猫課長を命ず     津木林 洋


 私が勤めているのは、吹けば飛ぶようなちっぽけな食品会社である。煮豆とか卯の花とか金平ごぼうなどのいわゆる惣菜を、よく言えば少量多品種、本当はいろいろなものを作らなければ売上が上がらないために作っている。食品を扱うためにネズミやゴキブリが出没するが、それらの退治は専門の業者に任せている。困るのは猫である。真空パックをして殺菌済みの製品をときどきかじられてしまう。
 さて、工場の周辺を縄張りにしている野良猫がいる。シャムの牝猫だが、毛並みは悪く薄汚れていて、本当にシャムかと思うくらいだが、歩く姿にはどことなく優雅な雰囲気が漂う。その猫が妊娠をした。相手はいつも彼女を付け回している黒猫である。彼女が子供を生む場所はいつも大体隣の空家ということになっていたが、今回は違った。
 ある日私が仕事をしていると、どこからか猫の鳴き声が聞えてくるのだ。それもかぼそい仔猫の声だ。私は仕事を中断し、どこから声が聞えてくるのか探ってみた。天井から聞えてくるようでもあるし、そうでもなさそうだしと耳をそばだてながら歩き回って、どうやら大きなエアコンの背後にいるらしいということがわかった。しかし両側に壁があって覗き込むことはできない。
 私は工場長のタナカさんに報告し、二人で、どうしたらいいものかとエアコンを前に思案した。横から腕を伸しても、背後には掌が届くのがやっとという状態だ。社長もやってきて、困ったもんだという顔をする。背後に手が届かない以上、外におびき出すしかないということで、かつお節をまいた。社長が主張した。仔猫だからかつお節よりもミルクの方がいいのではないかと私は思ったが、黙っていた。しばらく見守ったが、出てきそうにもないので、私とタナカさんは仕事に戻ったが、社長は腕組みをしてエアコンの前に立っていた。しかしそのうち社長も諦めて事務所に帰っていった。
 昼休みが終って工場に戻ってくると、パートのおばさんが「仔猫をつかまえて捨ててきたよ」と言う。たまたま手を洗いに来たら、仔猫が二匹エアコンの横から出てきてたのでつかまえたのだ。まだ目も開いていなかったという。かつお節の味がわかったのかしらと私は首をひねった。
 これで一件落着と思ったのも束の間、まだ鳴き声がする。今度はエアコンの背後ではなく、どうやら天井からのようだ。タナカさんが二階の昔寮だった空き部屋に入り調べてみたが、鳴き声は床下からするという。つまり一階の天井と二階の床の間にいるのだ。そこでやっとどうやって仔猫がエアコンの背後にいたかという謎が解けた。牝猫は台風で割れた二階の窓から入り床下に潜り込んで仔猫を生み、仔猫はエアコンのパイプの隙間を通って下に降りてきたのだろう。
 報告を受けると社長は自ら段ボールで割れた窓を塞いでしまった。あれでは親猫の出入りできる入口がなくなり、仔猫は飢死してしまうだろう。タナカさんは、あんな所で仔猫に死なれたら困るし、猫というのは仔猫に危険が及ぶと察知したら場所を変えると社長に言って、窓を開けさせた。
 翌日、出勤すると真っ先に仔猫の鳴き声がしないかと確かめてみた。いくら待っても鳴き声が聞えず、どうやら仔猫を連れてどこかへ行ったようだ。タナカさんは自分の考えが正しかったので、ちょっと得意そうな顔をした。
 ところが昼過ぎになって、別の二階でシルバーセンターから派遣されて鰊の昆布巻を巻いているおばあさんが、「猫の声が聞えまっせ」と訴えてきた。タナカさんは「どうしようもない親猫やな」とがっかりとした声で言った。社長の機嫌は悪かった。
「タナカくん、猫課長を命ずるから何とかせい」
 タナカさんはパートのおばさんを一人引連れて二階に行き、がらくたの中に潜り込んで二匹の仔猫をつかまえてきた。見ると、二匹とも真っ黒で、目が開いていない。その二匹を胡瓜の空箱に入れて、タナカさんは自転車で遠くの空地に捨てに行こうとした。荷台に箱をくくりつけているとき、仔猫が鳴いた。すると突然どこにいたのかシャムの親猫が猛然とタナカさんに向かって突進してきた。鳴くというより吠えるという声を出しながら。タナカさんはあわてて箱を放り出し、その場を逃げた。親猫は箱を開け、仔猫をくわえて悠然と隣の空家に歩いていった。
 タナカさんは「恐かった」といくらか顔を引きつらせながら呟いた。
 それから四カ月たって、再びシャム猫の腹が大きくなった。タナカさんは暇があると、シャム猫の様子を窺っている。今度はうちの工場の中で生むなよとタナカさんが祈るような気持でいることは、手に取るようにわかる。さて、どうなることやら。
 

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