俳句知らずが俳句を語れば                   津木林 洋  私の母は俳句をやっている。私は全く作らない。十年以上も昔、試しに作ってみたことがあったが、母に川柳みたいと言われてから気分を害し、それ以後一句も作ったことがない。自分では立派な俳句のつもりだったのだが、それが川柳ということならば、自分には俳句は作れないなと思ったのだ。俳句と川柳の区別のつかないものに、どうして俳句が作れる、というわけだ。もちろん概念的な知識としては俳句と川柳の違いを理解していたつもりだったが、実作は別だ。今から思うと、その時の戸惑いはもっともで、想像力を刺激する範囲の違いがよくわかっていなかったのだろうと思う。もともと散文的発想をする人間なのだ。おそらく散文的俳句だったのだろう。それが母には川柳と映ったのに違いない。  この散文的というのは曲者で、例えば、次のような俳句がある。  ひと抱えのばらをわたくしのために買う  これはかなり以前、ラジオの番組で聞いた俳句で、作者が誰かは忘れてしまったが、散文的な俳句ということで頭に残っていた(漢字等の表現はこの通りかどうかは疑わしい)。「わたくし」というところが、ちょっとひとひねりしてある部分で、ここを「自分」に変えると、全くの散文といってよい。小説の文中にはめ込んでも、違和感はないだろう。「わたくし」としたために、この人はおそらく女性で、買ったばらは赤くて、いかにも華やかな感じがする。しかし女性は孤独で、ひょっとしたら失恋した直後かもしれない。と私なら鑑賞するだろうが、こういう鑑賞の仕方自体、散文を書いている人間の発想かもしれない。というのも、母にこの句を教えたところ、「そういう散文的な俳句を作っている人もいるわね」と軽く一蹴されてしまった。どうも母にとっては俳句とは認め難い作品のようだ。想像力を刺激する範囲が広がり過ぎているためだろうか。  私のある友人は、(本気かどうか知らないが)俳句は想像力を刺激する範囲が広ければ広いほどよいと称していて、それを実践するためには、句の流れとは全く関係のない、それでいて何となく関係がありそうな言葉をひとつ入れることだと言う。  そこで彼は即座にひとつ作ってみせた。カウンターにふたりで呑むや砂時計。私たちはバーで酒を呑んでいたのだ。季語は砂時計かと私がきくと、彼は知らないと言う。それじゃおかしいじゃないかと言うと、すぐに次のを作った。名月や池をめぐりて砂時計。それじゃあ盗作だと文句を言うと、名月をふたりで呑むや砂時計。 「砂時計から離れられないのか」 「それがさっき言った実践だよ。関係のない言葉をぶつけると、そこに想像の世界が開ける」  私にはあまり想像の世界は開けなかったが、あえて反対することもないので、黙っておいた。関係のない言葉をぶつけなくても、想像の世界が開けるのは、先程のばらの句でも明らかだが、それならば次の散文はどうだろう。  あの人は晴れでも傘をさしている  あまりにも漠然としていて、想像を広げるとっかかりがない。晴れでも傘をさしているのだから、日傘ではないかと思うかもしれないし、晴れ「でも」だから、雨傘に違いないわけで、それを日傘がわりにしているだけだとも取れる。つまりはただ情景だけがあるわけだ。  それでは次の散文はどうか。  発狂した隣人を見て  あの人は晴れでも傘をさしている  これならよくわかる。濡れることを極度に怖がっている狂人で、傘の中でおびえている顔まで想像できそうだ。  それでは次。  雨の日に子供を交通事故で失くし、気の狂った隣家の母親を見て  あの人は晴れでも傘をさしている  同じ文章でも、前置きがあるかないか、あるいはどういう前置きがあるかによって、想像力の刺激のされかたに違いがあることがおわかりいただけたと思うが、もちろんこれは俳句ではない。俳句に前置きなど必要ないからだ。かといって、前置きもない、たかだか十七文字で、想像力を刺激することなどできるのだろうか。普通に文字を綴れば、先程示したように、ただの情景描写になってしまう。前置きがあれば、普通の文章でも何とかなるが(まさに小説はそのようにして作られている)、俳句には駄目だということになると、前置きに代わるものが必要になる。つまりは共同認識である。共同幻想と言い換えてもよい。俳句が自然を取上げることが多いのも、自然に対する共同幻想がかなり一般的だと信じられているからである。しかしそれも現代においては、かなり怪しくなってきている。特に都市において。  母の作る俳句には、ときどき私の認識外の自然が入っていて戸惑うことがあるが、おそらく俳句を作っている集団の共同幻想に支えられているのだろう。俳句を作る人間しか俳句を読まないということからすると、それで充分なのだろうが、そうなると仮に、現実にはなくなってしまった自然でも、俳句集団の共同幻想の中にあれば、俳句に詠めるということにもなりかねない。そうすると俳句を作るというのは、どういうことなのか。まさか俳句集団に帰属していることを確認する作業でしかないということではないだろう。  現代は共同幻想が細分化される時代で、そういう意味では、あらゆる芸術分野が俳句的様相を帯びることになるかもしれない。しかし本来芸術活動というのは、細分化する共同幻想を何とかまとめようとする行為であるような気がするのだが。