歌語「神風」考〜古代の和歌と政治と神祇信仰の相互関係について〜
 〔『日本文学』第527号(1997年5月号〕
 1 は じ め に

 政治のことをマツリゴト(政)と言い、その政を司る天皇が施政の一環として勅撰集を編ませ、その勅撰集には神祇歌が収載されているというように、和歌と政治と神祇信仰は互いに密接な関係にある。しかし、これまでその相互関係を具体的に検証した研究はなかった。そこで本稿では、「神風」という歌語を用い、この三者がどのように相互に関連し、時代とともに移り変わっていったのか、具体的にとらえてみようと思う。

 現代の私達にとって「神風」という語は、第二次世界大戦時の特攻隊、あるいは、13世紀末にモンゴル軍の侵略から我が国を守った暴風雨として知られている。ところが、古代文学の中では、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』を除くと、散文作品には見られず(1)、もっぱら、和歌などの韻文作品で、歌語としてのみ用いられる特殊な言葉である。それも、『万葉集』までは「神風の」の形で地名「伊勢」に冠せられる枕詞として使われたが、その後、

 神風伊勢とは吹く風にはあらず。……神のおほむめぐみといへる事なり。さらば伊勢とかぎるべき事かは。たの神にもよまむにとがあるべからずといひしかば、かゝる事はふるくよみつるまゝにておそろしさにえよまぬなり。……

と、11世紀の歌学書『俊頼髄脳』に見られるように(2)、いつの頃からか、伊勢神宮の神威を表す言葉として用いられるようになる。

 古代国家では、政治と宗教が不可分の関係にあったことは言うまでもない。なかでも伊勢神宮は、「大王の守護神」で「天皇の地位と不可分の特殊な社」と考えられている(3)。したがって、この伊勢神宮と密接な関連を持つ歌語「神風」が、政教性を色濃く帯びるのは当然のことである。本稿では、この歌語「神風」の特性に着目し、その用例分析を通して、古代における和歌と政治と神祇信仰の一側面を明らかにしてみようと思う。

方法としては、

@ 『新編国歌大観』の索引で「神風」を含む歌を抽出し、異同を整理し、年代順に並べる。
A 作歌年時が特定できない歌は、歌集の成立時期、作者の活動時期などをもとに、おおよその年代を推定して並べる。
B 作者未詳歌や物語の伝承歌などで、作歌年時が推定できない歌7首、ならびに、先行の家集などに「神風」を使わない本文のある2首の計9首は削除する。
C その後、CD-ROM版『新編国歌大観』(4)の語彙検索を用いて検証し、索引では拾えなかった12首を補足する。

という手順で、古典和歌における239首の用例を収集し、年代順に一覧を作成してみた。それをもとに、作歌年時の確かなものは10年毎に上向きに、推定のものは50年毎に下向きに、その歌数を棒グラフにし、年時別使用頻度の経年変化を図表化(図−T)した。
一見して、

a. 8世紀以降、平安中期までの約300年間は用例が皆無である。
b. 13世紀初頭、和歌史的には新古今時代に突出している。

と、使用頻度に著しい偏りのあることがわかる(5)

 これらの特徴をもとに、歌語「神風」の変遷を便宜的に、(1)枕詞期、(2)消滅期、(3)復活期、(4)頻出期の四期に区分して考察を加えてみようと思う。そのうち本稿では、紙幅の関係上、(1)枕詞期と(2)消滅期を扱う。(3)と(4)については今回は事実の指摘だけに留め、いずれ稿を改めて考えてみたい。

 1 枕 詞 期

 歌語「神風」の古代での用例は、記紀歌謡に2首、『万葉集』に7首、計9首見ることができる(6)
(1) 神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ
〔『古事記』13番〕
(2) 神風の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝を 五百経る懸きて 其が尽くるまでに 大君に 堅く 仕へ奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠はや あたら工匠はや
〔『日本書紀』78番〕
(3) 神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに
〔『万葉集』163番〕
(4) 明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし我が大君 高照らす 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も なみたる波に 塩気のみ かをれる国に うまこり あやにともしき 高照らす 日の皇子
〔『万葉集』162番〕
(5) かけまくも ゆゆしきかも(割注略)言はまくも あやに恐き…(中略)…露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに(割注略)渡会の 斎宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の天の下 奏したまへば…(中略)…香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや天のごと 振り放け見つつ 玉だすき かけて偲はむ 恐くありとも
〔『万葉集』199番〕
(6) 山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢娘子ども 相見つるかも
〔『万葉集』81番〕
(7) 神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に
〔『万葉集』503番〕
(8) やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子の 聞こし食す 御食つ国 神風の 伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高く貴し 川見れば さやけく清し 湊なす 海も広し 見渡す島も名高し ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやに恐き 山辺の 五十師の原に うちひさす 大宮仕へ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ栄えて 秋山の 色なつかしき ももしきの 大宮人は 天地と 日月と共に 万代にもが
〔『万葉集』3248番〕
(9) 神風の 伊勢の海の 朝なぎに 来寄る深海松 夕なぎに 来寄る股海松 深海松の 深めしわれを 股海松の また行き帰り 妻と言はじとかも 思ほせる君
〔『万葉集』3315番〕
 (1)は、神武天皇の大和平定のところで歌われる久米歌の1首で、同類歌が『日本書紀』(8番歌)にもあるが、どちらも伊勢神宮との関連性はない。

