私はサメの味方です            津木林 洋  スクーバダイビングの最大の魅力はたぶん、日常とは全く次元の違う世界に身を置けるということだろう。陸上では地面から足を離して空中に浮ぶということは不可能だが、水中ではそれが可能だ。中層で浮遊しながら、群れをなして泳いでいる魚をぼやーっと眺めているのは、何とも言えず気持がいい。もちろんさまざまな珊瑚や魚をじっくり観察するのも楽しくて、これほど多種類の生物がいるのかとその生命の多様性にほとんど畏敬の念さえ覚えてしまうほどだ。  潜っていると、私たち人間は全くの闖入者で、魚たちの世界にお邪魔しているという感覚に捕われるが、その感覚が時として破られることがある。  モルディブで潜っていたときのことだ。いそぎんちゃくの中にいるクマノミに指でちょっかいを出していて、ひょっと横を見るとコーラの空き缶が落ちている。その途端ひどくがっかりした。闖入者という感覚は消え失せ、空き缶を起点にして異次元が裂け、人間の日常の次元が吹出してくるような何とも嫌な感覚に捕えられた。  モルディブでも沖縄のケラマでも、海は確実に汚れていっているとガイドのダイバーが言っていた。空き缶一つでもその現実を目にすると、ショックは大きい。魚や珊瑚に代って、抗議の声を上げたくなる。  さて、去年瀬戸内海でホオジロサメが潜水漁をしていた人を襲って大騒ぎになった。そのためダイビングも大丈夫かと訊かれたことがあったが、ダイバーで、サメが恐いから潜らないなんて言うと、笑われてしまう。確かにホオジロザメはサメの中でもっとも凶暴だと言われているが、外洋性のサメでダイビングポイントのある珊瑚礁域まで近づいてくることは滅多にないし、人を狙って襲うことはありえない。人喰いザメというイメージは映画の「ジョーズ」で一般に広められたが、あれは明らかに間違ったイメージだ。「ジョーズ」を書いた人も後にそのことを認め、サメに申し訳ないことをしたと謝っているほどだ。彼は人喰いザメという間違ったイメージを最大限に利用して、映画をヒットさせたに過ぎない。  サメは死んだり弱ったりしている魚などの海洋動物を餌にしている。そういう動物の出す臭いや音を嗅ぎつけ聞き分け、近づいてくる。そしてバタバタしている動物の筋肉から出る微電流を感じ、目で見て食いつく。つまりサメは人間を狙って襲うのではなく、人間を餌と間違えてたまたま口にしてみただけに過ぎない。  瀬戸内海の場合で言えば、あの時サメは潜水夫を食べようとしたのではなく、採っていたタイラギ貝を食べようとして誤って、というか口が大きいために一緒に食いついてしまったのではないか。タイラギ貝の臭いと採集するときの音がサメを呼び、潜水夫と海上の船を結んでいたインターホンのケーブルから微電流が漏れていて、お、餌があるとサメに思わせたのだろう。  だからサメに襲われないようにするには、サメに餌と間違われないようにすればいい。水中銃で魚を突いて腰にぶら下げたりすると、サメに餌がここにいると教えているようなものだ。ダイバーがサメに襲われた原因の大半が、このスピアフィッシングであると言われている。ダイビングよりも単に海面で泳いでいるだけのほうがサメに餌と間違えられやすい。足かどこかを傷つけて血を流しながら泳いでいると、餌の条件をすべて満たすことになる。血の臭い、脚をバタバタさせる音、筋肉から出る微電流、それに海中からは海面にいるものは影になってよく見えるのである。  私はあのサメパニックを見ていて、本当にサメがかわいそうになった。だいたいこちとらは数億年もこういう食生活でやってきたんだから、たかだか五十万年の人間にごちゃごちゃ言われるのは筋違いだ、そっちのほうが遠慮しろ、と物言わぬサメに代って、私が言ってあげよう。  ヒステリックなサメ狩り騒動をテレビで見ながら、サメよ、捕まるなと私は祈っていた。そんなことをするよりも、サメを神と奉って、魂鎮めの儀式でもやるほうが余程人間的だと思うのだが、今の人間は傲慢で自分たちの敵はすべて殺してしまえるとでも思っているらしい。かわいそうなのは、とばっちりをうけてプランクトンしか食べないウバザメが捕獲され、殺されたことだ。私はそのニュースを見ながら、涙を流し手を合わせた。  海は人間のものではない。それはそこに住む海洋生物のものである。そんな簡単なことが今の人間にはもう理解できなくなっているらしい。珊瑚礁を埋立てて空港を造るなど、一度でも海に潜ったことのある人間なら、おいおいちょっと待ってくれよと言いたくなるような発想が出てくるのだから、サメ様がお怒りになるのも無理はない。