★ 兼好の「あらまほし」と見ていたもの 〜『徒然草』第五段を読み解く〜 
 1 は じ め に

 不幸に愁うれへに沈める人の、頭かしらおろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに門かどさしこめて、待つこともなく明かし暮したる、さるかたにあらまほし。
 顕基
あきもと中納言のいひけん、配所はいしょの月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。

 『徒然草』第五段は、これまで不幸な状況下での籠居が、兼好にとって「あらまほし」い行為であったと理解されてきた。しかし、いかなる状況下であれ、不幸な人が悲しみに沈んでいるのを「あらまほし」、理想的と評するのは、どこか逆説的、冷笑的な感が拭えず、ここから作者兼好の「あらまほし」という積極的、肯定的な姿勢を読み取ることは難しい。

 第五段を難解にしているのは、
1. .「不幸に愁へに沈める人」、
2. .「ふつつかに思ひとりたるにはあらで」、
3. .「あるかなきかに門さしこめて、待つこともなく明かし暮したる」
の三カ所に原因がある。これらに明快な解釈が施せないため、兼好が「あらまほし」と考えた人物の具体的な姿が見えてこず、後半の顕基説話との関連性、ひいては段全体をも曖昧にしてしまっている。

 そこで、本稿では前記の問題点に、従来とは違った視点から解釈を施し、この段での兼好の意図を明らかにしてみようと思う。

 なお、本稿で引用した『徒然草』の本文は、木藤才蔵校注、日本古典集成『徒然草』(参考文献L)、『発心集』は三木紀人
すみと校注、日本古典集成『方丈記 発心集』(参考文献M)によった。

 2 不幸に愁へに沈める人

 第五段冒頭は「不幸に」「愁へに」と原因・理由の格助詞「に」が連続する。その結果、「不幸に」が何にかかっているか曖昧になってしまっている。

 文脈から「不幸に」が下接する「愁へに」にかかっていないことは明白である。結局、「不幸に」を受ける語は「沈める」しかない。しかし、「沈む」は通常、「愁えに沈む」「悲しみに沈む」のように、心理状態を表す語と共に用いられる。

 「不幸」はその人の境遇、状況を表す語で、心理状態を表す語ではない。徒然草にも「顔回も不幸なりき(二百十一段)」の用例が見られる。短命で亡くなった孔子の弟子顔回の不運な境遇を「不幸」と表現している。したがって、「不幸に沈む」という表現は非常に特殊で、その結果、この部分では次のような、訳者の苦労の跡が窺える現代語訳が施されている
(色字、山村)

(a) 不幸のために悲嘆にくれている人が(参考文献A)
(b) 不幸によって悲嘆にくれている人が(参考文献B)
(c) ふしあわせにも深い憂悶に陥っている人が(参考文献C)
(d) 不幸のために、深いうれえに沈んでいる人が(参考文献D)
(e) 不幸にあって悲しみに沈んでいる人が(参考文献E)
(f) 運が悪く、そのために嘆きに沈んでいる人が(参考文献F)
(g) 不幸で悩んで落ちこんでる人間は(参考文献G)

 (a)(b)(d)の訳では、「不幸に」と「愁へに沈める人」とを原因・結果の関係で解釈しようとしている。しかし、「不幸」と「悲嘆にくれる(愁へに沈んでいる)」は因果関係では結べない。

1. 息子に死なれて不幸だ。
2. 息子に死なれて悲嘆にくれる。
3. 息子に死なれて不幸だから、悲嘆にくれる。

 一見して3.の日本語は不自然である。「不幸」と「悲嘆にくれる」は、各々「息子の死」による結果で、それを因果関係で結ぶことはできない。それで、(e)(g)訳のように動詞「あって」や「悩んで」が補われたり、(c)(f)のように「不幸」を避けて意訳されるなどしている。もし兼好自身がこの「不幸に愁へに沈める人」という文章を書いたのであれば、これは非常に特殊な用例と言っても過言ではない。

 この点に関し、明確な解釈を示したのが
池田亀鑑であった(1)。池田は、(以下、漢字のみ現代通行の字体に改めた)

 流布本には往々安易な「解釈」による恣意的な改竄やコンタミナツイオン(山村注〜混態)(2)がある。

と、検索に便利だからといって不用意に流布本を索引の底本にすることを批判した。そして、安易な解釈による本文の恣意的な改竄や混態の好例として、『徒然草』第五段を取り上げている。

 「ふかううれへにしづめる人の云々」の本文にしても流布本では「ふかう」を「不幸」の意にとり、正徹本の「に」の助詞を補つてコンタミートしてしまつたのである。実はそのために全然誤つた本文が作為され、そこから逆に助詞「に」の用法などと、まことしやかに論ぜられるに至つたのである。これは実は古写本系統、特に正徹本以前の古形を伝へる諸伝本の本文を採り、「深く(またはう)」と解すべきものであつて、「深う」を「不幸」としてはどうにもならないのである。

 これに対し高乗こうじょう勲は(3)

 「ふかう」とあれば「深く」の音便とみて、形容詞の連用形であり、「しづめる」にかゝる連用修飾語となり文法的にも、意味の上にも少しも無理なく解釈できるものである。たゞこの本文が正徹本の同類本だけであることは、これを直ちに原作の本文とするには躊躇されるのである。

と、池田説の合理性は認めながらも、直ちに本文を「深う」とするには慎重な姿勢を見せている(4)

 高乗は烏丸本を底本に、他の主要な『徒然草』26本を校合している(5)。それを見ると、烏丸本(流布本)系(6)の写本はすべて「不幸」と表記されている。古写本と言われる本のうち、常縁本系統は8本中3本、正徹本系統は4本すべてが仮名表記である。

 次に、これら7本の古写本に、大西善明の校合(7)、私に調査した京都府立総合資料館蔵本などから5本を加え、一覧にしてみた。

(a) ふかう 1.龍谷大学図書館蔵本(正)、2.陽明文庫蔵本(正)、3.宝玲文庫旧蔵本(正)、4.京都大学図書館蔵菊亭本(常)、5.竜門文庫蔵本(常)
(b) ふかふ 6.伝常縁筆本(常縁本)、7.浄教房所持本(常)
(c) ふかうに 8.静嘉堂文庫蔵本(正徹本)、9.神宮文庫蔵本(正)、10.京都府立総合資料館蔵本(幽)
(d) ふかく 11.八坂神社蔵本(幽)、12.静嘉堂文庫蔵松井簡治旧蔵本(幽)
※(正)は正徹本系統、(常)は常縁本系統、 (幽)は幽斎本系統を表す。