 (2)は、『日本書紀』雄略天皇12年
(468)10月の条にあり、秦酒公の作とされている。天皇の命で楼閣建造中の木工の無実の罪がこの歌で救われるが、その罪のきっかけとして、天皇の後宮に仕える伊勢出身の伊勢采女が出てくる。しかし、ここでも歌語「神風」は伊勢神宮との関連は見せていない。

 (3)は、弟の大津皇子の死後、朱鳥元年
(686)11月16日に伊勢斎宮から帰京した大伯皇女の作である。したがって、(3)歌は、「それまで斎王としてお仕えしてきた伊勢神宮のある伊勢の国」と解することもできるが、直接的には何ら伊勢神宮との関連性はない。

 (4)は、天武天皇が亡くなって8年目、持統7年
(693)9月9日の御斎会の夜に、持統天皇が夢の中で詠んだとされる歌である。後述するように、天武天皇と伊勢神宮との関連から、この歌にも、「神宮のある伊勢の国」という意が暗に含まれているかもしれないが、(3)同様、表面的には歌語「神風」と神宮との関連は見られない。

 (5)は、柿本人麻呂が作った、持統10年
(696)7月10日に亡くなった高市皇子への挽歌である。他の8首と違い、唯一例外的にこの歌のみが「神風」を枕詞として使用せず、「伊勢神宮(7)からの神風」というように、明確に神宮の神威を表す言葉として使っている。なお、(5)歌と伊勢神宮の関連については次章で考察する。

 (6)は、和銅5年
(712)4月に伊勢の斎宮に派遣された長田王が、途中の伊勢国の山辺の御井で作った歌である。ここでも「神風」は神宮との直接的な関連は見せていない。

 (7)〜(9)歌は作歌年時が特定できないので、『新編日本古典文学全集万葉集(1)(3)』の推定を参照した。
 (7)は題詞に、「伊勢国に行きし時に」碁檀越の妻が作ったとあり、持統6年
(692)3月の伊勢行幸の時か、それ以前の作と推定されている。(8)(7)と同じ行幸か、大宝2年(702)10月の三河行幸、あるいは、元正天皇の霊亀3年(717)9月の美濃行幸などの折が考えられている。(9)は万葉集中でも作歌年代の古い歌が多い巻13にあり、遅くともその下限は天平10年(738)前後と推定される。いずれにしても、これら(7)〜(9)歌も前の(3)〜(6)歌と大差ない時期か、それ以前に作られたものであろうが、ここでも「神風」は伊勢神宮との関連性は見せていない。

 以上、(5)歌を唯一の例外と考えると、古代での歌語「神風」は、

c. 「伊勢の海」「伊勢の野」「伊勢の国」「伊勢娘子ども」「伊勢の浜荻」と、すべて地名「伊勢」にかかる枕詞として使われている。
d. 伊勢神宮とは直接的に関連して使われていない。

という共通した特徴が窺える。

 このように、古代での用例を見るかぎり、

e. 歌語「神風」は伊勢神宮とは関係なく、地名「伊勢」にかかる枕詞であった。

と言うことができるだろう。このことは、『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条にある伊勢神宮の祭祀起源伝承からも裏付けられる。

 この年、天照大神の神意を受けた倭姫命が大和を出発し、神の鎮座地を求め、近江、美濃を巡り、伊勢国に入る。その時、姫は次のような天照大神の託宣を得る。

「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり、傍国の 可怜し国なり、是の国に居らむと欲ふ」

 この記事は史実として確認できるものではないが(8)、伝承の上では、伊勢で神宮の祭祀が始まる以前から、伊勢の国は「神風の伊勢の国」と呼ばれていたことがわかる。

 また、e.の傍証として、『伊勢国風土記』逸文に残されている枕詞「神風の」の起源伝承が注目される。以下、要旨を掲げる。

 神武天皇の東征に従って伊勢の国に入った天日別命は、国神の伊勢津彦を降伏させ、国土を譲らせる。その折、伊勢津彦は、
 「吾は今夜を以ちて、八風を起して海水を吹き、波浪に乗りて東に入らむ。此は則ち吾が却る由なり」
という誓約をする。そしてその夜、その言葉に違わず、
 「大風四もに起りて波瀾を扇挙げ、光輝きて日の如く、陸も海 も共に朗かに、遂に波に乗りて東にゆきき」
という現象が起こった。これを受け、『風土記』は、
 「古語に
神風の伊勢の国、常世の浪寄する国と云へるは、蓋しくは此れ、これを謂ふなり」

