですか」  ぼくはここで、うーんと言って考えた。確か異常な振動音があったと思うが、あれはひょっとしたらエレベーターの普通の音かも知れない、ぼくの間違いかも……。考えれば考えるほどそんな気がしたが、なかったと断定することは、後ろの二人に対して気が引けた。ぼく自身の判断で返答することがためらわれたのである。 「そう言えば、五階から上に行く時に、異常な音を聞いたように思いますけど」 「それはどんな音でした」 「さあ、どんなと言われても……」  そこでぼくは余程二人のどちらかに尋ねようかと思ったが、すぐ相手がしゃべり出したのでできなかった。 「判りました。上がる時に異常音らしきものがあったわけですね。ところで、お宅の他に何人の人がその中にいらっしゃいますか」 「二人ですけど」 「お宅を入れて三人ですか。それじゃ大丈夫ですね。もっと大勢だと問題ですが……。判りました。どうも申し訳ありません。三十分ぐらいで動くと思いますから、もうしばらく御辛抱下さい」 「はい、どうも」  ぼくは受話器を置くと、ほっと一息ついた。甲高い声から逃れられたのと、もうすぐ出られるという思いからだった。 「あと三十分ぐらいで出られるそうです」  立ち上がると人妻風に向って言った。彼女は、「やっと助かるのね」と答えると、腕に掛けたハンドバッグからパンケーキを取出して、中の鏡を覗き込みながら、顔のあちこちを軽く叩き始めた。労務者風は坐ったまま腕組みをして目をつむっており、そばには押しつぶされた吸殻が二つ放ってあった。  ぼくは包みを床から取上げて両手で持ちながら、操作盤の横の壁にもたれた。一時間ぐらい無駄になるなという思いが、ぼくを非常に損をした気分にさせ、ふと、自転車はまだ影の部分にあるだろうかという思いが浮んだ。もし日が当っていたら、サドルの部分は焼けつくように熱いだろうな、そんなことを考えた。ここを出たら一時間のロスを取戻すために、相当のペースで配達しなければならないな。ぼくはもう、三十分たてば必ず出られるものだと決めてかかっていた。  だから三十分たっても何の反応もないと判った時、裏切られたような気分になり、どうしようもなく腹が立った。しかし、かと言って冷静さを失ったわけではない。三十分というのはあくまでも目安であって、それより遅れることは十分考えられるんだ、とぼくは自分に言い聞かせた。人妻風はしきりに時計を見ながら独り言を呟き、ついにはぼくに非難の目を向けてきた。 「もう三十分たったわよ。どうして動かないの。ねえ、動いてもいい頃じゃない?」  またかと思って辟易しながらも、ぼくは答えない訳にはいかなかった。 「技術者の人が修理するのに手間取っているんだろうと思いますけど」  労務者風の方をちらっと見ると、まだ腕を組んで目を閉じたままだった。眠っているのかなと思ったが、こういう事態になることを予想して、エレベーターが止まった時、さっさと自分の殻の中に逃げ込んだんだという腹立たしさがぼくを包み込んだ。 「だって、さっきは三十分で出られるって言ったじゃないの。あれは嘘だったの」 「いえ、別に嘘を言った訳じゃありません。ぼくは技術者の言ったことをそのまま伝えただけで、文句を言うなら、修理している技術者に言って下さい」  最後の強い言葉が人妻風を黙らせたらしかった。口の中でぶつぶつ言いながら、彼女は扉の方に体を向けた。そしてぼくに聞えるぐらいの声で、 「あの時乗ったのが間違いだったわ」  と溜息混りに言った。ぼくはその言葉の中に彼女がぼくを非難する発想の転換の見事さを感じて呆れたが、同時に怒りに似た感情を覚えた。このエレベーターに乗ったことをぼくのせいにするのだろうか、そんなことは絶対にさせるもんか、自分のことはすべて自分の責任なんだ、ぼくはいささか大袈裟に心の中で叫んだ。  三十分が一時間になっても、エレベーターは動く気配を見せなかった。人妻風はその間、前と同じように文句を言う素振りを見せたが、ぼくはそれを察して労務者風と同様に目を閉じて避け、エレベーターが動き出すのを待っていた。しかし一時間近くになるとぼくもとうとう我慢できず、受話器を取上げた。 「もしもし」 「はい、どうかしましたか」  さっきの技術者とは違い、若い声だった。 「もう一時間にもなるけど、まだ直らないんですか」 「はい、申し訳ありません。思ったより故障がひどいので」 「それじゃあ、あと一体どのくらいかかるんですか」 「さあ、どのくらいかかるか……。ちょっと主任に訊いてみます」  声が離れると、遠くでなにかに話しているのが聞えてきた。そして次に、シャーという雑音が小さくはあったが聞えてきた。