透明人間の時代               津木林 洋  ウッディ・アレンが監督した「アリス」という映画の中で、透明人間になる薬を手に入れた主人公が、透明になって夫の浮気の現場に乗込むというシーンがあった。透明人間になったら、さぞかし便利だろうと私たちが考えるのは、自分の望むときに透明になれたらという暗黙の前提があるからだ。そうすれば、人の秘密を知ることなど思いのまま、夫の浮気などたちどころにわかってしまう。  しかしその暗黙の前提が崩れたとしたら、つまりあなたは確かに透明人間にはなれたが、もう二度と不透明人間には戻れないとなったらどうなるか。それに答えるのがH・F・セイントの『透明人間の告白』だ。あなたは道を歩くのさえ困難だと感じるだろう。通行人や自転車に乗った子供や自動車があなたを無視して(あなたが見えないのだから当たり前だ)突っ込んでくるのだから。あなたは何を食べればいいのだろう。食べる物は不透明なのだから、かなり奇妙な光景が展開されるだろう。着る物は? あなたは生活をしていくことが出来るのだろうか。  だが、心配はいらない。あなたは金を稼ぐこともできるし、不透明人間と恋愛することもできる。嘘だと思うのなら、前記の本をお読みなさい。  しかし考えてみれば、それほど不思議なことでもない。私たちが存在しているのは、何も目に見える肉体だけではない。社会的存在ならば、むしろ肉体など不用だと言ってもいいくらいだ。私たちは銀行の口座番号だったり、納税者番号だったり、カード会社のブラックリストだったり、ダイレクトメール代行会社の人名録だったりする。つまりは私に関する情報さえあれば、私は存在することになる。  あなたは自分に関する情報をでっち上げでも何でも作り上げて社会に登録し、銀行口座を開けば、それで金を稼ぐ基盤は出来たことになる。後は透明であることを利用して、極秘の情報を手に入れれば、いくらでも金が入ってくる。まさに株のインサイダー取引と同じだ。  恋愛となるといささかむずかしくなるが、知合うきっかけなどいくらでもある。たとえばパソコン通信。パーソナルコンピュータと電話を使って情報のやりとりをするのだが、電話のようにリアルタイムで会話をする機能もある。画面上の文字を使った井戸端会議といった趣だ。  さて、そこで知合ったあなたが相手と現実に会うとなると、確かに不利なことは不利だが、逆に透明であることの有利さもある。相手はあなたが見えないのだから、あなたの姿を好きなように想像することができる。どうせ恋愛なんて相手の本当の姿を見ていないのだから、同じだと考えたあなたは正しい。  それでも相手があなたの姿を見たいと言ったら、バーチャルリアリティ(人工現実感)というのはどうだ。コンピュータグラフィックスを映すゴーグルとセンサー付きの手袋を使って、あたかも目の前に現実が存在するかのように触ったり、働きかけたりできるのだ。飛行機のパイロットが訓練に使うフライトシミュレータはその実用化されている例だが、あなたの肉体のデータをコンピュータに入力してグラフィック化すれば、あなたはもはや透明人間ではない。  H・G・ウェルズが『透明人間』を書いた時代には、透明人間が姿を現わすには、包帯を巻き付けるしかなかったが、今ではコンピュータがその代りをしてくれるだろう。そういう意味では、現代は肉体の存在の重みがだんだん希薄になっていると言えるかもしれない。私たちが肉体を意識するのは、病気になったときかスポーツをするときくらいだろう。病気のときは、自分の存在が肉体に縛られていることに不合理を感じるだろうし、スポーツをしているときは自分の存在が肉体とぴったり一致していることの歓びを感じるだろう。もっとも存在しているという意識と肉体を明確に二つに分けることなど不可能で、透明になったあなたの存在の意識は、透明になる前に比べて明らかに変っているだろう。  意識の源が脳にあることは確かだが、だからと言って脳以外の肉体が存在の意識に何の影響も与えないということはありえない。心臓移植を受けた患者のうちでかなりの人が存在の危機に陥るらしいが、心臓一つでさえそうなるところが人間らしい。SFでよくあるように、脳だけは人間で体は人造というアンドロイドの意識が人間と同じだと考えるのは、どうも楽観的すぎるようだ。人工知能が極度に発達して自分の存在を意識するようになったとして、その意識が人間とどう違うのか、あるいはどう同じなのか。  パソコン通信で会話をしているだけでは、相手が人間であるかアンドロイドであるか人工知能であるか、全くわからないだろう。透明人間でさえ生きられる、そういう時代に私たちは生きているのである。