と、枕詞「神風の」の起源を述べている。
 この『伊勢国風土記』逸文の記事も史実性は希薄である。しかし、このように伊勢神宮とは別の起源伝承が伝わっていることからも、枕詞「神風の」が神宮とは関係なく、それ以前の伝承に由来する言葉であったということは言えるだろう。したがって、枕詞「神風の」の語源については(9)、現状では、土橋寛が説く(10)

 伊勢の国は暴風雨の強い所で、これを神が吹かせる風と考えたところから冠したものと思われる。「伊勢加佐波夜之国」(倭姫命世記)の国名も「風速」(ハヤは激烈の意)の意であり、神武天皇の命によって天日別命が伊勢の国を平定した時、伊勢津彦は国土を献上し、夜中に大風を起こし、波に乗って東の方へ去って行ったので「神風の伊勢の国」と呼ぶに至ったという地名説話も(『伊勢風土記』逸文)、暴風雨の国としての伊勢の特徴を説明したものである。したがって「神風」の神は、伊勢の土着的な神であったはずである……。

が妥当と言えるだろう。

 以上、古代での用例、ならびに起源伝承を検討した。その結果、

f. 歌語「神風」は、地名「伊勢」にかかる枕詞としての用法が先ずあって、その後、(5)のような伊勢神宮の神威を体現する用法が派生してきた。

と推定することができるだろう。そこで、次に、「神風」と神宮の結び付きについて、(5)の人麻呂歌をもとに考えてみようと思う。

 2 神 風 と 神 宮

 (5)歌は、その約半分を割いて、壬申の乱での高市皇子の活躍を叙述している(11)。その中に、「渡会の斎きの宮ゆ神風にい吹き惑はし」という部分がある。ここでの「神風」は、「伊勢神宮からの神風」というように、歌意の構成に直接関わり、枕詞としては使用されていない。このような歌語「神風」の用法は、古代では他に例がなく、非常に特殊なものである。そこでまず、壬申の乱と伊勢神宮との関連から始め、なぜ、伊勢神宮に歌語「神風」が使われるようになったのか、その背景を考えてみたい。

 壬申の乱と伊勢神宮との関連は、『日本書紀』天武天皇元年6月26日の条に見える。二日前に吉野宮を脱出した天武天皇
(大海人皇子)一行は、この日の夜明けに伊勢の国迹太川(朝明川)の辺に到着する。そして、「天照太神を望拝みたまふ」とあるように、伊勢神宮に向かって遙拝をし、戦勝を祈願している。この記事は『釈日本紀』(12)にも、「私記云、案安斗智徳日記云。廿六日辰時。於明朝郡迹大川上而拝礼天照大神」とあり、信憑性は非常に高いと考えられている(13)

 このように、壬申の乱の折、天武
(大海人皇子)が天照大神に戦勝を祈願したことは史料で確認できる。しかし、戦いの最中に神風が吹いたということは、(5)歌以外では確認できない。したがって、この神宮からの神風も史実ではなく、天武の祈願に応えて勝利をもたらした天照大神の神威を象徴する言葉と考えるのが妥当であろう(14)

 先の用例でも確認したように、当時、「神風」は地名「伊勢」にかかる枕詞として使われるのが一般的であった。元来、伊勢の土着的な神であった「神風」の神を皇祖神である皇太神宮に結びつけて考えたのは、人麻呂が最初であるという指摘(15)もある。また、人麻呂は乱を史実として写実しようとしたのではなく、その時点において許容される範囲内で、一種の神話伝承を創造しているという見解(16)もある。

 さらに、人麻呂は枕詞を前代の遺産としての形骸化した物ではなく、万葉の時代にふさわしく再生させた人物とも考えられている(17)。このような見解を加味すると、本来伊勢につく枕詞であった「神風の」を伊勢神宮に結び付け、その神威を表す語に転成させたのは、人麻呂の創作と考えてもいいだろう。そこで、次に、人麻呂活躍期の伊勢神宮について検討を加え、「神風」が神宮に使われるようになった背景を探ってみたい。

 岡田精司の一連の研究(18)では、人麻呂の活躍した7世紀末の天武・持統朝は、律令制祭祀の形態が形成された時期と見なされている。 これまでこの時期は、伊勢の地方神であった伊勢神宮が、天皇家の氏神の地位を独占し、天皇家最高の神社となる時期ととらえられてきた(19)。ところが、岡田は、この「地方神昇格説」に対し、

@. 王権の宗教的基盤である最高守護神の問題への配慮がない。
A. 神宮の祭祀形態の検討を欠いている。

という二点から問題を提起している。そして、「世界史的にみても最高守護神の祭祀は大王の権力の呪的源泉であり、よほど特殊な事情がない限り変更はありえない」と考え、「大王が地方の弱小土豪の守護神を“皇祖神”にするようなことは、世界の宗教史の上でもまったく例をみないものである」と、「地方神昇格説」を批判している(20)

 また岡田は、伊勢神宮に地方神的要素が多く見られる事実は認めながらも、「その多くは、在地豪族度会氏の守護神である外宮=豊受宮の祭神の発展したものであるところから説明できる」と、伊勢の内宮・外宮の関係から自説を補強している(21)

