禾津頓宮(あわづとんぐう)跡・遵義堂(じゅんぎどう)跡
所在地:大津市膳所二丁目(現膳所高等学校敷地内)
禾津頓宮跡(あわづとんぐう)
あつく仏教を信仰した聖武天皇(しょうむてんのう)は大仏造立や正倉院等に関わった奈良時代の天皇です。聖武天皇は在位中に都を転々と遷(うつ)した。「続日本記(しょくにほんぎ)」には平城宮を出て恭仁宮(くにのみや)、紫香楽宮へと天皇が都を遷す時、伊賀、伊勢、美濃、そして近江国を行幸し志賀郡の禾津(あわづ)に3泊したと記されています。この行幸のコースは聖武天皇の曾祖父にあたる天武天皇が壬申の乱(じんしんのらん)の際に進軍した経路とほぼ一致し、途中で伊勢神宮に奉幣するなど、天武天皇の行動を追体験している観が見受けられるものです。その実態はよく分かっていませんでした。平成14年(2002)、膳所校新築工事に伴う発掘調査をした所、禾津頓宮の中心建物と見られる大型掘立柱建物の柱穴(ちゅうけつ)が発見されました。建物跡を地下保存し平成21年(2009)に県の史跡に指定されました。(頓宮とは天皇の行幸に際してその行く先々に設けられる仮宮(宿泊施設)、禾津頓宮も天皇の東国行幸の計画性やわずか3日のためにも立派な仮宮を伴っていた権威の強大さを裏付ける具体的な足跡で重要なものです)
遵義堂(じゅんぎどう)「遵義(じゅんぎ)とは誠実な心で真理と正義を追求し人類の未来に貢献する事」
藩校遵義堂の起工は藩主本多康禎(やすさだ)の文化5年(1808)9月であるが、発起、開設準備は先代康完(やすさだ)が行ったもの。第17代本多康完が儒学者、皆川淇園(みながわぎえん)の勧めと計画によって建設準備がすすめられていたようです。文化4年(1807)に淇園が没し、康完もその前年に没したが翌年(1808)に起工され、文化6年(1809)に竣工し文武を奨励。教育内容は四書五経で、幕末には蘭学と西洋砲術が加わった。杉浦重剛(じゅうごう)など明治の様々な人材を育てる事になる。明治3年(1870)廃校。表門は和田神社に移築された。
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明治40年建立「校地記」 |
「遵義堂跡碑」は昭和46年(1971)3月建立。 |
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明治33年に発行された「旧膳所藩学校遵義堂之図」 |