.★第171号(2005年1月3日)〜365分の1〜

 子供の頃からへそ曲がりだった。皆が正月、正月と大騒ぎし、特別着飾ったりするのを横目に、努めてフツーの日と同じように振る舞おうとしていた。
 京都は大晦日の夜から雪が降り、今年の元旦は、大文字が白文字になっていた。とはいっても、交通に支障をきたすほどの雪でもなく、町は静かで、久しぶりにバスに乗って市内を走った。

 車窓から見る街並みは、昔とずいぶん違っていた。正月らしくないのだ。昔は、商店だけでなく、どこの家も正月のしめ飾りをしていたものだ。門松なんか立てる家も結構あった。晴れ着で初詣する女性は、日本髪を結っている人も大勢いた。また、商売している店なんてほとんどなかった。それが…。
 コンビニはもちろん、ケーキ屋なんかも、元旦から商売していた。晴れ着を来た人なんてめったにいないし、門松なんて見かけなかった。正月もただの、365分の1日になってしまったような気がして、つまらなかった。

 クリスマスは年々派手になるのに、正月はどんどん地味になってきている。いったいどうなってしまったんだニッポンは!と嘆息していたら、隣でやまむらさんが、「クリスマスの飾りは何回も使い回しできるけど、正月は一回だけやからね〜」とおっしゃった。
 いや〜、今年も正月早々、一本取られてしまいました。しかし、地味でも平和な正月が一番です。今年も、月刊になりつつありますが、週刊カナーをよろしくお願いします。読者の皆様方のご健勝とご多幸をお祈りしております。

第172号(2005年1月20日)〜本当の災害援助〜

 友人のROM君の店は、私にとっては中央市場だ。いつも新鮮なネタが豊富にある。といっても魚屋ではない。「表向き」は美術道具のお店で、店内には、器、美術品、絵画、家具…など、面白いものが一杯並んでいる。しかし、この店のすごいところは、頼めば「なんでも」できるネットワークの広さだ。

 すでに160〜1号「嵐の25日間」でも紹介したように、困った時のROM君頼みは私の常識である。彼にとっては、家のリフォームから雑誌の出版、イベントの企画・運営から司会までと、その活動はきりがない。

 時には店で意外なものが買えたりする。去年は折り畳み自転車を数千円で買うことができた。といっても、これは売り物ではなく、ROM君が個人的にパチンコで取ってきたものだったが。さらに、すごかったのが、うちの親父のお葬式だ。何もわからない僕の代りに、段取り一切をやってくれて、最後に葬儀社から料金の割引までしてもらえた。それがきっかけで、去年は2件、お葬式の手配をお願いしたが、不思議なことに、ROM君を通して相談すると、危篤の病人が回復するのだ。

 そんなROM君の店での楽しみは、お茶を飲みながらの世間話。スーパーのようにしょっちゅう客が来る店ではないので、ゆっくりと話題が豊富なROM君の話術が楽しめる。また、時々、いろんな面白い人との出会いもある。昨日もそうだった。
 店に来ていた電器屋さんがあの大津波で有名になったタイのプーケットに行くという。前々からツアーを計画していたそうだが、津波の影響で、一度は行き先をサイパン島に変えたそうだ。しかし、旅行社の不手際とか諸々の理由で、サイパンが嫌になり、タイに戻したらしい。

 何でも津波の被害にあったのは、海沿いの一部のホテルだけで、ほとんどのホテルは通常通り営業しているのだそうだ。しかも、パトンピーチなどは、津波の後、復旧工事が済んで、以前より綺麗になっているという。しかし、またよりによってこんな時期に行くなんて、「災害援助のボランティアでもするの。」なんて横合いからROM君が口を入れる。ところが、電器屋さんが言うのには、援助物資よりも、現地で生活する人々にとっては、観光客が戻ってくることが一番の「災害援助」になるのだそうだ。

 こういうちょっとした出会いがあるから、ROM君の店は面白い。去年、ある大学が「勝手に」、ROM君達の店がある夷川(えびすがわ)商店街の再開発計画を発表した。以前の活気を失いつつある家具の街夷川の再生計画ということなのか。その街づくりプランを見に行ったROM君は色を失った。彼の店のある場所が交流広場となっていたのだ。私には、今でもROM君の叫びが耳に残っている。
「人の店を勝手に潰すなー!」
 しかし、私にとっては、店があってもなくても、交流広場であることにかわりはない。

第173号(2005年1月29日)〜震災10年と余話〜

 阪神大震災から今年で10年。6433人の方が亡くなったが、その中には48人の中国の方も含まれている。夢と希望を持って日本で勉学に、仕事に励んでいた人達だったろう。震災10年を記念して、今年、その遺族を中国から招待するという企画が実現した。きっかけは毎日新聞神戸版だった。

 三宮で料理店を経営しているある中国人の方の、「震災で犠牲になった中国人留学生・就学生の両親を神戸に招き、息子や娘が亡くなるまでどんな暮らしをしていたかなどを説明したい。」という夢が紙面で紹介されるや、ある篤志家が112万5千円の寄付を申し出た。これを契機に、神戸の華僑総会や新聞社が中心となって「中国人留学生犠牲者の親を招く会」が発足し、400万円を超える金が集まった。

 ところが、お金は集まったが、遺族の来日にはもうひとつ大きな障害があった。来日ビザの問題だった。現在、日本から中国に行く場合、15日以内ならビザは不要だ。普通、こういった場合、同等の恩恵が中国人にも与えられるはずなのだが、日本政府は北京、上海などの一部の豊かな地域に居住する人々に限定してビザを認めているのだ。そのため、貧しい内陸部に住む遺族には来日ビザが発給されないという大きな壁があった。

