西住と西行
 (『和歌文学研究第53号』1986年10月30日、和歌文学会発行)
 は じ め に

 西住さいじゅうは『千載集』に四首入集している勅撰歌人である。しかし、それよりも彼は西行の同行の上人ということで有名である。

 西行の伝については、これまで詳しい研究が多くの人々によってなされているが、西住の伝については桑原博史氏の「二人の西住」(1)以外見られないようである。
 というのも、「西行関係の資料を通してのみ存在を確認できる人」と桑原氏が前記論文で言われているように、彼については残された資料も少なく、その足跡を辿るには不明な点が多いからであろう。

 しかし、彼は西行出家以前からの友人であるだけでなく、出家してから後はともに同行と呼び合い、その死に際しては西行が悲哀に満ちた歌を残すほど大切な人であった。西行を研究理解していく上では、見過ごすことの出来ない人物である。

 そこでこの小論では、従来の資料に加え、新資料を一つ提出することにより、不明であった西住像をより明確にし、西行と西住の関係に新しい可能性を示唆してみたいと思う。

 1. 西住の伝について

 まず、西住の伝についてこれまでわかっている所を見てみる。
 年代的に一番古く確かな資料は、建久五年(1194)、上覚によって書かれた『和歌色葉』(2)である。

 この中の「名誉歌仙」の所に、入道三十六人中、空仁、西行に続いて西住の名前が、「千載右兵衛入道 西住 俗名源季正」と書かれている。
 この本は、西行滅年の建久元年のすぐ後に書かれたもので、時代的にも西住活躍期と近く、また作者上覚と西行との関係(3)を考えてもかなり信頼できる資料であると言える。
 この他にも和歌関係の資料としては建武四年(1337)に元盛が編集した『勅撰作者部類』(4)や、北村季吟が天和二年(1682)に著した『八代集抄』(5)にも、「西住法師 俗名季政」とある。

 次に、仏教、特に真言宗系の書物の中にその伝が残されている。まず『血脈類集記』(6)第四の「大法師賢覚」の付法弟子中に、「西住上人 左兵衛季正入道也」とある。
 同記は、

撰者未詳、文明十四年(1482) 印融修補。弘法大師以後に於ける真言宗の相承血脈を集大成したもので、鎌倉時代に至るまで総て二百七十四人の血脈譜を列挙し、師弟及びその受潅の年月、場所、職位、略歴等を詳叙し、東密諸師の伝統を知る上に最も信悪するに足る資料(7)

と見られているものである。『和歌色葉』とは若干の差異があるが、これもまた十分信頼できる資料であると思われる。

 もう一つ、十八世紀初めの元禄・宝永頃に醍醐山の祐宝が撰した『伝灯広録』(8)がある。
 この巻中に「醍醐山理性院開祖法眼賢覚伝」があり、その付法二十七人中に、「西住 季正入道」の名がある。この賢覚伝に続いて三番目に「醍醐山法師西住伝」が残されている。(※本文は漢文。以下、私に読みくだす。)

西住。俗名は鎌倉二郎源次兵衛季正。勇武の声有りて人に知らる。保元平治の間、源家衰微し平氏の為(ため)に喪(ほろぼ)さる、季正入道、出家し、西行と一双と作(な)り西住と曰ふ。廼(いまし)理性の法脈を得、蓮華蔵観に住す也。

 この『伝灯広録』は、「その記事まま誤なきに非ざるも、我宗の高僧伝として最も広博なるものにして五百六十余人を列伝し、史伝研究の一資料たり」(9)と見られていて、資料的には先の『血脈類集記』に劣るかもしれないが、西住伝としては一番詳しく書かれている。

 さらに加えるべき資料として『十訓抄』(10)がある。その巻下第八「可勘忍諸事事」の中に、西行の在俗時代のエピソードとして、幼い愛娘の死の報を聞いても彼が顔色ひとつ変えなかったことが、西住の談として伝えられているが、そこには「西住法師、其時、げんびやう衛のぜう(源兵衛尉)とてありける」というように書かれている。

