『水滴』について             津木林 洋  ある男の足が突然膨れ出す。妻は驚いて医者に診せ、奇病と言うことで病院に入院することになる。完全看護だから妻は時々着替えを持ってくるだけでいい。やがて膨れた足の親指から水があふれ出し、調べてみるがただの水なので、医者は首を捻るばかり。ある夜、病室の壁から敗残兵とおぼしき日本兵が次々と現れ、男の指から溢れる水を掌に受けて飲んでは、壁の中に消えていく。男には、フィリピンで米軍との戦闘に敗れ、山中を逃げまどう中で、傷ついた戦友を置き去りにした過去があり、すぐにその時の戦友たちだと気づく。頭の片隅に押し込めていた過去であり、殆ど忘れていた。戦後、男は必死で働き、小さいながらもハンガーを作る会社を興し、今では息子たちに任せて悠々自適の生活。妻や息子たちには戦争の話は殆どしたことがない。酔いに任せて、爆弾が落ちてくる時の音とか、艦砲の爆弾の方が空爆よりも横に破片が飛び散るので恐ろしいとか、ひどい目にあった話をしたことはあるが、自分が米兵に何かしたとか、ましてや傷ついた戦友を見殺しにしたなどということは、口が裂けても言わなかった。戦争を経験したことのない人間に話したところで、真実は何も伝わらないと思っている。そうやって五十年、どうして今頃亡霊たちが現れたのか。何日か経って、戦友が「ありがとう。やっと渇きがとれたよ」と言ったとき、男は果たして病室で号泣するのだろうか。あるいはフィリピンのかつての戦場へ遺骨収集を兼ねた慰霊の旅に出ようと決意するのか。  目取真俊の『水滴』の中で、ウシが「戦場の哀れで儲け事しよると罰被るよ」と不愉快そうに忠告するのは、たぶん彼女も同じ沖縄戦の中を生き延びてきたからだろう。徳正がイシミネに向かって「この五十年の哀れ、お前が分かるか」と言う背後には、本土防衛のための捨て石としての沖縄、民間人が十万人以上死に、スパイと疑われて日本兵に殺された沖縄人もいたという沖縄戦、そして戦後の軍政、それに続くアメリカ基地の問題、つまり沖縄の五十年が横たわっている。  この作品の骨格だけを、別の場所に移すことはもちろん可能だろう。そしてそれはそれなりの感銘を与えるかもしれない。しかし、太い線で力強く描かれた人物像が細い線描になってしまう恐れは充分にある。  沖縄という場の力――言葉、歴史、文化、習俗などを十分に利用しながら、その力を作品の背後に押し込めるという作業はなかなか厄介だと察しがつくが、『水滴』はその作業をきれいに成し遂げている、場の力を利用したお手本のような作品に仕上がっている。あまりきれいすぎて逆に不満が出るかもしれない。もっと八方破れであってもいいんじゃないかと。  さて、翻って沖縄以外の日本を見てみよう。場の力を利用した作品が生まれているのかどうか。いやそれよりも作品を生み出すほどの場の力がまだ生きている場所があるのかどうか。  私は大阪に生まれ育っている。小説を書こうとした場合、大阪を舞台にすることもあるし、どこかわからない場所を設定することもある。大阪を舞台にする場合、登場人物は大阪の言葉をしゃべることが多いし、そうでない場合はいわゆる標準語とおぼしき言葉をしゃべる。作品の内容によって使い分けているのである。  以前、そういうことのできるのを或る同人誌仲間から羨ましがられたことがある。と言っても彼も地方の出身で、言葉を使い分けようと思えばできるのだが、大阪の言葉を使うほどメリットがないと言うのだ。読者の中に、大阪の言葉を使う人間のイメージがあって、それを利用するとリアリティが出しやすいと言うのだ。  例を挙げよう。東京を舞台にした小説の中に、暴力団員風の借金取りの出てくる場面がある。彼は借り手の家に乗り込んでいって、このように叫ぶ。 「ごじゃごじゃ言わんと、はよ返さんかい。借りたもんは返す。それが人の道言うもんやろ」  大阪の言葉が出てくるのは、ここだけである。作者はこの人物には大阪の言葉を使わせた方がリアリティが出ると考えたのだろう。事実、大阪の言葉を使うだけで存在感が出ている。私はこの場面を読んで、苦笑してしまった。なんとまあ、作られたイメージというのは強いものかと。一方で大阪の言葉を使うことの困難さも思い知らされた。作られたイメージではない独自の人物像を描こうとすると、却って大阪の言葉が邪魔になる恐れがある。それならいっそのこと場の力など一切借りないで、真っ白いキャンバスに自由に描けばいいという考えにもなる。しかし、SFならいざ知らず現代を舞台にした小説に、真っ白いキャンバスが用意されているのだろうか。  場の力を利用しながら、それに支配されない作品を書くのは困難だが、かと言って場の力を利用しない手はない。困難さを逆手に取って、場の力を徹底的に利用してそれに支配された作品を書き、なおかつそれを突き抜けたイメージを提出できないかと私は夢想している。『水滴』の先にはそういう作品が待っているかもしれない。