 この結果から、次の二点が確認できる。

(1)  永享3年(1431)書写という最古の写本正徹本を始め、兼好原形本にもっとも近いという説(8)もある室町期の写本伝常縁本、その他、同じく室町期の古写本である龍谷大学本、陽明文庫本、宝玲文庫旧蔵本などがみな仮名表記である。
(2)  烏丸本(流布本)系を除く、幽斎本系、常縁本系、正徹本系すべての系統の古写本に仮名表記が見られる。 正徹本、陽明本、伝常縁本を詳しく見ると、形容詞「深し」の用例17例(伝常縁本は18例)すべてが仮名表記である。「不幸」の用例は前述211段の1例のみだが漢字表記である。また、(d)の「ふかく」という表記もある。正徹本以下の古写本が、「ふかう」「ふかふ」を「不幸」の意で用いていない可能性は非常に高いと言えるだろう。

 現残する『徒然草』諸本で兼好自筆と言われる物はない。最古の写本正徹本でも兼好が活躍した時代から約百年ほど後の成立となる。一般に流布している烏丸本は慶長18年(1613)刊行だから、兼好の時代からは三百年ほど隔たっている。したがって、その本文が正しく兼好自筆の原本を伝えているかは、はなはだ疑問である。そのため、烏丸本を底本に用いた『徒然草』テキストも、本文に明白な誤謬がある場合は正徹本・常縁本などによって校訂されるのが常である。烏丸本の本文を絶対視する必要は全くないのである。

 以上、述べてきたことをまとめる。

(1) 「不幸に愁へに沈める人」という日本語は不審である。
(2) 流布本より成立年代の古い写本の多くが仮名表記である。
(3) 烏丸本(流布本)本文にも問題が多く、絶対とは言えない。
(4) 古写本系統の「ふかう」を形容詞「深し」の連用形「深く」のウ音便と解し、「深う愁へに沈める人」と解すると、全段が明瞭に理解できるようになる。

 以下、本稿では「深う愁えに沈める人」と断じた池田説をもとに、第五段を考察してみようと思う。

 3 「ふつつかに」とは

 兼好が「あらまほし」と思い描いた人物は、深く愁えに沈んでいるが、
1. .「ふつつかに」剃髪、出家などしないで、
2. .ひっそりと門を閉ざし籠居し、「待つこともなく」生活している
人であった。
 まず、深く愁えに沈んではいるが、「ふつつかに」剃髪、出家などしない人について、鴨長明『発心集』を参照しながら考えてみる。

 『発心集』が『徒然草』の出典の一つであったことは知られている。『徒然草』本文にも「鴨長明が四季物語」(百三十八段)という表現があるように、同じ歌人でもある長明が、常に兼好の意識下にあったことは否定できないだろう。

 福田秀一
ひでいちは、叙述や主張を強調し印象づけるために『徒然草』が引く例話や故事成句・格言等の出典として、和書では『発心集』を一番に注目している(9)。そして、第1第5・第8段など『今昔物語』にも見える話も、文章から見て、兼好が直接出典としたのは『発心集』であると推測した。しかし、その借用・受容は、

 素材や表現を豊富にして、その面で叙述や主張の強調という効果はあげているが、多くの場合、挿話・例話程度であって、兼好の立場や主張の根本を支えるものではない。

と断定している。
 本稿では、この福田の見解とはあえて反対に、「兼好の主張の根本」に『発心集』をすえてみようと思う。なぜなら、そうすることにより、第五段で兼好が「あらまほし」と見ていたものが、より明確に把握されるようになるからである。

 『発心集』第7−13には尾張国の富者の嫡子が発心し、重源の弟子になるという話がある。ここで、この男の発心のきっかけを聞き感動した重源
ちょうげんが、次のような賛辞を述べている(色字、山村)

此れ等に、弟子と名付けたる聖ひじり、その数侍れど、すずろに世を捨てたる人はなし。或いは主君のかしこまりを蒙かうぶり、或いは世のすぎがたき事をうれ、或いはかなしき妻におくれ、或いは司位しゐに付けて世をうらみなど、様々心にかなはぬを、其れをついでとしてのみこそ世を捨つる習ひにて侍れば、其の事忘れなん後は道心もいかがと危ふく侍るを、聞くがごとくならば、発心にこそ、仏も必ずあはれとかなしみ給ふらめ。いといとありがたき事なり……

 重源の語った一般的な出家の契機は、主君の怒りに触れての蟄居、生活苦、愛する人の死、不遇による厭世など、世俗的な憤懣、悲嘆という鬱屈した心情から発するものであった。しかし、このような道心は、やがてその激情がおさまるにつれ、自然と弱まる。

 ところが、この尾張の富者の嫡子は、家も豊かで何の煩いもないのに、「世の無常を思ふに、何事もよしなしと思ひ侍れば」と、純粋な無常観から「すずろに」出家を願い出た。そこに重源は感動している。これに『徒然草』第五段冒頭を重ね合わせてみたい。

 兼好は、「深う愁へに沈める人の、頭おろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで」と、悲嘆にくれている人が、その嘆きの深さゆえに出家を決意することを否定している。しかし、なぜそういう行動を否定するのか、その理由は述べていない。

 人が深く愁えに沈む要因は、前出の『発心集』にあったのと同じ挫折・貧困・死別・不遇などがあげられるだろう。このような世俗的な憤懣・悲嘆から、人が「ふつつかに」剃髪、出家など決心すること、その道心の持続性を重源は危惧した。『徒然草』で兼好が否定した理由も、そこにあると見ていいだろう。

 ここで兼好が否定した「ふつつか」な出家とは何であろうか。田辺爵つかさは「ふつつか」は難語であると言う(10)。そして、語釈に「不細工に」「さもしい心で」「深い思慮分別もなく」「麁忽
そこつに」「軽率に」「あさはかに」「一本調子に」「ぶっきらぼうに」「ぶこつに」「がむしゃらに」など、各人各説あることを紹介している。