 『十訓抄』は、建長四年(1252) に六波羅二搓カ衛門入道によって書かれたもので、「もっぱら実事を平易な国文で語ることを旨とし、真偽のほども分らぬ口碑伝説を例に引いたり、文飾をこととすることは避けた」(11)という編集方針と、時代的にも西住活躍期から約一世紀後に西住談話の伝聞という形で書かれていることなどから、資料としても信頼できるものと思われる。
                        
 これら以外に、十七世紀に書かれた『貴胤碩臣出家標目』(12)には、「則清 円位」という西行の別名の下に「季政 西住」とあり、また同じ頃書かれた『顕伝明名録』(13)にも西行の前に、「西住 上人右兵衛源季正入道」とあり、西住の俗名が知られる。

 以上がこれまで確認されている資料である。『尊卑分脈』では「源季政」という人物は何名か見られるが、いずれも時代的に不適当で、西住に特定できる人物は見当たらない。これが彼の伝や家系を暖昧なままにしている原因である。しかし、以上の資料から、

1、 西住は俗名、源季正(政)で、在俗時右(左)兵衛尉であった。
2、 醍醐寺理性院流祖賢覚より付法を受け、その法脈に連なる真言宗系の僧であった。

という二点が確認出来る。

 2. 新資料について

 さて、これらに付け加えるべき資料として『中右記』大治四年(1129)十月二十三日の条(14)を注目してみたい。

 この日の記事は、鳥羽上皇と待賢門院との間の五宮本仁親王(後の覚性法親王)の侍所政所始めのことである。この中の侍所十人の名前の六番目に「右兵衛尉源季政」という人物が見られる。私は、ここに出てくる「右兵衛尉源季政」こそ西行の同行であった西住の在俗時代の姿であると考えたい。

 大治四年というと、西行は元永元年(1118)の生まれとされるから当時12歳で、この季政もほぼ同時代の人物である。また名前も政と正はよく混用される漢字であるから同名と言えるし、官職も同じ右兵衛尉である。従って、彼が後に同行の上人西住となる人物と考えても何ら不自然なことはなく、また同じ頃に源季政が他にもいたということが見られないことからも、この源季政こそ西住の在俗時代の記録と考えてもほぼ間違いないであろう。以下、これをもとに論を進めてみる。

 まず西住の年齢についてだが、これまで彼の年齢的なことは何一つわかっていなかった。ただ、西行との関係から彼と同年、もしくはほぼ近い年齢とみられてきた(15)。しかしこの記事から、元永元年に生まれた西行が十二歳の時(16)に、季政(西住)はすでに右兵衛尉として奉職していたということがわかる。右兵衛尉という武官でしかも親王の侍所の侍を勤める者が十一歳以下の子供ということはまず考えられない(17)。従って、西住は西行よりも年上であったはずである。

 大治四年に右兵衛尉であったというだけで季政の年齢を推測することは難しいが、おおよそ官位から二十一歳から三十代前半の間と思われる。すなわち、西行よりは十ないし十五歳年長と考えられるだろう。

 次に、徳大寺家と季政の関係について見てみる。彼は大治四年に生まれたばかりの本仁親王の侍所に仕えていた。ということは、彼と親王の母待賢門院の実家の徳大寺家との関係に注目してもいいと思われる。

 季政とともに選ばれた他の九名の侍達はどのような人々であったか不明だが、例えば、政所に仕えた貴族達と徳大寺家との関係を見てみると、まず別当の一人であった武蔵守藤原公信は待賢門院の父藤原公実の弟保実の孫、すなわち母待賢門院からは再従兄弟である。また、職事のうち左兵衛佐藤原経宗は当時十歳で母は公実女、すなわち門院の甥である。左近権少将藤原忠頼は経宗の従兄弟になる。

 さらに、政所の年預であった讃岐守藤原清隆は自身、待賢門院の政所に仕えていただけでなく、妻に待賢門院女房小因幡というものがいたり、その妻との男の時房(本名、定能)は門院の兄実能の子公能の養子で、その女達は内大臣公教(実能の兄実行の子)の妻と前述の経宗の妻となっている(18)

