大阪市と守口市の境目、もう少しで大阪市という場所にマーナ美容室はあった。母が自宅を改装して店を開いた。それがいつだったのかはっきりとした記憶はないのだが、第二室戸台風が大阪を襲ったとき、店のガラスドアに掛かったカーテンの隙間から向かいにあった風呂屋の煙突が倒れるのを見たので、小学四年生の頃だろうと推測している。
美容室を開く五、六年前まで同じ場所で祖母と二人でうどん屋を営んでおり、閉店してからもたまに客がやって来ることがあった。
母がなぜ美容室を開こうと思ったのか。作品の中でも触れているが、三人の息子の教育を考えたら、父の給料だけでは不安があったのだろう。美容師の資格を取り、三年ほど他の店で働いてから開業した。
銀行から六〇万円の資金を借りるときは清水の舞台から飛び降りる気持ちだったと聞いたことがある。従業員を雇い、新聞に当日値引きを謳った新規開店のチラシを数千枚も挟んだが、午前中は一人の客も来なかった。青くなった母の顔が想像できる。昼頃に美容用品を納めてくれた問屋の社長が来店し、「そんな景気の悪い顔で坐ってても、お客さんは来ませんで。みんなで呼び込まな」と率先して外に出て、声を張り上げてくれた。そのお蔭か、午後からは客が殺到し、夜遅くまで夢中で働いたという。
母は福井生まれだが、七歳の頃父母が相次いで亡くなり、東京で一家を構えていた長男の下に引き取られ、そこで育った。親類に陸軍の偉いさんがいて、戦争中も物資に事欠かずお嬢さんとして高等女学校にも通った。東京の言葉が最後まで抜けなかったのはそのためである。
戦後、結婚して大阪に来たとき、こんなせせこましいところで生活しなければならないのかと暗然としたらしい。それでも子供が生まれると必死になって働かざるを得ず、次第に大阪にも馴染んでいったという。
佐田啓二という俳優が亡くなったのは昭和三十九年(一九六四)とあるので、私が中学一年の時か。従業員の女性たちが何やら騒いでおり、その一人の望月さんが「よっちゃん、佐田啓二が死んだのよ」と興奮気味に教えてくれた。私はその名を全く知らなかったので「誰」と聞いたが、「佐田啓二、佐田啓二よ」と繰り返すのみだった。その日の夕刊だったか、新聞で彼の略歴を知って、ああ、そうだったのかと納得はしたが、女性たちの興奮ぐあいは私には伝わらなかった。
結婚したばかりの望月さんの夫が交通事故で亡くなったのは、そのすぐ後のことだった。佐田啓二と同じ交通事故死だったことに私は何か因縁めいたものを感じたが、そのことを口にしてはいけないことは分かっていた。母と話し合っている望月さんは事実を淡々と受け入れている顔で、佐田啓二のときの興奮は微塵もなかった。
店の近くでアパートを借りて新婚生活を送っていたから葬儀も近くで行われたと思うが、その記憶は全くない。望月さんは滋賀の実家に帰ることになった。開店以来の従業員で中堅を担っている彼女に辞められるのは痛かったのだろうと思う。母は懸命に説得したようだが、彼女の両親の意向もあって一旦辞めることに同意し、気持ちが落ち着いたら戻ってきてほしいと伝えた。
しかし望月さんは戻ってくることはなく、実家近くで美容室を開き、再婚し、子供を育てることになる。美容室を開く時には母に相談に来たらしく、そのこともあって母と望月さんの付き合いは、その後も続いた。
母が美容室を辞めたとき、その慰労の意味もあったのか、望月さんが訪ねてきたことがあった。久し振りに見る望月さんは、貫禄というか太り気味の体に自信が漲っているようにみえた。
「先生、辞めるのもったいないわ」挨拶の後の開口一番がこれだった。母は笑って首を振り、子供たちも一人前になったし、やりたいことがいっぱいあるからと答える。
「よっちゃん」と望月さんは私に顔を向けた。「よっちゃんが美容師になるか美容師のお嫁さんをもらって後を継げばよかったのに」
