C十才の魂いつまでも?

 オリンピックは四年に一回である。今年はオリンピックイヤーである。こないだのシドニー五輪でマラソンや柔道でマスコミが浮ついてたのがつい最近のような気がしてたのに、それから早、四年が過ぎ、また今年も大手電機メーカーが五輪をエサにして庶民に、ボタンの増えたリモコンや使わないであろう機能満載のデジタル家電を売りたおす時期が来たみたいです。

 で、人生で何回の五輪が過ぎていったのかなぁ〜?なんて考えてたら、友人の娘が今年12才!あのシワクチャの赤ん坊だったのが五輪三回分も人生こなしよった!てのに気づき、次の五輪ん時は免許取れるやん!なんて事に少しだけ?ショックを受けつつ、そう言や作者は十才ん時、スクーターに乗ってたよなぁ・・・なんて回想にふけってから、よくもまあ飽きもせずにバイクや車で遊んでるよなぁ・・・何でやろ??と考えた。

 まあまあ、大手を振って天下の公道でバイクに乗れるのが十六才。で、作者が十六才当時に流行ってたのがいわゆるローリング族みたいなので、自称、走り屋と称す、まったくもってバカ満開な非生産的活動がメインの連中が世の中にウヨウヨしてた。作者もそんな連中の端っこの方にいて、学校も行かずにアチコチを走りまくってた。
 GPライダーに憧れて見よう見まねで、いわゆるハングオンという大きくバイクを傾けてヒザを地面に擦り付けて、コーナーを曲がるバイクの乗り方を朝から晩まで繰り返した。高価な皮ツナギを買う金も無く、GパンGジャンでヒザに潰した空き缶をガムテープでくくりつけて、ヒザから火花を散らして、バックトゥザフューチャー的に走り回ったり、ウイリーという前輪を浮かせて走る、二輪の意味ねぇーじゃん的な走り方や、ジャックナイフという後輪を浮かせて止まるミッションインポッシブル的な練習をしたり、モトクロスでベルトの風車が回っちゃうくらいジャンプしたり、自分でいじくったバイクをアポロ13的な気分で最高速チャレンジしたりと、当時の自分の中でカッチョイイー!スゴイ!と思う事はかなり怪我をしながらやった。
 バカな子供がかなり安くで乗れる絶叫マシーンを毎日乗り放題てな感じで。

 絶叫マシーン。有名なところでジェットコースターなんかは、高所という非日常的な景色や落下・上昇・ロールなんかを繰り返しながら、暴力的な縦・横Gを搭乗者に提供するくせに、かなり安全な娯楽施設である。
 三半規管(内耳にある平衡と加速度の感覚を受け持つ器官。)の弱い人が絶叫するのは恐怖じゃなくて、気持ちが悪いからなのかどうかは作者は絶叫マシーンで絶叫したことがないので定かでないが、乗っている人を眺めると確かに「ギャーギャー!ヒーヒー!」言ってる。金を払って叫ぶような思いをしてまでそれらの乗り物に乗るのは何で?って考えると、どーやら人って命の保障があると好奇心が勝って、多少の恐怖=スリルを求める生き物みたいです。
 で、ジェットコースターなんかは一方的に状況を与えられるわけで、その状況が我慢ならん人には罰ゲームみたいなプチ恐怖感が襲ってくる段取りになってるみたい。絶叫して何かが合理的に解決される状況なんて、助けを求める時ぐらいなんだから、絶叫マシーンで絶叫するエネルギーというかカロリーはまったく無駄なもんだなぁとすげぇ思う。
 あのエネルギーを発電にでも使えりゃなぁ・・・

 無言悶絶マシン。有名なところで車やバイクなんかは、安全・快適に人を移動させるのが目的なのに、わざわざ峠道などでリスキーな運転をすればスリルを味わえる。
 これらの乗り物で、滑ったりコケかけたりして、少しヒヤッとしたり、口から心臓が出そうなくらいバクバク動悸したりはするが、マジでヤバイ的な、映画や漫画でしか見たことなかった状況になっても人間は絶叫しません!つうか、絶叫なんて精神的に余裕のある人がする行為だと思う。

 車やバイクの運転をする人で、ブレーキが遅れてかなりギリギリで止まれたなんて経験をした方は分かると思うが、そんな時に絶叫はしなかったハズ。ひたすら止まることに集中して、無言で歯を食い縛ったりなんかしながら「ヤバイ!ヤバイ!!ヤバイィィィィィィィィ〜ッ!」と頭の中で悶絶してたハズ。そんな状況にも慣れると、「無理やな、止まれんな、じゃあ加速して避けよう。えーっと、どっかねじ込める隙間は無いかな♪」なんて考え出すようになる。
 それが段々と楽しくもなっていく。

