★ 兼好の「あらまほし」と見ていたもの 〜『徒然草』第五段を読み解く〜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1 は じ め に | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『徒然草』第五段は、これまで不幸な状況下での籠居が、兼好にとって「あらまほし」い行為であったと理解されてきた。しかし、いかなる状況下であれ、不幸な人が悲しみに沈んでいるのを「あらまほし」、理想的と評するのは、どこか逆説的、冷笑的な感が拭えず、ここから作者兼好の「あらまほし」という積極的、肯定的な姿勢を読み取ることは難しい。 第五段を難解にしているのは、
そこで、本稿では前記の問題点に、従来とは違った視点から解釈を施し、この段での兼好の意図を明らかにしてみようと思う。 なお、本稿で引用した『徒然草』の本文は、木藤才蔵校注、日本古典集成『徒然草』(参考文献L)、『発心集』は三木紀人すみと校注、日本古典集成『方丈記 発心集』(参考文献M)によった。 |
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2 不幸に愁へに沈める人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第五段冒頭は「不幸に」「愁へに」と原因・理由の格助詞「に」が連続する。その結果、「不幸に」が何にかかっているか曖昧になってしまっている。 文脈から「不幸に」が下接する「愁へに」にかかっていないことは明白である。結局、「不幸に」を受ける語は「沈める」しかない。しかし、「沈む」は通常、「愁えに沈む」「悲しみに沈む」のように、心理状態を表す語と共に用いられる。 「不幸」はその人の境遇、状況を表す語で、心理状態を表す語ではない。徒然草にも「顔回も不幸なりき(二百十一段)」の用例が見られる。短命で亡くなった孔子の弟子顔回の不運な境遇を「不幸」と表現している。したがって、「不幸に沈む」という表現は非常に特殊で、その結果、この部分では次のような、訳者の苦労の跡が窺える現代語訳が施されている(色字、山村)。
(a)(b)(d)の訳では、「不幸に」と「愁へに沈める人」とを原因・結果の関係で解釈しようとしている。しかし、「不幸」と「悲嘆にくれる(愁へに沈んでいる)」は因果関係では結べない。
一見して3.の日本語は不自然である。「不幸」と「悲嘆にくれる」は、各々「息子の死」による結果で、それを因果関係で結ぶことはできない。それで、(e)(g)訳のように動詞「あって」や「悩んで」が補われたり、(c)(f)のように「不幸」を避けて意訳されるなどしている。もし兼好自身がこの「不幸に愁へに沈める人」という文章を書いたのであれば、これは非常に特殊な用例と言っても過言ではない。 この点に関し、明確な解釈を示したのが池田亀鑑であった(1)。池田は、(以下、漢字のみ現代通行の字体に改めた)
と、検索に便利だからといって不用意に流布本を索引の底本にすることを批判した。そして、安易な解釈による本文の恣意的な改竄や混態の好例として、『徒然草』第五段を取り上げている。
これに対し高乗こうじょう勲は(3)、
と、池田説の合理性は認めながらも、直ちに本文を「深う」とするには慎重な姿勢を見せている(4)。 高乗は烏丸本を底本に、他の主要な『徒然草』26本を校合している(5)。それを見ると、烏丸本(流布本)系(6)の写本はすべて「不幸」と表記されている。古写本と言われる本のうち、常縁本系統は8本中3本、正徹本系統は4本すべてが仮名表記である。 次に、これら7本の古写本に、大西善明の校合(7)、私に調査した京都府立総合資料館蔵本などから5本を加え、一覧にしてみた。
この結果から、次の二点が確認できる。
現残する『徒然草』諸本で兼好自筆と言われる物はない。最古の写本正徹本でも兼好が活躍した時代から約百年ほど後の成立となる。一般に流布している烏丸本は慶長18年(1613)刊行だから、兼好の時代からは三百年ほど隔たっている。したがって、その本文が正しく兼好自筆の原本を伝えているかは、はなはだ疑問である。そのため、烏丸本を底本に用いた『徒然草』テキストも、本文に明白な誤謬がある場合は正徹本・常縁本などによって校訂されるのが常である。烏丸本の本文を絶対視する必要は全くないのである。 以上、述べてきたことをまとめる。
以下、本稿では「深う愁えに沈める人」と断じた池田説をもとに、第五段を考察してみようと思う。 |