 そこで色々な方が外務省に働きかけ、やっとのことで壁を乗り越えることが出来た。元中国大使でNPO副理事長である佐藤嘉恭氏が保証人になり、同氏の後輩で現中国大使の阿南惟茂氏が、「人道主義に関わる問題」という判断で、特命ビザを発給したのだという。

 来日された遺族の代表は、次のような挨拶をされたそうだ。「震災で子女が亡くなったことは永遠に癒えない苦しみですが、そのお陰で日本人の友情の深さを知ることが出来ました。今回我々が来日出来たのはこの企画をしてくれた方々、募金をしてくれた方々、全てがそうした日本人のお陰です。中国と日本は仲良くしなければなりませんが、それを実践している日本人と会うことが出来たので、子女の死は決して無駄にならなかった。子供達は生前きっと神戸で大変幸せに暮らしていたのだと確信を持つことが出来ました。」

 中国から震災遺族が来日したことは、テレビのニュースでちょっと見た記憶がある。しかし、こういう多くの方々の善意の結晶だったとは知らなかった。この話は、長年の友人であるアジア経済知識交流会の山本善徳君に教えてもらった。それをもとに、毎日新聞を参考にして書いた。

第174号(2005年2月9日)〜忘れられない笑顔〜

 カラムさんの奥さんからお手紙が来た。カラムさんはバングラディシュ人で塚口(兵庫県尼崎市)でアイシャというバングラディシュ料理店を経営していた。彼の43年の人生で、私は15年ほど前に、ほんの数か月日本語を教えただけなのに、以来ずっと会えば、「センセ、センセ」と優しい声と笑顔で話しかけてくれた。
 日本語学校では、彼は喋りは達者だったが、漢字はからきしダメだった。ある時、彼の教科書にびっしり平仮名で振り仮名が付けてあるのに気付いた。日本人の彼女が助けてくれるのだという。それが今の奥さん、ミネコさんだった。

 彼の店が大阪市内にあった時は、よく美味しいカレーを御馳走になった。小さいカウンターだけの店だったが、友人とよく出かけた。そんな私に彼は、一緒にインド料理の店をやらないかと誘ってくれたり、独身だったのを心配して、お見合いを世話してくれたり、何かと気にかけてくれた。その店が尼崎市内に移ると、なかなか行けなくなってしまった。それからは、毎年、「ぜひ来て下さい。」「今年は行きます!」と書く、年賀状の交換だけが続いた。

 去年の五月、ようやく店に行くことができた。阪急神戸線塚口駅から歩いて数分。小さいが、バングラディシュムード満点の店だった。初めて、隣の山村さんを彼に紹介し、あの美味しいカレーを御馳走になった。(洒落ではないが、)何でもナン(洋梨形のバングラディシュのパン)はカラムさん手作りの竃(かま)で焼いているとか。食後はいつも7種類のスパイスが入ったチャイ(バングラディシュ式ミルクティー)だ。隣の山村さんともども大満足だった。

 この時、カラムさんがあまり元気ではなさそうだったのが気になった。店の経営がうまくいかないのかなーと思っていたら、大量の薬袋を取り出した。なんでも昔から肝臓が悪く、ずっと大量の薬を服用しているのだという。その時は、「一病息災(いちびょうそくさい)」なんてことを言って気楽に励ましていた。

 その時、カラムさんからベンガル語(バングラディシュ公用語)と日本語で似ている言葉があることを教えてもらった。面白かったので、去年、書こうと思っていたのだが、あの「嵐の25日間」のせいで、書きそびれてしまった。
 例えば「ビチャビチャ」だ。水に濡れた時に使うこの言葉は、ベンガル語でも同じだと言う。一番面白かったのは、「長ソデ、半ソデ」だ。日本語でソデは、「袖」で、衣服の腕を覆う部分を指す。暑い時は半袖、寒い時は長袖を着る。しかし、ベンガル語にもソデという発音の語がある。意味は…。ちょっと書けない。英語ではSで始まる3文字の言葉だ。どうやら、この言葉がカラムさんの笑いのツボにはまったみたいで、彼は、「長ソデ」「半ソデ」と、何回も何回も笑いながら、楽しそうに言っていた。

 帰る時、わざわざ店を出て、前の道の角を曲がるまで付いて来て、見送ってくれた。その時の笑顔が彼との最後になってしまった。2004年10月30日、イスラム教徒の彼はアッラーのもとに逝ってしまった。遺体は奥さんの尽力で故国に運ばれ、500人もの人々に祈られて、埋葬されたという。その三日後には、会葬御礼として1000人分の料理が振る舞われたそうだ。

 奥さんからのお手紙には1枚の写真が添えられていた。「イスラム教徒にとって、死は終わりではなく、来世に向けての新たなる旅立ち」なのだそうだ。その旅立ちは綺麗な花に飾られていた。しかし、どことなく淋しいのは、彼の笑顔の写真がないからだろう。偶像崇拝禁止のイスラム教では故人の写真は飾らないのだそうだ。イスラム教徒に改宗したとは言え、日本人の奥さんには淋しいことだったのではないだろうか。

 カラムさんの葬儀でしばらく休業していたアイシャは12月に営業を再開した。その報を聞き、元日本語学校同僚のK先生と隣の山村さんと三人で店に行った。料理はカラムさんの弟さんが、以前と変わらぬ味を作ってくれていた。店の前にはカラムさん手作りのナン焼き竃があり、美味しいナンが焼かれていた。すべては前と何も変わっていなかった。カラムさんの笑顔がなかった以外は。

第175号(2005年2月16日)〜正しい歯の磨き方〜

 また間違えてしまった。前回送ったのは174号だったのだが、173で出してしまった。漢字の変換ミスなんかも、出した後で気がつくことが多い。いい加減で申し訳ないが、「いい加減」と言えば、誰もが毎日やっているのに、結構いい加減なことがある。歯磨きだ。私と比べて真面目な隣のやまむらさんは、毎日3回食後に歯磨き粉を一杯付けて、口中泡だらけにして磨いていた。そんなわけで結婚してから、歯磨き粉の減り方には驚いたものだ。

