「作者ひとこと」「……?」     津木林 洋


 合評会で自分の作品が批評されるとき、一番苦手なのは、みんなの意見が出尽くしたあと、「作者ひとこと」と言われることである。どうにも困るのである。万事窮してしまうのである。
 小説を書く人間には、自分の作品の解説を喜んでするタイプと、全くしないタイプとに別れるそうだが、私はもちろん後者に属する。全くしないというより、出来ないといったほうが正確かも知れない。とにかく言うべきことが見つからないのである。それで仕方がないから、どうしてプロットを思いついたのかといったことや、書く上での苦労などをぼそぼそと呟いて、お茶をにごすことになる。
 その場にいる人間はそんな話ではなくて、作者の言いたいこと、テーマは何かという話を期待しているのは痛いほどわかるのだが、それについては、どうにもしゃべりようがないのだ。別に出し惜しみをしているわけではない。こんなことを言うと、小説を書いている他の人に笑われそうだが、私はテーマをはっきりとつかんで小説を書いているわけではない……たぶんそう思う。何よりもまず、プロットが浮かぶのである。初めにプロットありき、だ。
 他の人が書くという行為をどのように捉えているか知らないが、私は乗馬にたとえて考えることがある。文章を書くとき、書くという行為と同時に読むという行為をやっていることは皆さんご存じだと思うが、その書くという行為のいまだ文章になりきれない部分を馬にたとえ、文章が形をあらわし、それを読み、修正する部分を騎手にたとえるのである。簡単に、無意識と意識というふうに考えてもいいかも知れない。
 テーマというのは、私にとってどうも馬に属する部分のような気がするのである。馬は何も話してくれないので、騎手は馬の気持を推しはかるしか手がない。もちろん長年一体になって走っていると、馬の気持がある程度つかめるかも知れないが、それとても多分こういうことだろうという推測の域を出ないにちがいない。
 どうも無責任のような言い方だが、テーマなり言いたいことは私の作品をよんで、読者に感じてもらうしかない。騎手に関することなら、いくらでも話すことはあるのだが。
 もっとも私だって、合評会の時など、思わず「この作者は何を言いたいんだ」と言いそうになり、また実際にそう言うことを口走るが、それはつい読者の立場にたって物を言ってしまうからであって、書き手としては上に述べたようなことを考えているのだ。だから、言うことが矛盾しているなどとは、言わないでいただきたいのである。
 話は変わるが、書くという行為を馬と騎手が一体となって走る行為と捉えると、才能と努力の関係もうまく説明できそうである。騎手がいくら努力しても、駄馬ならば競走に勝てない。反対に、騎手がたいして努力しなくても、天才的な馬ならば、らくらく競走に勝つ。そこそこの馬ならば、後は騎手の訓練しだいだろう。
 私が読書会や合評会に出席するのは、まさに騎手の訓練をしているのである。しているつもりである。自分の読んだ作品を他人がどう読んだかを知ることによって、訓練できると信じているからだ。自分の乗っている馬は替えようがないが、努力することによって、何とかうまく走れるようになりたいと思っている。
 

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