多分トランシーバーで主任と話しているのだろう。すぐに声が戻ってきた。 「もう三十分お待ち下さい。そうしたら直ると思いますから」 「あと三十分ですね。判りました。ちょっと切るのは待って下さい」  ぼくは受話器の話し口を手で塞ぎ、ぼくの方を見ている人妻風に、「訊いてみませんか」と言って差出した。先程のように問い詰められたらかなわないという気持があった。人妻風は少しためらった後、受話器を受取るとスカートを気にしながらかがみ、ぼくと同じようなことを訊出した。尋ね方はぼくに対する時とは打って変って丁寧であった。それに相手の言うことに、はい、はい、と首を振るだけで、文句の一つも言わなかった。ぼくはその様子を見て、復讐を果したような小気味よさを感じた。  人妻風は話し終ると沈んだ顔つきで立ち上がり、向いの壁に背をもたせかけた。ぼくは立っているのにも疲れて電話のそばに坐り込んだ。労務者風はいつ目を開けたのか、煙草をふかしていた。吸殻は四つになっている。ぼくは上を見上げてかなり空気が煙で濁っていることを知ると、ここは何とかして労務者風に、煙草を止めてもらうように頼むべきだと思ったが、あと三十分ならまあ大丈夫だろうという思いが先になって、行動を妨んでしまった。ぼくは煙草の煙を生理的に嫌うというタイプではないが、いつか新聞で、狭い部屋で煙草を吸うと、吸っている人間だけじゃなく、一緒にいる人間も軽い一酸化炭素中毒にかかったのと同じ状態になるという記事を読んだから、煙で濁った部屋にいると、頭の方から気分が悪くなっていく気がするのだ。  扇風機が空気をかき回し、その一端がぬるい感触でぼくの顔をなでた。それは先程より確実に温度が上がっているにもかかわらず、顔に吹出た汗によって逆に気持よくさえ感じられた。エレベーターには天井の一角に小さな丸い穴をたくさんあけた換気孔があるだけで、外部との空気の流通は皆無と言ってよかった。動いている時はそれでもよかったが、こうして止まってしまうと、全く何の役にも立たなかった。そのためエレベーターの中は熱気があふれ、煙草の煙でその感を一層強くしていた。ぼくは汗を拭くものを持っていなかったので、流れるままに任せておく他なかったが、人妻風はハンドバッグから取出したハンカチでしきりに顔とか首筋を押えていた。労務者風は、煙草を根元まで吸い終ると床の上で揉み消し、所々垢で黒く汚れた開襟シャツのボタンを全部はずした。そしてズボンのポケットから出した小さなタオルで胸や脇の下を拭き始めた。ランニングシャツのU字形の首回りから濃い胸毛が見え、あの分だけ余計に暑いだろうな、とぼくは取止めのないことを考えた。  ラジオでもあればなあ、ぼくは不意に思った。ディスクジョッキーのおしゃべりなどはこのような退屈した時にはぴったりだった。もちろんテレビでもいい。パチンコならさらに徹底した時間つぶしだろう。でなければ、とぼくはもう少し現実的に考えた。本なんかもいい。特に教科書でもあれば一石二鳥に違いなかった。どんな退屈な本でも、何もしない退屈よりは遥かにましだった。新約聖書はその最たるものだろうと思った。ぼくは前に、夜寝られない人は新約聖書を読んだらいいという話に興味を持って、本屋で立読みをしたことがあるが、確かに一ページと読まぬうちに眠気を覚える代物だった。約一ページに渡って、イエス・キリストに到る系統が、えんえんと書き連らねてあって、正確にしかも考えながら読んでいくと必ず途中でつまづく。その時ぼくは、このぺージを読破するにはやはりキリスト教の信仰がなければならないのだろうかと思ったものだ。  もし今、新約聖書が手元にあったら、軽く読破できるだろうという自信があった。鉛筆と紙があれば、さらにそれを系図に仕立て上げることぐらい、朝飯前のように思われた。しかし、現実に今は何もない。ぼくは膝を両腕でかかえ、頭をもたせかけて目をつむると、数学の難問を思い浮べようとした。以前見た映画で、主人公が精神的拷問にやられそうになった時、数学の問題を考えて切抜けたという話を思い出したからだ。だが映画ほど都合よく問題は浮んでこない。ほんの半年前まではあれほど難問に苦しんだというのに。仕方なくぼくは因数分解の公式を片っ端から暗誦してみたが、それとて無制限にあるわけでもなく、すぐに種が尽きてしまった。他に何か適当な問題がないものかと考えていると、人妻風の「暑いわ」というか細い声が聞えて、ぼくは目を開けてしまった。  前の電話から三十分を経過しても、やはりエレベーターは動かなかった。見放されたんじゃないだろうか、という思いがぼくの頭をかすめたが、電話がピーと鳴ると、そんな思いは消えていた。