私の留守中に林さんから電話がかかってきたことがある。家内が受けたのだが、その時「林さぶろうです」と名乗ったという。電話でフルネームを言うことが珍しいので、家内の頭には一発でその名前が定着した。従ってその後改名した谷垣京昇は我が家では使われず、林さぶろうというのがもっぱらその人の名前だった。林さんではなく、林さぶろうさんときっちり言わなければ、何となく感じが出ないというふうになってしまった。
林さんが「せる」に入会したのは一九九九年のことだったと思う。上月さんと一緒に奥野さんが誘ったのだ。その時、奥野さんにペンネームにした方がいいと言われて林さぶろうにしたと聞いた。由来を聞かなかったのはごく普通の名前に思えたからだ。三郎というような漢字ではなく、さぶろうと平仮名にしたところに林さんのこだわりを感じたが、今から思えばその由来をきちんと聞いておけばよかったと思う。
翌二〇〇〇年に文校修了生の玄月さんが芥川賞を受賞して、それを機にNHK大阪が大阪文学学校のドキュメンタリー番組を制作した。三人の文校生を取り上げたのだが、そのうちの一人が林さんだった。画面には林さんが長年勤めた金属加工の工場を訪れる場面が映り、原稿用紙に向かって手書きしている姿が放映された。手書きとはいかにも物書きふうで恰好いいと思い、そのことを告げると、「いやあ、あれはヤラセでんねん。手書きなんかしたことないのに、ワープロでは感じが出ないと言われて仕方なく」と林さんは苦笑いをした。
そんな林さんから、某文学賞に応募したいので読んでくれないかと言われたことがある。なぜ私にと思ったが、純文学でもないエンタメでもない作品を書いている私に近しいものを感じてくれたのかと引き受けることにした。百枚ほどの作品で、川の中州を舞台に、職を失った男と周りの人間たちとの関わりを描いている。ヤクザ、ホームレス、スナックのママとホステスなど一癖も二癖もある人物を描きながら、人生のペーソスを感じさせる林ワールドが立ち上がっている。ただ、賞レースを勝ち抜くにはどこかひりひりした部分もあった方がいいのではないかと思い、一人ぐらいどうしようもない悪人を登場させたらどうかと提案してみた。林さんは考えてみますと答えたが、書き直して応募したのかどうかも分からず、数ヶ月後の賞の発表には林さんの名前はなかった。
その作品が「せる」64号に載った「毛斯倫(もすりん)橋」である。ワルは出てくるが、本当の悪人は出てこない。一読、あれ、この作品、こんなに面白かったっけと私は思った。書き直しはしたが、私の提案を採用しなかったのは、そうすると自分の世界が壊れてしまうと林さんは考えたのだろう。賞に対する戦術を考えた私は、それに囚われて作品の良さが見えていなかったのかもしれない。
自分の世界を持つのは強い。今更ながら、私は林さんの作品に教えられている。
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