怒りが小説を書かせる     津木林 洋


 私は大阪文学学校で、週二回、昼間と夜間のクラスを担当しているが、昼と違って夜は年齢層が若くなり、大体三十代から四十代前半の人が中心になっている。バブル崩壊後に社会に出て就職難に翻弄された、いわゆる失われた二十年の世代に属している。派遣社員とかアルバイトで生計を立てている人の多い傾向は十年ほど前から続いている。
 私は、彼らの中から自分たちをモデルにしたリアルな小説が出てくるのではないかと半ば期待していた。というのも、七年程前に小林多喜二の「蟹工船」がにわかに脚光を浴び、異例の大部数が売れたからだ。自分たちのことが書かれていると共感しながら読んだ読者が大勢いたに違いない。それに触発されたら、昔のプロレタリア文学ではないが、今風のプレカリアート文学とでも称すべき、自分達の怒りをぶつける作品が出てきてもよさそうなものだと思ったのだ。
 しかし実際には全く出てこない。小説に社会性を持ち込むことはダサいと思っているのか、あるいは自分の現状は自分の責任であって時代は関係ないと思っているのか。ひょっとしたら長年のボディブローで体力が奪われ、社会に目を向けることさえできないのかも知れない。
 ずっと派遣で働いているクラス生がいる。大学卒業の時、二百社余りに履歴書を送っても面接までたどりつけたのは数える程で、結局正社員になれなかったのだ。彼にファンタジーだけではなく一度自分の生活をリアルに書いてみたらと勧めたことがある。そうしたら即座に「いやです」という答えが返ってきた。
「どうして」
「楽しくないから」
 確かに自分自身をモデルにすることは、自分の弱さや傷をさらけ出すことになって痛みを伴うだろう。しかし、自分を見つめることは自分を客観視する地点に立つということであり、その地点から自分を通して社会が見えてくることでもある。そのことによって小説の中に怒りを解き放つことができるのだ。
 私が勧めても彼は書きそうもないが、何か別の切っ掛けがあれば書くのではないか。そう思っていたところへ、今度の新たな安全保障関連法制を巡る問題である。ここではその是非については問わないが、私が注目したのはSEALDsを中心とした若者達の行動である。これほど多くの若者達が政治に異議申立をしたのは、七十年安保の時以来だろう。為政者の言うことに黙って従う必要はない、異議があれば堂々と主張していい、ということを身を以て示してくれた功績は大きい。健全な民主主義が機能していることの証しでもある。
 このことが切っ掛けとなって、政治社会に物申す作品を書く気になってくれれば、彼も一皮むけるに違いない。
 それに対抗するかのように、政府から首を捻るような動きも起こっている。文部科学省の、国立大学の人文系学部・大学院の規模を縮小するという素案である。
 言葉には、情報を伝える手段だけではなく、考える道具としての役割もある。人文系の学問はまさに言葉を考える道具として使いこなすためのものである。社会に対する利益が見えないからといって、それらの学問を縮小、あるいは廃止すれば、考える道具として言葉を使う人間が少なくなっていく。為政者の側からすれば、考えない人間が増えてくれば統治しやすいだろうが、長い目で見たらそんな国は衰退していくに違いない。
 文部科学省の素案を聞いて、戦争中の、文科系の学生を兵隊にする、いわゆる学徒動員を思い浮かべたのは私だけではないだろう。

 

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