オーバークロック     津木林 洋


 私がパソコンの前身であるマイコン(マイクロコンピュータ)と出会ったのは、二十四年ほど前のことである。当時はまだ完成品のマイコンは作られておらず、自分で組み立てるキットとして売られていた。その存在を知ったとき、私は仕事帰りに迷わず日本橋に直行して、大枚十万円あまりをはたいて、それを手に入れた。家に帰るや、晩飯もそこそこに、私は子供の頃使ったハンダごてを引っ張り出してきて、組立に取りかかった。風呂にも入らず、マニュアルと首っ引きで部品を取り付けていき、午前四時に組立が終わった。
 電源を入れるときは、さすがに緊張した。数字を表示する赤いLEDに0が四つ並んだときは、思わず「やった」と叫んでしまった。家族の誰かと完成の喜びを分かち合おうと思っても、家の中はしんとしている。私は気を取り直し、マニュアルに載っていたサンプルプログラムを打ち込んで、まさに載っているとおりの結果が出たことに、大いに満足した。
 私がこのようにマイコンに興奮したのは、まさかコンピュータが自分の手の内に入るなどとは、思っても見なかったからである。大学の電子計算機実習では、エアコンの効いた部屋に鎮座している大きなコンピュータを窓の外から眺めながら、タイプライターみたいな端末機でプログラムを打ち込むだけで、中には絶対に入らせてもらえなかった。電子計算機センターは聖域で、コンピュータは聖なるものという感覚があった。中身がよくわからないブラックボックスだということが、そういう感覚をもたらしたのだろう。
 そのコンピュータが規模が小さいとはいえ目の前にある。聖なるものに手を触れることができるというのは、確かに興奮することだった。
 私はしばらくマイコンで遊んだ。ただ遊ぶだけで、実用的なことは何もできなかった。そんなことができるとは思ってもみなかった。そうしているうちに東芝が日本初の日本語ワードプロセッサーを開発した。私はそれを使ってみたくて仕方なかった。だが、六百万円もするやつをおいそれと買えるはずもない。
 そのうちNECが実用に使えそうなパソコン、PC9801を発売し、ソフトを入れると日本語ワードプロセッサーになるということで、早速プリンターも含めて一式購入した。車が一台買えるほどの値段だった。
 最初の頃のワープロソフトは貧弱なもので、例えば「私は学校へ行きます」という文章を打ち込みたい場合、「わたし」で変換して、「は」で無変換、「がっこう」で変換、「へ」で無変換、「いく」で変換して「く」を消し、「きます」で無変換、という具合にしなければならなかった。今から思えば、とても実用的とは言い難いのだが、その当時は画期的だと喜々として打ち込んでいた。小説も書いた。
 やがて、ジャストシステムという会社から「JS−WORD太郎」という「一太郎」の前身となるソフトが出て、ようやく文節変換ができるようになった。「作家」という同人誌のワープロ原稿第一号は、私ということになっている。
 小説を書くだけではなく、私はPC9801に付属していたBASICという言語で、小さなプログラムを作って遊んだりした。このBASICは、かのマイクロソフトのビル・ゲイツが作ったもので、オペレーティングシステムも、彼が作ったものだった。その当時、マイクロソフトはIBMパソコンのオペレーティングシステム、MS−DOSの開発を手がけてガレージカンパニーから脱却して成長しつつある会社だったが、今日これほどまで大きくなるとは夢にも思わなかった。というのも、当時のパソコンを使うにはMS−DOSのコマンドを覚えなくてはならず、マニアならまだしも、一般の人々が使いこなせるようになるとは思えなかったからである。早い話が、パソコンなんて大して売れないだろうと思っていたのである。
 日本ではNECがパソコン市場を独占していたが、世界ではIBMパソコンがアーキテクチャー(内部構造)を公開して誰でも同様のパソコンを作れるようにしたために事実上の世界標準となっていった。誰でも作れるということは競争が起こるということであり、その結果世界のパソコンの値段は見る見るうちに下がっていった。
 一方日本ではNECがアーキテクチャーを非公開にし、互換機を作る道を閉ざしたために競争が起こらず、パソコンの値段は高いままだった。同様のことはアップルというアメリカのコンピュータメーカーにも言えて、アップルの作ったマックは性能といい使い勝手といい使用者に評判がよかったのだが、アーキテクチャーを公開しなかったために誰でも作れるというわけにいかず、結局IBMパソコンに凌駕されてしまった。
 同じ性能のものが半分以下の値段で売られている世界のパソコンを、指をくわえて見ているしかなかった。というのも、日本語という壁があったからだ。世界標準のパソコンは英語表示しかできず、日本語を扱うにはNECのパソコンを使うしかなかったのだ。結婚するとき、女房が車の代わりにパソコン一式を持参してきたが、それもNECだった。
 風向きが変わったのは、DOS/Vという仕様のパソコンが生まれてからだった。DOS/Vパソコンではソフト的に日本語表示ができるのだ。
 やがてマイクロソフトがWindowsを開発し、それがDOS/Vパソコンと結びついて、ようやくNECの呪縛から逃れることができた。これでバカ高い金をNECに巻き上げられないですむと私は喝采を叫んだものだった。
