和田神社(わだじんじゃ)

御祭神:高龗神(たかおかみのかみ) 雨乞いの龍神、水神・淤加美神(おかみのかみ)のことを示す。
 具体的な神の名前として「高龗神(たかおかみのかみ、山頂に座す龗)」や「闇龗神(くらおかみのかみ、谷間や山裏に座す龗)」などが伝わり、おかみのかみとは両者を合わせた総称というのが通説になっている。

御由来
 和田神社は、白鳳4675御霊殿山(ごりょうどやま)山頂の八大龍王宮から勧進して木下村の氏神になったもので江戸時代には八大龍神社と呼ばれていました。明治になってこの地が和田岬や和田浜と呼ばれていた事から和田神社と改称され今日に到っています。因に和田の地名は海の神様「海津見(わたつみ)」からとの説もあるようです。

本殿

蟇股

本殿(重要文化財)
 一間社流造(間口2間、奥行2間3尺)の小さな社殿で東面して建てられ、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)です。また正面に軒唐破風(のきからはう)を付けると言う県内では珍しい建築様式を持っています。この建物には後世の補修のあとも多く認められますが、側面にあるすっきりと美しい「かえる股」などは鎌倉時代の様式を良く残しています。明治35731日に国の指定文化財となりました。

表門
 文化5年(1808)創建の膳所藩校の遵義堂(じゅんぎどう)の門を維新後に移築。(高麗門形式、写真は境内からなので後ろ向き)

摂社(境内社)
 稲荷神社(稲、穀霊神、農耕や食の神、商売繁昌)
 五社の社(天照大神ほかそれにつながる5柱を祀る)
 山神社 (大山祇
(おおやまつみ)神、山を支配する神、のち山も海も支配する神)

石灯篭(献鐙)

表門(高麗門、境内側より)

イチョウの巨木

石灯篭(刻印文字のなぞ)
 鳥居前にある一対の石灯篭(大阪 坂口喜兵衛 大正104月)街道に向いた正面に「献鐙」の刻文字、普通ならば「献燈」とされると思うのだが?(音読みはどちらもケントウ)。和田神社と同じ御祭神の京都貴船(きふね)神社の言い伝えではその昔雨乞いの時、天皇は生きた黒い馬を奉納。また晴れを願う時は白い馬を奉納していました。その後時を経て生きた馬の代わりに板に描いた馬を奉納するようになりこれが現在の絵馬へと変遷していった様です。(貴船神社は絵馬発祥の神社)「献鐙」の「鐙」は「あぶみ」と読み馬とのかかわりが伺える。詳しい変遷は判りませんが献燈〜献鐙(馬の代わりにあぶみを奉納)した可能性があります。全国的にも大阪住吉大社の灯篭、飛騨古川町(高山祭)の提灯にも「献鐙」の文字がみられます。

いちょうの木(大津指定の文化財、保護樹木)
 このいちょう(公孫樹)は滋賀県下において例をみない程の巨木で、樹高24m、目通り周囲(約4.4m)あります。樹齢はおよそ600年以上と推定され多数の気根(きこん)(地上の幹から出て空気中に露出した根)を垂れています。またこのいちょうは和田神社の御神木としてさらに琵琶湖上から和田浜の目標樹となっていたと思われます。

 石田三成が関ヶ原の合戦後捕われて京へ護送される途中、休憩の為にこの樹につながれていたとも伝わっています。余談ですが、粟津が原で木曽義仲を討った言われる(平家物語、吾妻鑑)頼朝側の武将が石田為久(相模国、神奈川県)といい、同じ石田姓で末裔説も有る様ですが確証がありません。その為久と三成は同じ旗印(軍旗)を使っていたようです。「大一大万大吉」でその意味は「1人は万民のため、万民は1人の為に尽くせば、天下の人々は皆幸せになれる」。ラグビーの精神「One for all ,all for one」(1人はみんなのために、みんなは一つの(勝利)の為に)とも似ています。

石田為久、石田三成が使用した軍旗(その他の武将も使った事実有り)

レンガ塀(昭和1212月建設)
 和田神社北側の境内に寄贈されたレンガ塀が有る(約60m)、昭和1212月建設、延長30間、寄進西田久兵衛と刻まれている。