 先の『発心集』では、「ふつつか」な出家の対極に「すずろ」な出家が挙げられていた。そこでまず、「すずろ」な出家を考察することにより、「ふつつか」な出家を解釈してみようと思う。

 「すずろ」は「そぞろ」「すぞろ」ともいう。「意識をはなれ、あるいは無視して、物事や心が進み、あるいは存在するさま。自覚がないままに事態や心が進むさま(11)」を表し、否定的にも肯定的にも使われ、非常に意味の広い言葉である(12)

 『発心集』の尾張の嫡子の話では、出家を賛美・肯定する意で使われているので、「自然と」「自ずから」「わけもなく」「一途に」という訳が適当かと思われる。重源は、家も豊かで出家を妨げるような妻子もない男が、ただ世の無常を思い、わけもなく一途に出家しようと心に決めた、それが純粋で尊いと感動した。

 この「すずろに世を捨てる」と同意で、『徒然草』(第一段)では「ひたふるの世捨人」という言葉が使われている。重源が「すずろ」な世捨人に対して「あはれ」と称賛したように、兼好も「ひたふる」の世捨人に対し「あらまほし」と賛辞を贈っている。
 こう捉えると、それと対極にある
「ふつつか」な出家とは、一時の憤懣・悲嘆という鬱屈した感情から発せられる、激情にかられての強引、狂信的、発作的な出家と解釈できるだろう。

 兼好は、社会的憤懣、人間関係での軋轢、人との別れなどで深く悲しみに沈んでいる人が、その鬱屈した感情の捌け口として、発作的に出家を志向するのではなく、門さしこめて、待つこともなく明かし暮らすことを「あらまほし」と見たのである。

 したがって、この段は田辺が指摘したような(13)、出家を望んでいるか否かが争点ではなく、出家に思い至る過程が問題であったと言えるだろう。『発心集』のように「ふつつか」か「すずろ」かを問題にすると、兼好は道心堅固で「すずろ」に出家を決意する「ひたふる」の世捨人を「あらまほし」と見ていたのである。

 4 兼好が「あらまほし」と思い描いた人

 兼好は鬱屈した感情の捌け口としての出家を否定し、その代わりに、「あるかなきかに門さしこめて、待つこともなく明かし暮」らすことを「あらまほし」と賞讃した。

 「あるかなきかに」は、「いるかいないかわからないように」という意味である。この語句は和歌でもよく使われている。『新編国歌大観
(CD−ROM版)』で「あるかなきかに(の・と)」を句検索すると、重複したものも含めると、214例検索できた。そのうち八代集には次の6首が収載されている(下線、山村)

(a) 『後撰和歌集』(巻第16、雑2、読み人知らず)
題しらず
あはれともうしともいはじかげろふの あるかなきかにけぬるよなれば(1191)
(b) 『後撰和歌集』(巻第18、雑4、読み人知らず)
題しらず
世中といひつるものかかげろふの あるかなきかのほどにぞ有りける(1264)
(c) 『拾遺和歌集』(巻第20、哀傷、紀貫之)
世の中心ぼそくおぼえてつねならぬ心地し侍りければ、公忠朝臣のもとによみてつかはしける、このあひだやまひおもくなりにけり
手に結ぶ水にやどれる月影の あるかなきかの世にこそありけれ(1322)
このうたよみ侍りてほどなくなくなりにけるとなん家の集にかきて侍る
(d) 『詞花和歌集』(巻第10、雑下、四条中宮)
心ちれいならずおぼされけるころよみ給ける
よそにみしをばながすゑのしら露は あるかなきかのわが身なりけり(355)
(e) 『新古今和歌集』(巻第13、恋歌3、藤原朝光)
女の許に、ものをだにいはむとてまかれりけるに、むなしくかへりて、あしたに
きえかへりあるかなきかのわが身かな うらみてかへるみちしばの露(1188)
(f) 『新古今和歌集』(巻第16、雑歌上、源経信)
家にて、月照水といへる心を、人人よみ侍りけるに
すむ人もあるかなきかのやどならし あしまの月のもるにまかせて(1530)

 (a)(b)(c)歌は、陽炎や手に掬った水の中の月といった、すぐに消えるはかない物にかけて、この世の無常を詠んでいる。(d)(e)歌では、尾花の先や道芝の露とあわせて詠み込み、生きているのかいないのか分からないほどの儚い我が身を表している。このように、「あるかなきか」という語句は、「はかない」「むなしい」という意で使われることが多い。しかし、『徒然草』第五段との関連から言うと、「住む人がいるかどうか分からないような住まい」という(f)歌の用法がもっとも近いだろう。

 第五段の「あるかなきかに」について、安良岡康作は『平家物語』(巻3、行隆の沙汰)の用例から、官を停められ、衣・食に窮し、「やっと生活し得るか、得ないかの、困窮した様子」を形容したものと解釈し、「見るかげもないありさまで」と訳した(参考文献C)。しかし、この解釈には強すぎるという批判もある(14)。ここは(f)歌と同様の用法と見るのが妥当だろう。

 「門さしこめて」は「門鎖し籠めて」である。門や扉を固く閉ざし、人と交わらず籠居することを意味する。第五段のように、人との交わりを断つことは、『発心集』も積極的に勧めている。

 『発心集』第1−5では増賀
ぞうが上人の話が紹介されている。増賀は「当時の僧が世に名をあげることを目的とする姿をみてこれを批判し、素衣を着、貴族の請いを拒むあまりの行動は、奇矯の僧とみられた(15)」人物である。この段で、長明は次のような感想を記している。

此の人のふるまひ、世の末には物狂ひとも云ひつべけれども、 境界きょうがい離れんための思ひばかりなれば、其れにつけても、ありがたきためしに云ひ置きけり。人にまじはる習ひ、高きに随ひて下さがれるを哀れむに付けても、身は他人の物となり、心は恩愛おんあいの為につかはる。是これ、此の世の苦しみのみに非あらず。出離の大きなるさはりなり。境界を離れんよりほかには、いかにしてか、乱れやすき心をしづめむ。

