★歌語「神風」考〜古代の和歌と政治と神祇信仰の相互関係について〜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔『日本文学』第527号(1997年5月号〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1 は じ め に | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
政治のことをマツリゴト(政)と言い、その政を司る天皇が施政の一環として勅撰集を編ませ、その勅撰集には神祇歌が収載されているというように、和歌と政治と神祇信仰は互いに密接な関係にある。しかし、これまでその相互関係を具体的に検証した研究はなかった。そこで本稿では、「神風」という歌語を用い、この三者がどのように相互に関連し、時代とともに移り変わっていったのか、具体的にとらえてみようと思う。 現代の私達にとって「神風」という語は、第二次世界大戦時の特攻隊、あるいは、13世紀末にモンゴル軍の侵略から我が国を守った暴風雨として知られている。ところが、古代文学の中では、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』を除くと、散文作品には見られず(1)、もっぱら、和歌などの韻文作品で、歌語としてのみ用いられる特殊な言葉である。それも、『万葉集』までは「神風の」の形で地名「伊勢」に冠せられる枕詞として使われたが、その後、
と、11世紀の歌学書『俊頼髄脳』に見られるように(2)、いつの頃からか、伊勢神宮の神威を表す言葉として用いられるようになる。 古代国家では、政治と宗教が不可分の関係にあったことは言うまでもない。なかでも伊勢神宮は、「大王の守護神」で「天皇の地位と不可分の特殊な社」と考えられている(3)。したがって、この伊勢神宮と密接な関連を持つ歌語「神風」が、政教性を色濃く帯びるのは当然のことである。本稿では、この歌語「神風」の特性に着目し、その用例分析を通して、古代における和歌と政治と神祇信仰の一側面を明らかにしてみようと思う。 方法としては、
という手順で、古典和歌における239首の用例を収集し、年代順に一覧を作成してみた。それをもとに、作歌年時の確かなものは10年毎に上向きに、推定のものは50年毎に下向きに、その歌数を棒グラフにし、年時別使用頻度の経年変化を図表化(図−T)した。 一見して、
と、使用頻度に著しい偏りのあることがわかる(5)。 これらの特徴をもとに、歌語「神風」の変遷を便宜的に、(1)枕詞期、(2)消滅期、(3)復活期、(4)頻出期の四期に区分して考察を加えてみようと思う。そのうち本稿では、紙幅の関係上、(1)枕詞期と(2)消滅期を扱う。(3)と(4)については今回は事実の指摘だけに留め、いずれ稿を改めて考えてみたい。 |
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1 枕 詞 期 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
歌語「神風」の古代での用例は、記紀歌謡に2首、『万葉集』に7首、計9首見ることができる(6)。
(2)は、『日本書紀』雄略天皇12年(468)10月の条にあり、秦酒公の作とされている。天皇の命で楼閣建造中の木工の無実の罪がこの歌で救われるが、その罪のきっかけとして、天皇の後宮に仕える伊勢出身の伊勢采女が出てくる。しかし、ここでも歌語「神風」は伊勢神宮との関連は見せていない。 (3)は、弟の大津皇子の死後、朱鳥元年(686)11月16日に伊勢斎宮から帰京した大伯皇女の作である。したがって、(3)歌は、「それまで斎王としてお仕えしてきた伊勢神宮のある伊勢の国」と解することもできるが、直接的には何ら伊勢神宮との関連性はない。 (4)は、天武天皇が亡くなって8年目、持統7年(693)9月9日の御斎会の夜に、持統天皇が夢の中で詠んだとされる歌である。後述するように、天武天皇と伊勢神宮との関連から、この歌にも、「神宮のある伊勢の国」という意が暗に含まれているかもしれないが、(3)同様、表面的には歌語「神風」と神宮との関連は見られない。 (5)は、柿本人麻呂が作った、持統10年(696)7月10日に亡くなった高市皇子への挽歌である。他の8首と違い、唯一例外的にこの歌のみが「神風」を枕詞として使用せず、「伊勢神宮(7)からの神風」というように、明確に神宮の神威を表す言葉として使っている。なお、(5)歌と伊勢神宮の関連については次章で考察する。 (6)は、和銅5年(712)4月に伊勢の斎宮に派遣された長田王が、途中の伊勢国の山辺の御井で作った歌である。ここでも「神風」は神宮との直接的な関連は見せていない。 (7)〜(9)歌は作歌年時が特定できないので、『新編日本古典文学全集万葉集(1)(3)』の推定を参照した。 (7)は題詞に、「伊勢国に行きし時に」碁檀越の妻が作ったとあり、持統6年(692)3月の伊勢行幸の時か、それ以前の作と推定されている。(8)も(7)と同じ行幸か、大宝2年(702)10月の三河行幸、あるいは、元正天皇の霊亀3年(717)9月の美濃行幸などの折が考えられている。(9)は万葉集中でも作歌年代の古い歌が多い巻13にあり、遅くともその下限は天平10年(738)前後と推定される。いずれにしても、これら(7)〜(9)歌も前の(3)〜(6)歌と大差ない時期か、それ以前に作られたものであろうが、ここでも「神風」は伊勢神宮との関連性は見せていない。 以上、(5)歌を唯一の例外と考えると、古代での歌語「神風」は、
という共通した特徴が窺える。 このように、古代での用例を見るかぎり、
と言うことができるだろう。このことは、『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条にある伊勢神宮の祭祀起源伝承からも裏付けられる。 この年、天照大神の神意を受けた倭姫命が大和を出発し、神の鎮座地を求め、近江、美濃を巡り、伊勢国に入る。その時、姫は次のような天照大神の託宣を得る。
この記事は史実として確認できるものではないが(8)、伝承の上では、伊勢で神宮の祭祀が始まる以前から、伊勢の国は「神風の伊勢の国」と呼ばれていたことがわかる。 また、e.の傍証として、『伊勢国風土記』逸文に残されている枕詞「神風の」の起源伝承が注目される。以下、要旨を掲げる。
と、枕詞「神風の」の起源を述べている。 この『伊勢国風土記』逸文の記事も史実性は希薄である。しかし、このように伊勢神宮とは別の起源伝承が伝わっていることからも、枕詞「神風の」が神宮とは関係なく、それ以前の伝承に由来する言葉であったということは言えるだろう。したがって、枕詞「神風の」の語源については(9)、現状では、土橋寛が説く(10)、
が妥当と言えるだろう。 以上、古代での用例、ならびに起源伝承を検討した。その結果、
と推定することができるだろう。そこで、次に、「神風」と神宮の結び付きについて、(5)の人麻呂歌をもとに考えてみようと思う。 |
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2 神 風 と 神 宮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(5)歌は、その約半分を割いて、壬申の乱での高市皇子の活躍を叙述している(11)。その中に、「渡会の斎きの宮ゆ神風にい吹き惑はし」という部分がある。ここでの「神風」は、「伊勢神宮からの神風」というように、歌意の構成に直接関わり、枕詞としては使用されていない。このような歌語「神風」の用法は、古代では他に例がなく、非常に特殊なものである。そこでまず、壬申の乱と伊勢神宮との関連から始め、なぜ、伊勢神宮に歌語「神風」が使われるようになったのか、その背景を考えてみたい。 壬申の乱と伊勢神宮との関連は、『日本書紀』天武天皇元年6月26日の条に見える。二日前に吉野宮を脱出した天武天皇(大海人皇子)一行は、この日の夜明けに伊勢の国迹太川(朝明川)の辺に到着する。そして、「天照太神を望拝みたまふ」とあるように、伊勢神宮に向かって遙拝をし、戦勝を祈願している。この記事は『釈日本紀』(12)にも、「私記云、案安斗智徳日記云。廿六日辰時。於明朝郡迹大川上而拝礼天照大神」とあり、信憑性は非常に高いと考えられている(13)。 このように、壬申の乱の折、天武(大海人皇子)が天照大神に戦勝を祈願したことは史料で確認できる。しかし、戦いの最中に神風が吹いたということは、(5)歌以外では確認できない。したがって、この神宮からの神風も史実ではなく、天武の祈願に応えて勝利をもたらした天照大神の神威を象徴する言葉と考えるのが妥当であろう(14)。 先の用例でも確認したように、当時、「神風」は地名「伊勢」にかかる枕詞として使われるのが一般的であった。元来、伊勢の土着的な神であった「神風」の神を皇祖神である皇太神宮に結びつけて考えたのは、人麻呂が最初であるという指摘(15)もある。また、人麻呂は乱を史実として写実しようとしたのではなく、その時点において許容される範囲内で、一種の神話伝承を創造しているという見解(16)もある。 