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3 「ふつつかに」とは | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
兼好が「あらまほし」と思い描いた人物は、深く愁えに沈んでいるが、
まず、深く愁えに沈んではいるが、「ふつつかに」剃髪、出家などしない人について、鴨長明『発心集』を参照しながら考えてみる。 『発心集』が『徒然草』の出典の一つであったことは知られている。『徒然草』本文にも「鴨長明が四季物語」(百三十八段)という表現があるように、同じ歌人でもある長明が、常に兼好の意識下にあったことは否定できないだろう。 福田秀一ひでいちは、叙述や主張を強調し印象づけるために『徒然草』が引く例話や故事成句・格言等の出典として、和書では『発心集』を一番に注目している(9)。そして、第1第5・第8段など『今昔物語』にも見える話も、文章から見て、兼好が直接出典としたのは『発心集』であると推測した。しかし、その借用・受容は、
と断定している。 本稿では、この福田の見解とはあえて反対に、「兼好の主張の根本」に『発心集』をすえてみようと思う。なぜなら、そうすることにより、第五段で兼好が「あらまほし」と見ていたものが、より明確に把握されるようになるからである。 『発心集』第7−13には尾張国の富者の嫡子が発心し、重源の弟子になるという話がある。ここで、この男の発心のきっかけを聞き感動した重源ちょうげんが、次のような賛辞を述べている(色字、山村)。
重源の語った一般的な出家の契機は、主君の怒りに触れての蟄居、生活苦、愛する人の死、不遇による厭世など、世俗的な憤懣、悲嘆という鬱屈した心情から発するものであった。しかし、このような道心は、やがてその激情がおさまるにつれ、自然と弱まる。 ところが、この尾張の富者の嫡子は、家も豊かで何の煩いもないのに、「世の無常を思ふに、何事もよしなしと思ひ侍れば」と、純粋な無常観から「すずろに」出家を願い出た。そこに重源は感動している。これに『徒然草』第五段冒頭を重ね合わせてみたい。 兼好は、「深う愁へに沈める人の、頭おろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで」と、悲嘆にくれている人が、その嘆きの深さゆえに出家を決意することを否定している。しかし、なぜそういう行動を否定するのか、その理由は述べていない。 人が深く愁えに沈む要因は、前出の『発心集』にあったのと同じ挫折・貧困・死別・不遇などがあげられるだろう。このような世俗的な憤懣・悲嘆から、人が「ふつつかに」剃髪、出家など決心すること、その道心の持続性を重源は危惧した。『徒然草』で兼好が否定した理由も、そこにあると見ていいだろう。 ここで兼好が否定した「ふつつか」な出家とは何であろうか。田辺爵つかさは「ふつつか」は難語であると言う(10)。そして、語釈に「不細工に」「さもしい心で」「深い思慮分別もなく」「麁忽そこつに」「軽率に」「あさはかに」「一本調子に」「ぶっきらぼうに」「ぶこつに」「がむしゃらに」など、各人各説あることを紹介している。 先の『発心集』では、「ふつつか」な出家の対極に「すずろ」な出家が挙げられていた。そこでまず、「すずろ」な出家を考察することにより、「ふつつか」な出家を解釈してみようと思う。 「すずろ」は「そぞろ」「すぞろ」ともいう。「意識をはなれ、あるいは無視して、物事や心が進み、あるいは存在するさま。自覚がないままに事態や心が進むさま(11)」を表し、否定的にも肯定的にも使われ、非常に意味の広い言葉である(12)。 『発心集』の尾張の嫡子の話では、出家を賛美・肯定する意で使われているので、「自然と」「自ずから」「わけもなく」「一途に」という訳が適当かと思われる。重源は、家も豊かで出家を妨げるような妻子もない男が、ただ世の無常を思い、わけもなく一途に出家しようと心に決めた、それが純粋で尊いと感動した。 この「すずろに世を捨てる」と同意で、『徒然草』(第一段)では「ひたふるの世捨人」という言葉が使われている。重源が「すずろ」な世捨人に対して「あはれ」と称賛したように、兼好も「ひたふる」の世捨人に対し「あらまほし」と賛辞を贈っている。 こう捉えると、それと対極にある「ふつつか」な出家とは、一時の憤懣・悲嘆という鬱屈した感情から発せられる、激情にかられての強引、狂信的、発作的な出家と解釈できるだろう。 兼好は、社会的憤懣、人間関係での軋轢、人との別れなどで深く悲しみに沈んでいる人が、その鬱屈した感情の捌け口として、発作的に出家を志向するのではなく、門さしこめて、待つこともなく明かし暮らすことを「あらまほし」と見たのである。 したがって、この段は田辺が指摘したような(13)、出家を望んでいるか否かが争点ではなく、出家に思い至る過程が問題であったと言えるだろう。『発心集』のように「ふつつか」か「すずろ」かを問題にすると、兼好は道心堅固で「すずろ」に出家を決意する「ひたふる」の世捨人を「あらまほし」と見ていたのである。 |
