外出自粛 津木林 洋  コロナのせいで、外出を極力控えている。特に、対面での会合は余程のことがない限りお断りしている。  いくつかの同人誌から、新しい号が出たので合評会に参加して欲しいという依頼が来て、オンラインなら参加する旨を伝えると、オンラインとの併用は難しいので、残念ですがという返事が来た。「せる」の例会もこのところオンラインを併用しているが、会場と端末を使って結ぶのは、意外と難しい。会場だけ、あるいはオンラインだけ、にする方が運営は楽だ。ただ、オンラインはある程度、機器に精通した者がいないと、始めるのにハードルがある。一旦始めてしまえば、大して難しくはないのだが。  外に出ることは滅多にないといっても、夕方のウォーキングは人と密にならないので、ほぼ毎日行っている。淀川の川縁なので気持ちがいい。ムクドリやハト、カラスに混じって、時折キジが姿を見せる。草木の移ろいもあって、もし、ウォーキングができなければ結構ストレスが溜まるだろうなとは思っている。  日本はまだ爆発的な感染情況にないので、感染する確率は低いとは思うものの、万が一感染した場合、重症化の可能性の高い高齢者に属している身としては、用心するに越したことはないというのが偽らざるところである。感染したら、十発中一発が実弾であるロシアンルーレットをしなければならないような感覚。若ければ千発か一万発に一発くらいの感覚だろうなと思う。  こんなふうに我慢できるのは、この情況がいつかは終わると思っているからだ。治療法が確立し、ワクチンができて、コロナがインフルエンザと同じくらいの死亡率になれば、コロナ以前の生活に戻るだろう。それはいつ頃になるのか。年内にはワクチンができそう、などという話を聞くが、ノーベル賞を取った某先生に言わせると、それは楽観的すぎるらしい。普通五年から十年はかかるものが、いくら金をつぎ込んでも半年やそこらでできるわけがない、と鼻で笑う姿を見た。  もし、治療薬もワクチンもできなければ……。その時は、ロシアンルーレットの引き金を引く覚悟を決めて、外に出て行くだろう。ただし、マスクは忘れずに。  コロナ禍が終息しない今の情況において、現代小説を書くのは難しいと感じている。大阪文学学校の私のクラス(Zoomによるオンライン)では、コロナを背景にした作品は未だ出てきていない。コロナ以前のものばかり。中には、わざわざ西暦年を入れて、それを明示するものもある。テレビ番組で、「これは二〇一九年十月に撮影しました」などというテロップが流れるのと同じだ。  なぜ難しいのか。おそらく、コロナを背景にしても、それを生かした作品が作りにくいからだろう。人と人が会うのが難しいという情況は使えても、それはコロナの上っ面を撫でているだけで、もっと深いところまで手を届かせるにはどうしたらいいのか、考えあぐねてしまう。私も一つの作品のアイデアを思いついたが、単に情況を使っているだけという気がして、ボツにしてしまった。  となると、現代を舞台にせず、過去を舞台にしたらいい、ということになる。幸い歴史小説を書いたことがあるので、コロナが終息するまでそちらで遊ぼうかという気持ちもある。大正時代の大阪を舞台にした作品のアイデアがあるので、それに取り掛かろうか、あるいは書き慣れた江戸時代を舞台にしようか、などと思いを巡らしているが、なかなか踏ん切りがつかない。書くのならやはり今でしょ、今のコロナを書くのが筋でしょ、という思いが消えないのである。  こんなふうにうろうろしている間にコロナが終息してしまい、あれは何だったのかと首をひねることにもなりかねない。それはそれで書けるかもしれないが。