さらに、人麻呂は枕詞を前代の遺産としての形骸化した物ではなく、万葉の時代にふさわしく再生させた人物とも考えられている(17)。このような見解を加味すると、本来伊勢につく枕詞であった「神風の」を伊勢神宮に結び付け、その神威を表す語に転成させたのは、人麻呂の創作と考えてもいいだろう。そこで、次に、人麻呂活躍期の伊勢神宮について検討を加え、「神風」が神宮に使われるようになった背景を探ってみたい。 岡田精司の一連の研究(18)では、人麻呂の活躍した7世紀末の天武・持統朝は、律令制祭祀の形態が形成された時期と見なされている。 これまでこの時期は、伊勢の地方神であった伊勢神宮が、天皇家の氏神の地位を独占し、天皇家最高の神社となる時期ととらえられてきた(19)。ところが、岡田は、この「地方神昇格説」に対し、
という二点から問題を提起している。そして、「世界史的にみても最高守護神の祭祀は大王の権力の呪的源泉であり、よほど特殊な事情がない限り変更はありえない」と考え、「大王が地方の弱小土豪の守護神を“皇祖神”にするようなことは、世界の宗教史の上でもまったく例をみないものである」と、「地方神昇格説」を批判している(20)。 また岡田は、伊勢神宮に地方神的要素が多く見られる事実は認めながらも、「その多くは、在地豪族度会氏の守護神である外宮=豊受宮の祭神の発展したものであるところから説明できる」と、伊勢の内宮・外宮の関係から自説を補強している(21)。 岡田は、古代日本における“神と祭り”を、王権祭祀と民俗的信仰という、共通の基盤の上に成立するが、異なる発展をたどった二つの形態に分けて考えている(22)。 神仏習合以前の民俗的信仰における日本の神々は、社殿に常住するのではなく、季節を定めて村里に現れ、人々の祭りを受け、祈願を聞いたのち、また神の世界(山中や海上の他界)に戻って行くものであった。 一方これと異なり、伊勢神宮ならびに神祇官などに祀られている宮中神二十三座のような、国家的祭祀の対象となる神々には、季節的来臨や祭典前後の送迎神事が行われたような形跡は見られない。つまり、王権を支える特別な神々だけは、恒常的に祭場(=社殿)に留まるという形態を持ち、専業神職団によって奉祀されるというふうに、民俗的信仰の神々とは信仰の形態において明白に区別されていた。 このような岡田の観点からすると、天武朝以前に恒常的な祭場を持ち、専業の神職団が存在した伊勢神宮は、すでに王権の守護神であり、単なる伊勢の地方神とは見なせない存在であったと言えるだろう。したがって、天武が壬申の乱の折わざわざ神宮を遙拝したのも、また、乱後に皇女の大伯を斎王として伊勢へ遣わしたのも、神宮が王権の守護神であった傍証と見なせる。 岡田の提唱する律令制祭祀とは、「天皇を頂点とした律令的国家支配の貫徹を、呪術的に補完するもの」である。そして、その律令的天皇制と律令制祭祀の根幹をなすものが、「天皇と一体不可分」で、「中央・地方の諸神祇の上に君臨する」存在である伊勢神宮であった。つまり、神宮の祭祀と宮中の祭祀とが一体であるように、天皇と伊勢内宮が一体のものとして全国の神々の上に君臨する位置におかれていたのが、律令制祭祀の形態であった(23)。 このような形態が形成されつつある時期に、歌語「神風」は、宮廷歌人であり、形骸化した枕詞を時代に合わせて再生させる歌人であった人麻呂によって、伊勢神宮と結び付けて使われるようになる。これは偶発的結果と見るよりは、時代の要請に応え、地名「伊勢」の枕詞であった歌語「神風」に、伊勢神宮の威光を象徴させるという文学的創造が行われた結果ととらえたほうが整合性があるだろう。 以上、歌語「神風」が伊勢神宮と結び付く過程を、当時の社会状況と絡めて考えてみた。その結果、次の三点が確認できた。
ところが、その後、歌語「神風」は奈良時代から院政期までの約300年間、用例がまったく見出せなくなってしまう(24)。そこで、この期間を歌語「神風」の消滅期と呼び、その消滅の原因を、以下、『古今集』『後撰集』の和歌をもとに推測してみようと思う。 |
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3 消 滅 期 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この消滅期には、従来の枕詞としての用例も、神宮の神威を象徴する語としての用例も、ともに皆無である。しかし、枕詞が冠せられる被枕詞「伊勢」は、「神風」同様に消滅してしまったわけではない。たとえば、『古今集』『後撰集』には「伊勢の海」「伊勢の海人」という語が15例見出せ、依然、歌語「神風」は、使おうと思えば使える余地があった。