相手は最初の甲高い声の持主だった。 「どうも、予想外の重傷でしてね、簡単には直りそうもないんです。それに部品が我々の持っている分だけじゃ不足でしてね、今、本社へ取りに行かしてるんですよ。私としましても、こんなに傷が深いとは思ってもみなかったものですから、つい、三十分だなんて言ってしまいまして、申し訳ありません。こうなったら、本社の技術者にも応援を頼みまして、全力で直しますから、もう少しお待ち下さい」 「それで、実際のところ、あと何時間で直るんですか」  ぼくは意識して「時間」という言葉を使った。 「ええ、こっちとしましでも、はっきりと何時間と申し上げたいんですが、何分にも故障が故障ですから、また前のように延びても困りますし……。ですから、何時間と申し上げる代りに、こちらから三十分おきぐらいに電話をして、状況をお伝えします」  相手の軽快な口調の中にも、やっかいな仕事が舞込んだという意識が言葉の端々に窺われた。これはどうも時間がかかりそうだという気がした。 「はあ、そうですか。判りました。どうかよろしくお願いします。ああ、それから、ちょっとお願いしたいことがあるんですけど」  仲々直らないと言われて、自転車のことが気になったのだ。 「何でしょう」 「あの、ぼくはデパートの配達でここに寄ったんですけど、自転車が一階の入口の所に置いてあるんです。その荷物を盗られないように、保管しておいてもらいたいんですが、もしか盗まれたら、ぼくの責任になるものですから」 「はい、承知しました。どうも御迷惑をおかけして本当に申し訳ありません」  電話を切ると、ぼくは二人に報告した。 「故障が重くて簡単に直らないそうです。いつ頃直るかも見当がつかないということです。持久戦を覚悟しておいた方がいいと思いますけど」  労務者風は初めて顔をこちらに向けてぼくの言うことを聞き、聞き終ると体の向きを変え、床の上に仰向けになった。エレベーターはそんなに広くなかったので、男は両膝を立てて寸法を合わせた。開襟シャツの端がだらりと床につき、ランニングシャツの腹の部分が、呼吸に合わせて伸びたり弛んだりした。  人妻風はぼくの報告を聞いても、もう突っ掛かってこようとはしなかった。労務者風が寝転んだ時、彼女は男から目をそむけ、ハンカチを鼻筋の横に当てた。男が横になり、ぼくが坐っても、彼女は立ったまま腰を降ろそうとはしなかった。二時間近くもあのハイヒールでよく立っていられるな、とぼくは靴の細い踵を見ながら感心した。  しばらくして労務者風が七本目の煙草を吸い始めた。吸殻は男が寝転がる時にけちらして四つしか見当らなかったが、確かに七本目のはずだった。拡散した煙は扇風機に吹きつけられ、床に反射し、煙という形を失ったが、ぼくの鼻には新たな臭いとしてやって来た。ぼくは白く濁った天井を見て、是非とも言わなければならないと思った。でなければこっちが参ってしまいそうだ。人妻風は鼻をハンカチで押えて横を向いており、それを見てぼくは幾分勇気づけられる思いだった。  ぼくは頭の中で、申し入れの正当性を一つ一つ数え上げてみた。一つ、エレベーター内は禁煙であること。二つ、狭い部屋での喫煙は一酸化炭素中毒を誘うこと。三つ、女性が嫌がっていること。四つ、それにぼく自身気分が悪くなること。五つ、喫煙は人体に害のあること。  五番目はどうも理由になりにくいなと思いながら、ぼくは煙の吐き出されている男の口元を見た。労務者風の出方には未知数のものがありそうで、どうしてもおじけづかずにはおれなかった。これがサラリーマン風とか先生風とか、いわゆる腕力を感じさせない職業だったら、それほど心配する必要はなかったが、なにしろ相手は労務者風だ、最悪の場合は暴力沙汰も覚悟しなくてはいけないだろう。  しかし、とぼくは考えた。この男はエレベーターが故障になっても騒ぎ立てないし、電話で文句を言うこともしない。じっとして煙草を吸うだけだ。それに、人妻風に何かしようという様子も見せない。ひょっとしたら話の判る気のいい人で、ただ無口なせいで悪そうに見えるのかも知れない。  ぼくの内部に、微かな希望が湧きかけたが、それも束の間、冷酷という言葉で吹消されてしまった。ぼくは善と悪の間を行ったり来たりしたが、その間に次第に気持が固まっていった。とにかく相手が何者であろうとも、正当なことを主張するのに何でびくつく必要があろうか、と心の中では居直ってみたものの、実行する時にはできるだけ丁重に低く低く頼み込もうと決めた。そうすれば、いくら何でも暴力だけは避けられるだろう。  