 俗世間では、人は上には服従し、下には同情しと、心身ともに己の自由にはならない。これが出離の大きな妨げとなっている。このような人間関係のしがらみ、人との交わりから離れることを長明は勧めている。

 『発心集』ではこの増賀以外にも、人との交わりを断って遁世した人の話が紹介されている。第6−12では、郁芳門院
いくほうもんいんの侍だった男が出家した後、「人に知られざらむ所に住まん志深く」、野山に住んだ話がある。そして、「いかに心すみけるぞ、うらやましくなむ」という感慨を、長明はもらしている。

 第6−13には、尼となり、深山で明け暮れ念仏をして暮らした上東門院の女房二人の話がある。彼女たちは人に見られた後、すぐその居を移し、姿を消してしまった。この二人の尼の道心の「おぼろけ」でないことに長明は、「命を仏にまかせ奉りて、清浄
しやうじやう不退の身を得ん事は、げに、心からによるべき行ひなり」と感嘆している。

 以上のように、長明は「生死
しやうじを離れて、とく浄土に生れん(『発心集』序)」ため、後世のため、人との交わりを断ち、心身を清浄にし、念仏を怠らない、そういう生活を称賛している。

 兼好も『徒然草』第一段で増賀のことに触れている。

増賀ひじりの言ひけんやうに、名聞みやうもんぐるしく、仏の御教にたがふらんとぞおぼゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。

 人と交わること、そしてそれに伴う名声を否定した増賀を兼好は、「ひたふるの世捨人」と呼び、「あらまほし」とあこがれている。その後の第五段でも、深く愁えに沈んだ人が、嘆きのあまりに出家するのでなく、門を固く閉ざし、人との交わりを断った生活を送ることを「あらまほし」と評している。

 兼好が賛美した、人と交わらず心清く暮らす生き方は、『発心集』第6−9にもある。

人の交はりを好まず、身のしづめるをも愁へず、花の咲き散るをあはれみ、月の出入いでいりを思ふに付けて、常に心を澄まして、世の濁りにしまぬを事とすれば、おのづから生滅しやうめつのことわりも顕あらはれ、名利みやうりの余執よしふつきぬべし。これ、出離解脱しゅつりげだつの門出かどでに侍るべし。

 これは「数寄すき」の本質について述べた部分である。「数寄」とは、人との交わりを避け、不遇な身上をも愁えず、花月に心を寄せ、常に心を清浄に保ち、俗念にとらわれない生き方のことである。こういう生き方こそ、名利への執心も消滅し、往生にもつながるという。

 『発心集』ではこのような人を「
数寄人」と言っている。『徒然草』では「数寄人」という言葉は使われず(16)、「世捨人」(一、二十段)や「道心者」(六十段)などが用いられている。しかし、長明、兼好とも、人に妨げられず、心身ともに清らかに後世の勤めに励む生き方という点では一致している。ことさらに相違を気にする必要はないだろう。

 兼好は『徒然草』第七十五段でも、人と交わらず、心静かに暮らすことを賛美している。

つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ

 世にしたがへば、心、外
ほかの塵ちりに奪はれて惑まどひやすく、人に交はれば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。人に戯たはぶれ、物に争ひ、一度ひとたびは恨み、一度は喜ぶ。そのこと定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失やむ時なし。惑ひの上に酔へり。酔ひの中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、人みなかくのごとし。

 いまだ、誠の道を知らずとも、
縁を離れて身を閑しづかにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活しやうくわつ・人事にんじ・伎能ぎのう・学問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止観まかしくわんにも侍れ。

 この段でも兼好は繰り返し人と交わらないことがいいと主張する。身を閑かにし、心を安くすること、こういう生き方を兼好は「あらまほし」と見ていたのである。

 『徒然草』第五段でも兼好は、深く愁えに沈んだ人が、その嘆きの深さゆえの鬱屈した気持ちから発作的に出家を望むのではなく、いるかいないか分からないよう固く門を閉ざし、人と交わらず、待つこともなく明け暮れ日を送る、そういう数寄人、あるいは世捨人のような生活を「あらまほし」と肯定したのである。なぜなら、そのように常に心を清浄に保ち、俗念にとらわれぬように努めれば、自然とこの世の無常がわかり、名声への執心も消え失せ、ひいては、それが来世での極楽往生につながるからである。

 5 「待つこともなく」とは

 兼好の憧れが世俗との交わりを断ち籠居することにあったのなら、「待つこともなく」の「待つ」は外からの来訪者と解することもできる(17)。ところが、「待つこともなく明かし暮らし」は、和歌の世界では、次のような使われ方をしていて注目させられる(18)

(a) 『金葉和歌集』(巻第4、冬部、源国信)
歳暮の心をよませ給ひける
なに事をまつとはなしにあけくれて ことしもけふになりにけるかな(304)
(b) 『続後撰和歌集』(巻第17、雑歌中、守覚法親王)
述懐心を
なに事をまつとはなしにながらへて をしからぬ身の年をふるかな(1190)
(c) 『住吉社歌合』(嘉応2年10月9日、、源季広) 
十五番 述懐 右勝
すみよしのまつことなくていたづらに としはつもりのうら みをぞする(130)
(d) 『続後撰和歌集』(巻第16、雑歌上、藤原行能)
おいをなげきてよみ侍りける
おほとものみつのまつ原まつ事の ありとはなしに老ぞかなしき(1029)
(e) 『散木奇歌集』(第1、春部、正月、源俊頼)
むつきのはつねの日、身のあやしさを思ひつづけてよめる
なに事をまつ身ともなきあやしさに はつねはくれどひく人もなし(22)
(f) 『詞花和歌集』(巻第2、夏、藤原忠兼)
関白前太政大臣の家にて郭公の歌おのおの十首づつよませ侍りけるによめる
ほととぎすなくねならではよのなかに まつこともなきわが身なりけり(56)
(g) 『新後拾遺和歌集』(巻第17、雑歌下、道雄法師)
題しらず
何事を待つとはなくてうつり行く 月日のままに世をやすぐさん(1409)