 これ以外の人々については、女院やその実家である徳大寺家とどういう関係であったか定かでないが、前述の人々との関係からもわかるように、いずれも何がしかの縁でつながる人々であったと思われる。季政もそういう意味から、徳大寺家とは少なからず縁のある人であったと考えられる。あるいは、彼も西行と同じく徳大寺家の家人であった可能性も考えられるのではないだろうか。

 以上、『中右記』の記述から西住の在俗時、源季政について推察してみた。その結果、

1、 彼は大治四年十月二十三日には右兵衛尉であり、本仁親王(後の覚性法親王)の侍所に仕えていた。
2、 西行よりも年上である。
3、 徳大寺家とは関係の深い侍ではないか。

という、三点が考えられると思う。

 3. 西住の出家時期について
 季政がいつ出家し西住と号したかということは全くわかっていない。『伝灯広録』には、「保元平治の間、源家衰微し平氏の為(ため)に喪(ほろぼ)さる。季正入道出家し西行と一双と作(な)り西住と曰ふ。」とあり、保元平治の乱以後出家したように書かれている。
 しかしこの点について桑原氏は、西住の師賢覚が保元元年(1156)に亡くなっていることからそれ以前でなければならないと考えられている(19)

 『聞書残集』(20)には、出家前の西行が西住をともなって法輪寺の空仁を訪ねた時の歌が残されている。
いまだよのがれざりけるそのかみ、西住ぐしてほうりんにまいりたりけるに、空仁法師経おぼゆとて、あんじちにこもりたりけるに、ものがたり申てかへりけるに、ふねのわたりのところへ、空仁まできてなごりをしみけるに、いかだのくだりけるを見て
空 仁
はやくいかだはこゝにきにけり…22
うすらかなるかきのころもきて、かく申てたちたりける、いうにおぼえけりおほゐがはかみにゐせきやなかりつるかくてさしはなれてわたりけるに、ゆへあるこゑのかれたるやうなるにて、大智徳勇健、化度無量衆よみいだしたりける、いとたうとくあはれなり
おほゐがはふねにのりえてわたるかな…23
西住つけゝり
ながれにさをゝさすこゝちして
心におもふことありて、かくつけゝるなるべし

 この一連の歌が、西行出家の保延六年(1140)以前につくられたことは詞書から明らかである。桑原氏は保延五年の作と推定されている(21)
 当時西住も出家していたかは明らかではないが、西行が「舟に乗り(法)えて渡るかな」と出家の志を込めた歌を作ったのにたいし、西住も「流れに樟さす心地して」と出家にはやる心を付けて応えている。
 また、西行が詞書に「心におもふことありて、かくつけゝるなるべし」と当時の西住の気持ちを思ん計っていることから、私はこの時西住もまだ出家していなかったと考える。すなわち、西住出家は保延五年以降と推定される。

 西住名で残された歌のうち、時期的に最も古いものとして確認できるのは、『夫木抄』(22)にある次の二首である。

久安二年六月顕輔卿家歌合、恋
大井河井せきによどむいかだしをなみだのくれにまつぞかなしき…17273
久安三年十二月顕輔卿家歌合、冬月
あだ雲もなき冬の夜の空なれば月の行くこそ遅く見えけれ…6659

 この二首の作者名は西住法師と書かれてあるが、桑原博史氏や萩谷朴氏はこの西住を別のもう一人の西住(俗名、藤原国能〉と考えられている(23)
 しかし、両氏が指摘されている国能西住は、『中右記』保延元年(1135)六月十一日の条に「式部少輔国能卒去之由所聞也、件国能ハ故国資男也」とある所から、それより約十年後の久安二年(1146)、同三年の顕輔卿家歌合に歌人として参加したのは、季政西住の方でなければならない。

 『夫木抄』は後代の鎌倉期に成立したものであるから、その作者名表記を手掛りに久安年間にはすでに季政は出家し西住と号していたと断定はできないが、その可能性はこれによって十分考えられると思われる。