操作盤の上の方にある『禁煙』という赤い文字を盾にするつもりは毛頭なかった。そんなことをすれば、どうなるか判ったものではない。ぼくは理由など一言も言わず、ただ頭を下げるだけだと考えていた。  壁から背中を離して、右手で体を支えるとぼくは男の方に向いた。 「あのう、ちょっとすいませんが……」  男はよく聞えないのか、自分に言われているというのが判らないのか、相変らず天井を向きながら、煙草をふかしていた。ぼくは視界の隅に、人妻風がぼくの方に振り向くのを認めながら、 「あのう、煙草……」  ぼくがそこで言い淀んでいると、男は煙草を口に当てたまま、ぼくの方に顔を向けた。その目を見て、ぼくは、こんな恰好じゃまずかったと絶望に陥ったが、男は何を思ったのか、ずり落ちた胸のポケットから片手で煙草を取出そうとした。その意味を咄嗟に理解すると、ぼくはあわてて言い放った。 「もうちょっと時間を置いて、煙草を吸ってもらえませんか。でないと煙がたまる一方ですから」  言い終ってから、ぼくは予想外のことを口にしたことに気付いた。本当は煙草を止めてもらうつもりだったのに。男はそんなことかという顔つきをして片手を降ろし、再び天井を向いた。ぼくは人妻風の鋭いだろう視線を感じて目を上げられず、床を見ながら元の姿勢に戻った。  労務者風が煙草を吸い終ると、時間間隔を測るためぼくは腕時計で時間を調べたが、その時、人妻風の呟きが耳に入ってきた。 「どうしてこんなエレベーターに乗ったのかしら」  また始まったとぼくは思った。 「もう少し遅く、そう、あの時、信号を無理に渡らなかったら……」  語尾がかすれるようになって消えた。そして次に、はっきりとした声で、 「それに、あの時、扉が開かなかったら、こんな所にはいないのに」  それを聞いて、ぼくは頭を上げ、人妻風の方を見た。彼女は横を向いており、目は合わなかった。まあ、いいさ、とぼくは眉を上げ、床に目を戻した。何かの口実を設けて、想像的な逃避を図っているに過ぎないんだ、それが不安や焦燥から身を守る一つの方法なんだ。ぼくは人妻風に微かな同情さえ覚えた。  四十分ぐらいして、第一回目の定期連絡が入ってきた。説明によると、本社からの部品も届き、技術者も四人応援に来て、かなり大掛かりに修理を行なっているということだった。一つの故障が連鎖反応的に他の故障を引き起して、直りにくくなっており、あとしばらくは時間がかかると技術者は申し訳なさそうに言った。ぼくはいつものように報告したが、人妻風が小さな溜息をつくだけで、労務者風は両手を腹の上に乗せて、目をつむったままだった。  このままでは気が滅入って耐えられなくなるのではないか、とぼくは思った。このあとまだ長時間続くものなら、ぼくら三人がこんなに互いに無関係では、息苦しくてしようがない。とにかく気軽に話せる程度にまで、関係を改善した方が、ぼくだけではなく、この二人にとってもどれだけ楽か判らない。  ぼくは二人に話しかけるうまい口実を見つけようとしたが、そう簡単には見つからなかった。ぼくら三人とも初対面だし、一方は男で一方は女。それに世代も職業もぼくとは異っているだろう。人妻風はぼくより五歳ほど年上、労務者風は彼女よりさらに十歳ほど年上に違いない。まさかこの状態で天気の話をするわけにもいかないし、客観的に見て、エレベーターの故障に関する話が一番適当のように思われたが、よく考えてみると、それは却ってヤブヘビになる恐れがあった。  結局駄目なのかとぼくが諦めかけた時、ひとつの考えが閃めいた。それはこの故障によって受けた損害の賠償と、精神的苦痛に対する慰謝料の問題について、話すことだった。慰謝料というのは、いささか大袈裟かも知れなかったが、損害賠償の方は現にぼくが被害を被っているので現実性があった。それほど突拍子なことでもないな、とぼくは思った。もしこの話でぼくらの間の見えない垣根が取払われたら、禁煙のことも案外簡単に頼めるかも知れない、そんな気がした。ぼくは意を決して壁から背を離すと、濁った空気を胸一杯吸込んだ。いい気持とはとても言えなかったが、不思議と落着きのようなものが湧いてきた。ぼくは労務者風の閉じた目を見た。人妻風は立ったままなので、話す場合顔を上げなければならないのだ。 「もう閉じ込められてから三時間にもなりますけど、ぼくらはこの苦痛に対して、賠償を請求する権利があると思うんです」  そこまで一気に言うと、ぼくはあまり唐突過ぎたかなと思いながらも、二人の顔色を窺った。労務者風が目を開けてこちらを見、人妻風もハンカチを鼻に当てたまま、ぼくの方を見た。成功した、とぼくは内心で叫んだ。