内田さん、頼みます。        津木林 洋  去年の夏のことである。  私は大阪文学学校というところで、小説のチューター(助言者)をしているが、夏休みに入る前にクラスの生徒達が、一日合宿をしようと言い出した。短い作品を持ち寄って、その場で読み、合評しようというのである。なかなか熱心な生徒達だと喜んで賛成すると、チューターも書いて欲しいと言う。  日頃、半ば強制的に締切を決めて生徒達に小説を書かせている以上、こちらとしてもいやだとは言い難い。内心しぶしぶ、顔では笑いながら「書きましょう」と答えてみたものの、ネタが全くない。四百字詰め原稿用紙三枚では、一シーンがせいぜいである。  困った。どうしよう。  そんな時、ふっと内田さんの句集を思い出した。内田さんの俳句を読んでいて、浮かんだシーンがあったはず。   ゆきずりの男と眺む浦島草 「ゆきずりの男」という言葉が、大庭みな子の「三匹の蟹」という小説を連想させ、事の終わった男女が浦島草を見ているシーンが頭に浮かぶ。しかしそれでは「三匹の蟹」の後塵を拝するようでおもしろくない。そこで、夫の不倫に気づいている女が見知らぬ花に見とれていると、通りすがりの男が名前を教えてくれるという設定にし、女が男に心を動かされるシーンにしてみた。浦島草をネットで調べてみると、実には毒があるようで、そのことにも触れてみた。  生徒達の評は、チューターを慮ってのことだろう、概ね好評で胸を撫で下ろしたのだが、合評後、「実は……」と俳句のことを持ち出してみた。生徒達はへぇと感心し、内田さんの俳句をしきりに読む。  どうやら、好評の源は俳句にあったようである。   秋の暮れ通天閣に跨がれて  これを読んだ瞬間、行方不明の父親を捜しに大阪にやってきたが見つからず、通天閣の下で途方に暮れている息子の姿が浮かんだ。通天閣が父親の暗喩になっている、とは、後で思ったことである。   ラ・フランス男に向きて傾ぎけり  では、テーブルを挟んで別れ話をしている男女が浮かぶ。女の本音は別れたくないのだが、黙って男の言い分を聞いている。テーブルには、ラ・フランスの入ったボールが乗っている。  以前、ラ・フランスを小道具に使った小説を書いたことがあって、その時ある女性から、ラ・フランスとは女の性の象徴ではないかと指摘されたことがある。作者としては、そんなことは思ってもみないことだったが、そう思って自作を読み返してみると、なるほど、そう取られてもおかしくはない。むしろ自然な感じがする。  そのことが頭にあって、浮かんだシーンに違いない。ラ・フランスは、熟すと豊潤な香りと濃厚な甘さが楽しめるが、姿形はごつごつしていてよくない。女の姿をそこに重ねると、「傾ぎけり」に、何やら切なさも感じてしまう。  内田さんの句には、どきりとさせられるものもある。   衣被ひとりで食ぶは恥づかしき  衣被という言葉が分からなかったので、辞書で調べてみて、なるほどと納得した。すると、その後に、   衣被するりと剥けて絶交中  という句が来て、あっと叫んでしまった。しかし、ユーモアというか滑稽味が、それをうまく包み込んでいる。ふふっと笑ってしまうのである。するりと剥けた衣被が、ころころと転がっていく様子まで浮かんでくる。   日盛りのもの燃やしゐる男かな 以前、淀川べりを散歩していた時、ネクタイ姿の男が自転車に乗ってやってきて、灌木のそばで降り、そこで何かを燃やし始めた。日盛りの中の炎というのは、それだけで何やら怪しい雰囲気を醸し出す。これは使えるなと思ったが、小説的な形にならなかったので忘れていた。内田さんも、私と同様に怪しいと感じたのだろう。  この句がある限り記憶からは消えないので、いずれそこから枝葉が伸びていくことだろう。  内田さんの句は私にとっては、イメージの宝庫みたいなものである。俳句にとって、それがいいことなのかどうかは分からないが、私にとってはいいことずくめである。  苦しい時の内田頼み、と私は密かに呼んでいる。