 岡田は、古代日本における“神と祭り”を、王権祭祀と民俗的信仰という、共通の基盤の上に成立するが、異なる発展をたどった二つの形態に分けて考えている(22)

 神仏習合以前の民俗的信仰における日本の神々は、社殿に常住するのではなく、季節を定めて村里に現れ、人々の祭りを受け、祈願を聞いたのち、また神の世界(山中や海上の他界)に戻って行くものであった。

 一方これと異なり、伊勢神宮ならびに神祇官などに祀られている宮中神二十三座のような、国家的祭祀の対象となる神々には、季節的来臨や祭典前後の送迎神事が行われたような形跡は見られない。つまり、王権を支える特別な神々だけは、恒常的に祭場(=社殿)に留まるという形態を持ち、専業神職団によって奉祀されるというふうに、民俗的信仰の神々とは信仰の形態において明白に区別されていた。

 このような岡田の観点からすると、天武朝以前に恒常的な祭場を持ち、専業の神職団が存在した伊勢神宮は、すでに王権の守護神であり、単なる伊勢の地方神とは見なせない存在であったと言えるだろう。したがって、天武が壬申の乱の折わざわざ神宮を遙拝したのも、また、乱後に皇女の大伯を斎王として伊勢へ遣わしたのも、神宮が王権の守護神であった傍証と見なせる。

 岡田の提唱する律令制祭祀とは、「天皇を頂点とした律令的国家支配の貫徹を、呪術的に補完するもの」である。そして、その律令的天皇制と律令制祭祀の根幹をなすものが、「天皇と一体不可分」で、「中央・地方の諸神祇の上に君臨する」存在である伊勢神宮であった。つまり、神宮の祭祀と宮中の祭祀とが一体であるように、天皇と伊勢内宮が一体のものとして全国の神々の上に君臨する位置におかれていたのが、律令制祭祀の形態であった(23)

 このような形態が形成されつつある時期に、歌語「神風」は、宮廷歌人であり、形骸化した枕詞を時代に合わせて再生させる歌人であった人麻呂によって、伊勢神宮と結び付けて使われるようになる。これは偶発的結果と見るよりは、時代の要請に応え、地名「伊勢」の枕詞であった歌語「神風」に、伊勢神宮の威光を象徴させるという文学的創造が行われた結果ととらえたほうが整合性があるだろう。

 以上、歌語「神風」が伊勢神宮と結び付く過程を、当時の社会状況と絡めて考えてみた。その結果、次の三点が確認できた。

g. 壬申の乱がきっかけで、天武朝以降、伊勢神宮の地位が上昇し、律令制祭祀の根幹をなすものとなる。
h. そういった時代の流れと対応し、地名「伊勢」の枕詞であった歌語「神風」に、伊勢神宮の神威を象徴する用法が派生する。
i. 唯一の用例から、h.は柿本人麻呂の創作と考えられる。

 ところが、その後、歌語「神風」は奈良時代から院政期までの約300年間、用例がまったく見出せなくなってしまう(24)。そこで、この期間を歌語「神風」の消滅期と呼び、その消滅の原因を、以下、『古今集』『後撰集』の和歌をもとに推測してみようと思う。

 3 消 滅 期

 この消滅期には、従来の枕詞としての用例も、神宮の神威を象徴する語としての用例も、ともに皆無である。しかし、枕詞が冠せられる被枕詞「伊勢」は、「神風」同様に消滅してしまったわけではない。たとえば、『古今集』『後撰集』には「伊勢の海」「伊勢の海人」という語が15例見出せ、依然、歌語「神風」は、使おうと思えば使える余地があった。

(1) ちはやぶる 神の御世より くれ竹の 世ゝにも絶えず 天彦の 音羽の山の 春がすみ 思ひみだれて さみだれの 空もとゞろに 小夜ふけて 山ほとゝぎす 鳴くごとに 誰も寝覚めて 唐錦 たつたの山の もみぢばを 見てのみしのぶ 神無月 時雨時雨て 冬の夜の 庭もはだれに 降る雪の 猶消えかへり 年ごとに 時につけつゝ あはれてふ ことを言ひつゝ 君をのみ千代にと祝ふ 世の人の 思ひするがの 富士の嶺の 燃ゆるおもひも 飽かずして 別るゝ涙 藤衣 織れるこゝろも 八ちぐさの 言の葉ごとに すべらぎの 仰せかしこみ 巻巻の 中につくすと 伊勢の海の 浦の潮貝 拾ひあつめ 採れりとすれど 玉の緒の 短き心 思あへず 猶あらたまの 年をへて 大宮にのみ ひさかたの 昼夜わかず 仕ふとて 顧みもせぬわが宿の しのぶ草おふる 板間あらみ 降る春雨の 漏りやしぬ覧
繰り返し記号が使われている部分は、そのまま前の言葉を繰り返して表記した。また、枕詞の部分は太字にした。

