明石市史 第三章 オイルショック後の明石市
「第四節 高校入試に総合選抜明石方式」


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1 兵庫方式の導入

ベビー・ブームと高校入学難
 一九七〇年代後半、戦後ベビーブームの波が高等学校や大学におよんだ。また、経済の高度成長と技術革新の進行から人材養成の必要が高まった。著しい量的な拡大がすすむとともに、教育が新たな社会の要請に対応することを迫られた。
 明石市の人口急増・高校進学率の上昇は、小中学校の分離増設や高等学校新設を余儀なくした。同時に高校受験競争、高校間格差、補習や学習塾通いなどの問題を引き起こした。これらの問題の解決をはかるため高等学校入学者選抜方法改善の必要性が高まっていた。
 一九七〇(昭和四十五)年十月、兵庫県教職員組合明石支部は「高校入試の単独選抜は学校間格差を生じ、入試地獄に拍車をかけている。早急に総合選抜制を実施するとともに公立高校一校を増設してほしい」と市内中学生保護者に訴え、署名運動を展開した。また、市、市教委に要望書を提出し、明石・明石南両高校にも働きかけ、翌春実施をめざし住民運動を展開した。表85が示すように、このころ明石では、公立高校志願者数(二九八七人)に対し、入学定員は三校合わせて一四四〇人で、半数以上が志望通りには入学できなかった。
 一九七一年六月、明石市に三番目の県立普通科高校新設(七二年四月開校、明石北高等学校)が決定された。同年九月、明石市教職員組合は市議会に高等学校の総合選抜制実施の請願書を提出した。明石市はその後も引きつづき人口増加が予想され、受験競争の激化は避けられなかった。

表85 1970年度卒業予定者進路希望調査

高校入試に兵庫方式・総合選抜
 中学校の教育正常化、高校間格差の是正などが課題となるなか、一九六七年七月、県教委は公立高校入学者選抜方法の変更を発表した。入学者選抜において、従来の教科別検査を廃止し、中学校からの調査書を主資料とする。総合的な思考力検査を行い、体育実技を加味し、その成績を補助資料とするとした。すなわち、中学校の教育正常化・高校入試改革を企図した「兵庫方式・思考力検査」を翌六八年度から導入することを決定したのである。
 兵庫県は「兵庫方式」を導入する一方、さらに高校入試改革をすすめるため、兵庫県公立高等学校入学者選抜方法研究委員会を設け、総合選抜制度の研究協議をすすめた。総合選抜は、同一学区の高等学校(同一課程・同一学科)の定員合計に当たる数の合格者をまず決定し、一定の基準・方針に基づいて合格者を各高等学校に配分するものである。一九六八(昭和四十三)年三月、研究委員会は、「生徒の学力均等配分による総合選抜制度は恒久的な万全なものではないが、当面の過熱化した受験準備教育の是正に役立つと思われるので、阪神から播州までの都市地域において実施すべき」という積極的推進意見と、「小学区から中学区への改編の趣旨と経過や、学校選抜の自由制約、合格者の機械的配分から生ずる問題点、校風づくり及び指導上の困難性、また、自我の確立と尊重の観点などから、総合制は望ましくない」という消極的意見の両論併記のかたちで報告書を提出した。
 中学校教育正常化・高校入試改革のため、兵庫方式「思考力検査」(学力検査)と「総合選抜」が同時進行で論議され導入された。総合選抜は可能な地域(学区)から漸次実施するという県の基本方針に沿って、既に実施されていた尼崎、西宮・宝塚学区に加え、七一年度から新たに伊丹学区で、さらに、明石・加印、姫路・福崎、神戸市の三学区においても導入の方向で検討がすすめられた。

