桝形防塁(ますがたぼうるい)と新堀川・泉水寺跡

所在地:大津市木下町

桝形防塁(お台場の様に敵の攻撃に備える場所)
 相模川の西を通って川と旧東海道が交差する所に桝形防塁がある。相模川河口付近には敵からの攻撃を防ぐ為に桝形の防塁が築かれていた。響忍寺の裏にも盛り土があり、ここには鉄砲隊が待機することが出来た。以前は番小屋も残っていたそうだが、現在はわずかに川の石積みから類推することができる。


新堀川(相模川)
 膳所城の設計(縄張り)を築城の名手と言われた藤堂高虎に命じます。任された藤堂高虎や技術集団はまず、湿地だった膳所崎に流れる川を北に付け替えます。膳所崎とは現在の膳所城趾公園周辺ですが、この一帯が典型的な扇状地でここから琵琶湖に流出していた川を新たに掘った相模川に移します。膳所では相模川を新堀川と呼ぶのはその様な理由からです。700mほどの付け替え工事はそんなに日数を要しなかったかも知れません。
川の付け替えが終わると膳所崎に祀られていた土地の神であり、天智天皇の時代から食の神である膳所大明神(現在の膳所神社)を現在の場所に移します。藤堂高虎は膳所大明神を本丸予定地から約500m西に遷し、城と膳所大明神を結ぶ線を基軸にして景観も考えながら街道を配した。

 相模川上流には文化7年(1810)に完成した御用池とその上流には享保9年(1724)に藩が堰堤工事をしている御霊殿池(ごりょうどいけ)があります。これらはいずれも水害を防ぐと共に灌漑用のものです。時期的に平和な時代に整備された池ですが、故意に決壊させれば相模川河口付近(東海道筋)に大量の水と土砂を流す事が出来る。攻撃を受けた場合には溜め池を決壊させる事も考えていたのかも知れません。膳所城の外堀的な役目もあったと思われる。

なお、藩ではこの川尻の洲崎(琵琶湖岸)を大砲の実弾射撃場や打ち上げ花火場としていた。この洲崎の一角に泉水寺(現在の平和堂辺り)があり有名な小堀遠州七窯(しちよう)の一つ、藩主のお庭焼の窯を5代藩主「菅沼定芳」が築かせていた。いわゆる膳所焼の起原である。

泉水寺(廃寺)泰長山遍照院泉水寺
 本尊の正観世音は別保村天満宮境内の泉水中より出現したので泉水寺と称した。境内にあった金比羅宮は膳所城二の丸にあったのを天明3年(1783)この寺に遷座し鎮護社として尊崇されたが明治元年の神仏分離の時に金比羅宮を若宮八幡神社の境内に移祀し、寺は廃寺となり手水盤だけが響忍寺に残されています。

山城屋のイチョウ
 枡形防塁より100mくらい上流の相模川横の路上の真ん中に柵にかこまれたイチョウの巨木があります。室町時代旅の禅僧がこの地を霊地と感じて草庵を構えてイチョウを植えました。後世この辺りの役人頭「山城屋大吉邸の護木(まもりぎ)となった。近代交通の不便さもあったが霊木として現在まで残ったと思われる。(琵琶湖からの目標樹)