ここでもう一押ししなければ、とおもむろに言葉を付け加えた。 「ぼくらが普通の操作をしただけなのに、こういう事態になったということは、つまりこのエレベーターの管理会社の責任で、それによるぼくらの損害は当然管理会社が支払うべきだと思うんですが」  二人とも何も言わずに黙っていたが、その目を見てぼくは驚いた。明らかに疑いの色が、それもぼくの話にではなくて、ぼく自身に対する疑いの色が現れているのだ。ぼくはその目にうろたえた。  数呼吸の気詰まりな沈黙の後、労務者風が初めてぼくの目の前で口を開いた。 「これぐらいのことで、金を払うとは思えんな」  喉の奥に詰まるような低い声だった。 「いや、現にぼくなんか、アルバイトの途中でこうして閉じ込められてしまって、この三時間はお金になっていないんですから」  気負い過ぎて早口になってしまった。男の目から疑いの色が消え、元の無表情に戻った。 「そりゃ、おれだって同じだ。だけど、いくら言ってみたって相手にされないな」 「だから、三人で団結して申し入れれば……」 「団結なんて言葉、おれは嫌いだ。それにたとえ判ってもらえても、もらえるのは雀の涙ほどだ。そんな金なら、こっちからわざわざ頭を下げてもらうほどのことはない」  そう言うと労務者風は脇腹を下にして、体を向こうに向けてしまった。そんなことでは何もできないじゃないですか、と言おうとして、かろうじてその言葉を飲み込んだ。  人妻風はぼくらのやりとりを黙って聞いていたが、労務者風が向こうを向くと、自分の番が来たかのように口を開いた。 「損害賠償の話なんか、後でも十分できるじゃないの。今一番重要なのは一刻も早くここを出ることよ」  幾分ヒステリー気味だった。ぼくの話が彼女のぼくに対するいわれのない非難を再燃させたらしかった。 「それに、このエレベーターを動かしたのはあなたなんだから、果して普通の操作をしたのかどうか、わたし達には判らないのよ」  ぼくの言動を逆手に取って、しかも「わたし達」という言葉をわざわざ使って、ぼくを孤立させる気だな、と心の中で反発はしたが、それを口に出して言う気はなかった。何か言えばますます悪くなるとぼくは思った。  一回目から三十分ぐらいして、二回目の連絡があったが、まだ当分直りそうもなかった。時計を見ると、もう五時に近かった。ぼくは、ひょっとしたらこの中で一晩明かさなければならないかも知れないという、嫌な予感に襲われ、ふと、配達屋のおやじはぼくの帰りが遅いので怒っているだろうな、という思いが頭をかすめた。いや、心配しているかも知れないと思い直し、電話で連絡してもらった方がいいかなと考えた。しかしすぐに、電話番号を知らないことに気付いて、思わず笑いを漏らした。ぼくは急いで顔を引き締めたが、一瞬遅く人妻風に見つけられてしまった。何か言うかなとぼくは身構えたが、何も言わなかった。  エレベーターの中は、二、三時間前よりは少ししのぎやすくなり、夕方の気配が温度変化によって忍び込んできた。それに空気の濁りも前よりはましになり、労務者風の煙草を吸う間隔が長くなったことを示していた。それに気付いて、ぼくは、思い切って頼んだことが効を奏したと嬉しくなったが、実はそうでないことが、労務者風が十一本目の煙草を吸出した時に判った。男は封を全部破って中を覗き、ちょっとためらってから一本を取出した。その時、残り一本しかないのが判った。男は残りが少ないので、自分で規制をしたのだ。それを裏付けるように、男はフィルターの所まで吸い、二、三度煙草を目の前に持ってきて確かめてから揉み消した。何にせよ、これでましになるとぼくは思ったが、腹の底におもしろくない気分が残った。  人妻風がしばらくして我慢できなくなったのか、ティシュペーパーをずらりと並べ、ハイヒールを脱ぐと、その上に足を投出して坐った。どうせ坐るなら一番楽な方法で、という気持らしかった。ぼくはちょっと驚いたが、それよりも、あんな靴でよく立っていられたものだと感心する方が強かった。  人妻風は、足首を中心にしてしきりに足を回し、疲れをほぐしていた。短いスカートが、坐ったために太腿の半分あたりまでずり上がり、しかもぼくの正面に腰を降ろしたため、ぼくは目のやり場に困ってしまった。人妻風はそんなことには全く気付かないのか、ハンカチを扇子代りにして首の辺をあおぎ、ぼんやりと自分の足先を見ていた。仕方なくぼくは腕を組んで目を閉じ、眠った振りをしたが、長続きせず、また目を開けて労務者風の方へ目をやったりした。  三回目の連絡でも状勢は大して変らなかった。二人とも既に諦めているらしく、ぼくの報告に対して何の変化も見せなかった。