オー、マンタ     津木林 洋


 ダイバーの出会いたい生物のベストスリーは、おそらくジンベイザメ、マンタ、イルカということになるだろう。ジンベイザメは海遊館に行けば見ることができるが、これを自然の海中で見ることは、普通にダイビングをしている限りほとんど不可能に近い。ジンベイザメに出会うのは宝くじに当たるようなもの、ただし世界中でたった一カ所だけ一〇〇パーセントジンベイザメに出会える場所がある。それは西オーストラリアのエクスマスで、三月から五月の間だ。珊瑚の産卵があって動物性プランクトンが急激に増える時期に、それを餌とするジンベイザメが集まってくる。それを小型飛行機で探し、見つけたら船に連絡してダイバーたちが急行するという具合だ。ジンベイザメを見ることができなかったら、料金を半額にするというツアーもあるらしい。
 それに比べてマンタはまだ出会う可能性の大きい魚だ。マンタというのは和名をオニイトマキエイと言い、全長二メートルから六メートルにも達する大型のエイだ。日本では西表島と小浜島の間のヨナラ水道、通称マンタウェイと呼ばれるポイントか、石垣島の川平石崎マンタポイント(かびらいしざきと読む)がマンタに出会える場所として有名だ。
 というわけで今回はマンタに狙いを絞る。ダイビング雑誌によると、春はヨナラ水道、秋は川平石崎が狙い目らしい。川平のガイドはマンタ遭遇率一〇〇パーセントと言いたいところだが、もしもということもあるから九〇パーセントということにしておきますと言っている。話半分にしてもかなりの確率だ。よし、石垣島に行こう。
 那覇で飛行機を乗換え、夕方に石垣島に着く。迎えの車に乗って、マンタポイントに近い川平湾のシーマンズクラブまで三十分。石垣市内のにぎやかさとは正反対で、人家などほとんどない。チェックインすると、部屋は三階。エレベーターはと思って探したが、どこにもない。フロントの人は申し訳なさそうに、ありませんと言う。しかし顔は笑っている。それはないよ。妻と私の二人分のダイビング機材と衣類を詰込んだトランクは三十キロもあるのに。結局私一人で腰を痛めないように注意しながら運び上げる。ここで腰を痛めたらダイビングどころではなくなってしまう。
 部屋にトランクを置いて、すぐにレストランに食事に行く。他に客は誰もおらず、私たち二人だけ。まさか客は私たちだけと妻と顔を見合せたが、どうもそうらしい。客らしい人影は全く見なかったし、まだ七時過ぎだというのにレストランに客はいない。
 翌朝朝食も私たち二人だけで、ダイビングの申込みも二人だけ。沖縄では十一月でもダイバーが訪れるというのに、十月二十日水曜日のシーマンズクラブにダイバーが二人だけ。マンタって人気がないのかなあ。
 ガイドのKさんに尋ねると、あしたはもっと増えますよと言う返事。あ、やっぱりね。ということは三人だけで潜るのは今日だけということになる。よーし、三人だけでマンタを見に行こうと思っていたら、今日はマンタポイントには行けないとのこと。風が吹いて波が高く、船が行けないのだ。そんな、ここまで来てマンタポイントに潜れないなんて。潜って出会えないならまだ納得できるが、潜れないまま帰ることになったら、何のために石垣島まできたのかわからなくなる。明日はどうですかと尋ねると、たぶん明日は大丈夫だと思いますよとKさんは答える。たぶんということは、だめだということもありうるわけか。そういえば、夕べテレビの天気予報で石垣島に波浪注意報が出ていたことを思い出す。注意報だから大したことはないと高をくくっていたが、甘かったようだ。
 北東の風を避けて、島影になる大崎というポイントに潜る。透明度が二十メートルちょっとで秋口にしてはあまりよくないのが気にかかる。エントリーして一気に二九メートルまで潜降し、ウミカラマツというソフトコーラルとそこに集まっている七、八尾のアカククリを見、次にスミツキアトヒキテンジクダイの群れを捕食しにくるハナミノカサゴの群れを見る。数えたら十一尾。こんなにたくさんハナミノカサゴが集まっているのを初めて見た。午後は同じように風を避けて、御神崎南(おがんざきみなみ)に潜る。最大水深十三メートル、平均七メートルで珊瑚のきれいなポイント。青くて細いツノサンゴの群生があり、ぶつからないように中性浮力を取るのに気を使う。
