ホワイト・ノイズ     津木林 洋


 死と太陽は見つめることができない、とある人は言った。私たちは自分がいつか死ぬことを知っている。しかし日常生活において死を身近に感じながら生きることはむずかしい。私たちは大抵、すぐには死なないだろう、少なくともきょうは大丈夫だろうという楽観の上に立って日々を送っている。
 しかしそれが何の根拠もないことに、人は時に気づかされることがある。大災害で多数の人間が死んだり、無差別テロによって大量殺戮が起ったりした場合、私たちはちらっと自分自身の死の影を垣間みるのである。だが、それも束の間すぐに死を遠ざけてしまう。所詮は他人事、テレビの中の出来事にすぎないと。まさに見つめることができないのだ。それは死の恐怖によってがんじがらめにならないための無意識のうちの防御機構かもしれない。
 だが世の中にはその防御機構の働かない人もいるらしいのだ。ドン・デリーロ「ホワイト・ノイズ」の主人公ジャックの妻はそういう人間として登場する。一見堂々と家庭を守っているように見える妻が実は死の恐怖に怯えながら生活しているのだ。その彼女が死の恐怖から逃れようとしてとった手段が、死の恐怖を取り除く薬、つまり人間の脳の死の恐怖を感じる部分だけを麻痺させるという何とも直截的な薬を飲むことだった。
 死を意識できるのは人間だけである。人間以外の動物は死を知らない。人間はある意味で死の意識と引き換えに脳を発達させてきたと言えるだろう。その人間から死の恐怖を取り除くというのは、人間でなくなることを意味するだろう。
 もちろん妻の飲んだ薬には何の効果もなかったのだが、この部分には科学に対するアイロニーが篭められている。
「テクノロジーを信じることだよ。……それは我々の朽ちていく身体の、恐ろしい秘密を隠すために発明したものなんだ。しかしそれは同時に生命でもある、そうじゃないか? それは生命を引きのばし、それは消耗するものの代わりに新しい器官を提供してくれる。毎日新しい装置、新しいテクノロジーが出てくる。レーザー、メーザー、ウルトラサウンド。それにゆだねることだね、ジャック。信じることだよ」
 死を乗り越えるのにテクノロジーを持ち出すというのは、いかにも合理主義的だが、これを絵空事と笑うことはできない。アメリカには、不治の病に罹った人に未来に治療を受けさせるため身体の冷凍保存を請け負う会社が存在し、充分採算が取れているという。現在のテクノロジーでは冷凍保存した人間を生きて解凍することはできないが、未来にはできるようになるだろうというまさに科学信仰を絵に描いたような現実が存在するのだ。
 主人公のジャックも毒物が空中に飛散して一家で避難する途中で、それをたまたま浴びたため死の恐怖に取り付かれる。彼は妻の飲んでいた薬を探すが、それはもうどこにもない。彼の同僚のマーレイは、死の恐怖を克服して生きる方法として、彼に殺人を勧める。
「ぼくは信じるんだがね、ジャック、この世の中には二種類の人間がいる。殺人者と死者。ほとんどは死者だ。我々には怒りとか少しでも殺人者になろうとする性癖に欠けている。我々は死を許容する。横になり、そして死ぬ。しかし殺人者の場合だとどうなるのか考えてみたまえ。どんなに興奮することか、理論的に、直接目の前にいる人を殺すことがね。もし相手が死んだら、きみは死ねないんだ。相手を殺すことは生の信用貸しを得ることになる。たくさん人を殺せば殺すほど、信用貸しを貯めこむことになる。これでいくつもの大量殺戮、戦争、死刑執行の説明がつく」
 ジャックは自分がなぜヒットラーを研究する学者になったかを知る。彼は毒物を浴びるずっと前から死の恐怖に囚われており、大量殺戮の権化ヒットラーに自分を託して死の恐怖を乗り越えようとしてきたのだった。
 彼は妻に薬を与えた人物を殺しに向かう。その男は妻とベッドを共にしたがゆえに殺人の対象となりうるのだ。彼は男を見つけ、拳銃の弾を撃ち込んだ。しかしあろうことか彼は男を助けてしまう。彼は男を教会の運営する救護所に運び込む。
 死の恐怖を克服する手段として人間は大昔から宗教というものを持っていた。果たして物語はこの一点に収斂するのだろうか。
 ジャックは壁に掛けられた天国の絵に目をやりながら尼僧に尋ねる。「天国とは、教会の解釈によれば何なんですか、もしそれが神と天使や、救済された人々の魂の居場所でないのなら?」
 尼僧は答える。
「あの絵は私たちのためではありません。ほかの人たちのためです。わたしたちがまだ信じているということを、一生信じている人たちみんなです。……悪魔や、天使や、天国や地獄をね。もしわたしたちがこれらのことを信じるふりをしなければ、この世は崩壊しますよ」
「ふりをする?」
「もちろんふりです。わたしたちがばかだとでも思っているのですか? ここから出てお行きなさい」
 

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