 次に、季政出家時期を推定する手掛りとして『西行上人集』(24)に次の一首がある。
中納言家成なぎさの院したてゝ、程なくこぼたれぬと聞て、天王寺より下向しけるつゐでに、西住、浄蓮など申上人ともして見けるに、いとあはれにて、各々述懐しけるに
折につけて人の心もかはりつゝ世にあるかひもなぎさなりけり…519

 この歌について窪田章一郎氏は「中納言家成が由緒ある渚院を再興し、何かの理由で壊した跡に、西住、西蓮(一本浄蓮)と訪れたのは(西行)三七歳までのことである」(25)と仁平四年(1154)五月二十九日に家成が死亡する以前に作られたものと推測されている。
 藤原家成は『公卿補任』によると久安六年に中納言になっている。従ってこの渚院の跡を西行が西住、浄蓮と訪れたのもそれ以降、仁平四年までの仁平年間であろう。
従って、西住は遅くとも仁平年間にはすでに出家していたものと考えられる。
 これを示唆する別の資料に、覚性法親王の歌集『出観集』(26)中の次の二首の贈答歌がある。
かうやにすみたまふころ、月あかきよ、季正入道かもとへつかはしける
うらやましこゝろの月の雲はれてこよひのそらのけしきともかな…764
御かへし  沙弥 西 善
ひとたひも思すまさはこよひにも心の月のなにかをとらん。…765

 詞書からこの歌は覚性法親王が高野山におられた時(仁平三年1153)(27)のものであろう。この中で覚性法親王が歌を贈った季正入道が以前彼の侍所に仕えていた源季政であれば、この仁平三年という年には西住はすでに出家していたということになる。

 しかしこの歌の返歌は西住ではなく沙弥西善という名で返されている。西善、西住という名前の差異だけはどうにもならないが、西住が西善という別号を持っていた可能性もあるし、また何らかのミスで住を善と書き誤ったと考えることもできる。あるいは西村加代子氏のように両者を別人と考え、季政入道に贈られた歌の返歌を西善という人が返したというむきもある(28)。いずれにしても、なお考察が必要である。

 以上のことから西住の出家時期を推定してみると、西行とともに空仁を訪ねた保延五年以降、顕輔家歌合に出席した久安二年六月以前の間(1139〜1146)に出家したものと考えられる。なかでも西行と覚性法親王の二人が出家している保延六年(1140)という年が一番注目される。

 覚性、西行二人の出家については別に関連は見い出せないが、後の西住とこの二人とのかかわりから、私はこの保延六年頃に西住も出家したのではないかと考えたい。ところが、西住保延六年出家説にとってひとつ否定的な資料がある。

 久寿二年(1155)五月以後、翌年正月の間に成立したとされる『後葉集』(29)である。この中に源季政名で次の一首がある。

〔巻十七 雑二〕             源 季まさ
うき身ぞとおもひながらの橋柱いままでよにもたてるなるらん…502

 この『後葉集』は西住、西行ともに親しくしていた寂超が撰集したものである。彼らの関係から西住の歌がこの集にとられることに何ら不思議はない。しかしその作者名が西住ではなく俗名の季政でとられているということは、撰集当時の久寿二年頃まで季政は出家していなかったということになる。ちなみに西行や寂然などは俗名ではとられていない。そうすると、西住の出家は久寿二年以降ということになる。

 しかし、面白いことに、『後葉集』では康治二年(1143)五月十日にすでに出家していたはず(30)の撰者寂超の歌が、このすぐ後の503番に俗名の為経で取られている。
 これについて井上宗雄氏は、

…なお寂超の扱いでは、自らは為経とし、頼業は寂然としているので、恐らくは出家後の在り方(寂然は専門僧になる何かを経たのか?)が違っていたようだ。

考察されている。(31)尚、為経については康治二年に出家後も、しばしば記録に登場している。例えば『台記』久安六年一月十九日の条に、「散位従五位上藤原朝臣為経」とある。従って、寂超は出家したといっても西行、寂然のように出家遁世したわけではなく、俊成のように入道となっても生活や宮仕えは従来のまま続けていたようでもある。