エレベーターの中は、倦怠とそれに伴う安定感が堆積して固まり始め、不安などは天井の換気孔から抜け出してしまっていた。このままじっとして、何も起らないまま、長時間が過ぎてしまうだろうという漠然とした意識があった。だからぼくが人妻風のただならぬ様子に気付いた時には、本当にびっくりしてしまった。  ぼくが何度目かの眠った振りから目を開けると、人妻風が足を屈めて、両手を腹の上に置いていた。というより押えている感じだった。顔はうつ向いているのでよく判らない。ぼくは何か変だなと思いながらも、ヤブヘビになるのが恐くて黙っていた。しかしどうも次第にそういう訳には行かなくなってきた。人妻風はしきりに腰を折り出し、ますます足を屈めて小さく縮まろうとした。腹痛だなとぼくは思った。声を掛けようと腰を上げかけた時、労務者風がこちらに向きを変えるのが判って、ぼくは思わずそのままの姿勢を保った。何か言うのかも知れない。しかし労務者風は何も言わず、最後の煙草を吸い始めた。ぼくはしばらくためらってから、思い切って人妻風に声を掛けた。 「どうかしたんですか」  しかし人妻風は顔を上げようともしなかった。余程悪いんだろうか、とぼくは返事のないのがますます気に掛かって、 「どうかなさったんですか」  ともう一度声を掛けた。反応はなかった。ぼくは腰を上げて彼女に近づくと、床に片膝ついて尋ねた。 「気分でも悪いんですか」  顔を覗き込むと、ひどく汗をかいており気のせいか少し顔色が悪かった。どうしたらよいものかと迷っていると、彼女が、 「ほっといて」  と弱々しい声で言った。それが断乎とした拒絶を表わしていないことは明らかだった。ぼくとしても行掛り上、ほっておくわけにはいかない。 「とにかく、電話で外に知らせます」  そう言って電話の所へ行き、受話器を取りかけると、「何でもないわ」という意外に鋭い声が飛んできた。手を引っ込めて彼女の方を見ると、ひどく疲れた顔をしてぼくの方を見ており、とてもそんな声を出せるとは思えないほどだった。 「だって病気なんでしょう」  ぼくが不審に思って尋ねると、 「病気じゃないのよ、ただ……」  と彼女は言葉尻を濁した。病気じゃない? とぼくは頭をひねったが、すぐに、なるほどと了解した。自然が呼んでいるわけか。何だという安心感と軽い失望感が入混って体の中に広がった。ぼくは半分機械的に周囲を見回して、何か適当な入れ物がないか探してみたが、そんなもののあるはずがなかった。その時配達の包みがぼくの目に止まり、中味がバスタオルであることを思い出した。ぼくはそれを取上げて、破っても構わないだろうかと考えたが、この非常事態なら許されるだろうと決めて、花模様の包装紙を丁寧にはがした。中には赤と白と青のバスタオルがフランスの三色旗のように並んでおり、ぼくは少し考えて、白いバスタオルを取出した。色がついていると吸収が悪いような気がしたのだ。しかし、ぼくの張り切った行為もそこまでだった。人妻風がバスタオルを受取らなかったのだ。 「どうして使わないんですか」  ぼくは諦めきれずに尋ねた。答えは簡単だった。 「自分のことは自分でしますから」  ぼくはあっさりと引き下がった。馬鹿馬鹿しくて、笑おうとしたが、うまく笑えなかった。どうするんだろうと思っていると、人妻風は床にハンカチを広げ、そこに、ハンドバッグの中味を移し始めた。なるほど、ハンドバッグの中にするのか、とぼくはその思いつきに感心した。人妻風がこそごそとやり始めると、それまで背を向けていた労務者風が体を仰向け、顔だけ彼女の方へ曲げた。その目は好奇心に輝く目ではなく、焦点の定まらない、まるで彼女の向こう側にある壁、あるいはその壁の向こうを見ているような目っきだった。ぼくはその目に、なぜか言いようのない苛立ちを感じた。人妻風は労務者風の目を意識してか、急いでハンドバッグの中味を移すと、ハンカチの両端を縛り、ハンドバッグにティシュペーパーをあらかた詰め込んだ。  準備ができると、ぼくは天井の明りを消して、入口と反対の壁にむかって立った。労務者風はその時すでに、肘枕をして人妻風に背を向けていた。明りは操作盤の階数表示のランプだけで、その周辺をぼーっと照らしていた。暗くすると余計にはっきりと、壁に操作盤の明りが反射して見え、それを切る影がちらちらと映った。ぼくの頭は次第に熱くなり、心臓の鼓動が耳の奥に響いた。労務者風を気づかう余裕もなく、ぼくは目を閉じた。ひどく時間がたったような気がした時、ハンドバッグにする音が聞え、頭はさらに熱く、顔も火照った。  パチンという音に続いて、服装を正す音が聞え、それから人妻風の声がした。 