冗談っぽい言い方の中に批難めいた口ぶりを感じて私は恐縮してしまった。大学を出たにもかかわらずアルバイトに明け暮れていることを知っているのだろう。私は何も答えず、笑ってごまかした。
確かに母は三人の息子たちの一人でいいから後を継いでほしいと思っていた節がある。男性のカットモデルとして見習いの従業員に髪を切ってもらったり、和服の着付けモデルになったこともある。母が二号店を豊中の庄内にオープンさせたときには、どういう理由だったか母に連れて行かれた。今から思えば、経営に興味を持ってあわよくば手伝ってくれたらと思っていたのかもしれない。残念ながら私には美容師にも美容室の経営にも全く興味がなかった。三歳年上の兄は私よりずっとファッションに興味があったが、父の死後、公務員を辞め、アメリカに英語留学に行ってしまった。四歳年下の弟に母が期待したのかどうかは知らない。
母の死後、弟から「大学四年生になったとき、学費は払ってあげるけど仕送りはしないって言われて焦ったよ」と聞いて驚いたことがある。家庭教師や飲食店のアルバイトで一年間を何とかしのいだらしい。二号店が三年足らずで閉店を余儀なくされた頃と重なっており、「人を使うのは難しい」と母がこぼしていたのを覚えている。資金繰りが苦しかったとは全く気づかず、母にも弟にも申し訳ないことをしたと思うが、気づいたとしても母を助ける気持ちになったかどうかは怪しい。いっそのこと全部畳んだらと言ってしまったかもしれない。
美容室で働いていたのは資格を持った者ばかりではなく、見習いの女性もいた。仲ちゃんこと仲北さんもその一人で、中学卒業と同時に開店まもないマーナ美容室にやって来た。細身でなよなよとした体つきだった。五歳しか年が離れていないので姉のように思ってもおかしくないのだが、そんな気持ちには全くなれず、ずっと年上の大人という感覚があった。
私が見習いの女性に姉という感覚を持ったのはそれから何年か後、隠岐出身の従業員の紹介で、高校を中退して入ってきた山口さんだった。彼女をモデルに作品を書いているのでここでは詳しく書かないが、近くのアパートを借りて住み込みで働くことがそういう感覚にさせたのだろう。仲北さんのように通いではなく、朝晩同じテーブルを囲んで食事をするのは大きい。彼女がテレビで目にする女優と同じくらい綺麗だったことも。
ただ仲北さんは仲ちゃんという愛称を今でも覚えているくらいだから、私だけではなく兄や弟とも仲がよかった。人見知りの私も気さくに話せる相手だった。
大学生の時だったか、店の慰安旅行に付いていったことがある。行き先は琵琶湖で、昼食の後、早速ビーチに出かけた。他の女性たちは濃い色のワンピースの水着で海の家から出てきたのに対して仲ちゃんはバスタオルで胴体を覆っている。何してんのん、はよ取りいなと一人に突っ込まれている。なんや、恥ずかしいわあと仲ちゃんは体をくねらせる。ははん、ワンピースではなくセパレーツを着てきたんやなと私は気づいたが、果たしてその通りだった。化粧品のポスターに見るような白いセパレーツだった。臍が見えている。胸のところにパットが入っているのか、やけに大きく見え、私はどぎまぎして視線を向けないようにした。
しばらくすると平気になったのか、仲ちゃんは陽光の降りそそぐ海に入って他の従業員たちと水を掛け合ってはしゃぎ始めた。私は遊泳区域を示すブイまで泳いで仰向けになり、ゆったりとした波にひととき身を任せてから岸に戻った。
砂浜のビニールシートに寝転んでいると、仲ちゃんがやって来て「ねえ、よっちゃん。レットイットビーってどういう意味」と聞いてきた。 「え?」
「今流れてるやん」 確かに海の家からビートルズの「Let it
be」が聞こえている。新しくリリースされたばかりの曲だったが、その意味を考えたことなどなかった。
「レットは何々させるということやから……それをビーである状態にさせておくという意味で……」
私は頭をフル回転させ、えいとばかりに「それをあるがままにしておけっていう意味やと思うけど」と呟くように言った。