 (a)歌は、「何事を待つとはなしに明け暮れて」と、無為、徒いたずらに日を過ごしているうちに、気がつくともう歳末になっていた感慨を詠んでいる。この歌は、元来「堀川百首」に際して詠進された歌だが、『金葉集』以後、人口に膾炙したらしく、俊成『古来風体抄』、後鳥羽院「時代不同歌合」、平康頼『宝物集』などにも採られている。また、これ以後、「何事を待つとはなし」という表現が、その歳暮感の普遍性ゆえか、増加するという指摘もある(19)

 (a)歌のような、無為に過ぎた一年の感慨が、次の(b)(c)(d)歌では徒に過ぎた人生に対する老の述懐という形で詠まれている。
 (e)(f)歌は「何事を待つ身ともなき」「待つ事もなき我が身」と、人生に期待が持てない、身の不遇を嘆く心情を吐露している。

 以上、「待つこともなく」には、1.無為、徒に時間を過ごす、2.不遇の身に例える、という二つの用法が確認できる。そして、1.の無為、徒に時間を過ごすという用法が、さらに(g)のような出家者の歌になると、心静かに暮らす閑寂な時間の流れを表すようにもなってくる。

 兼好は二条派の和歌四天王とも称された当代きっての歌人である。また、「堀川百首」にも目を通していたことは、『徒然草』二十六段から確認できる。したがって、第五段で兼好が用いた「待つこともなく」の表現も、(a)歌以下の用法を踏まえていることは間違いないだろう。そういう前提で次の(h)歌(20)を見てみたい。

(h) 『玉葉和歌集』(巻第16、雑歌3、行円上人)
山家の心を
やまざとの心しづかにすみよきは とふ人もなし待つ事もなし(2216)

 この「訪ふ人もなし待つ事もなし」という山里での閑居生活は、訪問者もなく、世俗の雑事もないといった、自己を束縛するもののない自由閑寂の境地である。このような人との交わりを断った閑かな生活は、第五段で兼好が「あらまほし」と称賛した数寄人、世捨人のような生活とも軌を一にしている。

(i) 『兼好法師集』(21)
山里のすまゐもやうく年へぬることを
さびしさもならひにけりな山ざとに とひ来る人のいとはるゝまで(23)

 山里でも、後述する配所でも、兼好が望んでいたものは後世の妨げとなる訪問者や束縛するもののない生活であったのである。

 6 顕基登場の背景

 三木紀人すみとは、第五段の内容と顕基登場の関連性について、

顕基への兼好の共感は明らかだが、少しもそれが論理的に記されず、いきなり「さも覚えぬべし」と言われても、健康な読者は困ってしまうだろう。

と、困惑の言を隠さない(22)。確かに、従来の解釈だと、三木が、

本来まがまがしいことばだったはずの「配所」は悲壮美をたたえた魅惑的な目的地として変貌した。

述べた(23)ように、顕基説話の登場は、単に配所への憧れと捉えるしかなかった。

 これに対し、戸谷三都江は次のような解釈を示した(24).。

(1)  顕基説話は『続本朝往生伝』をはじめ、『撰集抄』『十訓抄』『古今著聞集』などにもあるが、『発心集』のみが、「いといみじきすき人」としての顕基を記し、すき人としての立場で「罪なくして、配所の月を見ん」と願ったと記している。
(2)  顕基自身も、『発心集』にその説話を伝えた長明も、白居易の『琵琶行』から、「罪なくしてみる配所の月」を想った。それゆえ、「いといみじきすき人にて、琵琶を弾きつゝ」という『発心集』独自の叙述もあり得た。
(3)  『白氏文集』を愛し(『徒然草』第十三段)、草庵の孤独の夜に、白居易と語る慰みをもった兼好も、顕基や長明と同じであったと考えられる。

 このような観点から戸谷は、「『発心集』以外には、顕基説話は兼好との関係を考えられにくい」と推定した。そして、第五段も『発心集』の顕基説話から、前段の「ひたふるの世捨人」と、後段の「数寄」とを結び、求道と風雅という「あらまほし」い隠遁を記したものだという見解を示した。

 戸谷も注目したように、『発心集』第5−8には、顕基の逸話が詳しく紹介されている。
(※引用の漢文は私に読みくだした。)
中納言顕基は大納言俊賢としかたの息、後一条の御門みかどに時めかし仕へ給ひて、わかうより司・位につけて恨みなかりけれど、心は此の世のさかえを好まず、深く仏道を願ひ、菩提ぼだいを望む思ひのみあり。つねのことくさには、彼の楽天の詩に、「古き墓、何いづれの世の人。知らず姓と名とを。化して路傍の土となりて。年々春草生ひたり」といふ事を口づけ給へり。いといみじきすき人にて、朝夕琵琶をひきつつ、「罪なくして罪をかうぶりて、配所の月を見ばや」となむ願はれける。…(後略)…

 ここでの顕基は、深く仏道を願い、朝夕琵琶を弾く「いといみじき数寄人」として評されている。

 琵琶を弾く数寄人を、戸谷は「風雅」として理解したようだが、『発心集』では次のような登場の仕方をしている。

大弍資通だいにのすけみちは、琵琶びはの上手なり。信明のぶあき、大納言経信つねのぶの師なり。彼の人、さらに尋常よのつねの後世 ごせの勤めをせず。只、日ごとに持仏堂ぢぶつだうに入りて、数をとらせつつ琵琶の曲をひきてぞ、極楽に廻向ゑかうしける。(第6−9)

 通常の仏道修行はせず、毎日琵琶を弾く数寄人、それがひいては極楽浄土への正行しょうぎょうとなる。顕基の場合も同様である。彼が口癖にしたという白楽天の詩句も一期いちごの無常を説いたもので、「深く仏道を願ひ、菩提を望む」顕基の心情を表している。したがって、『発心集』の朝夕琵琶を弾く顕基の姿も、戸谷が言うような彼の風雅ではなく、一途に後世を願う「ひたふるの世捨人」としての側面に焦点が当たっていると言えるだろう。

 配所とは、真に世間から閉ざされた空間である。そこに無実で閉じ込められている人は、まさに深く愁えに沈む人にほかならない。そんな境遇で、朝夕琵琶を弾きながら月を見たいと願った顕基。そこに兼好は前出『発心集』第6−9の、