 大阪の方で非常勤で教えに行っている大学で、コミュニケーション演習というのを担当している。日本人学生と留学生が混ざったクラスで、毎年学生にいろいろ発表してもらうのだが、こちらの方が教えられることも多い。昨年末発表してくれたTさんは歯科衛生士の専門学校を卒業してから編入してきた学生だ。その彼女から「正しい歯の磨き方」を教えてもらった。

 鉛筆と同じように持って、45度の角度で、一本ずつ表裏、特に歯と歯茎の境目に注意して丁寧に磨くのが基本だ。ところで、皆さんは歯磨き粉をどのくらい付けるだろうか? 歯ブラシにたっぷり付ける人、半分くらいつける人、いろいろ千差万別だが、Tさんの話だと、「ぜんぜん付けないか、付けても米粒くらいが適量」だとか。

 当たり前のことだが、歯の汚れは、歯磨き粉の成分で落ちるわけではない。丁寧なブラッシングが肝心なのだ。しかし、たっぷりと歯磨き粉を付けてしまうと、すぐ泡だらけになったり、付けただけで磨けた気分になったりして、磨き方がおろそかになってしまう。また、歯磨き粉には研磨剤の成分も含まれているので、付けて磨きすぎると、逆に歯を削ってしまうことになりかねない。

 ちなみに私は昔歯医者から教えてもらって、初めに何も付けずに歯ブラシだけで磨いて、後で気持ちだけ歯磨き粉を付けて磨いている。一年に一回くらいは歯医者に行って、歯垢(しこう)も取ってもらっている。
 なんでも「歯が丈夫なら80歳まで健康で生きられる」そうだ。読者の皆さんも、もう手遅れの方もおられるかもしれないが、しっかり歯を磨いて、丈夫で長生きしてもらいたい。

 こんな話を帰ってからしたら、途端に歯磨き粉の減り方が少なくなった。しかし、当たり前のことだが、知らない人の方が多い。こんな情報こそテレビの生活番組で伝えるべきだと思うのだが、今日もテレビでは歯磨き粉をたっぷりつけたコマーシャルが流れている。

第176号(2005年3月6日)〜三月三日三人で…〜
 
 遅くなったが三月三日雛祭り、コバヤシ君誕生日おめでとう。彼のことは以前紹介したことがある。昭和33年3月3日に生まれて、平成3年3月3日に33歳になった男だ。しかし、もちろん広い世の中、こういう人は他にも入る。ちょっと前、フジテレビのバラエティ番組「トレビアの泉」でも紹介していた。ものまねタレントの栗田貫一さんもそうらしい。

 それはさておき、今年から三月三日の33にちなんで、三十三間堂 (さんじゅうさんげんどう)《場所》が無料開放されるとのことで、行ってきた。一緒に行ったのは、21年前に台湾でボランティア日本語教師をした仲間。一人はこの前の173号に登場した山本善徳君、もう一人はナカハラさん。昔は三人の歳を合わせて百にもいかなかったのに、いまではもうはるかに百を超えてしまっている。

 京都駅付近のホテルに集合し、昼食をとってから、散策がてら七条通りを歩いてお寺へ行った。到着すると2時半くらい。見ると左側に人だかりが…。どうやら建物から出てくる人を待っているらしい。実はこの日、瀬戸内寂聴さんせとうちじゃくちょう、徳島出身、作家・僧侶)が青空説法とか何とかでお話をされたらしい。待つこと十分、小柄な尼さんが出てきて車に乗るところを、人ごみの上に手を伸ばし、当てずっぽうでデジカメで撮った。見事!、先導している人が寂聴さんの顔を隠した瞬間を撮っていた。皆に大笑いされてしまったが、今日は何か大当たりしそうな予感。

 112mと横長の堂内には、大きな阿弥陀如来が千体の千手観音様を左右に引き連れ、東山の方を向いて並び、圧巻だった。ほとんどの人は気付いていないのだが、実は仏様たちの視線の先には、この三十三間堂を建立した後白河天皇のお墓がある。そう、この仏様たちは、もともとは後白河さんの極楽往生を願って作られたのだ。

 荘厳なお堂の中心には阿弥陀如来が鎮座まします。その指先からは五色の紐が伸びている。これをつかんで拝むと、もう極楽往生間違いなし、というわけだ。我々がその前に立ったのが、三時少し前。三時に合わせて、三人でお祈りした。別に、最初から狙っていたわけではないのだが、三月三日三時に三人で三十三間堂でお祈りをした。しかし、残念なことに十円玉も一円玉もなく、お賽銭は33円とはいかなかった。残念!

 別に極楽往生を願う年でもないとは思うが、コバヤシ君、来年は年男ですね。私は今年が年男。それで考えたのだが、次の年男って……、カンレキだーーっ。やはり極楽往生をお願いしておこう。

この後、河井寛次郎記念館にも行きました。その話は次回。今回の散策の模様はアルバムページにして、やまむら互福店の裏ページ(リンクをはってないので、通常のページからは入れないページという意味ですが…)に上げてあります。よければご笑覧下さい。http://www.geocities.jp/yam0701/333

第177号(2005年3月9日)〜春風〜

 今朝は6時50分に目覚めた。最初に目覚ましがわりの携帯の振動音。いつもはまだそれだけでは起きないのだが、今朝は違った。鶯が鳴きだしたのだ。今日は大学時代の恩師の退職記念パーティーの日だ。天気で良かった。