「あるがままになんや。ええ言葉やなあ」 仲ちゃんはレットイットビーと小さく呟いた。
後で調べて、自分の言ったことがあながち間違っていないことを知ってほっとしたものだった。
仲ちゃんが何回見合いをしたのか知らないが、ある日、見合いの相手に手料理を食べさせることになって母からロールキャベツの作り方を教えてもらっている場面に出くわしたことがある。母の指示に、仲ちゃんが「はい」と頷きながら手を動かしている。そんな付け焼き刃で大丈夫なのかと私は思ったが、彼女の真剣な表情を見て、軽口を叩くこともできなかった。
結果はどうやらうまくいかなかったようで、付き添った母が肩を落として帰ってきた。美容師という職業が低く見られていることに落胆したようで、「世間の評価はまだまだそんなものなのよね」とつぶやいた。
「そんなところへ嫁に行かなくてよかったやん」と私が言っても、母の顔は晴れなかった。
仲ちゃんが結婚したかどうかは知らない。ただ、自分の店を持ったことは聞いている。
見習いで入ってくる女性は中学か高校を卒業してすぐの場合が多いのだが、遠山さんは二十代半ばの入店だった。家が貧しく母親も病弱で、美容師という資格を取って家族をずっと支えたいため事務職を辞めてきたということだった。母も事情を聞いて、一年以内に資格を取らせようと親身になって指導したが、うまくいかなかった。
不合格が分かった日、母は「絶対に受かると思っていたのに、おかしいわ」と口にした。集まっていた他の従業員も、遠山さんが落ちるんやったら私らも落ちてたわとか、試験官どこ見てんのやろとか口々に言って、大丈夫、次は受かるってと肩に手を置いたりした。遠山さんは俯きながら、学科で失敗したかもしれませんと呟くように答える。全員が遠山さんを慰める中、一人だけ白けた表情でその様子を見ている見習いの女性がいた。奈良県の十津川村から高校卒業後に入ってきて、遠山さんと同時期の美容師試験を受けたKさんだった。私は受かったんですけどとKさんがぼそりと言うと、母が顔を向けて「そうね、おめでとう」とあっさり言って、再び遠山さんの慰めに戻る。
さすがにそれはないんじゃないかと私は思ったが、そうなる理由も分からないではなかった。
入ってきた当初はいかにも田舎の娘という印象で垢抜けなかった彼女が化粧を覚え、髪形も変え、次第に綺麗になっていく。田舎から一緒に大阪に出てきた同級生の誘いを受けて夜の街に繰り出す。男の声で電話がかかってくる。Kさんは近くのアパートに住んでおり、門限の九時になると母が様子を見に行くことをしていたようだ。
それを破ったのだろう、母がKさんに説教をしている場面に出くわしたことがある。
「あなたの親御さんから私はあなたを預かっているのよ。だからあなたをきちんと育てる責任があるの。門限を決めているのもそのため。分かってるでしょ。夜遊びするのは成人になってからにしてちょうだい」
頭を下げて聞いていたKさんは「ごめんなさい」と神妙に答える。しかしそれからも門限破りはあったようで、近頃の若い子は分からないわとか、色気づくのが早いわとか他の従業員に愚痴をこぼしているのを聞いたことがある。
Kさんは美容師免許を取ってすぐに大阪市内の美容院に移った。遠山さんは試験勉強に専念するために店を辞めたが、一年後免許を取得して戻ってきた。
何年か働いた時、店の客から見合い話が持ち込まれた。その時遠山さんのつけた条件が「美容師を辞めないことと入信している宗教を認めてくれること」だったらしい。宗教という言葉に最初は違和感を覚えたが、次第に遠山さんならあるかもと思えた。見合い話はうまくいき、彼女は夫の赴任先に引っ越していった。
母の姉である伯母から親類の子を預かってくれと言われ、やって来たのが和田さんだった。中学卒業と同時に見習いになった。私と同い年だったので、何となく接しづらい感じだった。