 この長歌は『古今集』1002番の紀貫之の詠歌である。同歌は、詞書に「古歌奉りし時の目録の、その長歌」とあって、「古今和歌集の編集の詔勅の時に献上した古歌に付けたものか」(25)と考えられる公的なものであった。そのためか、傍点を付したように、枕詞が7回も使われ、序詞、懸詞などの修辞法も駆使されている。なかでも地名は、「天彦の音羽の山」「唐錦たつたの山」「世の人の思ひするがの富士の嶺」と、枕詞、懸詞で飾られている。しかしながら、唯一、「伊勢の海」にだけは、なぜか何も冠されていない。

 貫之は古今集撰者で、当然、万葉集を始め古歌にも精通していたはずである。「神風の伊勢の国」という用例を知らなかったということは考えにくい。となると、枕詞「神風の」が使われなかったことは大いに不審である。

 同じような傾向は、『後撰集』718番の藤原伊尹歌にも窺える。

(2) 鈴鹿山伊勢をの海人の捨て衣 しほなれたりと人や見るらん

 この「鈴鹿山」は「枕詞的に使われていると見てもよい」(26)と考えられている。伊尹は『後撰集』では撰和歌所別当を務めたほどの人物で、当然、古歌にも通じていたはずである。「鈴鹿山」を伊勢の枕詞的に用いるのなら、なぜ、古来からの枕詞「神風の」を使わなかったのか、ここでも大いに疑問が残る。

 歌語「神風」の消滅は、平安時代以降の枕詞の衰退という和歌史の全般的な流れ(27)と軌を一にしていると考えるのが一般的であろう。しかし、(1)(2)歌は、ともに作者が『万葉集』や枕詞にも通じているはずの人物で、和歌自体にも枕詞的なものが必要とされる場合である。こういった点を注視するならば、歌語「神風」は、意図的に使用が避けられていたと考えることも可能ではないだろうか。

 その理由として、(5)の人麻呂歌以降、「神風=伊勢神宮」という概念が確立してしまったことが考えられる。また傍証として、先に引用した『俊頼髄脳』の、「さらば伊勢とかぎるべき事かは。たの神にもよまむにとがあるべからずといひしかば、かゝる事はふるくよみつるまゝにておそろしさにえよまぬなり」という記述が挙げられる。『俊頼髄脳』の成立は院政期と時代は下がるが、「古く詠みつるまま」が(5)の人麻呂歌以降を指すのであれば、この頃から「神風=伊勢神宮」という概念が成立したと考えることもできるだろう。

 では、なぜそれが歌語「神風」の回避につながるのであろうか。 歌語「神風」消滅期の伊勢神宮は、岡田精司の言う律令制祭祀の形態が保持されていた時期でもあった。岡田は、この時期の神宮祭祀の特徴として、

イ. 神宮祭祀を天皇のみの独占的祭祀行為として定め、天皇以外、皇族も臣下も、すべて神宮に対する奉幣祈願を禁止する“私幣禁断の制”の存在。
ロ. 宮廷における年間恒例の祭儀(春の祈年祭班幣の儀、11月の新嘗祭、6月・12月の月次祭)と、神宮における祭儀(春の祈年祭勅使奉幣の儀、9月の神嘗祭、6月・11月の月次祭)とが、四度とも全く対応する形で執行されていること。
ハ. 神宮の祭祀・運営に大きな権限を持っていた“祭主”を神祇大副が兼務することで、神祇官が神宮祭祀を管掌していたこと。

という三点を挙げている(28)。なお、イ.の「神宮祭祀が天皇の独占的祭祀行為」という見解は、日唐の律を比較研究した楠本行孝によっても同様の見解が示されている(29)

 このように、歌語「神風」が伊勢神宮と結び付いた(5)歌以降の時期、神宮祭祀は律令制の下、「
私幣禁断の制」がしかれ、天皇の独占的祭祀行為として行われていた。ところで、この「私幣禁断の制」とはどのようなものであったのか。以下、@〜Eに、岡田の論考(30)をもとに整理してみた。

@. 『皇太神宮儀式帳』と『延喜式』(巻四)に、“私幣禁断の制”とよばれている、私的な祈願を禁止する規定が載っている。これは大王権力の確立に伴って、6世紀後半から7世紀にかけて、神宮の諸制度の整備の中で定められたものであろう。
A. 私幣禁断の制は、単に伊勢神宮の信仰から臣下・民衆を排除して天皇が独占するというだけの意味ではなかった。伊勢神宮の神威が皇統と直結するからこそ、奉幣祈願の資格が天皇・皇后(および太后たち)と正式な皇位継承者(皇太子)のみに限定されていた。したがって、光仁朝の皇太子山部親王(のちの桓武)や、桓武朝の皇太子安殿親王(のちの平城)が、伊勢神宮に参拝して病気平癒を祈願しているのも、単なる治癒の祈願ではなく、皇位継承予定者のために健康を祈り、“天津日嗣”=皇統の継承と安泰にかかわる重大事としてであった。
B. これを逆にみれば、皇位と一体である伊勢神宮に供物(幣帛)を捧げて祈願することは、天皇の地位を狙うことを意味する。だからこそ私幣が禁止され、皇室の氏神でありながら、皇族一般の私幣祈願が固く禁じられた。
C. 伊勢神宮と皇位の特殊な結びつきは、『書紀』編者のみならず、当時の貴族層には強く意識されていたにちがいない。だからこそ皇位を望む者は、天武も挙兵直後に遙拝祈請し、大津も危険を犯してまで伊勢に下らなければならなかった。
D. 古代国家における伊勢神宮の神威は王権に直結するもので、私幣禁断の制からみても、古代において天照大神や神宮が民衆にも信仰されたということは考え難い。
E. 古代国家における伊勢神宮は民衆とは全く無縁の存在であった。神宮が民間信仰の対象として意識されるようになるのは、古代国家が崩壊し、古代王権がその威光を失う時期になってからのことである。