 先週末、後輩と会った。私のHPを最初に立ち上げてくれたタマブリ氏だ。久しぶりの四方山話(よもやまばなし)の中で、話題はこの「週刊かなー」のことに。最近、長くなってきたというコメントを頂戴した。確かに、昔は短かった。しかし、「週刊」が「週刊?」になったぐらいから、「次はいつ書くかわからないから、書ける時にかいておけ」というふうに、だらしなくなってしまった。少し反省。ということで、前回の三月三日の話は、半分で止めてしまった。今回は、その続き。今回も長くなりそう…(全然反省してないなあ)

 「井の中の蛙(かわず)大海を知らず。されど天を知る。」私の好きな言葉の一つだ。陶芸家河井寛次郎かわいかんじろう/1890-1966)の言葉だ。陶芸のことはさっぱり分からないが、この言葉から人間河井寛次郎が好きになった。その寛次郎記念館が東山五条にある。前回の三十三間堂からぶらぶら歩くと15〜20分で行ける距離だ。散策がてら狭い路地を行くと、坂を登った正面に、京町家風の記念館があった。

 玄関で入場料900円を見た時、寛次郎のことを全然知らない友人たちは、ちょっと止まってしまった。いちおう念を押して(脅迫ではなく)、扉を開けた。受付で入場料を払っていると、中から「やまむらくん!」という声。実は、ここの学芸員をしている鷺(さぎ)さんとは同級生なのだ。もっとも私が知っている名前は河井さんだった。当時は寛次郎のことも、まして彼女がその孫娘だなんて全然知らなかった。迷惑をかけないようにお忍びで行ったつもりが、見つかってしまった。「案内しましょうか。」という言葉を頂き、結局、すっかり鷺さんのご好意に甘えることになってしまった。多謝。

 この記念館は寛次郎自身がデザインし、1937年から亡くなるまでの30年間、仕事場として、生活の場として暮らした家で、彼の思想がつまった、まさに記念館だ。ここでは単に展示物を見るだけではなく、実際に寛次郎が使っていた椅子に座り、机に触れることもでき、寛次郎が体感できる場所でもある。

 案内してくれた鷺さんが、「寛次郎の机の横のこの一畳ほどのスペースに、昔、同級生のタルモトさんが泊まりに来て、よく布団を敷いて寝ていました。」なんて説明してくれると、もっと早くオトモダチになっていたら、と残念至極だった。(でも女の子でなければダメかなあ。)

 寛次郎の家の奥には作業場があり、その裏には大きな登り窯がある。今は京都市の規制があって使えないそうだが、中に入ってみることもできる。鷺さんの子供時分は、大勢の職人さんが忙しそうに働いていたそうだ。三月とはいえ、まだまだ寒い窯場は、「兵(つわもの)どもが夢の跡」という風情で、どこか寂しげだった。

 鷺さん本当にありがとうございました。神社やお寺だけが京都だと思っている方がおられたら、ぜひこの記念館は訪ねて欲しい。「この世は自分をさがしに来たところ/この世は自分を見に来たところ/どんな自分が見付かるか自分」という寛次郎の言葉がある。ここに来ると寛次郎を見つけることができる。

 余談だが、実は記念館で一番気になったのが、二階にあったガラスケースだ。ここは寛次郎の養嗣子で鷺さんのお父さま河井博次さん(1919〜1994)の作品展示コーナーだ。私にはそこから家族愛という春風が感じられた。
*参考〜http://hcn.plala.or.jp/fc211/sagi/
*インタビュー〜http://www.ja-shimane.gr.jp/inter_sagi.htm

第178号(2005年3月18日)〜一期一会に続く言葉〜

 前回、「井の中の蛙(かわず)大海を知らず。されど天を知る。」という河井寛次郎(かわいかんじろう)の言葉を紹介した。その出典を調べてみたのだが、よく分からない。ネットで検索すると、『霜山徳爾著作集6(学樹書院)』というのが出てきた。

 霜山徳爾しもやまとくじ/1919〜 )氏は上智大学名誉教授で心理療法家だという。その「多愁多恨亦悠悠(たしゅうたこんまたゆうゆう)」に河井の言葉は紹介されていた。

 作品に銘刻もしない民芸的な名品をつくり出した人として知られる河井寛次郎には、それだけ敵も多かった。ある時、某批判家から「井の中の蛙 大海を知らず」と評され、また「茶道には向かない」と批判されたそうだ。その時、河井は「されど井の中の蛙 天を知る」と答えたという。そしてまた、「草に非(あら)ず、人に非ず、木に非ず」と答えたそうだ。これは「茶」という字にかけて、硬直化した茶道の形式主義を批判したのだという。

 霜山はこのようなエピソードを紹介しているが、残念ながら、その出所は記していない。この「多愁多恨亦悠悠」は「学生用の心理療法の訓練問答集」ということらしいが、ここには教養と言われる知識がびっしりと詰まっていて面白い。

 霜山は問う。鈴木大拙すずきだいせつ・仏教哲学者/1870〜1966)の言葉、「禅はどうしても悲の面が欠ける」はどのような意味か。

 悲とは慈悲のことで、禅の修行に熱中する人は、しばしば修行者自身の悟りが自己目的となり、禅が結局は衆生を済度するために奉仕するものであることが、忘れさられていることを歎いた言葉だという。研究に没頭するあまり、教育を疎かにしている、どこかの先生に知って欲しい言葉だ。

 あるいはこんな問いもある。有名な「一期一会(いちごいちえ)」には、もう四文字の対句があるが、その心理臨床的な意味とは。

 「一期一会」とは、もともと茶道の精神で、亭主と客との出会いは真剣なものであり、この世においてもう二度と出会うことがないほど真摯(しんし)なものであることを表すが、それを顔に出さず心に秘めて、穏やかに暖かく客と接することをいうそうだ。これに続く対句は「独座観念(どくざかんねん)」というらしい。

 茶事が済み、客が帰った後も、亭主はひとり茶室に座して、今去った客のこと、茶事のことを深く考え、お茶を一服(いっぷく)(た)てるのだという。これが「独座観念」だ。霜山はこれは心理臨床でも同様のことが言えると説く。

