ある朝の出来事 津木林 洋  五月のある晴れた朝、私はいつものように会社に出勤するために、マンションの階段を降りていった。マンションの一階は柱があるだけのピロティになっており、その一部が自転車置き場になっている。一階に降りた私は自分の自転車の置いてある場所に向かおうとした。そのとき、どすんという何かが倒れたような鈍い音がした。反射的に音のしたほうに目をやると、柱と柱の空間に人が倒れていた。ピンクの寝間着を着た女性だった。 「キュウキュウシャ呼んでー」  甲高い女の叫び声がした。向かいの棟の下にいた掃除のおばさんが手に箒を持ったまま、私に向かって叫んでいるのだ。おばさんは女性の落ちるところを見たのに違いない。 「はやく、はやく、呼んで、呼んでー」  おばさんはまるで私を非難するかのように叫んでいる。私はその叫び声にうろたえてしまい、一瞬どうすべきか迷った。落ちた女性のところに駆け寄るべきか、管理事務所まで走っていって急を知らせるべきか、四階の自分の部屋まで戻って一一九番の電話をすべきか、それとも……見なかったことにしてこのまま会社に出勤すべきか。  私は自分の部屋に戻ることにして、階段を駆け上った。途中で白いシャツにステテコ姿の五十年配の男性が血相を変えて駆け下りてくるのとすれ違った。ああ、あの人の奥さんか。私はそう思いながら、自分の部屋に戻り、電話の受話器を取り上げた。救急車を呼ぶのは初めてだった。ボタンを押す指が震えた。  一回目は話し中で、二回目につながった。 「人が落ちたんです。救急車、お願いします」  自分では落ち着いているつもりだったが、早口だったのだろう、相手の男の人はことさらゆっくりとした口調で、「人が落ちたんですね。わかりました。場所はどちらですか」と訊いてきた。  私が住所を答えると、「男性ですか、女性ですか」と訊く。  なぜそんなことを訊くんだろうと思いながら、「女性です」と答えると、「いくつぐらいの人ですか」と来た。  そんなことわかるわけないよと思ったが、あの人の奥さんであることから推して、「四十か五十くらいだと思いますけど」 「何階から落ちたかわかりますか」 「わかりません」 「えーと、お宅の住所とお名前を教えて下さい」  どういう関係があるんだと思いながらも私は正直に答えた。  一瞬間があってから、「その件に関しましてもうすでに電話がありまして、救急車がそちらに向かっております。ですからどうぞご安心下さい」  なんだ、肩から急に力が抜けた。受話器を置いてから、私の住所と名前を聞いたのは、ひょっとしたら事故ではなく事件の可能性もあると考えているのかもしれないという気がした。一一九番のマニュアルに沿っているのだろう。 「どうしたの」  寝室から妻が出てきた。私がわけを話すと、妻は早速ベランダに出て、下を覗き込んだ。ちょうど私たちの部屋の真下に女性が倒れているのだ。  私は出勤するために、再び部屋を出て下に降りていった。  現場ではステテコ姿の男性が座り込んで膝と膝の間に女性の頭を乗せ、「ケイコ、しっかりせい、ケイコ、ケイコ」と名前を連呼していた。女性は微かに唸り声を上げているようだった。  その姿を中心に五、六メートルの円を描くように十人ほどの人間が取り囲んでいた。管理事務所からも人が来ていて、救急車が通れるように通路の鉄棒を外していた。  私も近寄って救急車が来るまで様子を見ようかと思ったが、これ以上ぐずぐずしていると遅刻しそうなのでその場を離れた。  会社で仕事をしていて、朝の出来事を思い出すと、何だか夢の中の光景のような感じがした。そこだけぽっかりと現実感がなかった。そればかりではなく、私の周りを見る目も少しおかしくなっていた。見慣れたはずの会社の様子や働いている同僚の姿がいつもとは違って見える。自分を含めたすべての現実から少し遊離したところから見ている感じ。荒っぽく言葉で言ってしまうと、みんなそんなことをしていていいのかと言いたくなるような感じ。  まさに前号のCOM ONで書いた「自分自身の死の影を垣間みる」ということが、私自身に起こったのかもしれない。ただそんな感覚は夕方にはきれいさっぱり消えてしまったけれども。  二日後の日曜日、テニスに行こうとしたとき、集会所での葬儀を知らせる張り紙を見つけた。私の部屋の三階上の人の名前になっており、やっぱり駄目だったのかと私は思った。妻は自殺に違いないと言った。 「だって子供じゃあるまいし、大の大人が誤ってベランダから落ちると思う」  私も妻の意見に賛成だったが、出来れば事故であってほしいという気がした。自殺と事故では耳に残る、あのどすんという鈍い音の重みがまるで違ってくるのだ。  しかしやはり自殺だった。妻がスポーツクラブのエアロビクスでよく一緒になる奥さんがちょうど自治会の班長の番に当たっていて、その人からいろいろと聞いたという。亡くなったのは二十歳の娘さんで、発作的に飛び降りたらしい。頭は大丈夫だったが、肺破裂で助からなかった。父親は原因がさっぱり分からないと言っているということだった。  班長の奥さんは葬儀やら何やらで大変だったらしい。葬儀が終ってから体調を崩して、一週間ほど入院したという。  妻も一週間ほど胃が痛いと言っていた。あの時救急車が来て運ばれるまでずっとベランダ越しに見ていたのがいけなかったと言う。 「あなたはどうだった。どこかおかしくならなかった」  妻が訊いてきた。 「いいや、ちっとも」と私は嘘をついた。 「タフなのね」  妻の言い方にはほんのわずか馬鹿にした響きがあった。