「せる」と私       津木林 洋


 同人誌には二種類あると私は思っている。
 一つは、一人の人間が主宰になって、彼の下に人を集めて作るもの。
 もう一つは、主宰などおらず、書きたい仲間が集まって作るもの。
 私は二十歳になった頃、名古屋を本拠とする同人誌『作家』の会員になった。戦後第一回目の芥川賞を受賞した小谷剛の主宰で、同人百名余りを誇る全国規模の同人誌だった。もちろん入る前はそんなことは少しも知らず、その当時名古屋の大学に在学中だった私が書店で雑誌を見つけたのだ。
 そこにいくつかの作品を発表して、同人になった。二十四歳の時だった。そのまま名古屋におれば、大阪文学学校とも無縁で、「せる」の創刊に加わることもなかっただろう。
 たまたま父親が癌で亡くなり、大阪に戻ってきた私は、関西在住の同人たちと『作家』関西例会を立ち上げたのだが、その時大阪文学学校の存在を知った。ちょっと行ってみるかと私は思った。すでに作品発表の場があるにも関わらずそんなことを思ったのは、不安だったからだ。
 小説を読むのが好きで、自分でも書いてみたいと思って書き始めたのだが、大学は理系で文学の勉強をしたことはない。このまま無手勝流で書いていっていいものか、一度きちんと学んだ方がいいのではないか。そんな思いでいたところに、文学学校と名の付いた場所があれば、これは行かざるを得ないではないか。
 入ってみて、学校というよりは道場という趣で、私のイメージとは違っていたが、そこで「せる」の創刊に誘われたことが大きかった。最初は同人誌を立ち上げる過程を見てみたいと思っただけだった。どうせ三号くらいでつぶれると思っていたし、『作家』という別の書く場を持っていた身としては、「せる」を存続させようという気もなかった。
 創刊号に掌編を四つ集めて載せた。それで一応役目も果たしたし、いつ辞めてもいいくらいの気持ちだった。
 ところが二号の作品が集まらないということで、編集委員から何か書けとお達しがあった。頼まれると何か捻り出そうとするのは今も変わらない。幸いネタがあったので、結構長い作品を書いた。思えばその頃一号置きに何か書いていた気がする。そうこうしているうちにすっかり「せる」にはまってしまい、『作家』よりも「せる」がメインの発表場所になってしまった。
「せる」が居心地のいいのは、主宰がいないからだろう。『作家』では小谷剛が主宰なので、どうしても彼がどう読むかということが頭から離れない。小谷剛自身は、自分は作家であると同時に編集者でもあるので、自分の文学観に合わないからといって排除することはないと公言していたにもかかわらず。
 それに対して、「せる」では奥野忠昭さんという中心はいるが、主宰という感じではないし、彼の文学観を押し頂く必要はない。合評で本気になってぶつかり合うことが何度もあった。
 もちろんどちらがいいとか悪いとかを言っているのではない。カリスマの主宰の下、彼の文学観に心酔して集い、作品を書くのもよし、各々の文学観に基づいて好きに書くのもよし、要は自分の書き続けられる場であることが大事なのだ。
 これからも「せる」には新しい書き手が入って来るだろう。その人たちがのびのびと書ける場として「せる」が存続すれば、言うことはない。

 

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