 Windowsパソコンを購入するとき、もう二度とメーカー製のものは買わないと決めていた私は、コンピュータ部品を扱っているショップが独自に作っているパソコンを買い求めた。パソコンの進化がだんだん早くなっており、ショップブランドなら自分で部品を取り替えることによって、進化に対応できると考えたのである。アメリカでは、自作パソコンがかなりの割合を占めているというニュースも頭にあった。
 思った通り、一年足らずで性能が陳腐化し、部品を取り替えて対応したが、そのうち自分で部品を集めて作った方が自分の思い通りにできることに気づき、自作パソコンの道に入ってしまった。
 思えば、最初のマイコンは自分で組み立てたのであり、元へ戻ったと言えば言えなくもない。ただ、自作パソコンの場合はハンダごてを握る必要はなく、ドライバー一本で作ることができる。簡単と言えばこれほど簡単なことはないのだが、組み立ててみて動かない場合は苦労することになる。自作パソコンに踏み込む場合、周りに経験者がいるほうが安心できるだろう。
 以前は自作パソコンの利点は安くできることだったが、今では格安パソコンの出現で、それは失われてしまった。代わって今、自作パソコンの最大の利点は、オーバークロックができることである。オーバークロックとは、CPU(中央演算装置)という自動車で言えばエンジンに当たる心臓部を、定格以上のスピードで動かすことである。
 メーカー製でもオーバークロックができないわけではないが、もしそれでどこかが故障した場合はメーカー保証が受けられないし、コスト削減のため性能をぎりぎりまで詰めているからオーバークロックできる余地が少ない場合が多い。使っている部品に関する情報も非公開がほとんどである。
 それに比べて自作パソコンの場合、元々保証はないし、マザーボード(CPUを搭載する重要な母なるボード)のメーカーがオーバークロックを前提に作っているし、情報はインターネット上に溢れている。
 かく言う私もオーバークロックにはまっている一人である。自作パソコンの道は、オーバークロックに繋がっていると言っても過言ではない。
 オーバークロックをする場合、CPUに供給する電圧を規定の値よりほんの少し上げてやることが多い。その方がオーバークロックしやすいのである。電圧を上げると、CPUはより熱を持つし、スピードを上げても熱が増える。あまり熱が増えると、エンジンと同様にオーバーヒートを起こしてストップしてしまう。従って、オーバークロックは熱との闘いになる。
 大きなヒートシンク(熱放散板)とファンを取り付けて冷やしたり、水枕を付けて水冷にしたり、ペルチェ素子(電流を流せば、片側が冷えてもう片側が熱くなる半導体)を使って氷点下まで冷やしたり、果ては炭酸ガス冷却、液体窒素冷却まで突き進む人間さえいる。
 私はペルチェ素子を使って、CPUを大体十度以下に保つようにしている。ペルチェ素子というのは、熱を移動させるだけなので、熱くなる方を冷やしてやらないと逆流して、冷やすつもりが却って熱くなってしまう。そこでペルチェ素子の冷却に自作の水枕を使って水を循環させている。その水の冷却には、自動車のラジエーターを使い、それに台所用の換気扇の(うるさいから)電圧を下げて風を当てている。
 CPUを十度以下にすると、何もしなければ当然結露してショートしてしまうので、CPUの周りを断熱材で埋めなければならない。ホースでコンピュータ内部に水を引き込んでいるので、水枕とのつなぎ目から万が一水が漏れたらこれまたショートしてしまうので、水枕の下に自作のセンサーを配置して水が漏れたらブザーが鳴るようにしている。幸い水冷にしてから一年ちょっとになるが、ブザーが鳴ったことは一度もない。
 かくして私のコンピュータの横には三十リットルの水タンクがあり、その上に大きなラジエーターと換気扇、水を循環させるポンプが静かに回り、コンピュータの上にはペルチェ素子に電流を供給する直流電源装置が乗るといったおよそ普通のパソコンらしからぬ光景が展開している。
 今まで300MHzのCPUを504MHzに、366MHzのやつを616MHzに、そして現在533MHzのセレロンというCPUを922MHzにオーバークロックして動かしている。一万四千円で買ったものだが、同等の性能のCPUを求めようとすると、八万円は出さなくてはならない(五月末現在)。
 そのことを言って、女房にオーバークロックの利点を強調するのだが、「そんなに速くして何に使うの」と女房は呆れ顔である。確かにそれを言われると、耳が痛い。今のところ二つしか持っていない3Dゲームがわずかにスムースになるくらいである。これからだんだん必要になってくると言っても、じゃあ、必要になったときに速くしたらいいんじゃないの、と言われてしまう。いつのまにかオーバークロックが目的になってしまっている。
 自己満足、自己満足と呟くしかない。しかし考えてみたら、人間のすることで自己満足でない行為なんて存在しないのではないか。そう居直りたくもなる。いや、居直っているのである。
 実用になるとかならないとか、そんなことは行為の純粋性を損なうもとである、と心の中で叫んで、これからもオーバークロック道に励むのである。
 

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