学術やまむらについて
論文に関するひとこと 
 1986年  西住と西行
 1991年  西行の高野離山・伊勢移住について
 1991年  伊勢移住前後の西行について
 1997年  歌語「神風」考
 1998年 平成新出本『奥の細道』をめぐって
 2000年  兼好の「あらまほし」と見ていたもの
 2000年  芭蕉自筆を否定する文字たち
 2003年  葵祭名称考
 2005年  『徒然草』に「序段」はなかった
 2008年   方丈記「理にも過ぎたり」の解釈について
 2011年 西に行くということ~義清(西行)出家と四天王寺~
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 大学院時代、ある教授とトラブルがあり、その講義に出なくなりました。その時、ある先輩から、なぜ来ないのかという主旨の詰問があり、「自分の好きな研究をするため」と答えたことがあります。その時、その先輩に、
  「何を言うのか。自分なんか好きなことさせてもらったことなんてない!」
と言われて、非難されました。好きなことをするために入った大学院で好きなことをさせてもらえない、なんか不思議なことを言う人だなあと思いました。

 私は20代半ばで、どんなささやかな形でもいい、歴史に自分の爪痕を残したいと考えたことがあります。芸術家、作家、建築家なら自分の作品で残せます。しかし、普通の人間だと、どうすればいいのか…。まさか事件を起こすなんてことは嫌です。そんな私が見つけたのが、研究して論文を書くことです。

 研究をするためには、先行研究を調査しなければいけません。初登頂でなければ意味がないからです。その過程で過去の研究者と交流することができます。また、自分の残した研究が意味のあるものなら、未来の研究者が参考にしてくれます。つまり、研究して論文を書くということは、過去とも未来とも繋がることができ、歴史に自分の痕跡を残すことでもあるのです。

 結局、大学院での事件はうやむやで終わり、単位も無事取得し、あっけなく修了してしまいました。不思議な話です。

 この学術やまむらでは、私が学会誌や紀要などに書いた論文で、一般の目に触れる機会がないものを公開していきます。
 人に読んで頂くために、元の縦書き論文の体裁を大幅に改めましたが、基本的に本文は、明らかな誤字や間違い以外は、そのままにしています。ですから、文体はちょっと固いですが、ご了承下さい。また、漢文などは訓点を省略し、白文のまま表記しています。ルビもほとんど省略しています。これも時間をかけて、漢文はできるだけ訓読し、ルビも付けるようにするつもりですが、まずは公開を優先させていきたいと思います。ご理解をお願いします。

 ネットで公開されているいろいろな論文を見て思うのは、1行の幅が長いことです。あまりに長いと読むのに疲れます。それで、横幅は36字前後で入力しています。もし、文字が小さくて読みにくい場合は、お使いのパソコン画面の「表示」→「文字のサイズ」をクリックして調整していただければ、読みやすくなると思います。

 これらの論文が何かのご参考、お役に立てれば幸いです。
互福店店主敬白
★西住と西行    (『和歌文学研究第53号』1986年10月30日、和歌文学会発行)


 この論文は、私の卒業論文でした。大学院に進学し、初めて和歌文学会に入会し、腕試しのつもりで、50枚の卒論を30枚にまとめ直して投稿したものです。論文が初めて学会誌に載ったという喜びもありましたが、その後、故谷山茂先生など、引用させていただいた諸先生方に抜刷りを送り、ご丁寧なご返事を頂戴し、感激したことを、今でも覚えています。

 論文の内容は、平安後期の歌人西行
(さいぎょう・1118~1190)の心友西住(さいじゅう)について、その伝記考証をしたものです。特に、彼の俗名「源季政」という名を『中右記』大治4年(1129)10月23日に発見できたのが大きかったです。これによって、従来不明な点の多かった西住と西行の関係について、西住のほうが10歳ぐらい年上であることなど、具体的に論じることができました。

 この新説については、後に『平安朝時代史事典』(1994年、角川書店)「西住」の項目でも採用していただけました。

 最初の論文ですから、表現や記述の仕方で拙いところはありますが、誤字以外は原文のまま掲載することにしました。横書きでHPに公開するにあたり、改行、数字表記など、読みやすいように適宜あらためてみました。お気づきの点などご感想いただければ幸いです。
 
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西行の高野離山・伊勢移住について
〔『中世文学』36号、1991年6月、中世文学会〕

