文章について     津木林 洋


 七月に入って、水曜日の午後七時半からNHK教育テレビで、文章表現入門という番組をやっている。四、五、六月は同じ時間帯で、マイコン通信入門という番組をやっていた。それは毎週欠かさず見ていたので、七月になっても、その時間になるとついチャンネルを合わせてしまう。
 というのは半分うそで、本当は、私自身小説を書いているので、文章についての話にはどうしても興味がいってしまうからである。そうした話を聞いても、大して得るところがないということは、今までの経験上わかっているにもかかわらずである。小説を書き初めの頃から今まで、文章読本、文章作法に類する本をいくつか読んできた。谷崎潤一郎、三島由起夫、丸谷才一、井上ひさし、その他いろいろな人の書いたものをである。ところが、いま思い返してみて、これは役に立ったと思えるような事柄など、ひとつもないのである。何が書いてあったか、きれいさっぱり忘れている。ただ、確か、「解釈と鑑賞」の別冊で出た文章上達法という本に書いてあったことだけは覚えている。それは、よい文章を書くには、「よく読み、よく考え、よく書く」ことだというのである。何のことはない、ごく当り前のことを言っているのだ。
 テレビはまだ見始めたばかりなので、どのように進むかわからないが、結局はごく当り前の話になるのではないかという気がする。別にそれはそれで立派だとは思うが。ただ、意地悪く言うと、最初に講師の人の文章を読ませてもらいたい。それを読んでから、続けて見るかどうか決めたい、と私は呟く。
 講師は、いい文章を書くにはということを再三口にしたが、人は本当に、いい文章を書きたいと思っているのかどうか。私自身、書き初めの頃は、いい文章を書きたいと漠然と思っていたが、いまでは全く思っていない。というより、いい文章というのがどういうものなのか、よくわからないというべきかもしれない。私が書いているのは、主として小説の文章だが、文章を書く努力はいい文章を書こうというのではなく、頭の中にあるもやもやとしたイメージをいかに文章に定着するかというところに注がれる。いい文章に定着するのではなく、ただの文章に、である。それがいいか悪いかは、私の関知するところではない。
 イメージが文章になる過程は一種のブラックボックスなので、自分の意識的な努力ではいかんともしがたい。先ほど文章読本の類を読んでも、何も得るところはなかったと書いたが、あるいはブラックボックスに影響を与えているのかもしれない。文章が現れると、意識的な努力で修正が可能になる。私が意識するのは、先ず、読み手に意味が通じるかどうかである。当り前と言えば当り前の話だが、これが結構むずかしい。書き手は頭の中にちゃんとしたイメージがあるから、この文章で意味が通じるかという疑問さえ浮かばない場合があるからだ。それをクリアすれば、今度は簡単な語句で表現しているかというところを見る。ややこしい言葉はなるべく使わない。そして次に、ディテールがきっちりと表現できているかということ。簡単な語句で表現するということと、ディテールがきっちりと表現できているということは、一見矛盾するようだが、私にとっては、どうもそれが要諦のようである。一筆書きの要領で、なるべく一言で表現したいという欲求がある。小説の文章は、読み手のイメージを喚起すればいいという観点から、なるべく簡単な表現のほうがイメージの広がりが大きいのではないかと思っているからである。そして最後に考えるのが、リズムである。何回か読み返してみて、リズムの悪いところは、語句を並べ替えたり、削ったりして、スムーズに流れるようにする。
 それで、一つの文章が出来上がり、次に進む。もちろんその文章が読み手のイメージを喚起するかどうかという保証は全くない。書き手にはもともとイメージがあるので、自分が読み手として読んでも、わからない。というわけで、書いてすぐの小説というのは、書き手にとっては、未知の存在である。イメージの残滓と感じられることもある。それが何年かたって、書き手としてのイメージが頭からなくなってしまうと、初めて純粋の読み手として、自分の書いた作品を読むことができる。イメージが文章になる過程は、おそらく可逆的であるので、書き手にとって自分の文章というのは、もっともイメージが湧くのではないか。ということは、面白いということである。自分の書いた小説は、何年か後の自分にとっては、面白い小説になる可能性があるわけだ(すぐれた小説かどうかは別にして)。少なくとも、そういう楽しみがなくては、こつこつと小説を書いている張合いがない。
 私は半分本気で、老後の楽しみのために小説を書いていると人に言うことがある。何年か後には、少なくとも一人の読者がいるというわけだ。
 皆さんも老後のために小説を書いてみてはいかが。
 

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