我が家に三本足の猫が来てから、二ヵ月になる(五月二十八日現在)。
十年近く淀川の川縁で餌をやっていた野良猫なのだが、右後脚を骨折し、診
察の結果、断脚ということになった。その辺りの事情をmixiの日記にリア
ルタイムで次のように書いた。
三月十五日
昨日、女房と淀川縁にウォーキングに行き、顔なじみの野良猫まるこにキャ
ットフードをやろうと思ったが、姿が見えない。誰かに餌をもらって引っ込ん
だのかと思っていると、遠くから猫の鳴き声がする。まるこに違いないと待っ
たが、なかなか姿を現さない。いつもならすぐに出てくるのにと思っている
と、しばらくして河原の藪の奥から何かがゆっくりとこちらに動いてくる。
まるこだ。しかし、どうも動きがおかしい。三本足で歩いているようだ。
上がってきたまるこは右後ろ足を宙に上げ、ぶらぶらさせている。骨折して
いるような足の動きに、どきりとする。
女房がしゃがみ込んで、まるこの右足に恐る恐る触れるが、まるこはびくん
と足を引っ込める。私もしゃがみ込み、右足の根元を注意深く見た。毛が禿げ
てわずかに赤い筋が見える。どうやら犬に噛まれたようだ。
キャットフードをやろうとブロックの上に載せると、まるこは三本足で器用
に上って口を近づけるが食べず、また降りてしまう。
どうするか、地面に座り込んだまるこを間にして女房と話し合う。動物病院
に連れていくにしても日曜なので開いているかどうか分からない。
そもそも素直に連れて行かれるかどうかは疑問だ。暴れる可能性は十分あ
る。そうなるとむしろ怪我に悪い。怪我の状態がひどくてぐったりしているの
なら、考えるまでもなく連れて行くのだが。
取りあえず段ボール箱を用意しておとなしくそこに入るのなら、家に連れて
帰ろうということになり、私が取りに戻った。
マンションのゴミ置き場で適当な段ボール箱を物色し、それとバスタオル二
枚を手に、自転車で急いで戻ってみると、女房が突っ立っていた。まるこの姿
がみえない。どうしたと聞くと、藪の奥に戻っていったと、その場所を指さし
た。
私がいない間、女房は藪の奥で畑を作っているおじさんに会ったと言う。お
じさんもまるこが怪我をしていることを知っていて、まるこがいつもねぐらに
している場所を教えてくれたらしい。
女房の案内で初めて奥の畑に行った。柵で囲ってあり、何本も畝のある一郭
に半円形の小さなビニールハウスがあった。おじさんがまるこのために作って
くれたようだ。まるこはまだ戻っていない。まるこはそのビニールハウスか、
少し離れたところにある道具小屋の床下で寝ているということだった。
十年近く餌をやっているが、まるこのねぐらを見たのは初めてだった。
おじさんは「ミミは十年も野良暮らしだから家で飼うのは無理だろう」と言
ったという。
おじさんにとって、まるこはミミなのだ。しかも私たちと同じくらいの付き
合いだ。餌も与えているということで、ははんと納得するものがあった。
四、五年前まるこの姿が急に見えなくなり心配していたが、一ヵ月程たって
現れた。その時、右前足を若干引きずるようにしており、怪我をしていたこと
を知った。一ヵ月の間餌はどうしていたのか疑問だったが、そういうことだっ
たのだ。
結局、この前と同じように自然治癒に任せようということになった。まるこ
と触れ合っているのは私たちやおじさんばかりではなく、他にも何人かいるよ
うだし、私たちの思惑だけでこの場所から引き離すのは自分勝手かもしれない
と思う。
この前と違って歳を取っているのが気掛かりだが、まるこの生命力を信じよ
うと思う。ただ、あちこちに立てられた立て札によると、この辺りの畑も五月
には潰されて整地されることになっているので、まるこのねぐらもなくなって
しまう。それまでに足が治ってどこかに移動できればいいが、そうでないとど
うするか。
その時は、家で飼うか真剣に考えなければならないだろう。
三月二十六日
十四日に怪我をしたまるこを見つけてから、三日間は全く姿を現さなかっ