2 総合選抜「明石方式」

明石市の改革への動き
 一九七二(昭和四十七)年五月、「昭和四八年度兵庫県公立高等学校入学試験に、居住地優先の総合選抜制が実施されるよう措置されたい」との請願が明石市議会で採択された。請願採択に際して、三項目の十分に配慮すべき事柄が付された。すなわち、(一)明石・加印学区を分離すること、(二)居住地優先は通学時問および方法をも考慮すること、(三)西部地域に公立普通科高校を早急に設置することである。請願採択を受け、同年六月市教委は総合選抜制実施検討のため研究協議会(明石市公立高等学校入学者選抜方法研究協議会)を設置し、同年八月から、市民の理解を求めるため『市政だより』に「高校入試選抜制度を考える」を掲載するなど広報活動を展開した。
 研究協議会は、同年十月三十日に協議結果報告書を提出した。



明石市公立高等学校入学者選抜方法について

 本協議会は、本年七月以来、明石市公立高等学校入学者選抜方法について、研究協議を行ってきました。その協議の結果を下記のように報告します。

昭和四十七年十月三十日

明石市教育委員会 殿

明石市公立高等学校入学者選抜方法研究協議会
会長 松本 清


 本協議会は、明石市の現状において、昭和四十八年度から総合選抜制を実施することの可否、ならびに、総合選抜制実施に必要な条件整備について研究協議を行なった。その結果、中等教育のはらむ種々の問題の解決と、教育の正常化を考えるとき、若干の意見の相違はあったが、総合選抜制の実施は必要であるという概ね一致した見解を見ることができた。しかしながら、昭和四十八年度実施については、多くの解決をしなければならない問題点がある。したがって、次の諸点について、積極的な対策を講じ、早期実施をはかられるよう要望する。
(以下省略)(「明石地区総合選抜関係資料」明石市教育委員会)

この報告書が「解決が必要なことがら」としたのが以下の五点である。

(一)明石単独学区の実現(加印地区の分離)
(二)適正な居住地割り(地埋的条件・人口実態等から通学時問・方法等を考慮)
(三)市民の理解と協力(総合選抜実施にむけた市民への積極的な啓蒙活動)
(四)公立普通高校誘致(高校進学者増加に応じた公立普通高等学校誘致)
(五)その他(各高校の教育体制の整備充実、各中学校の進学指導、明石商業高校の問題等)

 市教委は、市議会の審議を経て、県教委に「研究協議会の報告に基づき慎重に審議した結果、一九七三年度の実施は困難であるにしても、少なくとも一両年のうちに総合選抜制を実施する体制をとるべきであるとの結論に達した」。また、「明石市として解決すべき問題に積極的に取りくみ、実施体制を整える所存である」と報告した。明石市の総合選抜制度導入は七四年度実施にむけ、準備と議論が継続されることになった。

迷走する「総合選抜」導入

 一九七三(昭和四十八)年に入ると、明石市民を巻き込んで総合選抜論議が沸騰した。特に明石市は、(一)人口の市東部集中、(二)高等学校の市東部への偏在(県立明石・県立明石南・県立明石北高等学校)、(三)単独選抜の学校問格差、(四)市西部生徒の通学・交通不便等、独自の問題があった。先行して総合選抜を実施し定着していた阪神間の諸学区は、(一)一部成績上位者の志望優先、(二)住居地優先の原則を採用していた。先行実施学区


写真63 1974(昭和49)年7月1日
総合選抜制度説明会(大蔵中学校)

