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40年後半、「総合選抜 vs 単独選抜」 「子どもとって、良かれと思いしたことが、大いなる負の遺産となりましたね」 「総選廃止後の入試制度も真剣に考えないといけないなー」と思わせる内容です。 「明石の海にフタはないぞ」「月夜の晩ばかりと思うな」昭和48年 総選移行の説明会。 当時、明教組の先生方は、総合選抜は正しいことと信じ、多くの市民の反対を押し切り、市議会に請願 書を認めさせたのですよね。当時の時代背景から、このような運動は致し方ない面もあったと思います 。「月夜の晩ばかりじゃないぞ」とか、いっぱい脅されたそうですね。でも、そんな脅しに屈すること なく信念を貫いたことには敬意を払います。もし、自分たちのかつての運動が、今日に至り、間違いで あったと気づいているのなら、どうか、声を上げて下さい。 明石での総選導入に火付け役を果たしたのは現場の教師らだった。 昭和40年から6年間、明教組の委員長を務めたAさんは言う。 「市内の開発が進むにつれて、子どもの数が多くなってきていた。進学率も上がって、高校を増やす 必要があった。新設校ができても新たな格差を生むだけなら何にもならんと考えたんです」。 昭和47年 明石北高が開校し、明石市の進学率は90%に達した。 「親が『うちの子は○○高しか行けん』なんて言い方をするから、子どもは卑下してしまう。高校生の うちから、そんな差をつけるべきじゃないですよ」長年、市内中学校で教職にあったAさんには、こと さら「輪切り」の進路指導への疑問が強かった。 明教組は40年代の初めから市会などに働きかけを重ねるが、理解を広げるのは容易でなく「靴の裏から 足をかくような」はがゆい年月が過ぎた。 Aさんは、46年に教組のバックアップで市会に立ち、ようやく翌年5月の定例市会で総選実施を求めた 請願の採択を実現する。 しかし、依然として導入へのハードルは高かった。総選に反対する保護者らの声は根強く、賛否は市内 を二分した観があった。 「個人の希望はどうなる」「学力が低下する心配はないのか」 Bさんは説明会で厳しい質問の矢面に立たされる。 「ある母親から『単独選抜制で高校に進学した息子が、肩身の狭い思いをしている』という意見も出た けれども、反対の声にかき消されてしまいました」 激しい反対に加え、住居区優先など入学者の配分方法をめぐる対立もあり、当初予定していた49年度実 施は1年先送りされる。 その間、市教委は県との交渉を重ね、市西部への新設校建設などの総選へ向けた条件を整えていった。 入学者の分配では、西宮、尼崎、宝塚などが上位20%の成績上位者に希望校を優先させていたのに対し て、明石市では、学力均等方式を打ち出す。「完全に均等にしないと、受験競争の緩和と学校間格差の 解消という目的が中途半端になってしまう」というのが、Aさんらの主張だった。 かくして、昭和50年3月に総選による入学試験が行われた。 総選第1期生は言う「以前ほど学校での試験の点数をとやかく言われなくなったし、僕らはあまり気に かけていませんでした。制度を変えることには、子どもより親のこだわりが強かったと思います」 「大切なものは入った学校でどんな人間関係が得られるか。出会いを生かすことができれば、学校の 名前に執着する必要は何もない」。 あかし市民史 一部改変 より |