 患者が帰りかけても、すぐマイクをとって次の患者を呼ぶのではなく、今、帰りかけている患者を静かに見送り、しばしでもその患者のことを考えなければならないと言う。なぜなら、患者の背中も実に多くのことを語っているのだそうだ。

 霜山は書いていないが、この「一期一会 独座観念」は、あの桜田門外の変で暗殺された大老(たいろう)井伊直弼いいなおすけ/1815〜1860)の言葉だ。彼の書いた『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』に載っている。

 三月は、学年の移り変わりの時期。私も「一期一会 独座観念」、この一年間に教えた学生たちとの出会いをかみしめ、一人静かにパソコンに向かっているのです。

第179号(2005年3月26日)〜ニュービジネス〜

 もうすぐ四月だというのに急に冷え込んできた。今日の京都は雪がちらほら。おかげでこの間まで美声を披露してくれていた鶯くんも、どこかへ消えてしまった。さて、今日は、最近行きだした散髪屋さんの話。
 恩師の退職パーティーに備えて散髪屋へ行ったのだが、入口で唖然
(あぜん)としてしまった。かば様がずらりと並んでいるのだ。
この「週刊?」は中国で日本語勉強している学生さんも読んでくれているそうなので、一言。「かば様」という語は辞書にはありません。私が今つくったものです。意味は、母(かあ)様と婆(ばあ)様を足したもので、動物のカバではないのでご注意を。
    
 入ろうか、入るまいか、悩んで、二、三歩後ずさりしたら、「あっ、やまむらや」という野太い声が。見ると、3月3日のコバヤシ君が子供さんを連れて立っていた。「また書いてくれてありがとう。」御礼を言われたので、またまた書いてしまった。どうやら彼も散髪に来たらしい。しかし、さすがに図太いコバヤシ君も、中高年の女性がズラーッと待っている散髪屋には入れなかったという。 

 しかし、そんなことも言ってられない。「ここはサンパツヤだ!」と、意を決して入場した。でも、よく考えたら、これだけ女性が来るというのは、値段のことを考えたらお得なお店だからだろう。

 この散髪屋は、最近、日本中で増えてきているQBハウスという店だ。96年11月に東京神田に1号店がオープンしてから、今や280店を超え、海外進出も始めたそうだ。QBとはクイックバーバー
(快速散髪)の略で、その名の通り、10分千円という早さと安さを売りにしている。

 1998年度ニュービジネス大賞を受賞したというその経営方針は合理的だ。余計なものは一切はぶいている。ナイナイづくしなのだ。まず、店員はお金を一切扱わない。客は入口の自動販売機でチケットを買うが、この機械は釣り銭が出ない。チケットは順番のためではない。そこに印刷された番号を入力しなければ散髪の機械が動かない仕組みになっている。だから、客がチケットを買ってから散髪をスタートするまでの待ち時間までも、遠く離れた本部で把握できるシステムになっているという。

 この店には、雑誌も新聞もない。トイレもない。散髪をしてもシャンプーをしない。髭剃りもしないし、顔を拭くタオルもない。カットした後は、掃除機のようなもので切った毛を吸い取ってくれる。初めは面食らったが、慣れると快適だ。

 お洒落より実用という人には本当にありがたいお店だ。けれども周辺の散髪屋にとっては大変な脅威だろう。席は3台ぐらいしかないが、一人が1時間に5人カットするとして15人。大規模な店が進出してきたのと同じだ。だが、よく考えると、脅威に感じるのは美容室も同じだ。私の行く、ショッピングセンター内にある店では3割が女性客だという。

 もともと、日本では理容師法、美容師法というものがあり、美容師は顔そりをすることができず、理容師はパーマだけをかけることはできないという。理容は男性、美容は女性という区別は、過去には厳然とあったが、最近はあまり関係ない。そういう状況下で、このQBハウスのような店ができると、理容室なのか美容室なのか、そういった区別が無用なことは明らかだ。時代が変わってきているのだ。

 どこまでQBハウスが伸びるのか、いつまで髪の毛があるのか同様、気になる気になる。
※QBハウス(http://www.qbhouse.co.jp/index.html

第180号(2005年4月5日)〜わからない〜

 昔、ある留学生に聞かれて困ったことがある。日本では、どうして学生でも、学生証だけでお金を貸してくれるのですか?

 3月31日の朝刊に、朝日新聞が消費者金融(サラ金)大手の武富士から「編集協力費」名目で5000万円を受け取り、週刊朝日にタイアップ記事を連載しながら、武富士の名前を明記しなかったことが採り上げられていた。週刊文春のスクープらしいが、その雑誌広告を朝日新聞は一部黒塗りにして掲載したらしい。

 週刊文春は「広告費以外で資金提供を編集部が受けることは報道機関として許されない。朝日新聞社にはその自覚が皆無であり、ブラックジャーナリズムと言わざるを得ない。自社に都合の悪い事実の掲載を拒否する姿勢は言論の自由、表現の自由の封殺につながりかねない」と批判したそうだ。

 5千万でも1億でも、広告費として貰えば問題はなかったのだろうか。問題はそんな形式的なものではないだろう。金さえ貰えるなら、どんな会社でも構わないというマスコミの姿勢は、マスメディアとしての公共性も中立性も、プライドさえも感じられない。

 これは放送局も同じだ。たとえば、毎回、学校を舞台にいろいろな社会問題が扱われ、大きな反響を呼んでいる人気シリーズ「3年B組金八先生」も気になる。この3月まで放送された第7シリーズでは麻薬問題が採り上げられていた。しかし、このドラマでサラ金の問題が扱われることはないだろう。スポンサーに2社も名前を連ねているからだ。

 2004年度の自己破産者数は21万1402件、03年度は24万2373件もの人が個人破産を申し立てたそうだ。現代の日本は、一日5〜6百人もの人が破産している国なのだ。それだけではない、破産予備軍とも言うべき多重債務者は200万人以上とも言われている。

 お金は借りて返さないのが、もちろん悪い。しかし、信用できない人間に貸す会社もどうかしている。しかし、なぜ?
              
