歴史・時代小説の隆盛     津木林 洋


 私の若い頃(四十年程前)、歴史・時代小説を書く作家はそんなに多くはいなかった。歴史小説で言えば司馬遼太郎が筆頭で、時代小説では池波正太郎とか柴田錬三郎が作品を発表していた。読まれるのは一部の作家だけで、今のように書店で歴史・時代小説のコーナーが作られるようなことはなかった。時代物がさっぱり売れなくてという書店員の嘆きを聞いたことがある。
 それが今はどうだろう。コーナーが作られ、単行本だけではなく書き下ろしの文庫本も数多く並んでいる。新しい作家も次々と誕生している。
 それはわたしの担当している小説クラスでも同様で、十五年前にはほとんど見掛けなかった歴史・時代物が頻繁に提出されるようになった。飛鳥時代から始まって、平安、戦国、江戸と幅広い年代に渡って書いてくる。どうしてそんな時代の物が書けるのか不思議だが、かく言う私も生徒たちの作品に刺激を受けて歴史小説を書いてみた。
 若い頃、ある作品を読んで幕末の絵師に興味が湧き、漠然と小説にできたらなあと思っていたのだ。しかし、自分に歴史小説が書けるとはこれっぽっちも思っていなかった。この目で見たことも聞いたこともない人物、風俗、言葉遣い、それらを文章で表すことなど到底できないと思っていた。要するにハードルが高かったのだ。そんなハードルを生徒たちは軽々と越えてくる。ひょっとしたら案ずるより産むがやすしかも、と背中を押された。
 ただ、何の知識もなしに書けるほどハードルは低くない。時代考証事典の類いを何冊か読み、食べ物や衣装の本を買い、旧暦の勉強もした。言葉遣いはどうしているのかと有名作家の小説をいくつか読んだりもした。
 基礎的な知識を身に付けた後は、登場人物の資料を集めなければならない。その中で気づいたことは、インターネットの便利さである。歴史上の人物ならば、無名に近くても検索に掛かる。それである程度の輪郭がつかめる。小さな時代風俗についても調べられる。
 司馬遼太郎が一つの作品を書く時、懇意にしている古本屋に頼んで、トラック一台分の書籍を運ばせたという逸話を聞いたことがあるが、今の時代、インターネットが古本屋の代わりをしているのだろう。書き手にとって書きやすい時代になったと言える。
 書き手が増えてもそれを読む読者がいなければ流通しないわけで、売れているということは数多くの読者が存在していることに他ならない。
 なぜ歴史・時代小説を読む読者が増えたのか。色々な理由が考えられるが、私が思うのは、一九九〇年にバブルが崩壊して日本が下り坂に向かい、失われた二〇年と称される時代が影響しているのではないかということだ。未来に明るい展望の見えた高度経済成長の時期とは違って、下降する時代が、人々の目を未来ではなく過去に向けさせるのではないか。自信を失った人々が過去の日本人の姿を見て、ほんの少し自信を取り戻す。その言わば保守的な欲求に作家たちも無意識のうちに応えているのではないだろうか。 

 

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