親指Pはどこへ行く              津木林 洋  今巷で評判の松浦理英子「親指Pの修業時代」を読みました。口の悪い人に言わせると、性的畸型をダシにした恋愛談義に過ぎないということらしいですが、それではあまりにも一面的過ぎます。見方を変えて、性的畸型を通して深められた一種の恋愛小説というのはどうでしょう。  言い古された言い方ですが、現代は恋愛小説の書きにくい時代で、それはもちろん巷にこれぞという恋愛が存在しにくくなっていることの現れに違いありません。我が日本には今や恋愛を促進させる因子がほとんど見当たりません。家制度によって二人の仲が引き裂かれることはないし、戦争によって引き裂かれることもありません。ましてや民族の違いも宗教の違いもあることはありますが、それが二人を引き裂く確率はきわめて低いと言わざるを得ません。引き裂かれる心配のない恋愛が高みまで上っていくはずがないのは当然と言えるでしょう。そこにあるのは生煮えのブイトーニのような恋愛ばかり。恋してセックスして、その後には何もないという状況を「親指P……」では恋愛供給会社という言葉で象徴していますが、主人公が友人の死によって恋愛供給会社を辞めたところから物語が始まるのは、一つの隠喩と言っていいでしょう。  物語には性的畸型を持った人物とそうでない人物が登場して、親指Pを持った主人公がその橋渡しをするという設定になっていますが、性的畸型を持った人物たちのほうが純粋に愛情とかセックスについて考え、悩んでいるというのは、恋愛成就の過程において障害があるからに他なりません。その障害たるや、回避したり乗り越えたりできる類のものではなく、恋愛とがんじがらめに絡み合っているのです。つまり障害がある故によって発生した恋愛を通して、障害のないノーマルな恋愛を夢見るといった自己撞着を含んでいるのですから、大いに悩まないはずはありません。  もっとも人間が自然から切り離された存在だとすると、動物における性本能は存在せず、われわれの性を規定しているのは広い意味での文化ということになるでしょう。性が文化ならば、そこに正常異常の区別はなく、ただ共同幻想を共有するかしないかの区別があるだけです。性的畸型を持った人物たちが悩むのも、今ある共同幻想を捨てることができるか、そして新たな共同幻想を構築することができるかという苦しみから来ているのでしょう。PとVの結合によって性の円環が閉じられるという幻想に因われる限り彼らの悩みが解消されることはないでしょう。「親指P……」が親指Pを持った主人公が幻想が幻想であると気づく過程になっているのはごく自然な展開だと言えるでしょう。 さて、親指Pとはいったい何でしょう。形態的にはペニスに似ていますが、本物のペニスとは違います。それでは本物のペニスとは何でしょう。稲垣足穂によると、「Vには種の保持の大任が托され、Aにはあとで述べるように、インテリジェンスへの関心があって、学芸のいとなみにまで展開するのに反し、Pはいつにあってもあわただしいタネ蒔き器械、肉体の外部に暫定的に取付けられた道具でしかない。しかもかれはいったん目醒めるなりV感覚の奴隷として急き立てられて、それ自身ではにっちもさっちも行けない羽目に陥っている。かくてかれは、VA両者の始源性(例えば緩慢に作用してあとを引く点)に憧れ、せめてもの腹癒せとして『転換』によって自らを持続的享受の位置にまで持って行こうと焦慮する(A感覚とV感覚)」という情けない器官なのですが、親指Pはその情けなさから逃れています。物語に出てくるアングラ劇団の演出家はまさに「『転換』によって自らを持続的享受の位置にまで持って行こうと焦慮する」典型的な男根優位の人物として描かれています。親指Pはもちろんそういう存在ではないし、かといって「V感覚の奴隷として急き立てられて、それ自身ではにっちもさっちも行けない羽目に陥っている」わけでもありません。親指Pは物語の中では、むしろ人の心の奥を探るセンサーのような役目を与えられています。それはPというより「繊細、複雑で、これは見失われた少女期への郷愁につながる(A感覚とV感覚)」K(クリトリス)に近いものです。Kに近いPがこれからどうなっていくのか、より本物のPに近づいていくのか、それとももっと別の何かになっていくのか、それは物語を読み終えた読者がそれぞれ考えることです。ここに書かれてあるのはまさに、修業時代なのですから。  物語の最後の方で、主人公が理想的な性行為とは何だろうと考える場面があります。愛情の通い合う性行為だろうか、しかし愛情だけでは足りないのではないかと。性行為に理想的という形容をつけるのは、いささか滑稽な感が否めませんが、親指Pを持ってここまで修業してきた主人公ならば、幻想の通い合う性行為だろうか、しかし幻想だけでは足りないのではないかと考えるべきでしょう。  種の保存という命題を背負わされた共同幻想を抜け出ると、そこには薔薇色の別の幻想が待っていそうですが、ひょっとしたらそれは自然の仕掛けた罠かもしれません。そういえば、星新一のショート・ショートに、人口増加策としてテレビに政府提供のポルノ番組が流され、両親は息を詰めながら見入るのに、子供は知らん顔でボールを蹴っているというのがありました。