一年ほど経った頃だろうか、母から「和田さんに数学を教えてやって」と言われた。
「えー」と私は声を上げた。意味が分からないのと嫌だなあという気持ちが入り混じっていた。
「和田さんがNHK学園に入ったのよ。それで数学が急に難しくなったらしいわ」
どうやら親御さんの意向で、高校だけは出ておいてほしいということらしかった。NHK学園というのはNHKの番組を観て学習する、一種の通信制の高校で、当時は四年制だった。私はそんな学校があるのを知らなかったので、へぇーと思ってしまった。美容師になる勉強も結構大変なのに、高校の勉強なんてできるのかと思ったが、口には出さず「ええよ」と引き受けた。
閉店後の店内で鏡の並んでいる側だけ照明を点け、その前のカウンターに横並びになって教えるのである。横並びといっても、彼女は丸椅子、私は客の座る椅子に腰をかける。丸椅子を二つ並べて坐ることもできたが、窮屈で近づきすぎることを嫌った私が最初からそういう形にした。
彼女がカウンターに教科書とノートを広げて分からないところを尋ね、私が身を乗り出してそれに答える。高校二年の私にとって、一年前に習った三角関数なので分からないことはないのだが、それでも前日に復習していた。雑談などは一切せず、家庭教師に徹すると決めていた。そんな私の態度が相手にも伝わったのか、彼女は私の言ったことに対して「はい」「はい」「そうですか」などと目上に対する言い方を崩さなかった。
私の家庭教師役は五、六回で終わったと思う。東京で初めてスクーリングを受けてから教えることもなくなったので、誰か友達ができて手紙で教え合っているのかもしれなかった。私がほっとしたことは言うまでもない。面白いことに、家庭教師をやらなくなって彼女と同級生のようなため口で話すことができるようになった。全国から集まったスクーリング生に接したことが彼女の頑張りを後押ししたのだろう、四年後無事に卒業し、その時には美容師免許も取得していた。
仕事ぶりは超がつくほど真面目で、見習いの時から洗髪が丁寧だということで指名が入るほどだった。母としては結婚しても店の中堅として働いてほしかったようだが、二十五歳の時親の勧めで見合いをし、地元に帰ってしまった。そして子供が生まれると美容師を辞め、子育てに専念するようになった。送られてきた写真を私も見せてもらったが、赤ん坊に頬ずりしている彼女の笑顔は、もう母親の顔だった。
初めて男性が見習いとして入ってきたのは、私が大学に入ってすぐだったろうか。夏休みになって名古屋の大学から帰ってきたとき、見慣れない若い男が店の奥にある台所で昼食を食べていた。人見知りの私はうまく言葉が出せず、会釈だけして二階に行こうとした。そのとき、店に通じるドアが開き、母が姿を現した。
「あ、義明、帰ってきたの、お帰り」 「ただいま」
そのまま階段に上がろうとすると、「義明、この人知ってるでしょう」と母は若い男に目をやった。若い男は箸を置いて立ち上がった。
えっと思いながら男の顔を見つめていると、「奥村哲也です」と彼は笑いかけてきた。それでもピンとこない顔をしていると「角の薬屋の……」と言い、それでようやく思い出した。小学校の高学年のとき、一緒に遊んでもらった薬屋のてっちゃんだった。あの頃高校生だったてっちゃんが彫りの深い顔をした大人の男になって目の前にいた。
「ああ……」 「奥村さんはね、美容師になるためにうちのところに来たのよ。仲良くしてあげてね」
母が言うと、「よろしくお願いします」とてっちゃんは頭を下げた。私も口の中で同じ言葉を呟きながら会釈をしたが、それ以上何を言ったらいいのか分からなかった。母の言った「仲良く」が何を意味するのか分からなかった。短い沈黙を打ち消すように「義明も荷物を置いて昼ご飯を食べなさい」と母が言い、私はほっとして二階に上がった。
