社会力をつけよう!

社会力って何?
 「社会力」だなんてワープロの変換機能でも一発では出てこない新しい造語ですが、実は大きい意味のある言葉です。
 この言葉は筑波大学教授の門脇厚司先生の言葉ですが、端的に言えば「人が人とつながり、社会をつくっていく力ということになる」ということです。
 また門脇先生の著書『いきるちから 社会力が危ない!』Gakken¥1.500の中では「人と人とが互いに相手に関心と愛着と信頼をもち、それを下地に協力して社会というものを作り、その運営に積極的にかかわり、もっといい社会を作るために汗を流そうとする意欲のことであり、またそのための工夫や新しい案を考え実行することができるさまざまな資質や能力のことといえます」と述べられています。

テクニックだけじゃだめ
 ピアジェやヴィゴツキーの構成主義などを研究していると、学習するということについて本当に考えさせられます。自分が日本語教育に携わってきてテクニック的な面ではある程度、経験も積み、それなりに授業もこなせてきたと自負していますが、「教えること」「学ぶこと」「生きる力をつけていくこと」を深く考え、実践できるようにならなければならないと思います。確かに教え方の上手な先生はいると思います。信頼を置いてその授業に参加していけば知識もついていくと思います。問題は学習者が知識を蓄積していくことだけを意識するのではなく、伝えた知識を生かして、よりよき社会を築いていける人間に育てていけるかが教育に携わる者に問われているような気がします。

コミュニケーション力
 なんでこんなことを考えるようになったかといえば、この歳になって周りの人を客観的に見ることができるようになったからだと思います。優秀で知識も豊富なのにそれが生かしきれていない人もいるようです。パソコンで言えば計算が速いCPUを持ち、どんどん知識を溜め込んでいける大容量HDDを持ち、同時に仕事もこなしていけるたくさんのメモリーが載ったパソコンのような人です。そんなに素晴らしいのにもったいない気がします。ではなぜそんなことが起こるのか考えていくとコミュニケーション不足だからだと私は考えます。
 パソコンはどんなに素晴らしい性能を持ったパソコンでも、キーをたたくなり、人間が命令を与えたり、スクリプトを組まない限り自分で発想し仕事をすることはありえません。つまり人間がパソコンに働きかけるから、それにパソコンが応じているということになります。人間も同じで素晴らしい勉強をしてきて、知識も豊富だけど、人とあまり接触をしていないと、相互作用が生まれにくいと思うんです。人と人がコミュニケーションを取ることによって、影響し合い新しい発想も生まれてくるものだと思うんです。つまり人間はコミュニケーションを取らないと電源をいれないパソコンと同じ状態だと言えると思うんです。コンピュータ担当者をしている関係でパソコンに関する相談をよく受けます。パソコンは「〜メーカーの〜がいい」とか有名なメーカーのパーツを出し、それがないとだめだということも聞きます。でも、あなたのPCリテラシーではそんなの必要ないんじゃない?と内心思うことがよくあります。(ごめんなさい。ちょっと失礼)つまり持っているだけで満足というか、いいパソコンを所有するだけで優越感に浸れるというか本来の価値が見失われているケースがあるように思います。(正直、その買われたパソコンがかわいそうでなりません。いい仕事ができる能力があるのに、いくつかの単純な労働ばかりさせられ、1、2年で旧モデルになりお払い箱)いわゆる対話がないんですよ。パソコンに対して「お前、こんなこともできるか?」「この作業、やれ!」「このソフトでこれをやれ!」とそのパソコンの持つ能力を最大限に引き出し、働かせてはじめてパソコンも喜んでるだろうし、生まれてきた価値があると思うんです。そして所有者はその恩恵を受け、感謝し、その心で労わってメンテナンスも念入りにしてあげるようになるのだと思います。
 仕事柄、勉強会に行ったり、勉強会を開いたりしますが、知的刺激をいつも受けます。自分とは比べ物にならないくらい優秀な人や学歴の人もいます。人間ですから羨望、嫉妬などの感情が起きます。しかしそれはその場にいるみんなが同じです。お互いを尊重しあって相手の意見を聞き、自分の意見も述べ、違う発想にも触れることによって、新しいものが見えたり、だんだん洗練されていくものだと思います。人間はコミュニケーションによって進化するものだと思います。パソコンを例にしましたが、門脇氏のいう「社会力」を育てることを疎かにしていてはコミュニケーションがとれないばかりか、進化しないばかりか退化していくような気がします。電源の入っていないパソコンにはならないようにしたいです。

人間は社会的動物だ
 人間は社会的な動物であると言われますが、社会的な営みは言語を使ってなされている事実からも一見、語学教師には「社会力」は関係なさそうだと思われるかもしれませんが、実は大きなかかわりがあるように思うのです。このことは異文化理解、国際化などのキーワードとも関係してくると思います。他人に関心を持てず、社会にも無関心な人が増えてきているようですが、これは日本に限ったことではありません。日本よりも学歴競争の厳しいお隣の韓国でも深刻だと思います。21世紀に入った現在、「教育」そのものを深く考え、実践していかなければ、また過ちを繰り返すような気がしてなりません。これを書いている8月という月はテレビでも「戦争」に関する特集が多く流れる時期です。それらを見るたびに、繰り返してはいけない過ちを繰り返さないようにするために「教育」の重要性を再認識します。「これが正しい教育だ!」と自信を持って大声で言えるものがあるのでしょうか?みんな試行錯誤の繰り返しだと思います。理想は捨てずに近づけるように私自身はがんばります。

「人が人を育てる」 極めて当たり前だから忘れる
 人が人を育てるとはよく言ったものですが、やはり人を育てるのは人であり人じゃなければ できないことなのかとも思います。私はパソコンが大好きです。パソコンに限らず機械が大好きですが、機械が人を育てることはできないと思います。しかし機械は人が人を育てるのに大きな助けをしてくれる存在だと思います。うまく利点を生かし、活用することによって大きなメリットを受けることができるものだと考えています。
 子供たちを見ていると関心があるのはやはり「ゲーム」であることは否めません。RPGなど子供たちの興味を引くような子供にとって魅力的なゲームが溢れています。「ゲームが悪い」といった単純な意見には私は反対です。でもゲームが悪くないかといえば、やっぱり悪影響はあると思います。
 問題は親が「子供が静かに一人で遊んでくれるからゲームを買い与える」というような態度がいけないと思います。(私自身も反省です)ゲームが子供の社会性を奪っているかといえば、そうともいえない部分もあると思うんです。例えばクリアできない場面で誰かに助けてもらうとかアイデアを出し合ったりとか、協力して達成しようとする部分もあると思うんです。要は大人の機械の利用の仕方と同じで、うまく活用すれば効果倍増、うまく活用できなければ悪影響というのがゲームも含む機械の存在だと思うんです。親と子もそうですが、うまくコミュニケーションをとれば豊かな人生をおくることができると思います。教師と学生も然りです。2005年8月現在、インタラクティブな授業について研究していますが、人が人を育てるという原点に返って、これからも実践を考えていきたいと思います。


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