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4 兼好が「あらまほし」と思い描いた人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
兼好は鬱屈した感情の捌け口としての出家を否定し、その代わりに、「あるかなきかに門さしこめて、待つこともなく明かし暮」らすことを「あらまほし」と賞讃した。 「あるかなきかに」は、「いるかいないかわからないように」という意味である。この語句は和歌でもよく使われている。『新編国歌大観(CD−ROM版)』で「あるかなきかに(の・と)」を句検索すると、重複したものも含めると、214例検索できた。そのうち八代集には次の6首が収載されている(下線、山村)。
(a)(b)(c)歌は、陽炎や手に掬った水の中の月といった、すぐに消えるはかない物にかけて、この世の無常を詠んでいる。(d)(e)歌では、尾花の先や道芝の露とあわせて詠み込み、生きているのかいないのか分からないほどの儚い我が身を表している。このように、「あるかなきか」という語句は、「はかない」「むなしい」という意で使われることが多い。しかし、『徒然草』第五段との関連から言うと、「住む人がいるかどうか分からないような住まい」という(f)歌の用法がもっとも近いだろう。 第五段の「あるかなきかに」について、安良岡康作は『平家物語』(巻3、行隆の沙汰)の用例から、官を停められ、衣・食に窮し、「やっと生活し得るか、得ないかの、困窮した様子」を形容したものと解釈し、「見るかげもないありさまで」と訳した(参考文献C)。しかし、この解釈には強すぎるという批判もある(14)。ここは(f)歌と同様の用法と見るのが妥当だろう。 「門さしこめて」は「門鎖し籠めて」である。門や扉を固く閉ざし、人と交わらず籠居することを意味する。第五段のように、人との交わりを断つことは、『発心集』も積極的に勧めている。 『発心集』第1−5では増賀ぞうが上人の話が紹介されている。増賀は「当時の僧が世に名をあげることを目的とする姿をみてこれを批判し、素衣を着、貴族の請いを拒むあまりの行動は、奇矯の僧とみられた(15)」人物である。この段で、長明は次のような感想を記している。
俗世間では、人は上には服従し、下には同情しと、心身ともに己の自由にはならない。これが出離の大きな妨げとなっている。このような人間関係のしがらみ、人との交わりから離れることを長明は勧めている。 『発心集』ではこの増賀以外にも、人との交わりを断って遁世した人の話が紹介されている。第6−12では、郁芳門院いくほうもんいんの侍だった男が出家した後、「人に知られざらむ所に住まん志深く」、野山に住んだ話がある。そして、「いかに心すみけるぞ、うらやましくなむ」という感慨を、長明はもらしている。 第6−13には、尼となり、深山で明け暮れ念仏をして暮らした上東門院の女房二人の話がある。彼女たちは人に見られた後、すぐその居を移し、姿を消してしまった。この二人の尼の道心の「おぼろけ」でないことに長明は、「命を仏にまかせ奉りて、清浄しやうじやう不退の身を得ん事は、げに、心からによるべき行ひなり」と感嘆している。 以上のように、長明は「生死しやうじを離れて、とく浄土に生れん(『発心集』序)」ため、後世のため、人との交わりを断ち、心身を清浄にし、念仏を怠らない、そういう生活を称賛している。 兼好も『徒然草』第一段で増賀のことに触れている。
人と交わること、そしてそれに伴う名声を否定した増賀を兼好は、「ひたふるの世捨人」と呼び、「あらまほし」とあこがれている。その後の第五段でも、深く愁えに沈んだ人が、嘆きのあまりに出家するのでなく、門を固く閉ざし、人との交わりを断った生活を送ることを「あらまほし」と評している。 兼好が賛美した、人と交わらず心清く暮らす生き方は、『発心集』第6−9にもある。
これは「数寄すき」の本質について述べた部分である。「数寄」とは、人との交わりを避け、不遇な身上をも愁えず、花月に心を寄せ、常に心を清浄に保ち、俗念にとらわれない生き方のことである。こういう生き方こそ、名利への執心も消滅し、往生にもつながるという。 『発心集』ではこのような人を「数寄人」と言っている。『徒然草』では「数寄人」という言葉は使われず(16)、「世捨人」(一、二十段)や「道心者」(六十段)などが用いられている。しかし、長明、兼好とも、人に妨げられず、心身ともに清らかに後世の勤めに励む生き方という点では一致している。ことさらに相違を気にする必要はないだろう。 兼好は『徒然草』第七十五段でも、人と交わらず、心静かに暮らすことを賛美している。