 このように『後葉集』が出家形態の違いにより作者名を区別していたと考えると、西住の場合も寂超と同様『後葉集』成立時にはすでに出家入道となっていたが、西行、寂然などのように世俗の縁を切って遁世したわけではなく、従来の生活はそのままで宮仕えも続けていたと推察される。

 そうすると『伝灯広録』にあった「季政入道出家与西行作一双」という箇所も、季政が「入道出家」したのではなく「季政入道」が出家したというように、保元平治の乱後西住が出家したというように読むこともできる。

 出家、すなわち彼は正式に僧となる手続きを踏んだのであろう。だから西住の方は真言宗の血脈に連なることになったのではないだろうか。

 とにかく以上のようなことを加味した上で、私は西住出家時期を保延六年頃、覚性法親王、西行などとかわらない頃と推定したい。また、初期の彼の出家後の形態は、西行、寂然などのように遁世を遂げたわけではなく、寂超や俊成のように都に留まり半僧半俗のような生活を送ったものと考えたい。

 4. 西住と西行の関係について

 西住と西行はよく一緒にあちこち修行の旅をしたようである。前述の渚院を訪れたのも天王寺での修行の後である。また次のような連歌も『菟玖波集』(32)に残されている。

修行し侍りけるに奈良の都(路)を行とて尾もなき山のまろきを見て 西住法師
世間はまんまろにこそみえにけれ
と侍に 西行法師
あそこもこゝもすみもつかねは…1956

 ここには、気の合った者同志の打てば響くような心の交流がある。前述の出家前に空仁のもとを訪れた折に交わした連歌でもいえることであるが、二人は相手が今何を考えているか言葉に出さなくても十分わかりあえる間であったようである。そこには他人が窺い知ることのできない、二人だけの、ほのぼのとした心の交流があったのであろう。

 二人の旅で比較的時期が特定可能なものに西国、四国への旅がある。『山家集』(33)の詞書から仁安二年(1167)十月頃、西行は京都を出発するのだが、西住は都合が悪く、遅れて出発することになる。

西の国へ修行してまかり侍けるに、みづのと申所にぐしならひたる同行の侍けるが、したしきもの、例ならぬ事侍とて、ぐせざりければ
やましろのみづのみくさにつながれてこまものうげにみゆる旅哉…1103

 これによると、この頃西住は都の南方、御料の牧で有名な美豆にいたらしい。そして親しい者(五来重氏は妻と考えておられる(34))が急病ということで西行とは一緒に出発しなかった。やがて二人は摂津国「やまもと」という所で落ち合い、四国の方へ渡ったようである。

 この旅の目的は弘法大師の旧跡を訪れることと崇徳院の菩提を弔うことであった。
 当初の目的が済んでも西行はしばらく四国に滞在することにしたようである。しかし西住は何らかの理由で、一人先に都へ帰ってしまう。

四国の方へぐしてまかりたりける同行、みやこへかへりけるに
かへりゆく人のこさろを思ふにもはなれがたきは都なりけり…1097

 先に出発の足止めとなった西住の近親者の病状が再び悪化したのか、それともこの頃(嘉応元年1169)に亡くなっている覚性法親王が病気になったからか、ともかく西住は西行を一人残して都へ帰ってしまう。

 この一連の西行の歌からは、仕方がない理由とはいえ自分との修行よりも都の用事の方を選んだ西住に対し、西行の一種すねたような気持ちが感じられる。 1103の歌では西住を美豆の御牧に繋がれている馬に揶揄したり、1097の方も「離れがたきは都なりけり」と一人帰って行く西住に、自分との関係よりそんなに都の方が大切なのかと恨みがましく歌っている。私はそこに子供が親に、あるいは弟が兄に甘えるような年下の者が年上の者に持つある種の甘えの感情を感じる。

