親王家の起こり


 大宝・養老の継嗣令においては、天皇の兄弟姉妹・皇子女のみが「親王・内親王」とされ、二世以降の「皇親(皇族の意味)」は王号を使用。皇親の範囲も四世(玄孫)までだった。五世以降になると、皇胤といえども臣籍に入れられる決まりとなっており、この規定は明治二十二年に「皇室典範」(現皇室典範と区別するため以後旧皇室典範という)が施行されるまで続いた。

 しかし、時が経つにつれ皇親の数が増加してゆき、限られた財源ではその全てを賄うことが不可能となってくる。
 そこで弘仁五年(八一四)五月、第五十二代嵯峨天皇が源信(みなもとのまこと)を筆頭に自らの皇子・皇女各四人の計八人に源朝臣の姓を与え臣籍降下させる。以降も嵯峨天皇は多くの皇子女を臣籍に入れ続け、結果、三十二人の嵯峨源氏が誕生する。これまでにも賜姓皇族は存在したが、天皇の実子がこれ程多く臣籍降下するのは前例のない事であり、嵯峨源氏はこの後全部で十八流生まれた賜姓源氏の嚆矢となる。ちなみにこれらの中で廟堂(朝廷の意味)に残ったのは、清和源氏・宇多源氏・村上源氏・花山源氏・正親町源氏の五流だけだった。
 ちなみに賜姓平氏の初出は、天長二年(八二五)閏二月、第五十代桓武天皇皇孫の平高棟(たいらのたかむね)で、こちらは桓武平氏・仁明平氏・文徳平氏・光孝平氏の四流が存在し、廟堂に残ったのは桓武平氏のみだった。

 平安時代も中期を過ぎる頃になると、次第に臣籍降下する皇子女は減少してゆき、それに変わって出家し仏門に入る事が主流を成すようになる。
 寛仁二年(一○一八)、第六十七代三条天皇皇子・師明(もろあきら)親王が仁和寺において出家、性信入道親王(しょうしん・にゅうどうしんのう)と称した。これが入道親王の初例となる。さらに承徳三年(一○九九)、仁和寺に出家していた第七十二代白河天皇の第三皇子が「親王宣下(しんのうせんげ)」を受け、覚行法親王(かくぎょう・ほうしんのう)と称し、法親王の初例となる。元々は、出家してから親王宣下を受けた親王を「法親王」、親王宣下後に出家した親王を「入道親王」と呼んだが、時代とともにその呼び方は曖昧になってくる。
 親王が入室し住持を勤める寺院は「門跡(もんぜき)寺院」、内親王・女王の場合は「比丘尼御所(びくにごしょ)」と呼ばれ、特別の格式を誇った。
 次第に律令の規定も崩れてゆき、多くの皇子・皇女が出家することによって、親王・内親王の人数が著しく制限されるようになる。そのうち、皇兄弟・皇子女ではない皇親が親王宣下を受け親王・内親王を称するようになる。

 「親王宣下」とは、もともと二世王(天皇の孫)であった第四十七代淳仁天皇・第四十九代光仁天皇の踐祚に伴い、同天皇の兄弟姉妹に親王・内親王の称号を与えた事がはじまりとされている。寛仁三年(一○一九)第六十七代三条天皇皇孫の敦貞王たちに親王宣下が行われて以降は、皇兄弟・皇子女ではない皇親に対しての親王宣下が慣例化してゆく。そしてさらに時代が下ると、勅命により当主が代々「親王宣下」を受けた「世襲親王家」が誕生する。
 「親王宣下」を受ける前に、親王家を継承する皇子は天皇の「猶子(ゆうし 擬制的な父子関係を築く制度)」に、出家して仏門に入る皇子は天皇の「養子」になり、社会的に「天皇の子」となる。しかる後「親王宣下」を受け、ここで初めて親王の称号を賜る。それとは逆に、たとえ天皇の実子であっても親王宣下を受けなければ親王を称することができなくなる。明治天皇の場合を例にとれば、満九歳をむかえた万延元年(一八六○)に親王宣下を受け、この時初めて「睦仁」の名を賜っている。
 「親王宣下」・「猶子の儀」の諸制度により、「世襲親王家」の歴代当主は本来なら天皇の実子しか名乗れなかった「親王」の称号を得る事ができ、四世以上に血が離れていようとも「皇親」であり続ける事ができたのだった。


 「世襲親王家」の起こりは鎌倉末期、家号としての宮号が成立する。いくつもの親王家が誕生するも、そのいずれもがわずか数代で断絶。その後初めて独自の所領を持った常磐井宮が成立する。続いて木寺宮、伏見宮が創設される。だが常磐井宮・木寺宮の両親王家は戦国時代中期に断絶する。その中にあって唯一伏見宮だけがその血脈を伝えていった。

