幕末以降


 国事多難な時代を迎えた文久三年(一八六三)、公武合体派により青蓮院門跡であった伏見宮邦家親王第四皇子・尊融法親王(後の久邇宮朝彦親王)が、翌元治元年(一八六四)には邦家親王第一皇子・歓修寺門跡済範入道親王(後の山階宮晃親王)が還俗。さらに慶応四年(一八六八)には新政府の要請により邦家親王第八皇子・仁和寺門跡純仁法親王(後の小松宮彰仁親王)が還俗する。これまで儲君(皇太子の意味)と四親王家を継承する皇子以外は、仏門に入り宮門跡として生きていくのが慣わしだったが、ここに来てその原則が大きく変わってゆく。
 その後明治になると、僧籍にあった皇子達が勅命(天皇の命令)により次々と還俗し宮家を創設してゆく。維新当時の伏見宮家当主・邦家親王は十七男十五女の子沢山で、この時期創設された宮家は全て伏見宮の流れから生まれており、当主不在であった閑院宮家には養子を入れている。
 これらの宮家は当初一代に限り皇族とされ、二代目以降は臣籍降下するはずだったが、これらは「特旨」(天皇の特別の思し召し)により次々と覆り、全ての宮家が二代目以降も皇族の身分を保ったままであった。

明治元年時(一八六八)の四親王家当主。
宮号 当主 続柄
伏見宮 邦家親王 伏見宮貞敬親王第一王子・光格天皇猶子
桂宮 淑子内親王 第百二代仁孝天皇第三皇女
有栖川宮 幟仁親王 有栖川宮韶仁親王第一王子・光格天皇猶子
閑院宮 天保十三年(一八四二)から
明治五年(一八七二)まで当主不在
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幕末から明治年間に創設された宮家
宮号 創設者 続柄 創設年月日 宮号の由来
山階宮 晃親王 伏見宮邦家親王第一王子・
初光格天皇養子、後孝明天皇猶子
元治元年正月十八日 勧修寺の所在地・山科に因む
華頂宮 博経親王 伏見宮邦家親王第十二王子・
光格天皇養子
慶応四年正月七日 知恩院の山号・華頂山に因む
小松宮 彰仁親王 伏見宮邦家親王第八王子・
仁考天皇養子
明治三年二月一日 仁和寺の所在地の旧名・小松に因む
梨本宮 守脩親王 伏見宮貞敬親王第十王子・
光格天皇養子
明治三年十一月三十日 梶井の古称・梨本御坊に因む
北白川宮 智成親王 伏見宮邦家親王第十三王子・
孝明天皇養子
明治三年十一月三十日 照高院の所在地・北白川に因む
久邇宮 朝彦親王 伏見宮邦家親王第四王子・
仁考天皇養子
明治八年五月二十日 一条院由緒の地・山城国恭仁(くに)
に因む
賀陽宮 邦憲王 久邇宮朝彦親王第二王子 明治二十五年十二月十七日 朝彦親王の邸宅内にカヤの老樹が
あったことに因む
東伏見宮 依仁親王 伏見宮邦家親王第十七王子・
明治天皇養子
明治三十六年一月三十一日
竹田宮 恒久王 北白川能久親王第一王子 明治三十九年三月三十一日 京都伏見の地名・竹田に因む
朝香宮 鳩彦王 久邇宮朝彦親王第八王子 明治三十九年三月三十一日 朝彦親王が伊勢神宮祭主を務めた縁で
伊勢国・朝香山に因む
東久邇宮 稔彦王 久邇宮朝彦親王第九王子 明治三十九年十一月三日


