私は八年前から大阪文学学校というところで小説の講師をしているが、引き受けた際、同人誌『作家』に連載された「小説入園」を十数年ぶりに読み返してみた。書いたのは主宰の小谷剛で、そこにはまず原稿用紙の綴じ方から書かれている。数枚程度の原稿ならホッチキスでも構わないが、それ以上なら、右の欄外二ヵ所に穴を開けて、紐で綴じるように、と。
まさに入園の書である。そこまで書かなくてもという気もするが、四十年余り投稿作品を受け取ってきた小谷剛の実感がそこにはこもっている。ご丁寧に、大型のホッチキスでは、外す時にうっかりすると指に怪我をする、とまで書かれている。
その後、「原稿末尾に住所を、ペンネームの方は本名を記載してください」という『作家』の会則の理由を書き、原稿を送付する場合、余計なものを同封しないように、とある。同人誌に連載されたものだから、当然読者には同人たちを想定している。
そういう意味では、実用の書といえるのだが、その底には、編集者の立場に立って考えてみなさいというメッセージがある。
私の作品が初めて『作家』に載ったのは二十二歳の時だったが、二次会の喫茶店で、私は小谷剛に呼ばれた。緊張した面持ちで側に行くと、「ゲラを早く返却するように」と叱られた。自分の文章が活字になったのは初めてだったので、面はゆくてなかなか校正ができなかったのだ。それに速達で送られてきたのに、私は普通郵便で返してしまった。編集のことを考えるということを私はその時学んだ。
他人の立場に立って考えるというのは、小説を書く上で必要欠くべからざることで、「見出しなどにも気くばりをするほどのこまやかさが、文章にもきっと生きてくる」と小谷剛は書いている。
「小説入園」はその後、表記の仕方、文字のこと、文章、小説の書き方へと進むのだが、一つ一つの項目は勘所をさっと書いてあるだけである。
それを元に一冊の本にしたのが、「女性のための文章作法(講談社刊)」である。一九八四年の出版で、当時朝日カルチャー出身の重兼芳子が芥川賞を受賞したこともあって、一種のカルチャーセンターブームのようになっていた。それを当て込んで編集者がわざわざ「女性のための」という言葉を入れたのだろう。もちろん女性のためだけの文章作法ではない。
「小説入園」の各項目をふくらまし、最後に「同人誌 私感」と「影響を受けた作家たち」という章が付け加えられている。
通して読むと、そこには小谷剛がいると感じられてくる。小谷剛の肉声が聞こえてくるようである。
まえがきに、東京例会と大阪例会でそれぞれ一回、講義をしたとあるが、大阪にいた私はそれを聞いている。
文章についての話で、自分は水のような味も素っ気もない文章を理想とするがと前置きして、藤原審爾の一文を黒板に書いた。
そのことが載っている。
〈藤原審爾氏の小説、たしか『葦のあらがい』のなかに、「一途な唄声が繰返し、繰返し耳に響き」という文章があった。
「繰返し」と「繰返し」とのあいだに、読点が入っているのが、心にくい。藤原氏の作品にみられるすぐれた抒情性の一面を、端的に伝えていると思う。句読点ひとつをおろそかにしていない文章の見本でもある。
抒情性に乏しい私の文章とは、対極にある。私などには、「繰返し、繰返し……」という発想は浮かんでこない。「繰返し繰返し」ともしない。「繰返し」と、一回だけしか使わない。
私は藤原氏の作品の愛読者ではあるが、その文章をまねようとは思わない。まねたら、私の場合には、ぶちこわしになる。発想のちがいは、ひょっとすると、体質のちがいからきているのかもしれない。
太宰治が、同じことば、同義のことばをよく重ねる。重ねることによって、文章がぴしゃりと決まる。重ねることによってペーソスがにじみ出てくる。これも、私にはまねのできることではない。〉
とあり、続けて、
〈……具体的な指導に際しては、その人の持味まで矯めることのないよう、心がけている。私自身の文章のこのみに合わないからだめだ、というきめつけはしないつもりでいる。〉
と書く。
私の文章観は小谷剛とほとんど同じだったので、彼の講義は素直に耳に入ってきた。中には反発を覚えた向きもあったようだが、要するに、言葉をきちんと選べ、ということなのだ。藤原審爾が繰り返しの言葉を使うのも、ぎりぎりの選択をしているから有効なのであって、それができなければ使うのはお止めなさい、と小谷剛は黒板の前で言った。
「小説を書く前に」という章を読むと、私にとって耳の痛いことが書いてある。素材からテーマを抽出しなさい、がそれである。
これが結構難しい。私の場合、小説を書くきっかけは、あるイメージである。場面が画になって浮かび、その向こう側に小説世界があるような予感がすれば、使えるのではないかという気がしてくる。そのイメージを抱えていると、そこからプロットや人物像が派生してくる。小谷剛はそこからテーマを抽出せよと言っているのだろうか。
書いているうちに、書こうとしているのはこういうことだったのかとぼんやりと見えてくることはあっても、はっきりとつかんでいるわけではない。
私は楽観的に、小説になると思った時点で、何らかのテーマをつかんでいると考えているが、これでは駄目でしょうかと本の中の小谷剛に尋ねたい気持ちがする。
小谷剛は小説教室で、必ず作者に「何を書こうとしたのですか」と質問すると書いている。印象批評や技術批評に終始することを戒め、テーマとはどういうものかをわかってもらうためだと言う。
しかし、質問された方は困るだろう。幸い私は小谷剛からそういう質問をされたことはなかったが、もしされたら、答えに窮するかもしれない。言葉にできないから小説を書きました、と答えるしかない。
もっとも、小谷剛にしても、
〈なにが書きたかったかという質問に対する作者のこたえにしても、「人間のみにくさを書きたかった」「女のかなしさを書きたかった」(中略)……などといったこたえがはね返ってくるたびに、私は戸惑ってしまう。いかにも堂々としたテーマのようではあるが、これではお題目の羅列ではないかという気がするからだ。〉
と書いている。
〈私が知りたいのは、あなたは、人間のみにくさを肯定しているのですか。みにくいとはどういうことなのですか。あなたは、女はかなしいものだと思っているのですか。かなしいとは、なにがどうかなしいのですか。(中略)……あなた、つまり作者のかかわりかたを知りたいのだ。
(中略)普遍的、概念的な女のかなしさ、人間のみにくさでなく、知りたいのは、それらに対決している作者の姿勢なのだ。〉
しかしそれは作者のしゃべることではない。読者が作品から感じる、読み取るべき事柄である。もし感じ取れなかったら、その作品は読者にとって駄作だということだろう。
もちろん小谷剛はそんなことは百も承知だろう。「何を書こうとしたのですか」という質問は、「自分の書こうとしている小説世界ときちんと向き合いなさい」という叱咤激励の言葉だろう。
「小説入園」を元にした「女性のための文章作法」は、四十年余り同人誌の編集、発行をしてきた小谷剛の集大成ともいうべき本である。その実用に徹した書き方の中に、彼の人生が見えると言えば、穿ちすぎだろうか。
|