 北朝第三代崇光天皇は、持明院統の嫡流を理由に第一皇子である栄仁親王の践祚を望んだが、弟宮の践祚(北朝第四代後光厳天皇)によりその願いは叶わなかった。結果、栄仁親王を祖として伏見宮が創設される。のち第百二代後花園天皇が皇弟の貞常親王に詔して、永世にわたり「伏見殿」(歴代の伏見宮当主は代々伏見殿と称した)を称する事を許す。
 戦国時代末期、豊臣秀吉の猶子となっていた第百六代正親町天皇第一皇子誠仁親王の第六皇子智仁親王(桂離宮造営で有名)が、秀吉の奏請により天正十八年(一五九○)八条宮を創設。宮号は常磐井宮・京極宮と変わり、文化七年(一八一○)第九代盛仁親王のとき桂宮と改称する。
 その後江戸時代になり、三代将軍家光の代の寛永二年(一六二五)、第百七代後陽成天皇の第七皇子好仁親王が高松宮を創設。こちらも度々宮号を変えており、桃園宮・花町宮、そして寛文十二年(一六七二)第三代幸仁親王のとき有栖川宮と改称している。宝永七年(一七一○)には幕臣新井白石の建白にもとづき、第百十三代東山天皇第六皇子直仁親王が親王家を創設、のち享保三年(一七一八)、閑院宮の宮号を賜る。
 伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮、この四家は「四親王家」と呼ばれる。
 (※)四親王家の幕末の知行地と石高はこのページ最下部に記載。

宮号 創設者 続柄 創設年月日 宮号の由来
伏見宮 栄仁親王 北朝第三代崇光天皇第一皇子 栄仁親王が山城国伏見に居を定めたことに因む
桂宮 智仁親王 誠仁親王(陽光院)第六皇子 天正十八年二月十九日 山城国葛野郡桂に因む
有栖川宮 好仁親王 第百七代後陽成天皇第七皇子 寛永二年十月二十七日 幸仁親王の別荘が紫野の有栖川にあったことに
因む
閑院宮 直仁親王 第百十三代東山天皇第六皇子 宝永七年八月十二日 清和天皇皇子貞元親王の号・閑院に因むか?

 親王家が誕生した当初は、あくまで特定の親王個人に対しての処遇だったが、閑院宮家が創設される頃になると、皇統の備えとしての一面が強く意識されるようになる。ちなみに四親王家からの皇位継承は三度にわたる。
 最初は第百一代称光天皇崩御された時、伏見宮貞成親王第一皇子彦仁王が第百代後小松上皇の猶子として践祚、第百二代後花園天皇となられた。二度目は花町宮(後の有栖川宮)第二代を継承していた良仁親王が、兄である第百十代後光明天皇の突然の崩御を受け第百十一代後西天皇として践祚。三度目は第百十八代後桃園天皇が欣子内親王一人を残して崩御された際、後桃園天皇の養子となり、閑院宮典仁親王第六皇子兼仁王が第百十九代光格天皇として践祚されている。(後に、欣子内親王は光格天皇中宮)
 なお、光格天皇以降は、今上天皇まで直系による皇位継承が行われている。


(※)四親王家の幕末の知行地と石高

 伏見宮
  山城国紀伊郡 吉祥院村  五十二石八斗六升
  同国乙訓郡  上久世村  三石三斗五升
  同国同郡   鶏冠井村  五十石
  同国同郡   今里村   二百六十九石四斗九升五合
  同国同郡   下海印寺村 二百十四石八斗二升五合
  同国同郡   金ヶ原村  六十石六斗八升
  同国同郡   花園村   七石二斗五升一合
  同国葛野郡  西京村   五石三斗八升九合
  同国同郡   朱雀村   九斗一升八合
  同国同郡   聚楽廻リ  二百七十二石八斗四升八勺
  同国同郡   同所    五十八石五斗一升九合三勺
  同国同郡   西院村   六石六斗九升四合
  同国愛宕郡  千本廻リ  十九石四斗三升一合
  合計           千二十二石二斗五升三合一勺

 桂宮
  山城国葛野郡 川勝寺村  九百六十七石三斗余
  同国同郡   下桂村   千百十二石五斗余
  同国同郡   徳大寺村  三百十一石五斗余
  同国同郡   夙村    五石
  同国同郡   御陵村   百六十三石余
  同国乙訓郡  開田村   四百四十七石二斗余
  合計           三千六石六斗余

 有栖川宮
  山城国葛野郡大井郷太秦村之内安養寺村
               三百三十五石八斗六升二合五勺
  同国同郡   大井郷   六百六十四石一斗三升七合
  合計           千石

 閑院宮
  摂津国西成郡 南宮原村  三百二十二石二斗六升九合
  同国同郡   堀上村   二百六十石八斗四升七合
  同国嶋下郡  西蔵垣内村 二百十九石一升三合
  同国同郡   丑寅村   二百十四石七斗八升七合
  合計           千十六石九斗一升六合


【平成十五年六月九日  開設】
【平成十九年一月二日  更新】

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