の方式を参考にし、以後七四年度実施を前提に総合選抜「明石方式」の模索がつづいた。
 一九七三年七月、七四年度明石地区総合選抜実施準備委員会が開かれた。委員会では、(一)総合選抜制実施の具体的方法およぴ必要な条件整備、(二)総合選抜の趣旨徹底の方法、(三)総合選抜に関する関係機関の連絡調整その他が協議された。
 この前後から、PTAの動きも活発化した。進学高校を決める時期に差しかかり、保護者の間でも不安が 高まっていたからである。当初、総合選抜の導入について異論はなかったが、その方法について市民の議論が分かれた。特に、選考方法をめぐり、PTA間の対立が顕在化し、相互に陳情合戟を展開し、総合選抜の導入は迷走することになった。焦点は、「居住地優先か、学力均等割りか」にあった。東部に位置し、三高校を抱える大蔵・錦城・朝霧の三中学PTAは、昨年の市議会決議に基づく「居住地優先」を主張した。これに対し、西部に位置する二見.魚住両中学PTAは、同地区に高校がない現状からして、「学力均等割り」によって、入学の機会均等を確保し、あわせて西部に普通高校を設置することを強く求めた。
 一九七三(昭和四十八)年八月市教委は、(一)入試を三高校への一括応募とする、(二)合格者は三高校で組織する選抜管理委員会で決め、合格者をいくつかの学校群に分け、学力群ごとに三高校に均等配分する、(三)ただし、通学時間、方法が極端に不合理な場合は配慮する、(四)志望校制度についてはなお検討するとのプランをもって、同七日から各中学校での説明会に臨むとした。しかし、一括志願・志望校制度については、保護者の間で不満が強かった。後者については、大蔵・朝霧・衣川・望海中などから、「学校間格差の解消にならない」として、反対の声があがっていた。
 こうした地域問の対立が解消されないなか、同年十月五日市議会は「時期尚早」との意見をもって、県教委に働きかけた。市教委も迷走をつづけた。翌六日いったん「見送り」の結論を出したにもかかわらず、県教委の説得を受け、八日には「中止再検討」へと態度を変え、市議会の反発をかった。このころ、総合選抜導入について各中学校区の対応は分かれており、賛成は望海・魚住のふたつに過ぎず、二見・錦城・大蔵は反対、大久保も「時期尚早」、衣川・朝霧は態度を明らかにしていなかった。
 地域間の対立と県教委の板挟みにあった市教委は、加えて市議会の反発を受け、結論を見出せないまま、時間は過ぎていった。

総合選抜一九七五年度実施に決着
 県教委は総合選抜については「積極的導入」方針で、一九七一年に伊丹学区で実施し、明石地区は七三年度実施を予定していた。七三年十一月十二日には、県教委から市教委に対し「三高校へ計五学級増を認めるので総選実施に協力してほしい」との要請がなされた。市教委は「一歩前進」と好意的に受けとめたが、市議会は反発の色を隠さなかった。
ようやく十一月末市教委は以下の了解に達した。
(一)明石単独学区は総合選抜実施の一九七五年からとする。
(二)七六年度に公立普通高等学校誘致(市西部)を計画する。
(三)各中学校の進学指導、PTAの説明会がすすんだ。
(四)総合選抜に対し、市民の理解がすすんだ。
(五)この上結論の引き延ぼしは市民の混乱をまねく。
 一九七三年十一月二十六日、明石市議会文教厚生委員会は「市教委は昭和四九年度から総合選抜制を実施すべきであるという立場で努力を重ねてきましたが、今尚、その結論が得られず市民に不安と動揺を与えている。これ以上の遷延は許されないので、市教委はやむなく、七五年度から明石方式で実施したいという結論であり、県も合意した」(「昭和四八年明石市議会文教厚生委員会議事録」)という市教委の報告を了承した。明石市の総合選抜導入問題は足かけ四年を経て、ここにようやく決着をみた。
 一九七四(昭和四十九)年一月、市教委は翌七五年三月からの総合選抜実施に向け、『市政だより』に「総合選抜の実施について」を約一年にわたり連載し、市民の理解を求めた。
明石地区における総合選抜について
上記三(当時の明石・明石南・明石北)高等学校の受験者について、成績の上位の者から順に募集定員を満たす合格者を決定し、ついで、次の方法によって、各高等学校長が協議のうえ、それぞれの学校の入学者を決定する。
ア.上記の合格者を、幾つかの群に分ける。それらの群は、それぞれほば成績の等しい者をもつて構成する。
イ.一つの成績群の中で、志望者の数がそれぞれの高等学校に配分される定員に等しいか、あるいは、定員に満たない場合には、そのまま志望する高等学校の入学者とする。
ウ.一つの成績群の中で、志望者の数が、それぞれの高等学校に配分される定員を超える場合には、各中学校からの当該成績群内における志望者数、交通事情等を勘案して入学者を決定する。
エ.上記ウで志望が認められなかった者については、交通事情を勘案して入学者を決定する。
(「兵庫県公立高等学校入学者選抜方法等研究協議会研究協議のまとめ」)
県教委、市教委、明石市民や教職員組合は、中学校教育・高校入試正常化のため、「小異を捨てて大同」についた。学校間格差是正、受験競争緩和などの期待は大きかった。七五年四月、生徒の志望校に基づき「学力均等配分」を優先させ、さらに居住地を考慮するというユニークな「明石方式」で、総合選抜「明石三校」体制がスタートした。