月の出入いでいりを思ふに付けて、常に心を澄まして、世の濁りにしまぬを事とすれば、おのづから生滅のことわりも顕はれ、名利みやうりの余執つきぬべし。これ、出離解脱しゅつりげだつの門出に侍るべし。

という言葉を重ねてみたのだろう。

 
数寄こそまさに後世への門出、その時の兼好の感慨が、「さも覚えぬべし」という末尾の深い共感となって表れているのである。

 以上のような解釈は、次のような近世の古注釈でも指摘されている(参考文献B)

(1) .此ノ段ハ奥ニ閑カナラデハ行ジ難シトモ書ク。仏道ヲネガフハ別ノ事ナシ。暇アル身ニナリテ世ノ事ヲ心ニカケヌヲ第一トスルナリト、「一言」芳談ヲ抜キ書キタル所ナド思ヒ合ハスベシ。 
〔北村季吟『徒然草文段抄』、寛文7年(1667)刊〕
(2) 此ノ段ハ前後ニネガヒノ最上ハ是レナリト云ヒ留メナガラ其ノ仏道ノ縁ニヨリテ又、世捨人ノ中ニモ如レ此ノ違ヒアリト云ヒテ、イヨく初段ニ兼好ガネガヒヲ書キタル「ヒタフルノ世捨人コソ中々アラマホシケレ。」ノ意ヲ云ヒアラハセルモノナリ。
〔浅香山井『徒然草諸抄大成』、貞享5年(1688)刊〕

また、現代でも以下のような解説が見受けられる。

 この段は、第一段に書いた「ひたぶるの世捨人はなかなかあらまほしき方もありなん」に対応する文章である。兼好は、人として願わしいことの一つとして、ひたぶるの世捨て人を第一段ではあげたのであるが、それは猟官運動に狂奔する僧侶界の堕落ぶりに比べ、求道一途の世捨て人に聖者を感じたからにほかならぬ。…(中略)…
 〔冨倉徳次郎・貴志正造編『鑑賞日本古典文学第18巻 方丈記・徒然草』(1975年、角川書店)〕

 7 第四段との関連

 第五段での兼好の意図が、後世を願う数寄人、世捨人の望ましい生き方にあったとすると、伝常縁本の本文(25)が重要になってくる。

後の世の事心にわすれす仏の道にうとからぬ
心にくしふかふうれへに沈める人のかしらおろしなと
ふつつかにおもひ取たるにはあらて有かなきかに門さし
こめて待こともなくあかしくらしたるさる方にあ
らまほし顕基の中納言のいひけむ配所の月
つみなくてみむこともさもおほえぬへし

 これは伝常縁本の本文を、改行もそのまま、私に翻刻したものである。一見してわかるように、第四段と第五段が章段を分かたず連続して書かれている。このような本文は、常縁本系の浄教房本・菊亭本、それに、正徹本系の神宮文庫本などにも見られる(26)

 伝常縁本のような本文では、この段が「後の世の事」で起筆されることから、全体の主題として、後世を願う気持ちがいっそう明確になってきている。したがって、全体の構成も、

(1)  後世を願って仏道を疎かにしない生き方に心ひかれる。
(2)  深く悲しみに沈んだ人が、その鬱屈した心情の捌け口として、発作的に出家するのではなく、後世を願い、人との交わりを断ち、心身ともに閑寂の境地で過ごす生き方が理想的だ。
(3)  顕基の配所の月の話も、きっと、そういう後世を願って籠居することにあったのだろう。

ということになり、一貫性があって非常に明快である。

 『徒然草』が現行のように二百四十三段になるのは、貞享5年(1688)刊、浅香山井の『徒然草諸抄大成』からで、
現行の章段分けには兼好の意図は含まれていない。先述したように、『徒然草』の本文自体も諸本の校合が必要であったように、章段分けについても同様のことが言えるだろう。「後世を願う気持ち」で、第四段と第五段が括れるのであれば、この部分は伝常縁本のように、一つの章段として解釈した方がいいのではないだろうか。

 この後世を願う気持ちと閑寂な境地は、兼好にとって大きな比重を占めていた。『徒然草』第五十八段を見てみたい。

「道心だうしんあらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世ごせを願はんにかたかるべきかは」といふは、さらに後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死しやうじを出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家をかへりみる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、しづかならでは道は行じがたし。(後略)

 ここで兼好は、後世を願う者は、道心があっても家にいて他人と交わってはいけないと言う。心は「縁にひかれて移る」、すなわち環境に左右されるものだから、閑寂な環境でないと仏道修行は難しいものだと言っている。

 兼好と同様、後世を望んだのは顕基も同じである。
わかうより司・位につけて恨みなどなけれど、心は此の世のさかえを好まず、深く仏道を願ひ、菩提を望む思ひのみあり。
 『発心集』第5−8にある顕基は、後世を願う数寄人であった(27)。そして、常日頃「無実の身で流されて配所の月を見たいものだ」と願ったという。その心情に『徒然草』第五段で兼好は、「さも覚えぬべし」と大いに共鳴している。

 兼好は後世を願う理想の生き方として、『発心集』にあるような数寄人の生き方を念頭に置いていた。だからこそ、理想の数寄人として顕基の言葉に大きく心を動かされたのである。そして、その
兼好自身、世間から「和歌数寄者」(『園太暦』貞和2年閏9月6日)と呼ばれる人物でもあったのである。

 8 お わ り に

 これまで『徒然草』第五段は、兼好が「不遇な人はその不遇さを世間に見せつけず、ひっそりと生きているのがよいという意見」を開陳したものと見られてきた(28)。したがって、この段の訳も、以下のように、それに即した形で行われてきた。

(a)  不幸にあって悲しみに沈んでいる人が、剃髪などを軽率に決意したというわけではなくて、いるのかいないのかもわからぬほどひっそりと門を閉じて、何の期待もなく日々を送っているというような生活は、そんなふうでいたいという気持を持たされる。
 顕基中納言がいったとかいう「配所の月を、罪なき身で見たいものだ」ということは、実にそのとおりであろう。(参考文献E)
(b)  不幸で悩んで落ちこんでる人間は、剃髪なんかにうっかり走るんじゃなくて、「いるのかいないのか」っていう風に門を閉じっぱなしにして、待つあてなしで毎日を過ごしてるの──そんな風にしててほしいね。
 顕基中納言が言ったっていう「配所の月を無実で見たい」って、そんな事なんだろうなって思えちゃうんだな。(参考文献G)

