話は三十七年前に遡る。
前年の一九七七年の九月に一年間の本科を終えて、大阪文学学校を離れていた私に、後期のチューターだった奥野忠昭さんから葉書が届いた。奥野クラスの修了生たちがやっている読書会に参加しないかという打診だった。
それまで一度も読書会というものを経験したことがなかった私は興味を惹かれて、会場まで足を運んだ。
そこで初めて清水康雄さんに出会った。黒縁眼鏡を掛けた顔に笑みを浮かべながら、よく通る声で話す。何のテキストだったかは忘れたが、彼の言うことが鋭くて的確で、へえーと驚いたことは覚えている。
フランスのヌーボーロマンという作品群を知ったのもその読書会だった。彼は海外文学も数多く読んでおり、私も負けじとばかり読書の幅を広げることに懸命になった。
読書会を発展させて同人誌を作ろうという話になった時、私の背を押したのも彼の存在が大きかった。その頃私はすでに名古屋を本拠とする同人誌に所属していて、作品発表の場があったにもかかわらず参加を表明したのは、自分の作品が彼にどう読まれるかを意識していたからに他ならない。
「せる」を作る時、奥野さんが、書き手ばかりではなく的確な批評のできる読み手も揃えたいと考えたことが、ずばりと当たったことになる。
「せる」では同人同士の付き合いは密にせず、いわゆる淡交≠ナ行くことに暗黙の内になっており、私も彼のプライベートはほとんど知らなかった。よく聞いたのは仕事のことだった。
当時、コンピュータがメインフレームからオープンシステムにダウンサイジングされる時代で、彼は経理の仕事の一環として会社のシステム変更の担当をしていたようだった。同人仲間でコンピュータの話のできる相手は、理系の大学を出た私しかいないと思っていたのかどうか、トラブル続きでうまく行かないという話を具体例を挙げて笑い話のように聞かされたものだった。
システム立ち上げの仕事が終わると、その後人事の仕事に携わった。「ジョハリの窓」という自分を見つめる心理モデルを教えてもらったのも、その頃だった。
どんな仕事でもそつなくこなすだろうと思わされるのは、活字体のような筆跡を見ても分かる。「せる」創刊の時、誰を対外的な表の顔として代表者にするかとなって、自ずと彼になったのは、当然のことだったのだ。
毎月顔を合わせていた人間が急に例会に来なくなる。何らかの病気かもしれないと心配してメールや電話をしても、全く応答がない。人には言えない恥ずかしい病気かも、と笑い話をしていたら、九月の終わりに突然大阪文学学校から電話が掛かってきた。妹さんから連絡があって、清水さんが九月十一日に亡くなったと言うのだ。
絶句した。
退職後のだらだら生活をリハビリするために、三十数年ぶりに大阪文学学校に再入学したことは聞いていた。そのために連絡があったのだろう。「せる」の誰にも連絡がなかったのは、文学学校から漏れ伝わるだろうとの思いがあったに違いない。いかにも彼らしい身の処し方と言えば言える。死に際を煙がすっと消えるように静かにしたいとの思いだったのだろう。
一ヵ月ほど経って、私の留守中に、妹さんから電話が掛かってきた。家内が出た。家内は、結婚当初「せる」の例会に出席したことがあり、村上春樹の作品をすべて読んでいる家内と彼の間で、ファン同士の親密さがあったのだ。
そのことを告げてお悔やみを述べると、妹さんが一時間ばかり話をしたという。その中で、彼が大学卒業後就職した会社を辞めてから、腎臓病で数年間療養をしていたことや、怪我で手術をしたときの輸血でC型肝炎になって、最後は肝硬変で亡くなったことを知った。死後の処理のすべてを生前に書類にまとめ、妹さんはそれを実行するだけだったらしい。
文学学校再入学は、リハビリとは言いながら、内心期するものがあったに違いない。「せる」に載った最近のエッセイは多分にフィクションを含み、エッセイ風小説と言っても過言ではなかったから。
小説を書くという土俵の外から的確なコーチのように批評を送ってくれる存在から、自身がプレイヤーになって土俵の中に入ってこようとした矢先に病に倒れたことは、本人にとっても無念だったろう。残された我々は、彼の声なき声を聞いて、創作に励むしかない。
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