 学生に聞かれても、私にはわからない。

 わからないので、参考になるHPをご紹介する。ただ、以下の二つのサイトは、お忙しい方は見ないように。ついつい続けて読んでしまうほど面白い。
※(参考1) マスコミに関しては、「ポチは見た!〜マスコミの嘘と裏〜」というサイトが面白い。マスコミ業界で働くご主人を持つポチという犬が書いたページで、「このサイトに書かれている内容はすべてフィクションだワン。ポチ(駄犬)が見た世の中の勝手な妄想を描いているだけで、書かれている内容の真偽等について、ご主人様やサイト管理者は全く関知できないのだワン。登場する固有名詞も実在の個人・団体とはいっさい関係がないワン。」ということだが、面白くて一気に読んでしまった。

「さわやかサラ金CMにだまされるな!」とか、
「誰も愛知万博を批判しないのはなぜ?」とか、
このポチ君、なかなかの情報通で、分析力、文章力ともに素晴らしい。お時間のある方は、
「なぜ「あの国」の名前がマスコミに登場しないのか?」
をご覧になると、雑誌『マルコポーロ』が廃刊になった理由がわかる。
※(参考2) サラ金に関しては、元サラ金社員が書くブログ「サラ金日記」
が面白い。業界の裏ネタが満載だ。たとえば、長期延滞客から法的回収をする場合。「訴訟をするか、支払督促をするか。これは支払督促をオススメする。何故なら、訴訟を起こすなら利率は18%で計算する必要がある。しかし支払い督促の場合、異議さえ出なければ29.2%でも申立てできる。こんなおいしい手続きはない。法律の手落ちだ。」なんてことが書いてある。

 この法律の手落ちとは、利息制限法で上限金利は、元本が十万円未満では年利20%、十万円以上百万円未満では18%、百万円以上では15%と決められているのに、この法律には罰則規定がないことを指す。だから、サラ金は罰則を定めている出資法(出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律)の制限金利である年29・2%を目安に貸し付けている。だから、訴訟になると利率を計算し直さなければならなくなるのだ。

 サラ金で倒産したなんて話を聞かないから、結構儲かっているのかと思うのだが、「サラ金日記」によると、ほとんどの業者が大手の傘下になり、その大手も銀行や外資の資本に組み込まれているとか。

世の中、わからんことだらけだ。

第181号(2005年4月18日)〜はじめまして〜

 毎年、四月は新しい出会いが待っている。私が教えている京都にあるドイツの大学でも、今春15名の学生がやってきた。彼らは、学習歴半年のまだまだ初心者だ。そのクラス分け面接テストの時のことだ。部屋に入ってきた学生に、右手で椅子を示し、「どうぞ、座って下さい。」とやっていたら、ある学生が、「どうぞ」と同時に右手を出してきた。握手と勘違いしたらしい。 お互い、顔を見合わせて、「……」、ニヤッ。

 この時、昔、友人のデビットから聞いた話が実感できた。彼がスイスから日本に来たばかりの頃、知らない人が自分の前を通る時、右手を前に出してくるので、握手と勘違いし、つい手を出してしまったという話だ。

 ドイツから来た学生たちは異国で異文化を大いに楽しんでいるようだ。別の学生は、先日、大阪に行って、初めてタコヤキを体験したそうだ。爪楊枝(つまようじ)が上手に使えず、ポロポロ落っこちるので、ブスッと刺して、一気に口の中に放り込んだら、「アツイ!アツイ!」。痛かった〜と泣いていた。

 こういう初心者の学生を教えるのは楽しい。例えば、クラス全員が「びっくりする」という言葉を知らなかったら、もうワクワクする。「そうですか。今から教えます。びっくりするというのは……」で、いきなり「ワーッ」と驚かす。もちろん冗談が通じそうな男性に向かってしかしないが。

 「ニホンゴはむずかしいです。でも、とてもオモシロイです。」そう言ってくれる学生のために、今日も「ワーッ」と、やってやろう。

 ちなみに、握手事件のあと、面接では「左手」を出して、「座って下さい。」と言うようにした。念のためだが。

第182号(2005年5月2日)〜背中で感じて欲しかった〜

 人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして…。まさか、結婚式でよく話されるスピーチだが、鉄道にも三つの坂があったとは。

 4月25日午前9時18分兵庫県尼崎市のJR福知山線で、宝塚発同志社前行の快速電車が転覆脱線し、線路沿いのマンションに激突、107名の方が亡くなった。

 28日は大阪産業大学で仕事があった。大産大でも2名の学生が犠牲になった。昼休み、追悼集会があり、学長が涙まじりに哀悼の辞を述べ、全員で1分間黙祷した。なんともやりきれない1分間だった。同じく仕事をしている同志社大学でも3名の学生が亡くなったという。希望を抱き、将来の夢を膨らませていた学生たちが、こういう形で、突然命を落とすのは酷すぎる。

 事故は当初、車と衝突という報道もあった。そのせいで被害マンションの住人が警察の事情聴取を受けたとか。その後、置き石説も出たが、すぐ否定され、23歳運転手に責任の矛先が向きそうになった。昨年六月100mもオーバーランし、車掌時代も含め5年で3回も処分されたという発表があった時、なんでこんな人間に運転させるのか、怒りがわいた。

 しかし、その直後、同僚がインタビューで、「人づきあいのいい、真面目な子やった」と言っていた。学生時代のバイト先でも評判のいい人だったという。真面目で一生懸命努力し、皆から好かれる人が、精神的にも肉体的にも正常で、その職務を精一杯遂行しようとして起こした事故なら、その責任は個人にだけ向けられるべきではない。