「もう済みましたから」  意外にはっきりとした声だった。ぼくはほんのしばらくためらった後、振り向いて操作盤の所へ行き、明かりをつけた。できるだけさり気なくと心掛けたが、どうしても動作がぎこちなくなるのが自分でも判った。アンモニアの臭いが微かに鼻をついた。人妻風はぼくに向って頭を下げ、 「どうも御迷惑をお掛けしました」  と丁寧に言った。ぼくは戸惑い、どう答えてよいか判らず、いいえ、いいえと繰返すのが精一杯だった。彼女はさばさばとした表情をしており、恥入る素振りなど見せなかった。却ってぼくの方が恥ずかしいくらいだった。  ハンドバッグは隅に置かれ、人妻風は残してあった三枚のティッシュペーパーの上に元のように腰を降ろした。そしてハンカチの包みの中からパンケーキを取出して、顔のあちこちを鏡を覗きながら叩き始めた。ぼくはその様子を見て、何の余韻も残っていないことに改めて驚きを感じた。臭いさえなければ、先程のことが現実に起ったかどうか疑いを持ったかも知れない。  扇風機は隅に充満している臭いをかき回して、拡散を早めていた。その度に新しい臭気がやって来て、鼻の麻痺する余裕がなかった。人妻風はハンドバッグのそばに坐っていたが、顔をそむけるとか鼻に手を当てるとかいう動作は見せず、それまでと変らない様子をしていた。  しばらくして労務者風が不意に起上がり、その辺に散らばった煙草の吸殻を集め始めた。フィルター部分を人差指と親指でつまんで息を吹掛け、自分のタオルの上に置き、それを繰返した。臭いに我慢できなくなって吸殻をもう一度吸おうというのだろうか。煙草は既になくなっていた。  男はまだ葉の残っている十個を全部集めると、一個に火をつけて吸ったが、フィルターの所まで吸い終ると、次のには手をつけようとはせず、じっと見ているだけだった。煙草の臭いは新しい臭いとして鼻にやって来て、元の臭いと入混ったが、その方がまだましだった。  男は人妻風の方に顔を向けると、 「手帳の紙、一枚もらえんかな」  と言った。人妻風は自分に言われたのではないというようにぽかんとしていたが、すぐに気付くと、あわててハンカチの包みの中を指で探し始めた。それはいかにも狼狽した様子だった。ぼくは労務者風が誰かに声を掛けたということに驚いたが、それよりも、かさにかかっているという感じが不愉快だった。  人妻風は手帳を取出してぱらぱらめくり、白紙の部分を一枚だけ破って、労務者風に手渡した。男はどうもと言ってそれを受取った。そして指でゆっくりと丸め、一方に吸殻のフィルターを詰めて、舌の先で丹念に紙の端をなめた。吸殻に残った葉で煙草を作るつもりらしい。外側ができると今度は中味を詰め始めた。床をタオルで何回も拭くと、そこに吸殻を破って取出した葉を集めた。九個もあったのでそれはかなりの量になり、男はそれを指でつまんで先端から入れると、マッチ棒で押し込んだ。一本でき上がっても、まだ葉は相当余り、男はすぐ、 「もう一枚もらえんかな」  と人妻風に頼んだ。いや頼んだというより言いつけたという方がいい。珍しいものでも見るような顔をしていた人妻風は、そう言われるとさっと硬い表情を見せ、仕舞い込んだ手帳を出して、また一枚破り取った、ぼくは彼女の指先が細かく震えているのを見、無理に力を入れてそれを抑えようとしているのが判った。  男は前と同じようにどうもと言って紙を受取ると、また丸め始めた。その時、何となく、どうせ配達品の包装を破ってしまったのだから、ぼくも白いバスタオルに排泄を行なおうかという考えが浮んだ。その方が包装を破った言い訳にもなるし、当分直りそうもないのだから、早目に経験しておいた方が気が楽だし……。  ただ、気掛りなのは出るかどうかということだった。エレベーターに乗る前に出してしまい、それからずっと飲まず食わずだったので、もちろん欲求はなかった。自覚症状がなくても何とかなることはなるが、こればかりはじっとしたままでいくら体に訊いてみても、答えは判らなかった。  ぼくはどうしようかと決意の固まるのを待っていたが、もし四回目の電話がなかったら、本当に実行していたかも知れない。 「もしもし、どうも長い間御迷惑をお掛けしました。もうすぐ直りますから、しばらくお待ち下さい」  ぼくは体中の力が抜けていくのを感じた。同時に、それほど緊張していた自分に驚き、ほっと溜息をついた。  そのことを知らせると、労務者風は煙草を作るのを止め、でき上がった一本に火をつけると再び寝転がった。人妻風は泣くとも笑うとも違う不安定な表情を一瞬見せると、すぐに何事もなかったように、ハンカチの包みからパンケーキを取出して鼻の周辺を叩いたり、鏡を覗いて髪に手をやったりした。