 しかし、これらの訳からは、どうして不幸な境遇の人がひっそりと生きなければならないのか、その真の理由は見えてこない。

 そこで、本稿では、兼好が「あらまほし」と希求したものを、次のように考察し、解釈した。

(1)  「不幸に愁へに沈める人」の「不幸に」は、書写の過程で発生した誤記で、傍証から、この本文は「深う愁へに沈める人」と解されるべきである。
(2)  『発心集』や『徒然草』の他の章段、語句の和歌での用法をもとに分析すると、兼好が「あらまほし」と見たものは、深い嘆きから発作的に出家に走るのではなく、世俗との交わりを断ち、束縛されることのない、自由閑寂な境地で、一途に後世を願う数寄人、世捨人の生き方であった。
(3) 兼好が顕基の説話に覚えた共感も、数寄人としての顕基が願った、世俗との交わりを断ち、朝夕琵琶を弾きつつ心清らかに後世を願うところにあった。
(4)  この部分の主題が後世を願う理想的な生き方にあったのであれば、その本文も、伝常縁本のように第四、第五段を一連にした形式の方がより相応しいと言えるだろう。

 最後に、本稿での考察をもとに、第4・第五段をひとつの章段とした私訳を付しておく。

 後世を願って仏道を疎かにしない(数寄人、世捨人の)生き方には心ひかれるものだ。
 深く嘆き悲しんでいる人が、その鬱屈した心情の捌け口として、出家などを発作的に志向するのではなく、いるかいないか分からないくらいひっそりと固く扉を閉ざし、人との交わりをも断ち、束縛されることのない自由閑寂な境地で後世を願って日々を送る、そういう生き方が理想的だ。
 数寄人として有名な顕基中納言が言ったという、「配所の月を罪なき身で見たいものだ」ということも、きっとそういう、自由閑寂な境地で後世を願う気持ちを述べたのであろう。

参考文献
(A) 今泉忠義訳注、角川文庫『(新訂)徒然草』(1957年、角川書店)
(B) 三谷栄一・峯村文人『徒然草解釈大成』(1966年、岩崎書店)
(C) 安良岡康作『徒然草全注釈(上・下巻)』(1967・8年、角川書店)
(D) 川瀬一馬校注・現代語訳、講談社文庫『徒然草』(1971年、講談社)
(E) 三木紀人全訳注、講談社学術文庫『徒然草1)』(1979年、講談社)
(F) 久保田淳「徒然草評釈(11)〜(13)」(『國文學』1979年4〜6月号、學燈社)
(G) 橋本治『絵本徒然草』(1990年、河出書房新社)
(H) 田辺爵『徒然草諸注集成』(1962年、右文書院)
(I) 高乗勲『徒然草の研究』(1968年、自治日報社)
(J) 桑原博史『徒然草研究序説』(1976年、明治書院)
(K) 大西善明編『つれづれ草〜影印〜』(1977年、桜楓社)
(L) 木藤才蔵校注、日本古典集成『徒然草』(1977年、新潮社)
(M) 三木紀人校注、日本古典集成『方丈記 発心集』(1976年、新潮社)