 事故の原因は確定されていないが、今のところ半径300mの急カーブに100キロ超のスピードで侵入した速度超過が一番の原因らしい。そのきっかけは直前の伊丹駅で40m(実際は70m近いという報道もある)オーバーランしたことによる遅れを取り戻そうとしたためと見られている。しかし、伊丹到着時に、すでに30秒遅れていたとか。

 そもそも宝塚線は乗客数に見合ったダイヤが組まれておらず、駅での乗降時間だけで遅れが出るという。わずかな遅れを取り戻そうと頑張った結果がオーバーラン。二重の遅れを取り戻そうと、さらに速度超過を重ね、その結果の大惨事。

 23歳という若さも、事故につながったのかもしれない。他の私鉄と比べると高卒5年目で超過密スケジュールの路線を担当というのは、早すぎるような印象を受ける。これもJR西日本の社内事情のせいだという。JRが民営化されて以降、合理化という名目で新規採用が止められていて、運転士の高齢化が進み、現在、あわてて若手を促成栽培中なのだそうだ。

 また、運転手を精神的に追い込んだのは、過去に受けた「日勤教育」という、JR西日本で行なわれている、人格を否定する、見せしめ懲罰だそうだ。その過酷さゆえに自殺者まで出しているとか。追い詰められた若い運転士には、もはや背中で感じる余裕もなかったのであろう。

 第50号でも書いたが、電車の運転士は背中でブレーキの利き具合を感じるのだそうだ。同じ車両でも混み具合や軌道の様子で微妙に違ってくるらしい。

 軌道と言えば、事故の原因は従来の直線を無理に急カーブに変えた軌道にもあるのではないだろうか。専門家がカーブにかかる緩和曲線の距離が通常より短いことを指摘している。当初のJRの説明では130キロを超えると脱線の危険があると言っていたが、それよりも低い速度で遠心力で軌道から飛び出してしまったのは、軽量車体、急ブレーキなども原因だろうが、不自然な軌道が一番の要因かもしれない。

 電車はかつての福知山線が走っていた軌道に向かって線路を飛び出したのだ。もし、その時、電車がカーブ入口から70m地点にある電柱に接触していなかったら…、現場の写真を見ていて、ふとそんなことを考えた。電車はマンションに激突することなく、その横を通りすぎただろう。それなら二両目が大破することもなく、百名を超える犠牲者も出なかったのでは。一刻も早い真相究明が待たれる。そのためにはJRは隠している情報を全部出すべきだ。運転士とは本当に交信できなかったのか。事故後、なぜ車掌や運転指令は後続の電車を止めなかったのか。事故の直前直後に何があったのか、まだまだ秘密が隠されているような気がする。

 事故の真相究明も大切だが、犠牲者とその家族、被害マンションの住人の方々、そして不通になって困っている利用客へのJRの責任は重大だ。多くの社員が必死になって当たっていると思うが、会長が「犠牲者」のことを「被災者」と言い間違えたとか、負傷した方を見舞ったJR社員が、紅白の水引の封筒にお見舞いを包んで持って行ったとかいう情報が漏れ聞こえてくる。

 確かに病気見舞いは紅白の水引を使うのが一般的だが、災害見舞いは無地の封筒を使うという。(★参考「大人のマナー」http://www.q-style.jp/7f/manner/manner15.html

 今、必要なのは形式的な対応ではない。JR会長、社長以下、すべての社員が背中に「安全」という重みを感じて欲しい。

第183号(2005年5月17日)〜連休が明けて〜

 ゴールデンウィークとは名ばかりで、ゴロゴロ週間で終わってしまった。その連休が明けて、一番の心配は欠席者だった。例のJR事故に巻き込まれた学生がいるのでは…、それが一番の恐れだった。

 同志社の授業で数名欠席者がいた。念のため、初回に記入してもらった調査表で住所を調べると、一人「川西市」という学生がいた。まさかと思いつつ、インターネットでその名前を検索してみた。すると、事故の負傷者名に同姓同名の人がいた。大丈夫かなあ…、でも、まだ2、3回しか授業をしていないので、顔が思い出せない。心配しつつ一週間待った。

 先週の授業で元気な顔を見て、正直ホッとした。普段と全然変わらない、元気そうな顔だったので、もしかして別人と思って聞いてみた。が、やはり事故に巻き込まれたそうだ。詳しい話は聞けなかった。だが、彼女の名前はこの事故だけでなく、別の大きな事件でも、検索にかかっていた。

 あの教育大付属池田小の児童殺傷事件だ。事件後一ヶ月、川西市の安全大会で当時中学生だった彼女は誓いの言葉を述べたのだそうだ。まだ20年にも満たない人生で、こういう事件に巻き込まれる、その運命を思うと、胸が痛い。そんな話を隣の山村さんにしたら、もう一つ大きなのも体験しているかもしれないと言われた。阪神大震災である。

 毎日毎日いろいろな事件があり、我々は一喜一憂する。それが人生だ。だが、どんな時も、上を向いて歩いていきたい。微笑みを浮かべて。ということで、先週ニコッとした小話を一つ紹介して終わりたい。

 留学生科目の日本事情でサラリーマン川柳を紹介している。その中で、
 「相合傘 濡れてる方が 惚れている」
というのがある。当然、中国人の学生たちは、アイアイガサが分からない。一本の傘を仲の良い男女二人で使うという説明をして、「中国でもするでしょう?」と尋ねてみた。「しません!」

 そんなばかな。「恋人同士は一本の傘に入らないんですか?」再度尋ねてみた。「傘は使いません。」えっ、「中国のどこの出身ですか?」気になって、また尋ねた。「内モンゴルです。」納得した。雨がほとんど降らない土地もあることを忘れていた。笑うしかなかった。