 1103番については窪田氏も、

「駒ものうげに見ゆる旅かな」というのは、美豆の縁で西住を駒として歌っているのであるが、同年輩の西住を駒にたとえるのは、いささか可愛いらしすぎる。このようなところに異常なまでの親愛感を認めていいように思う。(35)

と、二人の間にある特別な親愛感について指摘されている。西行のこのような気持ちは次にあるような『山家集』の歌の中からも窺うことができる。

同行に侍りける上人、月のころ天王寺にこもりたりときゝて、いひつかはしける
いとゞいかににしへかたぶく月かげをつねよりもけに君したふらん…853
夏、熊野へまいりけるに、いはたと申所にすゞみて、下向しける人につけて、京へ西住上人のもとへつかはしける
まつがねのいはたの岸の夕すゞみ君があれなとおもほゆるかな…1077
としひさしく、あひたのみたりける同行にはなれて、とをく修行してかへらずもやと思ける、なにとなくあはれにて
さだめなしいくとせ君になれなれてわかれをけふはおもふなるらん…1092
高野のおくの院のはしのうへにて、月あかゝりければ、もろともにながめあかして、そのころ西住上人京へいでにけり、その夜の月わすれがたくて、又おなじはしの月のころ、西住上人のもとへいひつかはしける
ことゝなく君こひわたるはしのうへにあらそふ物は月の影のみ…1157
かへし 西 住
おもひやるこゝろはみえではしのうへにあらそひけりな月の影のみ…1158

 上田三四二氏も西住と西行の特別な関係には以下のように注目されている。

西行と西住〜こう並べてみてこの二つのいかにも浄士教的な呼び名の、血盟の兄弟のように似ているのに驚かされる。(36)

 又、同氏は西行が西住に寄せた1077、1092、1157番の歌から、

西行と西住は、見られるように、「年久しくあひ頼みたりける同行」であり、「いくとせ君になれなれし」と言うように連れだって修業にも出、別れては「君があれな」と思い、「こととなく君こひわたる」心を互いに消すことがなかった。一双」の実は彼らの出家ののちにおいて、ますます緊密なのである。

と言うように、両者の緊密な関係を読み取っておられる。(37)特に1077を評して、窪田章一郎氏は「恋歌の趣をもっている」(38)と言われているし、目崎徳衛氏も「このいかにもやさしい調べからは、ほとんど異性への愛情にも似た濃密な友情がうかがわれる」(39)と指摘されている。 しかし、これらに共通してその底にあるものは、西行の西住への愛情であり慕情である。それも両者の年齢差から考えてみて、弟が兄を慕うような感情ではなかっただろうか。また、そのような感覚で見た時、西住の死の折に見せた西行の異常なまでのうろたえぶりや、落胆の程が初めて理解できるのではないだろうか。

 5. 西住の死について

 西住の死については『撰集抄』巻六第五の「西住上人臨終之事」という所に、高野より西行が都の西住の庵まで上って来てその臨終を看取った話が収められている。このことは、江戸期宝永三年(1706)に書かれた『扶桑寄帰往生伝』(40)にもあり、西住が乱れることなく西に向かい念仏往生したという話は西行の名声とともに広く伝わっていたようである。ここでは『山家集』の中から、その死に関連した歌をもとに、西行の悲しみの程について考えてみたい。

同行に侍ける上人、例ならぬ事大事に侍けるに、月のあかくてあはれなりければよみける
もろともにながめながめてあきの月ひとりにならんことぞかなしき…778
同行に侍ける上人、をはりよく思さまなりときゝて、申をくりける 寂 然
みだれずとをはりきくこそうれしけれさてもわかれはなぐさまねども…805
かへし
この世にてまたあふまじきかなしさにすゝめし人ぞ心みだれし…806
とかくのわざはてゝ、あとのことゞもひろひて、かうやへまいりてかへりたりけるに
寂 然
いるさにはひろふかたみものこりけりかへる山路の友はなみだか…807
返し
いかにともおもひわかずぞすぎにける夢に山路を行心ちして…808