 このように、律令制下の伊勢神宮には「私幣禁断の制」がしかれ、その祭祀は一般には厳しく制限されていた。この制限は、当然、神宮のみならず、関連するすべてのものにまで及ぶと考えてもいいだろう。その結果、本来、伊勢神宮とは関係なく地名「伊勢」に冠せられていた枕詞「神風の」も、人麻呂以降、伊勢神宮の神威と直結するようになってしまうと、もはや、単なる枕詞として自由に使えなくなってしまったのではないだろうか。

 このような観点から再度図−Tを眺めると、

j. 神宮を頂点とした律令制祭祀がその形態をよく保持していた奈良〜平安前半期には、歌語「神風」の用例は見られない。
k. 律令制祭祀が崩壊し形骸化してくる院政期頃から、歌語「神風」も復活してくる。

というように、律令制祭祀形態の変遷と、歌語「神風」の用例が見事に対応していることがわかる。

 お わ り に

 『万葉集』まで枕詞として使用されてきた歌語「神風」は、奈良時代以降約300年間消滅し、院政時代の幕開けとともに復活する。

 本稿では、この歌語「神風」の偏った使われ方が、その時代の政治・神祇信仰と密接に関連していることを、以下のように考察した。

@. 本来、歌語「神風」は地名「伊勢」にかかる枕詞「神風の」で、伊勢神宮とは別の起源を持つ語であった。
A. 天武・持統朝において、伊勢神宮は天皇と一体不可分で律令制祭祀の根幹をなす地位に上昇する。その時勢を反映し、柿本人麻呂が神宮の神威を体現する語として「神風」を用い、以後、「神風=伊勢神宮」という概念が確立したと思われる。
B. 奈良時代以降、院政期までの約300年間、歌語「神風」は消滅するが、その間、使用が憚り避けられた痕跡がある。
C. そのわけは、律令制祭祀下の神宮に「私幣禁断の制」がしかれていたことに起因すると思われる。それゆえ、律令制祭祀形態の形骸化と対応し、院政期に歌語「神風」も復活してくる。

 今後は白河〜後鳥羽という院政時代に論点を移し、(3)復活期、(4)頻出期を考察してみるつもりだが、紙幅の関係上、本稿は、大方のご批判・ご教示をお願いしつつ、ひとまずここで稿を終えたい。