 この論文は、『同志社国文学』第34号(1991年3月)より発行年は後ですが、内容はそれに先行するもので、当然、こちらの方を先に書いています。きっかけは、市民向け古文書講座に出たことです。その当時、醍醐寺文化財研究所におられた橋本初子先生に「円位書状」といわれる西行の手紙の写真を見てもらった時、それまで「何事」と読まれていた文字が「仏事」ではないかと指定され、目から鱗、それまで盲目的に活字資料を信じ込んでいた自分の愚かさに気付かされたものです。

 
内容は、西行晩年の高野から伊勢への移住問題につき関係資料からその時期を推定したものです。そして、当時の社会情勢をもとに、伊勢移住の背景に崇徳院怨霊の問題が深く関与している可能性を指摘しました。具体的には、伊勢神宮の特殊な社会的地位をもとに、西行の目的が崇徳院怨霊によってもたらされた国家的危機を、国家の守護神である伊勢神宮の神威によって回避させることにあったという新しい仮説を提唱しました。具体的なことは、次の論文解説に書いています。

 また、この論文を書くにあたり、高野山霊宝館に資料閲覧、写真掲載の許可を頂きました。たしか国宝の資料だったため、2万円ぐらいの掲載料がかかったと思います。学生の身分でちょっとこれは痛かった記憶がありますが、写真入りの論文が学会誌に載った喜びは、それ以上でした。
 
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伊勢移住前後の西行について
〔『同志社国文学』34号、1991年3月、同志社大学国文学会〕

 この論文は、『中世文学』第36号(1991年6月、中世文学会)に発表した「西行の高野離山・伊勢移住について」とペアーになるものです。

 これまで西行
(1118~90)が晩年に伊勢へ移住した年は、治承4年(1180)3月15日以降とするのが定説でした。その根拠は、西行が円位という法号で高野山に出した書状が残っていて、その年時が治承4年3月15日とされたからです。

 ところが、この書状には「三月十五日」という月日だけで、年号は書かれていません。結論から言うと、私はこの書状が書かれたのは承安4年
(1174)3月15日と推定しました。

 この頃の西行の活動を見ると、五辻斎院頌子内親王が父である鳥羽院の菩提を弔うために、高野山蓮華乗院へ南部庄を寄進する奉行をしています。その五辻斎院の母、春日局が安元3年
(1177)6月22日に出した書状が高野山に残っています。その中に、「大本房(西行の別の法号)の聖の仰せられ置きたらん定に違たがはず」という言葉が残されています。

 この文言から、私は西行が高野山を離れ、伊勢に移住したのは安元3年(治承元年
1177)頃と推定し、新説を提起しました。そして、1177年頃に伊勢移住したという説を裏付けるために、当時(承安~安元年間1171~77)の西行歌に着目したのが、本稿です。その中で詠み込まれていたのは、「神事衰退=末世」を慨嘆する心情でした。

 世情は平氏政権が崩壊する寸前で、当時、都で喧伝されていたのは、西行が若いときから仕えていた崇徳院の怨霊問題です。こういう世情不安、崇徳院怨霊などの問題と、西行の伊勢移住を絡めたて考えてみました。 

 この論文がきっかけで、伊勢神宮に興味を持つようになり、祭祀研究を始めるきっかけともなりました。
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歌語「神風」考~古代の和歌と政治と神祇信仰の相互関係について~
〔『日本文学』527号、1997年5月、日本文学協会〕

 この論文は学会でのある事件がきっかけでできました。1991年10月6日大阪女子大で開かれた和歌文学会第37回大会でのことです。「伊勢での西行試論~『聞書集』巻末神祇歌七首をめぐって~」というテーマで発表した私に、「一般の者ですが…」と名乗って質問される方がありました。

 通常、専門の学会で会員以外の一般の方が質問されることなど前代未聞のことなのです。その方は、私が発表で言った「神風」という言葉について、延々と話し始めました。「これはエライことになった!このまま20分、30分と話されたらどうしよう。」と壇上で顔を引きつらせた私ですが、その方は思ったより短い時間で話し終わりました。会場はシーンと静まり返り、私の答弁を待ちます。「神風については、今後よく勉強させて頂きます。ご指摘ありがとうございました。」というようなことを答え、その場はなんとか納まりました。

 そんなわけで、その後、「神風」について古典和歌でどのように使われているか、国歌大観の索引を使ってひたすら調べました。途中で韓国に仕事で行くことになり、あちらの研究室でも調べ続けました。その結果、意外な事実が浮かび上がってきました。