 その晩、レストランに行くと、若い女性の二人連れと夫婦らしいカップル、それに中年のおじさんが一人、先にテーブルについていた。食事しながら外を見ていると、次々にタクシーが到着してダイバーらしき人たちが降りてくる。ダイバーが私たち二人だけというのも何となく寂しいものだが、あまり大勢になるのもせわしなくていけない。
 そして翌朝、ダイビングを申込みに行くと、名前がずらっと書いてある。なんと私たちを入れて十八人。集まった顔ぶれを見ると、男は私と夫婦連れの片方と中年のおじさん、それに三十代と思しき三人連れの計六人。後はすべて女性。それも妻を除いて全員若い女性だ。今の日本のダイビングがいかに若い女性に支えられているかがわかる。
 さて肝腎の天気だが、きのうの天気予報では波浪注意報が消えていたので、きょうこそはと思うが、風はきのうと変らないようだ。船に乗込み、私たちは中年のおじさんと夫婦連れ、それに長いフィンを持った二人連れの女性のグループに入る。私たちのグループは船の後部でセッティングをする。どうやら多くの本数を潜っている者どうしが集められたようだ。まあ、これはどこのダイビングサービスでもやっていることで当然だが、ガイドがKさんでなくなることが残念。Kさんは川平石崎六人衆という名の知れたガイドたちの一人で、きのう潜ったときもそのガイディングには安心感があったのだが。
 今回私たちのグループをガイドするのは、ユッコという二十歳くらいの小柄の女の子だった。ケラマの阿嘉島には女子プロレスラーのようなガイドがいたが、大体女性のガイドというのはユッコのように小柄で細身の、いくらでもエアーが持つだろうというタイプが多い。Kさんともう一人の若い男のガイドが本数の少ない十一人を案内する。確かに海の中で大の男がパニックに陥ったら、女の力でそれを抑えることは不可能だろう。急浮上しようとするダイバーを押さえつけるには、かなりの腕力がいるのだから、当然初心者にはKさんのようなベテランガイドがつき、放っておいても大丈夫なダイバーには、ユッコのような女性ガイドがつくことになる。
 セッティングが終ると、ユッコが私たちを集めてポイントのブリーフィング(説明)を始める。「今回潜るポイントは、川平石崎マンタポイントという所です」
 思わず、やったと口走ってしまう。他の人に、きのうは波が高くて潜れなかったんですよとさかんに説明する。「私も探しますが、みなさんも周りを見回して探して下さい。見つけたら自分だけで楽しまないで、みんなに教えましょうね」とユッコが言う。そう、まさにその通り、独占はいけませんよ、独占は。
 ポイントに着くと、他のダイビングサービスの船も三、四艘すでに来ているのが見える。波は少々あるが、どうってことはない。
 午前十一時、エントリー。きのうと同じように透明度がそんなによくない。果してマンタは現われるか。期待を込めながら周りを見回す。簡単には出会えないだろうと思っていたのだが、五分もたたないうちに、前を行くユッコが前方を指さす。見ると、大きな黒い影がひらりひらりと動いている。マンタだ。私は興奮して、後ろに続いているダイバーに何回も指をさして教える。そうしてひょっと横を見ると、また一匹、今度はかなり近く、十メートルぐらいのところを私たちと同じ方向に泳いでいる。白い腹にコバンザメが何尾も張付いている。横にいる妻が前しか見ていないので、体をつついて横のマンタを教えてやる。
 さらにしばらくして、珊瑚の根の頂上あたりを五、六匹が縦列編隊になって泳いでいくところが見えた。マンタはゆうゆうと泳いでいるが、いざという時の速いこと。あっという間に飛び去ってしまう。両翼を羽のように上下させて、まさに水中を飛んでいる感じだ。
 浮上直前に一・五メートル程の子供のマンタを見つけたので、エアーをなるべく出さないようにしてそろそろと近づいていく。五メートルほど近づいたところで、相手は向きを変える。さらに追っていきたかったが、深追いすると残圧がなくなってしまうので、諦めて引返す。
