石坐(いわい)神社(高木神社)
所在地: 大津市西ノ庄
延喜式内 石坐神社御由緒
当社は天智天皇8年(669)旧9月9日相模川上流神奈備山(御霊殿山(ごりょうどやま))の磐座(いわくら)に龍灯が飛来し、御神託のままに勅使を遣わし大岩の上に小祠を建てて祭祀なされた。
壬申の乱(672)の後、天武天皇朱鳥元年(686)旧5月1日粟津の王林の地石坐野(いわすの)(膳所石神町)に八大龍王宮(豊玉比古命・彦坐王(ひこいますおう))と正霊(しょうれい)天皇宮(天智天皇・大友皇子(弘文天皇)・伊賀宅子媛命(いがのやこひめのみこと)との両殿が創建された。正霊天皇宮は大友皇子が壬申の乱で敗死している事から、その霊を鎮める為に祀られた思われる。八大龍王宮は、京阪錦駅辺りの石神町に遷された後、度重なる粟津の合戦で焼失するも再建され文永3年(1266)現在地に祀られるようになった。この事は本殿の棟札に書かれてある。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの時にも敗軍の大坂軍が火を放ち、八大龍王宮は難を免れたが正霊天皇宮は焼失し拝殿、記録、宝物等も焼失した。その後明治維新に到るまで八大龍王社と称し、江戸時代雨乞いのご神徳により膳所城主の篤い崇敬を受ける。
石坐神社は、一時期、高木神社と呼ばれていて、篠山市の博物館所蔵の東海道絵図には「高木社」と書かれている。また近江輿地志略(寒川辰清著・編)にも「高木の宮」と書かれている。これは江戸時代の中ごろまで境内に高さ60mの霊木(エノキ)があったからで、琵琶湖からの目印としても重宝されていた。大正6年(1917)旧称の石坐神社に復す。
延喜式
平安時代にまとめられた延喜式神明帳(じんみょうちょう)に記載されている神社で、
朝廷が格式などを認めたもので膳所では唯一の式内社。また神明帳に記載されない神社を式外(しきげ)社という。
御祭神
海津見神(わたつみのかみ)豊玉比古命(とよたまひこのみこと)(同一神)
海の神様、海原の事も言う。龍神で水や雨の神様。(膳所和田浜の地名もここに由来かも)
彦坐王命(ひこいますおうのみこと)
9代開化天皇の息子、その子孫が治田の連(むらじ)、安の直、息長族、
淡海国造(おうみこくぞう)、近江国西部(琵琶湖西岸)を支配した国造。のち近江国周辺に広がる。
国造(くにのみやつこ、こくぞう、こくそう)は古代日本の行政機構において、
地方を納める官職の一種またはその官職についた人。
天智天皇
弘文天皇(大友皇子、天智天皇の子)
伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)(大友皇子の母)
重要文化財
木造 天命開別命(あまのみことひらかすわけのみこと)座像(平安)(天智天皇)
木造 伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)座像(平安)
木造 弘文天皇座像(大友皇子)(平安)
木造 彦坐王(ひこいますおう)座像(鎌倉)
県指定文化財
本殿(鎌倉)
三間社流造り(間口3間、奥行2間3尺)屋根は桧皮葺の社で周りを平唐門と塀によって囲まれています。社殿の前面に有る向拝部やまわりの縁は後世につけられたものですが、身舎(もや)には建築当初の古材が残っており桁や舟肘木(ふなひじき)などの様式は古いもので、脇障子が社殿の前寄りについているのは珍しい型式です。
この社殿の建立年代は、棟札の写しによって文永3年(1266)に建造された事が知れ、鎌倉時代の社殿建築として貴重なもので、昭和38年(1963)8月に県の有形文化財に指定されました。
大津市指定の保護樹木
エノキ 石坐神社境内 昭和52(1977)年12月1日
主な御祭礼
大 祭 5月3日(膳所五社まつり)
漏刻祭 6月10日
大正9年(1920)6月10日に時の記念日が定められ膳所町・滋賀郡の協賛のもと漏刻祭が盛大に執り行われた。
現在も受け継がれています。(近江神宮よりも早く施行されている)
神奈備磐座祭 旧9月9日
彦坐王社(摂社、境内社)
本殿の左横にある小祠、組石の上に座る神像(石造)を屋根で覆ったという感じ。
彦坐王社との提灯が下がっている。神像は彦坐王だろうが詳細は不明。
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彦坐王社と神像 |
弁財天社 |
稲荷社 |
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御霊殿山遥拝所 |
相模川上流の御霊殿山上の岩に祀られていた八大龍王宮である。
石坐神社は御霊殿山頂にある巨岩を拝する磐座信仰に発した思われ「社伝はこの巨岩を八大龍王としているが、八大龍王とは本来密教の請雨法(しょううほう)の本尊である。おそらく当社は原始的な磐座信仰から出発したがやがてはこの磐座が雨乞い信仰の対象となり神仏習合の過程で八大龍王の御神体とされるようになったのであろう。
請雨法(しょううほう)
密教で日照りの時、諸大竜王を勧請して降雨を祈る修法。日本では弘法大師が始めたとされる。
本殿は西向き、鳥居(11代藩主、本多康命(やすのぶ)寄贈)は北向き?
・御霊殿山の方向を向いているから。
・祭神には個有の縁日があり、その縁日を正しく伝えるのが方位である。
その方角こそが伝統的な日の暦法であった。
・本殿と鳥居の向きを一直線で結ぶというより、本殿の正中線と鳥居を一直線にしないようカギの手にクランクさせた。
この正中線を人間が踏む事を良しとしないので、参道と一緒になる距離を短くする意味も有る様です。