 歌語「神風」は使われ方に極端な時代性が反映されているということです。奈良時代以前に「伊勢」の枕詞として使われていた「神風」は、平安時代以降消滅してしまいます。それが11世紀ぐらいから復活し、13世紀初頭、後鳥羽院の時代に大流行することになります。

 これは「神風」という歌語が伊勢神宮と密接に結びついていたことが原因と考えられます。古代の伊勢神宮は私幣禁断(しへいきんだん)という制度があり、天皇以外、たとえ皇族であっても奉拝することが禁止されていたのです。この制度は時代とともに緩んできますが、それでも平安末~鎌倉初期ではまだまだ天皇(政治)と結びついた特殊な神社(神祇信仰)でありました。その関係が歌語「神風」(古代の和歌)に色濃く反映しているのです。

 余談ですが、私が何年もかけて調べた歌語「神風」の古典和歌におけるおける用例は、その後、国歌大観のCD-ROMが発売されることで、僅か数分で、しかも私が見つけられなかった句中に「神風」を含む用例も含め、正確に検索することが可能になりました。発売前のデモンストレーションを東京まで見に行き、角川書店にいろいろ注文を出し、それを製品版に取り入れてもらったもしました。私は、当時定価で28万くらいするCD-ROMを使うために、わざわざノートパソコンを購入しました。もちろんパソコンの方が1枚のCD-ROMより安かったのは、今でも覚えています。

 とにかく、この論文は、私がパソコンを購入するきっかけになったり、その後、祭祀研究で岡田精司先生にいろいろとご指導を受けるようになったりと、いろいろな点で大きな転機となった論文です。
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★平成新出本『奥の細道』をめぐって ~芭蕉自筆か多筆による転写本か~

(『大阪産業大学論集 人文科学編 96号』1998年10月発行、大阪産業大学学会

 この論文は、平成8年(1996年)に新出し、芭蕉自筆とされた『奥の細道』中尾本の鑑定が、何ら客観性、具体性がなく信頼のおけないことを明らかにしたものです。さらに、本文に多数ある訂正箇所を分析し、同本が芭蕉草稿を転写したものであることを実証しました。さらに、訂正前の本文が日本語として意味を成さないものであることから、中尾本が芭蕉自筆である可能性の低いことを具体的に検証し、中尾本を自筆本という呼称の当面の見直しを提唱したものです。

 個人的にはとても思い入れのある論文です。そもそも日本中を大騒ぎさせた『奥の細道』の新出本騒動、これはすごかったです。まず、NHKが7時のニュースで放送し、翌日の日刊紙1面トップを占領するほどのニュースでした。その後、複製本が部数限定で出され、その後、安価な写真版が天下の岩波書店から出され、この手の本としては異例のベストセラーを記録しました。本当に誰かが仕組んだかのような、段取りの良さでした。

 私は、このニューに接したとき、芭蕉の自筆が出てくるなんて素晴らしいと感動したことを覚えています。その気持ちのまま、故山本唯一先生のカルチャーセンターでの講座に出て、その後で先生の口から、あれは怪しいという話をうかがい、大層驚いたものです。はじめは、テレビや新聞で大々的に自筆と報道されているものが、なぜニセモノと言われるのか、先生の方を疑ったものです。

 しかし、自筆本とされている本の中に、あの永平寺を楷書ではっきりと「平永寺」書いて、訂正している箇所を見て、疑念が湧いてきました。一度、疑念が出てくると、他にも怪しい箇所がゾロゾロと出てきて、山本先生のご慧眼に、これまで以上に尊敬の念を抱いたものです。

 ところが、俳文学会は、先生の度重なる警鐘を無視し、客観的な検証をすることもなく、自筆と決めてかかり、山本先生の反論を抹殺しようと図りました。この論文が出たのは、ちょうど神戸の女子大で俳文学会が開かれた時でした。当日は新出本についてのシンポジウムというはずだったのに、自筆説を唱えた方は壇上に上がらず、一人山本先生が批判の矢面に立たされるという、ひどいものでした。その会場ロビーにこの論文を置き、心ある人に問題提起することができました。

 私としては、尊敬する山本先生から良い論文が書けたとほめていただいたことが一生の思い出です。その後に書いた「芭蕉自筆を否定する文字たち」が生前の先生にお届けできなかっただけに、この論文は、私にとって大切な宝物のひとつです。
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★兼好の「あらまほし」と見ていたもの ~『徒然草』第五段を読み解く~