   注  
 中世までの主要な文学作品を語彙索引等で調べた結果、以下の物(あいうえお順)には「神風」は見出せなかった。
伊勢物語・今鏡・宇治拾遺物語・宇津保物語・栄花物語・落窪物語・源氏物語・今昔物語・狭衣物語・十訓抄・竹取物語・東関紀行・多武峯少将物語・土佐日記・とりかへばや物語・浜松中納言物語・平家物語・平治物語・松浦宮物語・無名草子・大和物語・夜の寝覚
  また、『日本古典文学大系』の語彙索引にも当たったが、「神風」が散文に使われた形跡はなかった。
 『日本歌学大系 第1巻』〔57年、風間書房〕181頁。
 岡田精司『古代祭祀の史的研究』〔92年、塙書房〕317〜318頁。
 『新編国歌大観CD-ROM版』〔96年、(制作)凸版印刷梶A(発行)滑p川書店〕
 図−Tでは、15世紀になって、再度、用例が増加するが、これは正徹が19首もの作例を一人で残していることによる。しかし、正徹は「神風」を伊勢神宮に限らず、住吉や出雲など広い意味で用いている。
 本文は、(1)(2)歌等『古事記』『日本書紀』『風土記』は『日本古典文学大系』〔岩波書店〕、(3)(9)歌の『万葉集』は『新編日本古典文学全集』〔小学館〕、??歌の『古今集』『後撰集』は『新日本古典文学大系』〔岩波書店〕から引用した。歌番号はすべて『新編国歌大観』によった。なお、和歌以外にも、古代での「神風」の用例は若干見受けられるので、参考のために挙げておく。
(a) 『日本書紀』〔垂仁天皇二十五年三月〕本論中に引用。
(b) 『日本書紀』〔神功皇后 摂政前紀(仲哀天皇九年二月)〕
神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」
 これは、神功皇后が受けた託宣の言葉である。この時皇后は、急死した夫仲哀天皇に、熊襲征伐よりも新羅征伐を勧めた神の名を知ろうと、自ら神主となって奉祀していた。
 ここでの「神風」は伊勢国の枕詞として使われているが、同時に、五十鈴宮の神に関連して使用されているとみることもできる。五十鈴の宮が伊勢神宮と必ずしも一致するとは思えないが、仮にそうであったとしても、この神功紀は史実としては否定されていて(日本古典文学大系巻末補注)、私見の、「神風」が伊勢神宮と結び付くのは天武・持統朝以後という説が否定されることはない。逆に、私見をもとに、この伝承は天武・持統朝以後に創作、あるいは改作されたものと推定することも可能である。
(c) 『風土記』〔逸文 伊勢国 度会・佐古久志呂〕
「風土記に云はく、度会と号くるは、川に作る名のみ。五十鈴は、神風の百船の度会の県、佐古久志呂宇治の五十鈴の河上と謂ふ。……」
以上の原文表記は、『万葉集』『風土記』はすべて「神風」、『古事記』は「加牟加是」、『日本書紀』の歌謡は「伽牟伽筮」「柯武柯噬」、その他は「神風」となっている。
 西宮一民は「斎宮」に、(a)「清浄なる神殿」、(b)「伊勢神宮」、(c)「斎王の御殿」の三つの訓義があり、(a)と(b)とはイハヒノミヤ、(c)はイツキノミヤと訓んで区別すべきであると定義する。そして、従来「神宮」と解されてきた垂仁紀25年の「興斎宮于五十鈴川上、是謂磯宮」の記事は、(c)のイツキノミヤと解すべきであり、その別名ないし通称として「磯の宮」があったとしている。また、本稿(5)歌の「度会の斎宮ゆ」は、内容的に神宮の意で?にあたるわけだから、従来のイツキノミヤという訓みはイハヒノミヤとすべきだと指摘している。〔「「斎宮」の訓義」(『皇学館大学紀要』第6輯、68年2月)〕
 この記事については、岡田精司3前掲書★、第U部第九章「伊勢神宮の成立と古代王権」(75〜85頁)に詳細な考察がある。それによると、この記事の史実性は否定され、「神宮に奉仕する巫女たちが託宣の形で語った鎮座の由来譚」が『日本書紀』に採り入れられたものとされている。そうなると、書紀に採り入れられる以前から、巫女たちによって「神風の伊勢国」と伝承されてきたのか、書紀の成立時期に編者が意図的に「神風の伊勢国」と補入したのかが問題となってくる。
 枕詞「神風の」の先行研究については、(1)澤瀉久孝「「神風の」攷」〔『万葉歌人の誕生』所収、56年、平凡社〕、(2)益田勝実「神風考」〔『文学』、83年3月、岩波書店〕、(3)尾崎暢殃「「神風の」考」〔『シリーズ古代の文学6・古代文学の変革』所収、81年、武蔵野書院〕の語源を扱った三本がある。他に、(4)阿蘇瑞枝「地名にかかる枕詞〜「神風の」「あをによし」を中心に〜」〔尾畑喜一郎編『記紀万葉の新研究』所収、92年、桜楓社〕もある。これら以外では、福井久蔵(著)・山岸徳平(補訂)『新訂増補・枕詞の研究と釈義』〔60年初版、87年新装版、有精堂〕や、『和歌大辞典』〔滝沢貞夫(執筆)86年、明治書院〕などに詳細な解説があり、参考になる。
10  土橋寛『古代歌謡全注釈古事記編』〔72年、角川書店〕81頁。
11  (5)歌全文。
かけまくも ゆゆしきかも(割注略)言はまくも あやに恐き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 恐くも 定めたまひて 神さぶと 岩隠ります やすみしし 我が大君の 聞こしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の行宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ(割注略)食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御軍士を 召したまひて ちはやぶる 人を和せと まつろはぬ 国を治めと(割注略)皇子ながら 任けたまへば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も(割注略)あたみたる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに(割注略)ささげたる 旗のまねきは 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに 付きてある火の(割注略)風のむた なびかふごとく 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に(割注略)つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く(割注略)引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ(割注略)まつろはず 