『蝿の王』を読む     津木林 洋


 最近私は、小説というものは結局作者の思想を表明するものではないかという偏見に取りつかれている。思想という言葉が漠然としすぎるならば、物の見方、人間に対する考え方、世界を認識する方法などと言い替えても構わない。テーマとどう違うのかと聞かれても困るのだが、そのもっと奥にあるものと解してもらいたい。平凡でも特異でも構わない、とにかく確固とした思想が感じられれば読んでいて気持がいいのは確かだ。もっとも、小説形式を探求する小説は別にしての話だが。
 ここで取り上げるウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』は、まさに私の偏見を裏付けるような作品である。これを読めば、作者の人間に対する絶望的な思いを感じとって、ほとんど慄然とするほどである。
 作品は少年漂流物語の形をとっており、一見少年文学のような印象を与えるが、それは作者が思想を表明するために形式を借りただけである。あるいは思想を表明しやすいために、といったほうが正確かもしれない。ただこういう形式を採用したために、少年でない人間には距離をおいて読まれてしまう危険性をはらんだことは否めない。自分には関係のない面白い物語として。それは確かにこの作品の弱点だが、こういう形式をとったがゆえに、より強く作者の思想が表現できたともいえるだろう。
 物語はある世界大戦のさなか、イギリスの学童を乗せた飛行機が敵の攻撃を受け、胴体だけがある無人島に不時着するという状況があって、島に散らばっていた少年達が珊瑚礁に面した砂浜に集まってくるというところから始まっている。読み始めてもなかなか島のイメージがつかみにくいのは、先行する少年漂流物語のパロディの意識から、すでに読者には無人島のイメージがあるという前提で書かれているせいかもしれない。特にバランタインの『珊瑚島』はイギリス人には ポピュラーらしく、作品の中にも名前が出てくるくらいだ。そういう点では日本の読者にはとっつきにくいだろう。
 ほら貝を見つけたラーフという少年を中心に、子供たちの生活が始まっていくのだが、出だしはいささか単調である。せっかちな読者なら、こうしたゆるゆるとした展開にはついていけないだろうが、そこのところをちょっと我慢して読み進んでいただきたい。単調な中にも、年端のいかない子供たちが「獣」の幻想をみておびえる、という、ミステリーじみた展開があるのだが、読むほうにはそれが幻想だとわかっているだけに、引張っていく力には乏しい。もちろん「獣」は島のどこかにいるわけではなく、人間の持っているある一面なのだということが、読んでいくにつれ読者にはわかっていくという仕掛になっている。
 島に豚がいるということがわかり、ロジャーという少年が狩猟隊を編成するあたりから、物語は動き出す。ほら貝というある意味では民主主義の象徴のようなものを持ったラーフに対して、現実的な力を持ったロジャーが対立していく。もっとも、理性的な人間と野獣的な人間の対立という簡単な図式にはおさまらない。それはサイモンという、「獣」がパラシュートをつけた死体だということを見つけた少年が、ロジャーたちだけではなく、ラーフや常識を代表する少年ビギーによっても殺されてしまうという展開からも明らかである。しかもここが大事なのだが、読んでいる人間を単純にラーフの側につかせないという配慮がしてあるのだ。ロジャーたちが雌豚を木の槍で追いかけ回し、最後に殺してしまう場面は読んでいる人間をして自分の獣性に気づかせるのに充分な力を持っている。
 最後には、ほとんどの少年がロジャーの側に取り込まれ、ビギーはほら貝とともに崖下に墜死させられる。そしてラーフは「蛮人」と化した少年たちに木の槍で追いかけられる。この場面は圧巻である。
 ラーフをジャングルから追い出すために火が放たれ、ラーフは砂浜まで逃げてくるのだが、迫ってくる襲撃に身構えたとき、目の前にイギリスの海軍士官を見つける。煙が目印となって、巡洋艦がやってきたのだ。
 海軍士官が尋ねる。「今まできみたちは何をしていたんだい? 戦争ごっこかい、それとも?」
 そのとき、ラーフは頷くのである。今まで読んできた者は、一瞬そんなはずはないと思う。戦争ごっこなんかではなかったと。しかしやはりそれは戦争ごっこなのだ。一段と広い世界から見れば、戦争「ごっこ」に過ぎないと。そしてそのとき、この意識はすべての人間の争いを貫くことになる。現在の核戦争一分前の状況も、遠い未来から見れば、あるいは広い宇宙から見れば、「ごっこ」にすぎないという具合に。
 この作品が発表されたのは一九五四年だが、作者の頭にはおそらくナチスの台頭と滅亡という事実があったのだろうと想像される。しかしそれを寓意という形で書いたことによって、普遍的な力を獲得しえた。もちろんその背後に、作者の強烈な思想が内在しているせいである。
 

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