他人の視点に立つ営み     津木林 洋


 大阪文学学校に入学したら、ただちに提出作品の締切を決める。私が四十年前に入った頃は作品提出は任意であったが、今は強制的に書いてもらう。学校という名前なのだから、手取り足取り書き方を教えてもらえると思っていた人はそこでえっと驚くことになる。
 昔、某水練学校では初心者をいきなりボートに乗せて沖に連れて行き、海に投げ込んだそうだが、いきなり小説を書かせるのも似たようなものである。
 なぜそうするのか。水泳ならば今では教える方法が確立しているので、そんな荒っぽいやり方をする必要はないが、小説にはそんな方法はない。もしあったとしても、そんなマニュアルに沿って書かれた作品が優れたものになるかどうかは怪しい。小説というのは定義の難しい、曖昧模糊とした文学形式なので、マニュアルをはみ出してしまうからである。
 といってもそれでは余りにも取っ掛かりがないので、一回目に講義らしきことはする。短編を書くなら、登場人物は少なく、現在時間は短く、できれば一人称の視点で、説明はしないで描写で、題材は身の回りのもので。しかし、それまで一度も小説を書いたことのない人にとっては、現在時間、視点、説明、描写と言われても何のことか分からない。読むだけなら、そんなことを意識する必要が全くないからである。だが、書くとなると途端にそのことを考えざるを得なくなる。プロの作家はどのようにして小説を書いているのか。初めてそういう目で他人の作品を読むことになる。いきなり書かせるのは、そういう意識を持ってもらうためでもある。作品の善し悪しは二の次、まずは自分の中のイメージを言葉にする訓練をする。
 新入生の中には、小説を書いたことのある人もいて、その人たちから締切が埋まっていく。週一回のゼミで二作品を合評するので、どんなに遅くても二ヵ月後には自分の番が回ってくる。初心者は何を書いたらいいのか分からないと嘆きながらも、他人の作品を読んで合評を繰り返すうちに、何かしら作品が書けるようになってくる。十五年間で六百回余りの合評をしているが、書けなくて穴が開いたというのは三回ほどしかない。それだけ締切というのは強制力があるということだ。徹夜して書きましたという人が何人も出てくる。
 一年間に大体四作ほどの提出機会があるが、皆苦しむようである。書き直しを出すのは認めていないので、すべて新作になる。職業作家でもそんなには書けないのに、である。
 一回目の時に、これからは常に小説を書くという意識を持って生活をすること、というアドバイスをしていて、そういう目で自分の周りを見ていると、題材になりそうな事柄が引っ掛かってくる。
 視点を変えるというのも書く切っ掛けになる。今まで自分の視点からしか見ていなかった事柄を、他人の目から見てみるのである。そうすると、小説になりそうもないと思っていたことが急に精彩を放ってくることもある。
 小説を書く場合、一人の登場人物だけで話を進めるのはまれで、大抵は複数の人物が登場する。その場合、それぞれの人物は違う視点を持っているので、作者はその一つ一つの視点に立たなければ話を進めることができない。小説を書くということは、自然に他人の視点、立場に立って物事を考える作業をしていることと同じである。
 私は、自己中心的な人には小説が書けないと言っているが、それを矯正したいと思うのなら、小説を書いてみることをお勧めする。

 

もどる