立ち向かひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに(割注略)渡会の 斎宮ゆ 神風にい吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の 天の下 奏したまへば 万代に 然しもあらむと(割注略)木綿花の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を(割注略)神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白たへの 麻衣着て埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの い這ひ伏しつつぬばたまの 夕に至れば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い這ひもとほり 侍へど 侍ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいませて あさもよし 城上の宮を 常宮と 高くしたてて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉だすき かけて偲はむ 恐くありとも 
12  『新訂増補国史大系(第八巻)』巻十五、述義十一、第廿八。
13  岡田精司3前掲書★322頁。
14  岡田精司3前掲書★323頁。
15  土橋寛10前掲書★81頁。
16  菊地威雄『柿本人麻呂攷』〔87年、進典社〕152頁。
17  近藤信義「枕詞とは何か」〔『国文学解釈と鑑賞』69年2月〕。
18
(1) 岡田精司『古代王権の祭祀と神話』〔70年、塙書房〕第T部第四「律令的祭祀形態の成立」・第U部第四「伊勢神宮の起源〜外宮と度会氏を中心に〜」。
(2) 岡田精司3前掲書★、第U部「古代王権と伊勢神宮」・結章「古代国家における天皇祭祀」。
(3) 岡田精司「律令制祭祀の特質」〔菊地康明編『律令制祭祀論考』所収、91年、塙書房〕。
19  丸山二郎「伊勢神宮の奉祀について」〔『日本古代史研究』、47年、大八洲出版〕をはじめ、直木孝次郎「天照大神と伊勢神宮の起源」〔藤直幹編『古代社会と宗教』(51年、若竹書房)、後に『日本古代の氏族と天皇』(64年、塙書房)にも所収〕などがある。この見解は、最近でも、梅原猛の記事〔「神々が語る日本史」(『芸術新潮』96年3月、218頁)〕にも見られるように、まだ広く一般に通行している。
20  岡田精司3前掲書★291頁。
21  岡田精司3前掲書★292頁。
22  岡田精司3前掲書★447〜451頁。
23  岡田精司18前掲(3)論文収載書★29頁。
 岡田は律令国家の性格を最もよく反映している宮廷祭祀のひとつとして祈年祭班幣を挙げ、その分析を通して律令的祭祀の形態を洞察している。〔岡田18前掲(3)論文収載書8〜9頁〕
 それによると、祈年祭の特色は、仲春に天皇の支配の及ぶ全国土の神々を神祇官の庭に集め、“班幣”(幣物を朝廷から班つ、すなわち祭祀料を下賜することで、そこには敬神の念はない)を行うところにあった。これは全国の神々の祭祀権を天皇が掌握している、つまり、諸神が天皇に臣従していることを表していた。ところが、唯一、伊勢神宮に対しては、勅使を派遣し、奉幣が行われた。この点から岡田は、
 律令制下の祈年祭は、諸神への天皇からの班幣と伊勢神宮への奉幣との対比からみても、天照大神と天皇を頂点とした祭祀体系を意味するものであった。
と、律令制下の伊勢神宮が天皇と一体で、全国の神々の上に位置していたことを明確に論証している。
24  『万葉集』の枕詞「神風の」を調べた阿蘇9前掲(4)論文には、地名「伊勢」に枕詞「神風の」がつく歌は万葉第二期(670〜710年代)、枕詞がなく「伊勢」だけの歌は第三・四期に多く見られるという指摘がある。となると、この710年平城遷都以後の第二期から第三期へという時期が、歌語「神風」にとって大きな転換期であったとみることもできるだろう。
25  小島憲之・新井栄蔵校注『新日本古典文学大系古今和歌集』脚注。
26  片桐洋一校注『新日本古典文学大系後撰和歌集』脚注。
27  たとえば、『古典文学レトリック事典』〔『国文学』第37巻15号(92年12月、學燈社)〕の「枕詞」の項目(古橋信孝執筆)。
28  岡田精司18前掲(3)論文収載書★17〜19頁。
29  楠本は以下のように考察している。
@.  日唐の律の条文の対応関係から、大社が唐律の宗廟に対応するものとして日本律に位置づけられている。
A.  唐における宗廟の破壊は、国家の否定に他ならないものと位置 づけられ、その罪も大逆とされている。
B.  日本律においては、大社の破壊が謀大逆から謀不敬に移されている。これは、大社=伊勢神宮が国家の宗廟とは違う位置づけになっていることを示している。つまり、大社を破壊する罪とは、国家そのものの否定とは直接にかかわらない、天皇への非礼の罪と見なされていたことを表している。
 このような観点から楠本は、「大社とは天皇の祭る社であり、国家において祭られる社ではなかった」と推測している。〔「律にみえる「大社」についての一考察〜唐律との比較を中心に〜」(二十二社研究会編『平安時代の神社と祭祀』、86年、国書刊行会)〕
30  岡田精司3前掲書★、第U部第十章「古代における伊勢神宮の性格〜私幣禁断をめぐって〜」。


付記  本稿は、和歌文学会第37回大会(91年10月6日)での口頭発表「伊勢での西行試論〜『聞書集』巻末神祇歌七首をめぐって〜」の内容の一部と、それを発展させた、中世文学会第77回大会(94年10月30日)での口頭発表「新古今時代の和歌と政治と神祇信仰〜歌語「神風」を中心に〜」の前半部分をもとに、大幅な加筆・訂正を行ったものです。論を組み立てていく過程で、岡田精司先生には、伊勢神宮に関する部分をはじめ、色々と貴重なご教示をいただきました。また、滑p川書店書籍第二部の山口守義氏、土屋幸子さんにはいろいろとお世話になりました。特に記して謝意を表します




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