大阪文学学校の魅力     津木林 洋


 大阪文学学校ができて六十年になる。詩やエッセイ、小説の昼間と夜間のクラスがあり、修了生は一万二千人を超える。その中から、文化勲章受章の田辺聖子さん、二〇〇〇年第百二十二回芥川賞受賞の玄月さん、最近で言えば、去年第百五十回直木三十五賞を受賞した朝井まかてさん、今年惜しくも第百五十二回直木賞を逃した木下昌輝さんらが出ている。
 私は二〇〇〇年から小説の講師をしているが、玄月さんの受賞効果で新入生が五割増しになった年だった。去年も朝井さん効果で、入学者がぐっと増えた。
 芥川賞直木賞はメディアに大きく取り上げられるので、それを見た小説家志望の人たちが、大阪文学学校に入ればひょっとしたら自分も、と思うのも無理はない。そんな大きい賞には手が届かなくても、新人賞くらいを取って職業作家の端っこにでも席を占めることができたら、という気持ちなのだろう。
 しかし、職業作家への足掛かりをつかむのはそんなに簡単ではない。
 今まで私のクラスに在籍した人の数は二八〇名ほどだが、その中で新人賞を取ってプロのスタートラインに立ったのは四名、そのうち今も書き続けているのは二名に過ぎない。全員が全員、小説家志望ではないにしても、その割合はかなり低いと言わざるを得ない。
 それでも人(特に若い人)は夢を抱いて入学してくる。文学学校は職業作家の養成を目的にはしていないけれども、私は、小説家になりたいと願う人には何とかその足掛かりをつかんでもらいたいと応募作品にアドバイスをしたりして、応援している。

 文学学校は小説の書き方を教えるところではない。というか、書き方は人それぞれなので教える方法がないといった方が正確である。基本は、自分の作品を持ち寄って皆で読み合い、感想、批評を述べる、いわゆる合評という形式を主体にしている。文は人なりという言葉はまさにその通りで、隠そうと思っても自ずと自分が現れるのが文章なのだ。だから自分の書いたものが他人に読まれるというのは、かなり恐いことである。自分の言いたいことやイメージした場面が本当に伝わるのか。面白いと思ってもらえるのか。そもそも最後まで読んでもらえるのか。途中で投げ出されはしないだろうか。
 他人の批評を聞いて初めて自分の作品が見えてくる。独りよがりで書いていた箇所を厳しく指摘される。私の役目は、どうすれば作品がよくなるか、どう考えれば更に一段高い作品が書けるようになるかを指摘することである。初心者には書き続けてもらうことが大事なので褒めることを優先するが、小説家志望の人には若干厳しく接するようにしている。書ける人はその方が伸びるようである。
 週一回の合評が終れば近くの居酒屋で二次会を行う。文学の話だけではなく、社会や自分自身の仕事の話など話題は尽きない。そこにはネットでは得られない、生身の繋がりがある。
 何かを書きたいという気持ちさえあれば、年齢、性別、職業などを超えて面と向かって話し合える場所、それが大阪文学学校である。
 

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