この段でも兼好は繰り返し人と交わらないことがいいと主張する。身を閑かにし、心を安くすること、こういう生き方を兼好は「あらまほし」と見ていたのである。 『徒然草』第五段でも兼好は、深く愁えに沈んだ人が、その嘆きの深さゆえの鬱屈した気持ちから発作的に出家を望むのではなく、いるかいないか分からないよう固く門を閉ざし、人と交わらず、待つこともなく明け暮れ日を送る、そういう数寄人、あるいは世捨人のような生活を「あらまほし」と肯定したのである。なぜなら、そのように常に心を清浄に保ち、俗念にとらわれぬように努めれば、自然とこの世の無常がわかり、名声への執心も消え失せ、ひいては、それが来世での極楽往生につながるからである。 |
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5 「待つこともなく」とは | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
兼好の憧れが世俗との交わりを断ち籠居することにあったのなら、「待つこともなく」の「待つ」は外からの来訪者と解することもできる(17)。ところが、「待つこともなく明かし暮らし」は、和歌の世界では、次のような使われ方をしていて注目させられる(18)。
(a)歌は、「何事を待つとはなしに明け暮れて」と、無為、徒いたずらに日を過ごしているうちに、気がつくともう歳末になっていた感慨を詠んでいる。この歌は、元来「堀川百首」に際して詠進された歌だが、『金葉集』以後、人口に膾炙したらしく、俊成『古来風体抄』、後鳥羽院「時代不同歌合」、平康頼『宝物集』などにも採られている。また、これ以後、「何事を待つとはなし」という表現が、その歳暮感の普遍性ゆえか、増加するという指摘もある(19)。 (a)歌のような、無為に過ぎた一年の感慨が、次の(b)(c)(d)歌では徒に過ぎた人生に対する老の述懐という形で詠まれている。 (e)(f)歌は「何事を待つ身ともなき」「待つ事もなき我が身」と、人生に期待が持てない、身の不遇を嘆く心情を吐露している。 以上、「待つこともなく」には、1.無為、徒に時間を過ごす、2.不遇の身に例える、という二つの用法が確認できる。そして、1.の無為、徒に時間を過ごすという用法が、さらに(g)のような出家者の歌になると、心静かに暮らす閑寂な時間の流れを表すようにもなってくる。 兼好は二条派の和歌四天王とも称された当代きっての歌人である。また、「堀川百首」にも目を通していたことは、『徒然草』二十六段から確認できる。したがって、第五段で兼好が用いた「待つこともなく」の表現も、(a)歌以下の用法を踏まえていることは間違いないだろう。そういう前提で次の(h)歌(20)を見てみたい。
この「訪ふ人もなし待つ事もなし」という山里での閑居生活は、訪問者もなく、世俗の雑事もないといった、自己を束縛するもののない自由閑寂の境地である。このような人との交わりを断った閑かな生活は、第五段で兼好が「あらまほし」と称賛した数寄人、世捨人のような生活とも軌を一にしている。
山里でも、後述する配所でも、兼好が望んでいたものは後世の妨げとなる訪問者や束縛するもののない生活であったのである。 |
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6 顕基登場の背景 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三木紀人すみとは、第五段の内容と顕基登場の関連性について、
と、困惑の言を隠さない(22)。確かに、従来の解釈だと、三木が、
と述べた(23)ように、顕基説話の登場は、単に配所への憧れと捉えるしかなかった。 これに対し、戸谷三都江は次のような解釈を示した(24).。
このような観点から戸谷は、「『発心集』以外には、顕基説話は兼好との関係を考えられにくい」と推定した。そして、第五段も『発心集』の顕基説話から、前段の「ひたふるの世捨人」と、後段の「数寄」とを結び、求道と風雅という「あらまほし」い隠遁を記したものだという見解を示した。 戸谷も注目したように、『発心集』第5−8には、顕基の逸話が詳しく紹介されている。
ここでの顕基は、深く仏道を願い、朝夕琵琶を弾く「いといみじき数寄人」として評されている。 琵琶を弾く数寄人を、戸谷は「風雅」として理解したようだが、『発心集』では次のような登場の仕方をしている。
