皇籍離脱


 昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本は大東亜戦争敗北により、GHQ(連合軍総司令部)による軍事占領を受ける事を余儀なくされる。様々な占領政策が打ち出される中、その矛先は皇室・皇族にもむけられる。皇室財産の国有化、それまで各宮家の経費は全て皇室財産である御料から賄われていたのだがそれが禁止され、生活予算は全て政府予算として計上するなど、皇族の財産上の特権が次々と剥奪されてゆく。これらGHQの圧力・強制により、もはや全ての宮家が存続し続ける事が事実上不可能な状況となった。
 昭和二十二年(一九四七)五月三日、日本国憲法と日を同じくして「皇室典範」が施行。(憲法十四条において「華族その他の貴族は、これを認めない」とあり、華族制度が廃止。)同年十月十三日、三直宮を除く全ての宮家に対し「皇籍離脱」の宮内府告示が下りる。そして翌十四日の官報告示により、十一宮家・五十一人もの皇族が一度に皇籍を離れる非常事態を迎える。この時、五十一人に対して合計四千七百四十七万五千円(当主には一人当たり百七十五万、それ以外の王は百五万など)の一時金が下賜されている。その後、旧皇族たちは宮号を姓とし、名前はそのまま使用している。

宮号 御名 続柄 宮号 御名 続柄
伏見宮 博明王 博義王第一王子 賀陽宮 恒憲王 邦憲王第一王子
朝子妃 博義王妃 敏子妃 恒憲王妃
光子女王 博義王第一王女 邦壽王 恒憲王第一王子
章子女王 博義王第二王女 治憲王 恒憲王第二王子
閑院宮 春仁王 載仁親王第二王子 章憲王 恒憲王第三王子
直子妃 春仁王妃 文憲王 恒憲王第四王子
山階宮 武彦王 定麿王第一王子 宗憲王 恒憲王第五王子
梨本宮 守正王 久邇宮朝彦親王第四王子 健憲王 恒憲王第六王子
伊都子妃 守正王妃 竹田宮 恒徳王 恒久王第一王子
北白川宮 道久王 永久王第一王子 光子妃 恒徳王妃
房子妃 成久王妃 恆正王 恒徳王第一王子
祥子妃 永久王妃 恆治王 恒徳王第二王子
肇子女王 永久王第一王女 素子女王 恒徳王第一王女
久邇宮 朝融王 邦彦王第一王子 紀子女王 恒徳王第二王女
俔子妃 邦彦王妃 朝香宮 鳩彦王 久邇宮朝彦親王第八王子
邦昭王 朝融王第一王子 孚彦王 鳩彦王第一王子
朝建王 朝融王第二王子 千賀子妃 孚彦王妃
朝宏王 朝融王第三王子 誠彦王 孚彦王第一王子
朝子女王 朝融王第二王女 富久子女王 孚彦王第一王女
通子女王 朝融王第三王女 美乃子女王 孚彦王第二王女
英子女王 朝融王第四王女 東久邇宮 稔彦王 久邇宮朝彦親王第九王子
典子女王 朝融王第五王女 聰子妃 稔彦王妃
静子妃 多嘉王妃 盛厚王 稔彦王第一王子
東伏見宮 周子妃 依仁親王妃 成子妃 盛厚王妃
信彦王 盛厚王第一王子
文子女王 盛厚王第一王女
俊彦王 稔彦王第四王子


 その結果、皇族としての身分を保持できたのは昭和天皇を含め、以下の十六方のみだった。

天皇陛下・内廷皇族 外廷皇族
称号 御名 続柄 宮号 御名 続柄
昭和天皇 大正天皇第一皇子 三笠宮 雍仁親王 大正天皇第二皇子
貞明皇后 大正天皇皇后 勢津子妃 雍仁親王妃
香淳皇后 昭和天皇皇后 高松宮 宣仁親王 大正天皇第三皇子
孝宮 和子内親王 昭和天皇第三皇女 喜久子妃 宣仁親王妃
順宮 厚子内親王 昭和天皇第四皇女 三笠宮 崇仁親王 大正天皇第四皇子
継宮 明仁親王(今上天皇) 昭和天皇第一皇子 百合子妃 崇仁親王妃
義宮 正仁親王(常陸宮) 昭和天皇第二皇子 ィ子内親王 崇仁親王第一王女
清宮 貴子内親王 昭和天皇第五皇女 寛仁親王 崇仁親王第一王子


 その後、現皇室典範下において、「常陸宮」・「高円宮」・「桂宮」(宮内庁によれば、宮号は宜仁親王のお印「桂」から付けられており、四親王家の桂宮とは無関係とのこと)・「秋篠宮」の四宮家が創設される。

宮号 創設者 続柄 創設年月日 宮号の由来
常陸宮 正仁親王 昭和天皇第二皇子 昭和三十九年九月三十日 常陸国が古くより親王任国であったことに因む
高円宮 憲仁親王 三笠宮崇仁親王第三王子 昭和五十九年十二月六日 古くより和歌に詠まれた大和国三笠山近くの高円山
に因む
桂宮 宜仁親王 三笠宮崇仁親王第二王子 昭和六十三年一月一日 宜仁親王のお印・桂に因む
秋篠宮 文仁親王 今上天皇第二皇子 平成二年六月二十九日 大和国の地名・秋篠に因む

 なお平成七年(一九九五)勢津子妃殿下薨去によって秩父宮家が、さらには平成十六年(二○○四)喜久子妃殿下薨去により高松宮家が断絶する。従って現存(平成一八年(二○○六)十二月末日現在)する宮家は、三笠宮・常陸宮・高円宮・桂宮・秋篠宮の五家となった。


【平成十五年六月九日  開設】
【平成十九年一月二日  更新】

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