3 新たな教育問題

山積する教育問題
一九七〇年代は、学校教育にさまざまな問題が表面化してきた時期でもある。生徒の発達のゆがみが指摘され、非行・校内暴力、いじめ、不登校などの問題が顕在化するようになってきた。また、児童・生徒数の急増から、「受験競争の激化」、「詰め込み教育」、「学習塾通い」が問題となってきた。社会の商業主義も子どもたちの生活環境を一変させた。ゲーム機の増加、有害図書の販売、自動販売機による酒、タバコの販売など、社会全体に子どもたちの健全育成に大きな障害が横たわるようになった。八○年代に入ると、全国的に非行・校内暴力の波が中学校に押し寄せた。八○年代半ぼには、非行・校内暴力の問題は表面的には沈静化し、代わって陰湿な「いじめ」問題が多発した。また、ほぼ同時に登校拒否(不登校)の増加が見られるようになった。しつけ、家庭あるいは地域社会の教育力の低下、受験戦争の激化、塾通いによって、子どもたちの健全な成長や発達の基盤がむしばまれ、その結果子どもたちのさまざまな問題行動が現れた。
 学校教育では、社会の変化、児童・生徒の非行や発達のゆがみに対応するためさまざまの模索がつづいた。行ぎ過ぎた「管理教育」も行われるようになってきた。受験競争の激化や社会のモラルの低下、経済の後退という状況のなか、ますます自主性を後退させ、受け身で社会性や創造性に欠ける児童生徒が増加し、いじめや不登校の問題が進行する現在、その対応が緊急の課題となってきた。 最近では、「管理教育」、「受験学力偏重」、「偏差値教育」への反省と見直しがすすみ、変化に対応し自ら考え「生きる力」を養うための教育改革が課題となっている。

− 中 略 −

高校増設と総合選抜見直し
 総合選抜実施後、一九七六(昭和五十一)年に県立明石西、八○年に県立明石清水、八四年に県立明石城西と市西部に県立普通科高等学校の新設がすすみ、総合選抜実施一〇年で「明石六校」体制となった。以後、八六年には、明石北・明石清水高等学校に理数コース、明石西・明石城西高等学校に英語コースが設置された。
 一九八八年八月、県教委「高等学校教育問題調査研究会」の「中問報告」で、明石地区総合選抜の見直し案が提起された。総合選抜実施から十余年、当時県下の高校入試は、単独選抜・連携校方式・総合選抜の三つの制度が共存していた。これらに対し、(一)現行制度の維持存続、(二)一部修正、(三)全学区を単独選抜、(四)全学区を総合選抜、の四案が併記対置された。また、総合選抜改善案として(一)指定校方式(各学区に指定校を設け、その学校は志望優先一〇〇%)、(二)志望優先方式(学区総定員の二〇%は志望優先を認める)、(三)各校志望優先方式(全体の合格者を決めた後、各校が定員の半数を志頗者上位順に決定)、(四)複数志願方式(複数の学校を志願し、第一志望から順に合格を決定)が示された。明石では、総合選抜を維持し、各高校ごとに二〇%の志望優先率を導人する方式が検討された。しかし、既に一五年近くを経過した「総合選抜明石方式」が地域に定着していたこと、積極的な見直し論議が高まらなかったことから、制度の見直しは実現しなかった。県下高校入試制度の変更もまた実現しなかった。
 今日、「総選明石方式」も四半世紀を経た。市立明石商業高等学校はじめ近隣の公立実業高等学校との関係、神戸地区その他の私立高等学校との関係など、当初から「総選明石方式」が抱えていた問題を含め残された課題も多い。


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