てっちゃんが美容師を目指すというのが、私の中でうまく結びつかなかった。当時、男性美容師というのが珍しくて、ピンとこなかったのだ。「これからは男性美容師が増えてくると思うし、そうあってほしい」と母は言ったが、それは三人の息子に言っているようにも聞こえたし、男たちが大勢入ってくることによって美容師という職業の地位が上がることを望んでいるようにも聞こえた。
昼食時にてっちゃんと顔を合わせることがあっても、話らしい話はほとんどしなかった。彼が気を遣って大学のことなどを聞いてきたときに、それに答えるということはあったが。子供の頃、三角ベースの野球やドッジボールをした時など、てっちゃんの運動神経の良さはピカイチで、私は子供心にもてっちゃんは何かのスポーツ選手になるものとばかり思っていた。その彼が美容師になるということに、どこかがっかりする気持ちがあったのだろう。
夏休みが終わって名古屋に戻ると、学生運動が活発になっていて、てっちゃんのことなどすっかり忘れてしまった。そして冬休みになって年末に帰ってくると、てっちゃんはもういなかった。東京の名の知れた男性美容師の下に行ったとだけ聞かされた。その後てっちゃんがどうなったかは全く知らない。
母が兄の結婚を機に美容室を閉じたのは六十歳になるかならないかの頃だった。店を改装して兄たちの住居にし、母は近くにすでに建てていた家に移った。
思えば二十年足らずの美容室だったが、私にはもっと長かったという感覚がある。おそらく子供時代の十年間が含まれているせいでそう感じるのだろう。
母は茶道と華道の師範の免許を取って人に教え、さらには俳句、日本画、それらを組み合わせた俳画にも挑戦した。仕事も子育ても終え、還暦以降の第二の人生を謳歌したと言える。
そんな母が認知症の症状を見せ始めたのは八十半ばの頃だった。医者の診断はアルツハイマー型認知症で五、六年もすれば身内の顔も忘れてしまうかもしれないということだった。兄は子供の喘息を軽減するため、明石に近い神戸の西に建売住宅を買って引っ越していた。私は結婚しても近くに住んでいたので、一人暮らしの母の様子を窺う役目を担った。九十歳の時階段を踏み外して大腿骨頚部を骨折し、人工骨を入れる手術をし、もう一人暮らしはできないということで、兄が母を引き取った。認知症が進行し、施設に入れたのが四年後のことで、私は初めて出版した歴史小説の本を持って施設に行った。
施設は明るくて清潔で、母の一人部屋も光が溢れていた。最初、兄のことが分からなかった母も「いつも来てるやんか。息子のト、モ、ア、キ」と兄が自分を指さすと、「ああ、友昭か」と顔を綻ばせた。兄が電動ベッドの背を起こす。頬はいくぶんこけていたが、しっかりとした目で私を見た。
しかし母は私のことが分からないようだった。二年前はすぐに私のことを義明だと分かって涙を流した母が他人を見るような目で見ている。
「お母さん、次男の義明やで。覚えているやろ」
兄がそう言っても母の表情は変わらない。私は取りあえずここに来た目的だけは果たそうとバッグから本を取り出した。そして「これ、僕が書いた本」と言って、母の目の前に差し出した。本好きの母ならこれで興味を持って私のことを思い出してくれるのではという期待もあった。
しかし母は本を手に取ろうともしない。私はすぐに本を引っ込めた。一緒に来ていた私の妻が施設のことについて兄と話している。その様子をにこやかに見ていた母がキッとした表情になって私に目を向けた。
「いつまでここに閉じ込めておくの」
怒りの籠もった声だった。私は戸惑った。息子だと認識して放った言葉だったのか、そうではないのか。何と答えたらいいのか分からず、私は曖昧なまま首を振った。私のことを施設の人間だと思ったのだろうというのは後から思ったことだった。
結局、本は渡せず、施設を後にした。 それ以後、母に会いに行かないまま、三年後、老衰のために九十八歳で亡くなった。
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