 明治二十二年(一八八九)二月十一日、旧皇室典範が発布される。これにより親王宣下の制度も廃止され、親王・内親王の範囲は天皇の玄孫(四世)まで、五世以降は王・女王と規定される。また永世皇族主義をとり、五世以降になっても永遠に皇族身分を有する事ができるようになった。だがその反面、養子を取ることも禁止となったため(※)、後嗣に恵まれなかった宮家が次々と断絶してゆく。
 まず、明治十四年淑子内親王薨去により当主不在であった四親王家のひとつ桂宮が断絶。明治三十六年には小松宮が一代のみで、同じく四親王家のひとつ有栖川宮は世子の栽仁王が早世していたため、大正二年威仁親王の薨去により(有栖川宮家の祭祀は、その後大正天皇第三皇子高松宮宣仁親王が継承)、そして大正十三年には華頂宮が四代続いた後断絶する。東伏見宮家は大正十一年、依仁親王が薨去、後嗣はおらず周子妃一人のみが残る状態だった。

 明治四十年(一九○七)には皇室典範増補が制定される。これにより王は家名と爵位を賜り華族に列することができるようになる。それにより宮家を相続する皇子以外は全て臣籍降下している。皇室典範増補制定の理由は、宮家が増えすぎる事による経済的圧迫を憂慮した為と考えられる。

家名 名前 続柄 爵位 叙爵年月日 備考
清棲 家教 伏見宮邦家親王第十五王子 伯爵 明治二十一年六月二十八日
二荒 芳之 北白川宮能久親王第五王子 伯爵 明治三十年七月一日
上野 正雄 北白川宮能久親王第六王子 伯爵 明治三十年七月一日
小松 輝久 北白川宮能久親王第四王子 侯爵 明治四十三年七月十日 小松宮家の祭祀を継承
山階 芳麿 山階宮定麿王第二王子 侯爵 大正九年七月二十四日
久邇 邦久 久邇宮邦彦王第二王子 侯爵 大正十二年十二月七日
華頂 博信 伏見宮博恭王第三王子 侯爵 大正十五年十二月七日 華頂宮家の祭祀を継承
筑波 藤麿 山階宮定麿王第三王子 侯爵 昭和三年七月二十日
鹿島 萩麿 山階宮定麿王第四王子 伯爵 昭和三年七月二十日
葛城 茂麿 山階宮定麿王第五王子 伯爵 昭和四年十二月二十四日
東伏見 邦英 久邇宮邦彦王第三王子 伯爵 昭和六年四月四日 東伏見宮家の祭祀を継承
音羽 正彦 朝香宮鳩彦王第二王子 侯爵 昭和十一年四月一日
伏見 博英 伏見宮博恭王第四王子 伯爵 昭和十一年四月一日
粟田 彰常 東久邇宮稔彦王第三王子 侯爵 昭和十五年十月二十五日
宇治 家彦 久邇宮多嘉王第二王子 伯爵 昭和十七年十月五日
龍田 徳彦 久邇宮多嘉王第三王子 伯爵 昭和十八年六月七日 昭和四十一年梨本伊都子養子


 その後、皇室典範増補制定以降に創設された宮家は三直宮(昭和天皇の三人の弟宮、秩父宮・高松宮・三笠宮のこと)のみで、東久邇宮を最後に伏見宮系の宮家創設はなかった。

宮号 創設者 続柄 創設年月日 宮号の由来
高松宮 宣仁親王 大正天皇第三皇子 大正二年七月六日 有栖川宮家の祭祀を継承したことにより、同宮初代好仁親王
の宮号に因む
秩父宮 雍仁親王 大正天皇第二皇子 大正十一年六月二十五日 日本武尊が奥羽平定に際して経由した武蔵国の名山秩父嶺
に因む
三笠宮 崇仁親王 大正天皇第四皇子 昭和十年十二月二日 阿倍仲麻呂の和歌の一節に因む
「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」


(※)「養子を取ることも禁止となったため」という表現は、かつては養子による継承が行われたことがあるという誤解を与えてしまうが、過去、皇位が養子により継承されたことはは只の一度も存在しない。(但し、宮家の場合は明治初期に例外数例あり)新旧問わず皇室典範においての養子の禁止とは、あくまでも実系(直系)による継承しか認めないという意味。


【平成十五年六月九日  開設】
【平成十九年一月二日  更新】

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