そして靴をはいて立ち上がり、ティッシュペーパーをたたんで包みの中に入れた。  それから十分ぐらいして警官から電話があった。大したことではなく、怪我人がいないかどうかを訊き、三人の名前を教えてほしいと言った。ぼくは二人に名前を尋ね、警官に報告した。 「ぼくは遠井健二です。そして一人が矢野昭子という人で、もう一人が谷川という人です」  考えてみれば、お互いに名前を知ったのはこの時が初めてだった。 「ああ、やっぱりそうですか、いや、ここに矢野さんの御主人が見えてましてね、ひょっとしたら奥さんが閉じ込められているんじゃないかと心配されていたんですよ。ちょっと奥さんと替ってもらえませんか、こっちは矢野さんと替りますから」  ぼくは、しきりに髪の後ろを気にしている人妻に声を掛けて、電話を替った。人妻は目を大きく開け、次に顔の筋肉が緩んだように嬉しそうな表情を見せると、受話器を素早い動作で受取った。彼女は絶えずうなずきながら、短かい言葉のやり取りをしたが、何度も出てくる「たいへんだったのよ」という言葉がぼくの耳に異様に響いた。  彼女が話し終ってすぐにまた電話が掛かり、いよいよ動き出すことになった。ぼくら三人ともそれぞれの位置に壁を背にして立ち、耳に神経を集中して待った。ぼくは配達品の残骸を手に持ち、人妻はハンカチの包みを抱えていた。ハンドバッグはそのまま隅に置いてあった。エレベーターの中は新しい煙草の煙で濁っていたが、それに嫌な臭いが体にしみ込んだみたいだったが、それでも新鮮な空気が天井の換気孔から降りてくるようだった。長時間耐え忍んできた不自由が今こそ打ち破られる、そんな感慨にも似た気持が湧き上がってきた。  エレベーターは微かな振動と共に降り始め、体がふわっと浮上がる感じがした。ぼくは、何か新しい体験をしているかのような錯覚に陥るところだった。操作盤の階数表示のランプが規則的に下がっていき、1が点灯するのと殆んど同時に、がくんという軽いショックが伝わってきた。一階に着いたのだ。ぼくら三人とも扉のそばに集まり、開くのをじっと動かずに待った。胸の動悸が激しくなった。  扉が開くと、ひんやりとした空気が顔をなでて流れ込み、同時に、目の前でフラッシュが四つほど続けざまに光った。まぶしさで思わず目を閉じたが、ぼくの耳に大勢の人のざわめく声が聞えてきた。それに続いて拍手の波も、そして誰かの「ちょっと臭えなあ」という声も。目を開けると、大勢の人々が入口を取囲み、口々に何か言い、手を伸ばしてぼくの肩を叩いたりした。警官がそれらの人々を整理して、ぼくらのために通路を作ってくれた。ぼくが先頭になって二、三歩歩きかけると、一人の男が通路に入って来て、ぼくの後ろを見、うなずくようにした。多分人妻の夫だろうと思ったが、果して彼はぼくの横をすり抜けて後ろへ行くと、人妻の肩を両手でつかんだ。人妻はハンカチの包みを抱えてうつ向いていたが、どうやら泣いているようだった。肩が時折けいれんしたように動き、夫は妻の顔を覗き込んで何か尋ねていた。数人のカメラマンがその光景にフラッシュをたいた。  周囲から「どうしたんだ」という声が聞えてきた。男はその声に促されるように、妻の頭を軽く抱くと、動かずにいたぼくと労務者風の横を、ゆっくりと通り抜けた。その時、男はぼくらの方をちらっと見たが、ぼくは思わず視線をそらせてしまった。なぜかまともに見られない気がした。  二人が人垣から出ようとした時、エレベーターにいた警官が、 「奥さん、ハンドバッグお忘れですよ」  と呼び掛けた。立ち止まって夫が振り返ったが、妻が引っ張るようにしてそのまま行ってしまった。警官は再び何か言いかけたが、口をつぐむとハンドバッグに手を伸ばした。ぼくは入口に背を向けて人垣を出た。  三人の記者が労務者風をつかまえて、「何か一言」「どうかしたんですか」「中で何かあったんですか」などと矢継早に質問を浴びせたが、労務者風は何も答えず、記者を押しのけるようにして廊下の方へ歩いていった。その後を一人の警官が、 「訊きたいことがありますから、まだ帰らないで下さい」  と言いながら追いかけて行って、労務者風と何事か話を交した。労務者風は短く答えると、また足早に遠ざかっていった。  労務者風の代りに記者に囲まれて、ぼくは何と言おうかと考えあぐねていたが、その時、先程の警官が同僚に話す声が聞えてきた。 「トイレだってさ。我慢できないらしいんだ」  何だ、とぼくは思った。腹の底から徐々に声にならない笑いが込み上げてきて、ぼくはそれを抑えることができなかった。