通常の仏道修行はせず、毎日琵琶を弾く数寄人、それがひいては極楽浄土への正行しょうぎょうとなる。顕基の場合も同様である。彼が口癖にしたという白楽天の詩句も一期いちごの無常を説いたもので、「深く仏道を願ひ、菩提を望む」顕基の心情を表している。したがって、『発心集』の朝夕琵琶を弾く顕基の姿も、戸谷が言うような彼の風雅ではなく、一途に後世を願う「ひたふるの世捨人」としての側面に焦点が当たっていると言えるだろう。 配所とは、真に世間から閉ざされた空間である。そこに無実で閉じ込められている人は、まさに深く愁えに沈む人にほかならない。そんな境遇で、朝夕琵琶を弾きながら月を見たいと願った顕基。そこに兼好は前出『発心集』第6−9の、
という言葉を重ねてみたのだろう。 数寄こそまさに後世への門出、その時の兼好の感慨が、「さも覚えぬべし」という末尾の深い共感となって表れているのである。 以上のような解釈は、次のような近世の古注釈でも指摘されている(参考文献B)。
また、現代でも以下のような解説が見受けられる。
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7 第四段との関連 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第五段での兼好の意図が、後世を願う数寄人、世捨人の望ましい生き方にあったとすると、伝常縁本の本文(25)が重要になってくる。
これは伝常縁本の本文を、改行もそのまま、私に翻刻したものである。一見してわかるように、第四段と第五段が章段を分かたず連続して書かれている。このような本文は、常縁本系の浄教房本・菊亭本、それに、正徹本系の神宮文庫本などにも見られる(26)。 伝常縁本のような本文では、この段が「後の世の事」で起筆されることから、全体の主題として、後世を願う気持ちがいっそう明確になってきている。したがって、全体の構成も、
ということになり、一貫性があって非常に明快である。 『徒然草』が現行のように二百四十三段になるのは、貞享5年(1688)刊、浅香山井の『徒然草諸抄大成』からで、現行の章段分けには兼好の意図は含まれていない。先述したように、『徒然草』の本文自体も諸本の校合が必要であったように、章段分けについても同様のことが言えるだろう。「後世を願う気持ち」で、第四段と第五段が括れるのであれば、この部分は伝常縁本のように、一つの章段として解釈した方がいいのではないだろうか。 この後世を願う気持ちと閑寂な境地は、兼好にとって大きな比重を占めていた。『徒然草』第五十八段を見てみたい。
ここで兼好は、後世を願う者は、道心があっても家にいて他人と交わってはいけないと言う。心は「縁にひかれて移る」、すなわち環境に左右されるものだから、閑寂な環境でないと仏道修行は難しいものだと言っている。 兼好と同様、後世を望んだのは顕基も同じである。
兼好は後世を願う理想の生き方として、『発心集』にあるような数寄人の生き方を念頭に置いていた。だからこそ、理想の数寄人として顕基の言葉に大きく心を動かされたのである。そして、その兼好自身、世間から「和歌数寄者」(『園太暦』貞和2年閏9月6日)と呼ばれる人物でもあったのである。 |
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8 お わ り に | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
これまで『徒然草』第五段は、兼好が「不遇な人はその不遇さを世間に見せつけず、ひっそりと生きているのがよいという意見」を開陳したものと見られてきた(28)。したがって、この段の訳も、以下のように、それに即した形で行われてきた。
しかし、これらの訳からは、どうして不幸な境遇の人がひっそりと生きなければならないのか、その真の理由は見えてこない。 そこで、本稿では、兼好が「あらまほし」と希求したものを、次のように考察し、解釈した。
最後に、本稿での考察をもとに、第4・第五段をひとつの章段とした私訳を付しておく。
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参考文献
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注 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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