この長歌は『古今集』1002番の紀貫之の詠歌である。同歌は、詞書に「古歌奉りし時の目録の、その長歌」とあって、「古今和歌集の編集の詔勅の時に献上した古歌に付けたものか」(25)と考えられる公的なものであった。そのためか、傍点を付したように、枕詞が7回も使われ、序詞、懸詞などの修辞法も駆使されている。なかでも地名は、「天彦の音羽の山」「唐錦たつたの山」「世の人の思ひするがの富士の嶺」と、枕詞、懸詞で飾られている。しかしながら、唯一、「伊勢の海」にだけは、なぜか何も冠されていない。 貫之は古今集撰者で、当然、万葉集を始め古歌にも精通していたはずである。「神風の伊勢の国」という用例を知らなかったということは考えにくい。となると、枕詞「神風の」が使われなかったことは大いに不審である。 同じような傾向は、『後撰集』718番の藤原伊尹歌にも窺える。
この「鈴鹿山」は「枕詞的に使われていると見てもよい」(26)と考えられている。伊尹は『後撰集』では撰和歌所別当を務めたほどの人物で、当然、古歌にも通じていたはずである。「鈴鹿山」を伊勢の枕詞的に用いるのなら、なぜ、古来からの枕詞「神風の」を使わなかったのか、ここでも大いに疑問が残る。 歌語「神風」の消滅は、平安時代以降の枕詞の衰退という和歌史の全般的な流れ(27)と軌を一にしていると考えるのが一般的であろう。しかし、(1)(2)歌は、ともに作者が『万葉集』や枕詞にも通じているはずの人物で、和歌自体にも枕詞的なものが必要とされる場合である。こういった点を注視するならば、歌語「神風」は、意図的に使用が避けられていたと考えることも可能ではないだろうか。 その理由として、(5)の人麻呂歌以降、「神風=伊勢神宮」という概念が確立してしまったことが考えられる。また傍証として、先に引用した『俊頼髄脳』の、「さらば伊勢とかぎるべき事かは。たの神にもよまむにとがあるべからずといひしかば、かゝる事はふるくよみつるまゝにておそろしさにえよまぬなり」という記述が挙げられる。『俊頼髄脳』の成立は院政期と時代は下がるが、「古く詠みつるまま」が(5)の人麻呂歌以降を指すのであれば、この頃から「神風=伊勢神宮」という概念が成立したと考えることもできるだろう。 では、なぜそれが歌語「神風」の回避につながるのであろうか。 歌語「神風」消滅期の伊勢神宮は、岡田精司の言う律令制祭祀の形態が保持されていた時期でもあった。岡田は、この時期の神宮祭祀の特徴として、
という三点を挙げている(28)。なお、イ.の「神宮祭祀が天皇の独占的祭祀行為」という見解は、日唐の律を比較研究した楠本行孝によっても同様の見解が示されている(29)。 このように、歌語「神風」が伊勢神宮と結び付いた(5)歌以降の時期、神宮祭祀は律令制の下、「私幣禁断の制」がしかれ、天皇の独占的祭祀行為として行われていた。ところで、この「私幣禁断の制」とはどのようなものであったのか。以下、@〜Eに、岡田の論考(30)をもとに整理してみた。
このように、律令制下の伊勢神宮には「私幣禁断の制」がしかれ、その祭祀は一般には厳しく制限されていた。この制限は、当然、神宮のみならず、関連するすべてのものにまで及ぶと考えてもいいだろう。その結果、本来、伊勢神宮とは関係なく地名「伊勢」に冠せられていた枕詞「神風の」も、人麻呂以降、伊勢神宮の神威と直結するようになってしまうと、もはや、単なる枕詞として自由に使えなくなってしまったのではないだろうか。 このような観点から再度図−Tを眺めると、
というように、律令制祭祀形態の変遷と、歌語「神風」の用例が見事に対応していることがわかる。 |
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お わ り に | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『万葉集』まで枕詞として使用されてきた歌語「神風」は、奈良時代以降約300年間消滅し、院政時代の幕開けとともに復活する。 本稿では、この歌語「神風」の偏った使われ方が、その時代の政治・神祇信仰と密接に関連していることを、以下のように考察した。
今後は白河〜後鳥羽という院政時代に論点を移し、(3)復活期、(4)頻出期を考察してみるつもりだが、紙幅の関係上、本稿は、大方のご批判・ご教示をお願いしつつ、ひとまずここで稿を終えたい。 |
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注 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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