   注  

(1) 池田亀鑑「源氏物語総索引はいかにあるべきか」(『国語と国文学』1951年9月)。
(2) (Contamination)混態とは従来の文献学に於いては本文の混合(Mixture)の意味に解釈せられてゐる。この混態といふ現象は「原型」(アルヘテイプス)から継続した系統によって派生した所謂「純粋な本文」ではなくして、他の系統線から人為的に持ちこまれて来た不純なる本文に見られる現象である。
〔池田亀鑑『古典の批判的処置に関する研究 第二部』(1941年、岩波書店)291頁「第13章 文献批判に於ける「混態」の意義」〕
(3) 高乗勲『徒然草の研究』(参考文献I)。
(4) 近世初期の古注でも「深う」と表記する異本を紹介しているが、次のように、根拠もなく否定されている。(参考文献H)。
1. 別本ニ、フカウウレヘニトアリ、深ノ字心也。ワルサウ也。〔秦宗巴『徒然草寿命院抄』、跋〕
2. 一本に、深の字を書り。不幸の字是か。〔林羅山『野槌』、元和7年(1621)序〕
(5) 高乗勲(参考文献I)。高乗は『徒然草』の写本・刊本合わせて71本を校合しているが、仮名・漢字の区別まで校合の対象にしたのは26本のみである。
(6) 『徒然草』諸本の分類、呼称は桑原博史が『徒然草研究序説』(参考文献J)で整理したものに統一した。
(7) 大西善明編『つれづれ草−影印−』(参考文献K)。
(8) 吉田幸一「常縁本つれぐ草私考」〔『つれづれ草 常縁本下巻』(1959年、古典文庫)〕を始め、村井順〔『つれづれ草 常縁本上巻』(1963年、古典文庫)〕、高乗勲(参考文献I)なども同様の見解を表明している。
(9) 福田秀一「徒然草の出典と源泉」〔『解釈と鑑賞』(1970年3月、至文堂)、『中世文学論考』(1975年、明治書院)にも再録〕。
(10) 田辺爵(参考文献H)。
(11) 『国語大辞典(新装版)』(1988年、小学館)。
(12) 『発心集』では他に、
1. あやしげなる法師の、「人や使ひ給ふ」とて、すぞろに入り来るありけり。(第1-2)
2. 何の往生の事も覚えず。すずろなる道に入りて侍るなり。(第3-8)
3. 道を踏みたがへて、…すずろに嶮しき谷・峰を迷ひありきける。(第4-1)
4. 海賊恐るべしとて、すずろに宝を捨つべきにあらず。(第4-9)
5. 我が身のとが思ひ知られて、…すずろはしき様におぼゆる…。(第5-2)
(※ 下線は山村が付した。)
 などの用例が見られる。1.〜3.は「突然」「思いがけない」という意で使われ、4.は「むやみやたらに」、5.は「そわそわ落ち着かない」という意味で用いられている。なお、本稿と類似の用法と思われるものに、次の『宇治拾遺物語』(101 信濃国聖事)がある。
(信濃の法師が)山の中にえもいはず行ひて過す程に、すゞろに、ちいさやかなる厨子仏を、行ひ出したり。
(13) 田辺爵(参考文献H)。
(14) 久保田淳〔「徒然草評釈12)」(参考文献F)
(15) 木内堯央〔『日本大百科全書(CD−ROM版)』(1998年、小学館)「増賀」の項目〕。
(16) 湯之上早苗〔「数寄と求道」(『文教国文学』11、1983年)〕は、『徒然草』に「すき」という言葉が使われていないことを指摘している。その理由として湯之上は、「すき」という自己充足的な行為を認めてしまっては、兼好自身の世界が成り立たないと考えている。しかし、本稿では『発心集』から、「すき」は後世を願い、心身を清浄に保つ行為の一形態と解する。したがって、たとえ兼好が「すき」という言葉を使っていなくても、「道心」(58、60段)などのような語が「すき」にかわって用いられていると見なせるだろう。
(17) 『兼好法師集』〔本文、歌番号は『新日本古典文学大系47中世和歌集室町篇』(1990年、岩波書店)〕に次のような歌が残されている。
人にしられじと思ふころ、ふるさと人の横川までたづねきて世の中のことどもいふ、いとうるさし
年ふればとひこぬ人もなかりけり 世のかくれがとおもふやまぢを(131)
 上歌で「人にしられじ」と、仏道修行の妨げとなる来訪者を厭い煩わしく思う兼好であった。しかし、やはり人恋しい心情は隠せず、次のような歌も残している。
されど、帰りぬるあといとさうぐし
山ざとはとはれぬよりもとふ人の 帰りてのちぞさびしかりける(132)
いかなる折にか、こひしき時もあり
あらし吹くみ山の庵のゆふぐれを ふるさと人は来てもとはなん(133)
山寺に念仏してゐたるに、都よりたづねくる人の中に、若き男のいとねんごろに物がたりして、「かゝる住まゐはいとたつきなしや」「なに事かしのびがたき」など問ふは、思ふ心ありてやとみゆるもあはれにて
山ざとにとひくる友もわきて猶 心をとむる人は見えけり(232)
山里のさびしげなるを
身をかくす山路のおくも住む人の 心はよそにしられぬるかな(240)
 人里離れた山里で、世俗との交わりを断ち、ひたすら仏道修行に励み、心の濁りを清浄にする、そういった生活の中での来訪者は、修行の妨げではあるが、反面待ち遠しいものでもある。第五段の籠居で「待つこともなく明し暮し」たのは、そういった親しい人々の来訪も念頭にあったのかもしれない。
(18) 『新編国歌大観(CD−ROM版)』で検索した他の用例は以下の通り。
1. 『拾遺愚草員外』(藤原定家)
詠百首和歌前大僧正御房四季題、鳥
なれをだにまつこともなし郭公 われ世の中にとのみうれへて(564)
『御裳濯和歌集』(巻第4、夏歌)
僧正慈円伊勢に百首歌たてまつりける   時、おなじき百首の歌の中に
なれをだにまつこともなしほととぎす われ世の中にとのみうれへて(204)
2. 『隆信集』(恋2、藤原隆信)
後法性寺殿百首に、あふてあはぬ恋
さりともとまつこともなくかなしきは あひみて後のつらさなりけり(516)
3. 『建礼門院右京大夫集』( 建礼門院右京大夫)
としどし、七夕にうたをよみてまゐらせしを、おもひいづるばかり、せうせうこれもかきつく
ひこぼしのゆきあひのそらをながめても まつこともなきわれぞかなしき(282)
4. 『水無瀬恋十五首歌合』(建仁2年9月十三夜、宮内卿)
二十七番 暮恋 左
いまこんとただなほざりのことのはを 待つとはなくて夕ぐれの空(53)
5. 『躬恒集』(凡河内躬恒)
をみなへしおほかるところにて
たなばたににたる花かなをみなへし あきよりほかにまつこともなく(280)
6. 『風情集』(藤原公重)
おもひをのぶ
いまはただわかきたのみもすぎはてて まつこともなき老ぞかなしき(390)
7. 『風情集』(藤原公重)
郭公
ほととぎすなくねならずはよの中に まつこともなき我が身とをしれ(408)
(19) 川村晃生・柏木由夫校注『新日本古典文学大系 金葉和歌集』(1989年、岩波書店)。
(20) 南部草寿『徒然草諺解』〔寛文9年(1669)刊〕にもこの歌が指摘されている(参考文献B)
(21) 『兼好法師集』は新日本古典文学大系『中世和歌集 室町篇』(1990年、岩波書店)から引用した。
(22) 三木紀人「配所」〔『國文學』(1973年7月号、學燈社)〕。
(23) 三木、前掲注(20)誌。
(24) 戸谷三都江「顕基の説話と『徒然草』(1)」(『学苑』第397号、1973年)。
(25) 『つれづれ草 常縁本上巻』(1963年、古典文庫)。
(26) 高乗勲(参考文献I)、大西善明(参考文献K)の校合参照。
(27) 戸谷〔前掲注(28)論文〕は、兼好が『発心集』に見える「数寄即仏道」という立場は採らなかったと考えている。また、本稿のように、数寄人と世捨人は後世を願う点で同一という見方もしていない。しかし、第五段前半を詳しく見たり、常縁本のように第四段と続けて考えたりすると、全体の主題は後世を願う生き方で統一できる。したがって、戸谷のように、第五段を前段(世捨人)と後段(数寄)に分け、「あらまほしい隠遁を記した」という見解には賛成でない。
(28) 久保田淳「徒然草を読む」〔『別冊國文学10徒然草必携』(1981年、學燈社)〕。
 安良岡康作(参考文献C)も、
官位昇進の望みを失った人の、困窮し、落魄した生活をとりあげ、特に、その「待つこともなく明し暮したる」生活を「さるかたにあらまほし」と感じ入っているのであって、世間的地位や栄達への願いから開放された、そういう意味での、心の束縛から超脱した自由な境涯に対する、兼好の憧れの表現とみるべきであろう。
というような解釈をしている。



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