 この一連の歌は『山家集』では778の歌だけ離されているが、『千載集』では一群として収められている。また805、807の歌は『寂然法師集』に、805、806の歌は『月詣集』にも収められている(41)。特に『千載集』、『月詣集』ともに哀傷歌として入集していることから、これらの歌は当時から秀歌として有名だったことがわかる。

 西住の死亡時期については詳しいことはわかっていないが、寿永元年(1182)十一月に編纂された『月詣集』に収められていることから、その下限は寿永以前と推定される。
 窪田氏は寂然の推定死亡年から、承安三年(1173)頃と推測されている(42)が定かでない。

 778の歌は、先の1157、1158の贈答歌でみた高野の橋の上からの月であろうか、それとも都の月であろうか、二人で眺めた秋の月の思い出とともに一人残される我が身の寂しさを歌ったものであろう。

 『千載集』の詞書に「かぎりにみえ侍ければ」とあることから、西住の容体は相当悪かつたものと思われる。友の死を覚悟した西行には、二人で過ごした楽しい、ほのぼのとした思い出が蘇り、どうしようもない寂しさが湧いてきたのかもしれない。「一人にならんことぞかなしき」この言葉には肉親を亡くす者が持つと同じ気持ちが察せられる。

 西住と西行、彼らは例え遠く離れていてもいつも心は一緒であったのだろう。こういう所に、彼らの間にあった、あたかも血肉を分けた兄弟のような心の交流が窺えるのである。

 805以下の歌は西行と寂然との贈答歌である。寂然は西住、西行両者ともに親友であったが、この歌の中では、西行とともに親友の西住の死を悲しんでいるだけでなく、むしろ805のように別れはつらいものですが「みだれずとをはりきぐこそうれしけれ」というように、その死によって落胆している西行の心を察し、慰めるような言葉を送っている。そこには、まるで肉親を亡くした人への弔問歌、哀傷歌のような趣がある。

 また、「かへる山路の友はなみだか」という807の歌も、西行の悲しみの深さを十分理解している寂然ならではの言葉であろう。それに対する西行の「夢に山路を行心ちして」という言葉は、出家に際し可愛い娘を縁より蹴落としたとか、あの文覚をも恐れさせたという伝説が伝わる心強き仏道修行者であった西行には似つかわしくない言葉である。

 すでに何人もの人々の往生を看取り、こういうことに慣れているはずの西行でも、肉親以上の肉親であった西住との永遠の別れは想像以上に辛く悲しいものであったのであろう。歩きながらも過ぎ去った日々の楽しい思い出が止め度なく湧いてきて、夢うつつの状態で高野山から帰って来たのであろう。また西行みずから骨を高野山に運んだことからも、西住とは単なる友達以上の関係であったことはよくわかる。

 以上、残された和歌を手掛りに西住と西行の関係について考察してみた。

 その結果、この二人の関係は、従来みられているような「多少西行に敬意を払わねばならぬ立場にいた男」(43)とか「小西行ともいうべき存在」(44)という西住を卑下したような西住観では理解されないものが考えられるようになってきた。

 そして、西住の方が西行より年上であったという点を加味してみると、彼ら二人の関係は兄弟のようなものであったと考えた方が似つかわしいかと思われる。また、そう捉えることにより初めて彼らの間で交わされた歌が別の意味で見えてくるのである。ここに一つその可能性を提起しておきたい。