た。それで十八日の夕方も全く期待せずにウォーキングに行くと、まるこが藪
から出てきた。
怪我をした脚を見ると、折れた骨が外に飛び出していた。これでは自然治癒
するはずがない。獣医のところに連れて行かなければならないが、捕獲する道
具もなく、また文校の一日体験入学の時間も迫っている。明日また来るから姿
を現せよと言い聞かせて、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
しかし金曜も土曜も現れない。
二十一、二十二日は休日なので捕まえても病院に連れて行けないと思ってい
たが、大日のイオンモールに日・祝でも診療している動物病院があるのをネッ
トで見つけた。それで、二十二日の朝にまるこの保護に出かけた。
河川敷のおじさんの畑に入ってビニールハウス小屋を覗くと、うまい具合に
まるこが寝ていた。そこで寝ている姿を初めて見た。
用意した段ボール箱を開け、洗濯ネットを広げる。女房が刻んだマグロでお
びき出し、ネットの中にマグロを入れると、それにつられてまるこが三本足で
段ボール箱を跨ぎ、中に入ってくる。
マグロをうまそうに食べている間に洗濯ネットのチャックを閉め、急いで段
ボール箱の蓋を組む。出ようとして頭を持ち上げてくるが、それを押し込みな
がら畑を出て、自転車の荷台にくくりつける。ニャーニャーと激しく鳴くかな
と思っていたが、それほどでもない。
イオンモールの病院まで自転車で十五分くらい。病院に着いた時にはホッと
した。
獣医は三十代の男性で、ハキハキした物言いに信頼できそうな感じがする。
診察台に箱を載せ、蓋を開ける。まるこは観念したのか、おとなしくしてい
る。ネットから出し、体重を量り、傷口を診て、口の中を覗き、心臓に聴診器
を当てる。それから首にカラーを巻いて看護師がバスタオルをかぶせて奥に連
れて行く。
獣医が紙に書いて、私たちに説明してくれる。
骨折には折れた骨が皮膚の外に出ている開放骨折とそうでない閉鎖骨折があ
って、開放骨折は時間がたつと治療は困難であること。骨髄に細菌が感染して
いるので、たとえ接合手術をしても骨髄炎になって、最後は敗血症になって死
んでしまう可能性が高い。命を助ける最善の手段は、脚を切ることしかないと
いうことだった。
それを聞いてさすがにショックを受けた。最初に見つけた時にすぐに連れて
きたらと後悔したが、今更悔やんでも仕方がない。
獣医は、門真に動物の整形外科ではトップクラスの先生がおられるから、ご
希望なら紹介します、と言ってくれる。しかし、その先生の見立ても私と同じ
になると思いますよ、と言われたら、そちらに行きますとは言いにくい。
女房にどうすると尋ねたら、「切ってもらいましょう」と答えた。手術同意
書にサインをする。
翌日、獣医から電話があり、血液検査の結果、点滴や抗生物質の投与をしな
ければならないので、手術日は二十五日ということになった。
その間、ネットで猫の開放骨折について調べてみた。どうやら獣医の言うこ
とは正しくて、開放骨折では六時間以内に手術することが絶対のようだった。
その時間をゴールデンタイムというらしい。骨髄には抗生物質も行き渡りにく
く、細菌を除去して手術するのは困難で、細菌が繁殖する前につないでしまう
ことが重要なのだ。
昨日、手術が無事終わり、一安心した。ネットで麻酔による死亡例がいくつ
かあったから。
そして今日、面会に行ってきた。右後ろ脚の骨盤に近いところで切られてお
り、傷口が五センチほど縫われていた。体液を抜くための細いドレーンが入っ
ている。
まるこは痛いのかあまり食欲がないということだった。私たちの顔を見て怖
がるかもしれないと思っていたが、そんなことはなく、大きな目を見開いてこ
ちらを見てくる。撫でてやると目を細めるので、嫌がられているのではなさそ
うだ。時折痛さのせいか、ニャーと鳴くが。
獣医から血液検査の結果の説明があり、その中で猫白血病、猫エイズに罹っ
ていないことが分かって、ほっとした。ラッキーというべきだろう。