 船に上がって中年のおじさんと話をする。おじさんは石垣島にもう四回も来ているが、こんなにたくさんのマンタを見たのは初めてだと言う。今年の春も来たが、そのときは一匹も見なかったらしい。私たちはどうもついているようだ。
 次の日の午前もマンタポイントに向かう。きのうより波が高くて、ポイントに着くまでかなり揺れる。エントリーすると、潮が変ったのかきのうより若干透明度がよく期待するが、マンタはなかなか現われない。十分ほどたって、ようやく現われる。きのうは見ることができただけで満足だったが、今回はもっとそばまで、できれば至近距離まで近づいて一緒に泳ぎたいなどと欲が出る。しかし近づこうとすると、相手は体を翻して飛び去ってしまう。Kさんの率いるグループと一緒になったとき、珊瑚の根の向こうの方からこちらに向かってくるマンタが見える。よしよし、このままじっとしていたら、すぐそばまでくるぞとほくそえんでいたのだが、ひょっと上を見ると、真っ赤なウエットスーツを着た一人がぶかぶか浮いている。四、五メートル上でちょうどマンタの進行方向に当たる。だめだめ、もっと沈まなきゃ、それじゃまるで赤信号だよ。私はレギュレーターをくわえているにもかかわらず、思わず口の中で声を出す。しかし私の願いもむなしく、マンタは方向を変えてしまう。
 船に上がって他の人に赤いウエットスーツのダイバーのことを話すと、みんな気づいていたらしく笑っている。中年のおじさんが、本数が少ないからまだ中性浮力がうまく取れないんでしょうと言う。こうなると初日Kさんと三人だけのときにマンタポイントに潜れなかったことがかえすがえすも残念になってくる。
 波があって初心者の女の子などはエギジットするのに四苦八苦している。中にはうねりに酔って吐いてしまう女性もいる。波浪注意報も出ていないのに、これなのだから、きのうの天気は結構よかったほうに入るらしい。
 その晩みんなで集まってログづけ(潜水のデータや感想などをログブックに記入すること)をしているとき、初めてマンタは一枚、二枚と数えることを知る。なるほど形から見て座布団のでかいやつだから、そういう数え方をするのも頷ける。
 それから、秋にしては透明度がよくないという話になり、Kさんが今年はずっとよくなかったと言う。潮の加減か、それとも開発の影響かよくわからないらしい。私と妻が、七月に潜ったケラマが去年ほど透明度がよくなかったことを話すと、ケラマの砂はシーズンオフに吸上げられて、沖縄本島のホテルの人工ビーチに撒かれているからという話になる。つまり、舞上がったミクロの砂が底に鎮まりきらないために透明度が悪くなっているんじゃないかとKさんは言う。初耳だった。人工ビーチは波で砂が失われるため、毎年補給しなければならないらしい。なんたることだ。本島周辺の珊瑚は開発による土砂の流入によって壊滅的な打撃を受けているため、よく知っているダイバーは決して本島周辺では潜らない。
 ところでKさんは東京都の出身で、ダイビングのガイドをする前は寿司屋で寿司を握っていたそうだ。そこの寿司屋は夏に一ケ月ほど休みをくれるところで、そのとき先輩の職人に連れられて石垣島にやって来たのが運の尽きだったとKさんは笑いながら言う。沖縄のガイドは内地から来ている人間が結構多い。島の人間は生まれたときから海とはこんなものだと思っているから、すぐそばの海の素晴らしさになかなか気づかない。島で生まれてガイドになっている人は、一度都会に出て初めて生まれ故郷の海の美しさに気づき、戻ってきたという人が多い。宮古島の名ガイドTさんなどはなんと東京に出ていったとき、伊豆でダイビングを習ったと言う。
 結局タンク六本潜って、島を後にしたが、石垣島もいつまでもマンタがやって来る素晴らしい島であってほしい。マンタに一度会っただけでもういいというふうにはならないのが、自分でも不思議だ。妻も同様らしく、帰ってきたその日に、また来年も行こうかという話になった。どうやらマンタウォッチングは毎年の恒例になりそうだ。
 

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