(『大阪産業大学論集 人文科学編 102号』2000年10月31日発行、大阪産業大学学会

 大学で『徒然草』の講読を担当していると、現代語訳が各本によってまちまちな章段があることに気づきました。この第五段もそうです。

 訳が一定していないということは、どの訳も納得できるものではないということです。特に問題となったのは、「不幸に愁へに沈める人」の箇所です。日本語教師として、外国の方々に日本語を教えてきたせいか、この文章に対しては、「不幸に」が何にかかっているのか、日本語の不自然さが非常に気になりました。

 最終的な結論は、本文の誤写による間違った本文の形成ということでした。「やった!」と自分でも会心の結論に到達し、『日本文学』に投稿したのですが…。没となりました。

 なぜなら、このこの問題についてはすでに池田亀鑑氏が発表していたのです。それも1951年に発表した「源氏物語総索引はいかにあるべきか」という
徒然草とは関係ない論文の中で触れていたのです。ちょっとショックでしたが、高名な学者と同じ結論に到達したことが光栄でもありました。

 再度、論を練り直し、納得のいく解釈を第五段に施しました。ただ枚数が50枚近くになり、非常勤でお世話になっている大阪産業大学の論集に投稿させて頂きました。
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芭蕉自筆を否定する文字たち~『奥の細道』中尾本考~
〔『同志社国文学』53号、2000年12月、同志社大学国文学会〕

 1996年11月25日、芭蕉自筆とされる『奥の細道』の一本が公表された。このニュースは新聞やテレビで大々的に採り上げられ、世界中を駆け巡った。すごいもんが出てきたな、というのが、当時の正直な感想で、このニュースに何の疑念も持っていなかった。
 年が改まり、昔、大学院でお世話になった山本唯一先生とお話をする機会あった。先生もさぞ興奮しておられるだろうと思ったら、意外なことに「あれは自筆ではありません」と、おっしゃった。
 生意気にも、先生の自筆ではないという説の根拠を崩そうと、いろいろと質問をさせていただいた。私にとって決定的だったのは、この自筆とされた本が、福井県にある曹洞宗の大本山永平寺を「平永寺」と書き誤っていたことだ。芭蕉が何でこんな間違いをするのだろう? 一度疑念がわくと、次から次へと疑問に思えるところが出てくる。

 これは自筆とした鑑定に問題があるのではないかと思い、丹念に原本を調べ、論文にまとめた〔「平成新出本『奥の細道』をめぐって~芭蕉自筆か他筆による転写本か~(『大阪産業大学論集 人文科学編』96号、1998年10月)〕。
 この論文は神戸で行われた俳文学会の会場で配られ、反響を呼んだ。私としては、芭蕉や俳文学の専門家の方々に、鑑定方法に問題があり、安易に自筆とすることは危険であるという警鐘を鳴らしたつもりだったが、無視され、自筆説はその根拠を否定されているにもかかわらず、何ら反証せず、強引にその説を押し通そうとする姿勢は変えなかった。そこで、再度、自筆説の鑑定方法に基づいて、中尾本(自筆本と喧伝された本の所蔵者名をとってこう呼ぶ)を見直した。

 鑑定方法というのは、中尾本に見られる「通常の字体と異なる特徴を示す漢字(ある画が一画多い、欠けている、本来ない場所に書かれている、部首が別の形になっている等)」を摘出し、それが「芭蕉にのみ特異な文字群」と同じ字形であることを、鑑定者の目で確認したものである。

 本稿は、中尾本には鑑定者が指摘した以外にも、数多く「通常の字体と異なる特徴を示す漢字」が存在することに着目した。例えば、「神」という漢字であるが、我々は「ネ」という字に「申」と書くが、中尾本には「甲」と書かれたものがある。棒が突き出るか、出ないかという些細な問題だが、神様の「神」を間違っても「甲」と書くような人間はいるだろうか。
 このように、他の芭蕉真蹟類になく、筆蹟に重大な欠陥のある文字が数多く中尾本には存在する。このような本を安易に芭蕉自筆と断定すること、また、このような本をもとに『奥の細道』本文を改変することは、芭蕉を冒涜する行為に他ならない。
 客観的な事実をもとに、中尾本は芭蕉自筆ではないと断定したのだが、未だに自筆説横行は止められない。忸怩たる思いがつのる。