 無言悶絶マシンで、峠道をギリギリで走ったり、止まったり、曲がったり、すり抜けたりするのが作者にとっては非常に楽しいのだが、作者の助手席に乗った人間の反応は様々で、まるで散歩中に「俺、そっちに行きたくない!」ってふんばる犬のように、無言でドアグリップを握りだす人や(早死にさせたい上司がいる方は言って下さい、隣に乗せてあげます♪)、峠道でメーターからキンコン♪キンコン♪(昔の車には付いてた)鳴ってる時に欠伸して寝だす人(そんな時は四点のベルトなりして下さい。ブレーキングのたんびに前に飛び出さないか心配です。)など様々であった。

 てことは、人それぞれに無言悶絶を感じる度合いが違う訳で、自分にとって適度な無言悶絶状態が自分の好みに応じて再現できて、自分のしたいように動きがコントロールできて、ちょっとした達成感まで味わえちゃうのが車やバイクの素晴らしいところで、レールにそって予測できる動きしかしない絶叫マシーン系には無い楽しさがそこにはあるような気がする。それが合法の範囲内で収まる人もいれば収まらない非合法なダメな人もいて、作者の場合も限りなく黒に近い白、グレーゾーンの端っこにいるような気がします。
 俺法は遵守してます。

 何も無言悶絶的なスリルを味わうのだけが楽しみ方じゃないし、人それぞれに楽しみ方はあるのだろうけど、少なくとも、バイクという乗り物は存在そのものがリスクを前提にしてて、体はむき出しだから雨が降れば濡れるし、埃っぽい所を走ると汚れるし(そーいや一日で500Km程走ったら、白いTシャツが灰色になってたっけ)どう考えたって危ないし、いい歳した大人がわざわざ趣味にするにはスマートじゃない。でも、人車一体にならないと走らんし曲がらんし止まらないものを自分のセンスを信じて操って、思ったように走れた時に感じるものや、車なんかでは絶対に感じれない疾走感が作者をバイクの虜にしてるみたいです。

 普通に運転するのでも、車は前に行こうとするタイヤをハンドルという装置で無理やりにこじって向きを変えるから誰でも行きたい方向に行けるけど、バイクはどんなスピードでもハンドルの舵角やバンク角、重心の位置など全てが調和してないと曲がらない。
 買い物に行く原チャリのオバサンだって意識せずにそれらを調和させちゃってる。やっぱりバイクって感性の乗り物なんやね。きっと楽器みたいな存在なんだと思う。
 車は圧倒的な技術力とパワーと制動力で慣性の法則や物理の神様に喧嘩を売りながらズンズン前へ進むぞ!みたいな感じが豪快で気持ち良い♪あり余ったパワーが予想外の方向に働いても基本的にハンドルとスロットルだけでコントロールするから集中しやすいし、楽しみやすい。予想した分だけテールが流れて、カウンターがきれいにあたって、おつりのロールが発生しなかった時や、バイクと同じ速度でエライことになっても怪我しないってのは嬉しい。多少のことはねじ伏せちゃうもんねって感じがすごく楽しい♪
 だから安心してちょいちょい角を当てちゃうんやけどね。汗かきの作者としては人類最大の発明?であるエアコンがあるのも車の魅力かな。

 趣味で乗ってる車やバイクでスルスルっと走り始めて、少し暖機気味にゆっくり走って感触を確かめてから、少しづつペースを上げて足回りの感じを把握していくのが今でも楽しくてしかたがない。季節によって調子の違うエンジンも、どこか生き物的でカワイク思える。

 その昔、子供の頃に補助輪を外した自転車に初めて乗れた時や、初めてスケートで滑れたときに感じた嬉しさみたいなものと同じような感覚が何故か飽きることなく作者の脳ミソにはあって、初めて乗ったスクーターの気持ちいい疾走感(当時はノーヘルOK。でも作者は十才だったから関係ないけどね)がすべての始まりで、いまだに飽きずに続いてて止めれないのである。
 つうか、止める必要も理由も無いんだけど年齢とともに動力性能優先の車両から降りる人が増えて、めっきり自分が少数派になったのを自覚しつつ、もう一度乗る気になった人やこれから乗ってみようてな人に一つだけ忠告しときます。
 
無言悶絶マシーンは自分にとっての適度な範囲の無言悶絶を超えた瞬間や、気を抜いたりナメタ事をした時に、阿鼻叫喚マシーンや、痛恨の一撃マシーンへと変貌します。くれぐれも無言悶絶スリルは用法・用量を守って正しく使用しましょう。そして運良く生きてると、経験値がUPします。いろんな意味で♪