   注  
(1) 『説話』第6号1978年5月。
(2) 『日本歌学大系』第3巻141頁。
(3) 西行と上覚との関係については山田昭全氏「西行晩年の風貌と内的世界」〔『国文学』1974年12月号、142頁〕を参照。
(4) 山岸徳平編『八代集全註』第3巻。
(5) 山岸徳平編『八代集全註』第2巻。
(6) 『真言宗全書』第39巻111頁。
(7) 『密教大辞典』(1969年、法蔵館)
(8) 『金剛頂無上正宗伝燈広録』巻中(1914年、高野山八葉学会)
(9) 『密教大辞典』(1969年、法蔵館)
(10) 岩波文庫237〜8頁。
(11) 東京堂出版『日本文学鑑賞辞典』古典篇〔長野嘗一記〕(1960年)。
(12) 『続々群書類従』第2巻「本朝歴代法皇外記(付録)」32頁。
(13) 『日本古典全集』97−2「顕伝明名録下」。
(14)
増補史料大成『中右記(六)大治四年十月廿三日…今日若宮侍始事可沙汰由、有院宣、
讃岐守藤原清隆、年預、
□後守藤原時通、
武蔵守藤原公信、
職事 左近権少将藤原忠頼、
    弾正少弼源師長、
    左兵衛佐藤原経宗、
侍者 文章得業生藤原範兼、
蔵人 蔭孫高階為頼、為重男、
御監
 右兵衛尉源光保、光国男、
侍所
 少監物三善頼倫、年預、
  
  縫殿允大江泰基、所司、
  
  左衛門尉源光忠
    左兵衛尉藤原通貞、
    左兵衛尉源行元、
    右兵衛尉源季政、
    右兵衛尉大江資家、
    左馬允藤原盛業、
    左馬允藤原量通、
    右馬允大江成重、
とある。
(15)  西住の年齢については、「西行より年上である可能性はあるが、はなはだしく年少であることはあり得ない」〔桑原氏「二人の西住」同注(1)81頁〕とか、「西行と西住との年齢差は明らかでないが少なくとも西行の方が年上であろう」〔萩原昌好氏「高野期の西行」『和歌と中世文学』(1977年、東京教育大学中世文学談話会)158頁〕と言うように考えられてきた。
(16) 年齢は数え年で計算。
(17)  「兵衛は、つはもの、とねりと訓じ、後に字音を以てひやうゑと称す…又、内六位以下八位以上の嫡子にして年二十一以上のものをも取る…」と『古事類苑』にある。
(18) 以上、『尊卑分脈』による。尚、藤原清隆は『長秋記(一)』(増補『史料大成』)大治四年八月十六日に「所被補女院別当清隆…」とあるところから、待賢門院別当でもあったことがわかる。
(19) 「二人の西住」同注(1)80頁。
(20) 本文、歌番号とも久保田淳編『西行全集』による。
(21) 「西行と空仁」〔『和歌と中世文学』(1977年、東京教育大学中世文学談話会)145頁〕
(22) 本文、歌番号とも『新編国歌大観』による。
(23) 「二人の西住」同注(1)84頁。萩谷朴氏『平安朝歌合大成』第7巻2023〜4、2025〜7頁参照。
(24) 同注(20)
(25) 窪田章一郎氏『西行の研究』(1961年、東京堂出版)179頁。
(26) 同注(22)
(27) 「仁和寺御伝上」『新校群書類従』第3巻757頁。
(28) 西村加代子氏「仁和寺歌圏と顕昭」(神戸大学国語国文学会『国文論叢』第9号、1982年3月)33頁。
(29) 同注(22)
(30) 井上宗雄氏『平安後期歌人伝の研究』(1978年、笠間書院)266頁。
(31) 同注(30)270頁。
(32) 金子金治郎氏『菟玖波集の研究』(1965年、風間書房)878頁。
(33) 同注(20)
(34) 角川選書79『高野聖』(1975年)177頁。
(35) 『西行の研究』261頁。
(36) 角川選書56『西行・実朝・良寛』(1979年)22頁。
(37) 同注(36)25頁。
(38) 『西行の研究』293頁。
(39) 人物叢書『西行』(1980年、吉川弘文館)84頁。
(40) 『大日本仏教全書』107巻、巻上「沙門往生類」193頁。
(41) 『千載集』『寂然法師集』『月詣集』ともに『新編国歌大観』による。
(42) 『西行の研究』巻末年譜。
(43) 尾山篇二郎氏『西行法師評伝』(1934年、改造社)63頁。
(44) 佐藤正英氏『隠遁の思想』(1977年、東大出版会)252頁。



この印鑑をクリックするとページの上に戻ります。