 最後に、前稿を何度も読み、絶賛して下さった山本唯一先生が2000年10月2日に、享年79歳で亡くなられた。本稿は、原稿を病床でお見せすることはできたが、活字になったものを生前にお届けできなかったことが残念でならない。特に、最晩年の3年間、ともに『奥の細道』について議論し合ったことが、最高の幸せであった。公私ともども、大変なお世話になった感謝の気持ちは、一生忘れられない。
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葵祭名称考~賀茂祭から葵祭へ~
〔『祭祀研究』3号、2003年11月、祭祀史料研究会〕

 葵祭って、葵の葉を飾りに付けて行列するところから命名されたという説をよく聞きます。それなら、源氏物語にも登場するこの祭ですから、平安時代からその名前があってもおかしくありませんが、ずーっとその呼び名は正式名称き「賀茂祭」で、アオイマツリなんてどこにも出てきません。実際、アオイマツリなんて言葉は、江戸時代になって初めて用例が見られるのです。

 そもそもこの論文は、祭祀史料研究会の例会で岡田精司先生が賀茂祭について発表されるので、その前に、史料編纂所のデータベースを使って「賀茂祭」を検索したことがきっかけでした。すると、これまでの定説では、「応仁・文明の乱があった15世紀以降、賀茂祭は中断され元禄7年(1694)までなかった」はずなのに、室町期の記録が出てくるのです。

 それらの記録を調べると、勅使が賀茂社に参る「路頭の儀」はなかったが、宮中や神社では、引き続き祭が行われていた。

考えられているが、その用例は江戸時代以降である。本稿では、従来の指摘より20年前の用例が、寛永2年(1625)4月19日『御湯殿上日記』にあることを指摘した。また、賀茂祭が15世紀から元禄7年(1694)に再興されるまで約二百年間中断していたという定説を、15世紀以降の用例を提示することで否定した。そして、この間行列は中断していたが、賀茂社でも宮中でも神事が行われていることを明らかにした。これらの事実をもとに、「葵祭」の名称が路頭の儀とは無関係に成立したことを論証した。

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『徒然草』に「序段」はなかった
〔『同志社国文学』62号、2005年3月、同志社大学国文学会〕
 

つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 現在、我々が目にする『徒然草』では、この有名な冒頭部は「序段」と呼ばれている。ところが、「序段」というのは、中途半端な名前である。「序」なら本文と見なされず、『徒然草』は、その後の「いでやこの世に生まれては…」から始まることになる。だが、我々は『徒然草』の本文はこの「序段」から始まると習っている。
 実は、本来、『徒然草』にはこのような章段区分はなかった。また、「序段」という名称も、明治以降に発生したものだ。その原因は、江戸時代の注釈書に付けられた章段記号の「序・一・二・三…」というのを誤解し、「序段」「一段」「二段」「三段」としたせいだ。
 結局、我々は『徒然草』作者兼好が書いた文章をちゃんと読めていないということに気付いた。これに関しては、ずいぶん時間がかかっているが、多くの人に納得してもらえるよう、論証を構築していかなければならない。とりあえず、本稿は、その序章として書いた。私見については、本稿のまとめの部分に披露している。
 また、この論文は恩師加美宏先生の退職記念号に掲載され、そういった意味からも、思い入れのある論文である。

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方丈記「理にも過ぎたり」の解釈について
〔『大阪産業大学 人間環境論集』7号、2008年6月30日、大阪産業大学学会〕
 
 『方丈記』都遷りの段にある「理(ことわり)にも過ぎたり」には、現在、⒜常軌を逸している、通常ではない(状態系解釈)、⒝当然だ、道理至極だ(論評系解釈)という相反する二通りの解釈がある。その原因は、「世の人、安からず愁へ合へる、実に、理にも過ぎたり」という、現行『方丈記』底本である大福光寺本本文の欠陥によるものである。本文「愁へ合へる」が連体形で終わっているのに、それを受ける言葉がなく、本文自体が曖昧なため、二通りの解釈が可能となっている。

 そこで、本稿ではまず、『方丈記』諸本を調べ、流布本をはじめ、大福光寺本以外の本すべてに「世の人…愁へ合へるさま理にも過ぎたり」と、⒜状態系を示唆する「さま」が入っていることを確認した。その上で、語義的、文法的、語法的に詳細に分析し、⒝論評系解釈に合理的な根拠がなく、⒜状態系が正当な解釈であることを証明した。

また、不合理な⒝論評系解釈が発生した原因についても検討した。⒝論評系解釈は大福光寺本が発見される以前、本文に⒜状態系を示唆する「さま」の入った流布本を底本にした明治期の注釈書からすでに見られた。しかし、その訳は意訳で本文に正しく向き合ったものではなかった。誤訳が発生した原因は、本文「改まるべくもあらねば」の部分にある。