退院は順調にいけば今度の日曜日ということになり、家に引き取ることにな
った。慣れるまでは、ゲージ飼いにしておくほうがいいかもしれない。
四月四日
先週の日曜日に退院して、家に引き取った。子犬用のゲージにトイレを入れ
てやると、すぐにそこでするようになってトイレの躾はそれで完了。
獣医からは、まだ痛みがあるので食欲が出ないかもしれないと言われていた
とおり、餌をほとんど食べない。大好きなはずのマグロも匂いをかいだ後、ほ
んの一口ぐらいしか口を付けない。
困ったのは、ごま粒の一回り大きいぐらいの抗生剤を飲ませること。苦いの
ですりつぶして餌に混ぜても、まず食べませんよと言われていたので、マグロ
の身の中に仕込んで食べさせようとしたが、錠剤だけを残してしまう。
というわけで、最後の手段、私がまるこを押さえ込んでむりやり口を開け、
女房が錠剤を放り込むという方法を取った。これで何とか飲ませることに成功
した。
最初、心配したのは、室内に慣れずに部屋の片隅に引っ込んでしまうのでは
ないかということ。
しかしそれは杞憂だった。
一日目から部屋の中を歩き回り、私たちの体の上にも乗ってくる。野良猫の
時は、どんなに膝の上に乗せようとしても、嫌がって降りてしまったのに、こ
の変わりよう。変わり身が早いというべきか、適応力があるというべきか。
昨日、抜糸のために病院に連れて行った。診察台の端にしがみつくまるこ
を、私と看護師の二人で押さえ、獣医が鋏とピンセットで慎重に抜糸してい
く。まるこは体を固くして小さく震えている。鳴き声を上げないのは、声を立
てられないほど恐いということかもしれない。大丈夫、大丈夫と言いながら、
頭を撫でてやる。
傷口が一カ所完全には塞がっていないので、カラーを外すのは三日後にする
ように言われて、病院を後にした。
食欲も戻っており、ドライキャットフードも食べるようになった。マグロの
食べっぷりもいい。高齢猫なので腎臓の数値が若干悪い。
それに気をつけたら、三本足でも十分長生きするだろうと思う。
まるこをモデルにして「せる」六十号に『洋梨の味』という小説を、六十九
号には『まること牡猫たち』というエッセイを書いている。『洋梨の味』では
車にはねられたまるこを主人公が動物病院に連れて行き、家に引き取るという
結末になっており、現実が作品の後を追う形になった。
マンション四階の室内飼いなので野良を恋しがるかと思ったが、最初はベラ
ンダにも出ようとしなかった。逆にガラス戸を開けて子供たちの喚声が聞こえ
たりすると、奥に引っ込んでしまう。そのうち慣れたら出るかもしれないと、
ホームセンターで材料を買い、転落防止の柵を張り巡らせた。
最近は時々、出してくれとガラス戸の側で鳴くようになった。 開けてやる
と、恐る恐るといった足取りでベランダに出て行き、柵の間から外を見てい
る。それでもそこが気に入って座り込んだりすることもなく、ひとわたり探索
すると室内に戻ってくる。
まるこを見ていると、猫は一本ぐらい足がなくなってもほとんど生活に影響
がないことが分かる。六十センチくらいの高さのベッドにも軽々と飛び乗る
し、驚いて逃げる速さは三本足とは思えない。
自分が三本足になったことをどこまで自覚しているのか、よく分からない時
もある。例えば、ない方の右後脚で耳の後ろを掻こうとする時など。残った右
後脚の端が皮膚を隔てて盛んに動いているのが見える。そんな時、耳の後ろを
掻いてやると、気持ちよさそうに目を細める。こちらにアピールするためにわ
ざとやっているのかと思ったりもするが、遠くでやっている時もあるので、ま
だまだ片足がないことに慣れていないのだろう。
まあ、人間と違って、足がなくなったことをくよくよと悩んでいるようには
見えないので、その点は気楽である。
いつか、三本足のまるこをモデルに、また小説を書いてみようか。
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