校注者は自動詞「改まる」を注視せず、助動詞「べし」を「当然」の意と思い込み、その結果、この部分に「都を改めるべきではない」という作者の論評が入っていると誤解してしまった。しかし、本文には自動詞が使われているので、「べし」は「確信を持った推量」となる。したがって、訳も「都が改まるはずない」という、当時の都の人々の意見を作者が叙述していることは明白である。

⒝論評系解釈は、明治期の意訳で、この「改まるべく」の部分を作者の論評と解した結果、語義的、文法的、語法的にも無理があるにもかかわらず、付けられたものである。このような無理な解釈によって、方丈記当該部には非常に難解な訳が横行している。そこで、本稿では、本文に即し、新しく現代語訳も付けた。

そして、最後に、学校教育の現場で、古典は学習者から嫌われていが、その原因は、学習者側に起因するだけでなく、本稿で扱ったような、杜撰な校注による難解な現代語訳にもあることを指摘した。
 TOPへ 論文へ  ⑴ kotowari.pdf へのリンク
⑵ 大阪産業大学人間環境論集へのリンク(プレビューをクリック)
西に行くということ―義清(西行)出家と四天王寺―
〔『西行学』第2号、2010年8月20日、笠間書院〕
 
  西行に私が興味を持ったのは、「西に行く」という奇妙な名前がきっかけだった。20代のはじめ、1年間の英国生活を終え帰国すると、それまで以上に日本文化に興味が出てきた。そこで、茶道や書道などの手習いを少し始めた。

 書道は作家の藤本光城先生(1906~?)に習った。書道の練習よりは、毎回先生の語られる話が面白かった。その先生が繰り返し言っておられたのは、「西行は面白い」ということだった。実は、西行という名前は、子供の頃の記憶に残っている。生まれ育った大阪市東淀川区には江口の君堂があり、なんとなく名前は知っていたのだ。面白いと言われ、ちょっと調べてみると、若くして、家族も財産も地位も名誉も捨てて出家したという、その人生に興味を引かれた。

 外国人に日本語を教える日本語教師になるため大学に3年編入したのは、その後だった。それなのに、卒論のテーマに西行を選んだのは、その名前と生涯に関心があったからだ。しかし、西行の伝記研究はすでにやり尽くされたという状況で、国文学の勉強を始めて1年と少々の身には入り込む余地はなかった。そんな時、西行の心友西住を知った。「西に住む」という名前も面白かった。その時の卒論が私の最初の研究論文となった。〔西住と西行(『和歌文学研究 第53号』1986年10月30日)〕

 それから20数年経ち、千里金蘭大学生涯学習センターで「西行の生涯と時代」という講座を持つことになった。それまで西行研究から少し離れていたのだが、これをきっかけに再度勉強しなおすことにした。

 西行はなぜ出家したのだろう。自問自答した時、以前、徒然草の論文を書いた時に引用した『発心集』の説話との類似性に気付いた。西行の出家には理由などなかったのだ。理由もなく一途に出家したからこそ、世人の称賛を得たのだ。新発見に欣喜雀躍したのも束の間、五味文彦氏がすでに指摘されていることがわかった。

 意気消沈して数か月、ある日、ふと、出家に理由がなくとも、きっかけはあったはずだということに気付いた。『発心集』の説話は東大寺の大仏供養がきっかけだった。西行にも何かあったはずだと、西行出家の保延6年(1140)という年を調べてみた。すると、僧西念が四天王寺西門から入水往生をしたという記述が目に入ってきた。西行と西念、名前も近いし、調べてみると思想的に近いものもあった。

 それまで、大阪生まれでありながら、四天王寺がどういう寺か意識したことはなかった。まして、四天王寺西門が極楽の東門と向かい合っているなんて話は、全く知らなかった。「西に行く」と書いて西行。では、西に行くとは、どこから行くのだろう。そう考えた時、西行と四天王寺西門信仰との関連性が強く感じられた。

 この論文は、そういう発見の連続にわくわくしながら書いたもので、論理的、客観的に見ると、卵の上に卵を積み重ねたような危うさがある。前提となる仮説が崩れると、すべてが崩れてしまう。しかし、西行を文学研究の対象として見るようになった明治以来、西行と四天王寺について真っ正面から研究した人はいない。そういう意味からも、この論文が新しい研究領域を拓く一里塚となってくれたら嬉しい。

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