第184号(2005年5月31日)〜とられた男〜

 前回、JRの事故に巻き込まれた学生が元気に通学しているということを書いたのだが、甘かった。授業中、出欠の確認をしていると、「先生、○○さん、駅で見かけたけど、学校に来てないということは、まだ怖くて電車に乗れないのと違いますか?」と教えてくれる学生がいた。

 その日、帰宅すると、大学から手紙が届いていた。実は、事故に巻き込まれた学生は、もう一人いたのだ。あの事故からもう一月経つのだが、彼女はまだ授業に来ていない。私には待つことしか、できない…。

 駅といえば、最近、京都の地下鉄で、「もっときれいに私たちの京都」と書かれたポスターをよくみかける。1枚の大きなポスターに19枚の小さな写真があって、京都の四季と町の美化に取り組んでいる人々が写っている。この小さな写真の中に一枚、よく見ると、帽子をかぶり、黒っぽいジャンパーを着て、脚立(きゃたつ)を持つ男性が堂々と写っている。このメルマガにも何回も登場する「コバヤシ君」だ。

 彼とは長い付き合いだが、美化運動のボランティアをするような人間ではない。実は、彼は市の広報の仕事を頼まれたカメラマンなのだ。「写真を撮る人間が、撮られてどうするんや!」

 この話は、ネタの中央市場ことROM君から教えてもらった。しかし、我が友ながら、ROM君恐るべし。よくこんな写真を見つけたものだ。

 コバヤシ君もROM君も、中学からの友人で、お互いずいぶんとオッサンになってしまったが、その中身には、いまだに悪戯(いたずら)ぼうずの中学生の「あの頃」が残っている。

 以前、街でコバヤシ君を見かけたROM君、白髪頭のいいオッサンが何を思ったか中学の頃の悪戯気分で、こばやし君を脅かしてやろうと、手近にあった棒を持って、こっそり近づいて行った。棒を振りかざして背後に回った時、いきなりROM君めがけて屈強な男たちが駆け寄ってきたという。

 その時、背中を見せていたコバヤシ君は京都市長の写真を撮っていたのだ。ROM君、市長を狙う狼藉者(ろうぜきもの)と間違われ、あやうく逮捕される寸前だった。もちろんコバヤシ君は、そんな事件があったことすら知らないだろうが。

 こういう友達のおかげで、私も文章を書き続けられるのです。感謝です。 
※コバヤシ君、大聖寺近くの階段を降りた、地下鉄出口のすぐ横にもポスターが貼ってあります。もし、ご存知なければ、ご家族で、ぜひ。
第185号(2005年6月21日)〜人間らしい〜

 携帯電話依存症と言う言葉があるのかどうか知らないが、携帯がないとパニックになってしまう人がいる。私とは無縁の話だが、私の場合は、インターネットがつながらないと、軽いパニックになってしまう。最近、ふと、こういう携帯依存症やネット依存症って、「人間らしい」と思った。

 考えると、誰が名付けたか分からないが、「人間」とはうまいネーミングだ。我々は、生物学的には人類、広義ではヒトだが、「〔他の人間と共になんらかのかかわりを持ちながら社会を構成し、なにほどかの寄与をすることが期待されるものとしての〕人」と定義されている〔『新明解国語辞典』第3版〕。つまり、人と人の間に存在して、はじめて「人間」と言えるのだ。それゆえ、我々は、一人ではない、人とつながっていることが自覚できて、はじめて安心できるのだろう。だから、携帯依存で悩んでいる人、「あなたは真に人間らしい。」

 こんな話を大学でしたら、携帯依存症気味の学生たちから喜ばれた。  

 携帯と言えば、友人から聞いた最新の携帯事情。彼は仕事の関係で外国でも使える携帯を持っている。その携帯にかけると、「今どこ?」「北京。」ということも、よくあるそうだ。かけている方は、別に国際電話料金がかかるわけでもなく、国内の携帯電話料金で話ができるらしい。音声もクリアーで、北京と言われなければ、東京や大阪に電話している感覚で話してしまうという。

 こんな便利な携帯だが、ちょっと困ったことがあるそうだ。電話が取れない時に流れる、留守番のメッセージだ。これが中国なら、もちろん中国語、韓国なら韓国語で流れるという。ところが、会社に「北京に出張します。」と言いながら、時間をやりくりして、ちょっと香港で遊んで帰ろうなんてことをすると、意外なところでアリバイ工作が破綻してしまう。留守番メッセージが広東語になっているのだ。

 こういうことに一喜一憂するのも「人間らしい」ことなのかもしれない。 

第186号(2005年7月12日)〜日本人はヤバンジン!?〜

 2005年度前期の大学の仕事も、もう期末だ。今学期もいろいろなことがあった。その中で、留学生から聞いた面白い話を紹介したい。

 まず、韓国の女性から聞いた実話から。二十歳前後の可愛い彼女に、ある日、韓国のお兄さんから携帯に電話がかかってきた。懐かしさと嬉しさ一杯で、彼女は韓国語で話しながら街を歩いていた。すると、ふと、周囲の視線が気になった。みんながジロジロ変な顔をして彼女を見るのだ。中にはびっくりした顔で擦れ違う人もいる。あわてて彼女は自分の顔や服装を確かめた。が、どこも変なところはない。後日、学校でこの話を先輩にして、やっとその理由が分かったという。

 韓国語で「お兄さん」と言う時、男性からの場合と女性からの場合では違った呼び方をするそうだ。妹が兄を呼ぶ時は「オッパ」と言うらしい。問題は、それに助詞「の」が付いた時だ。「お兄さんの○○」は韓国語では、「オッパイ○○」となってしまうのだ。だから、彼女は街を歩きながら、大声で「オッパイ○○」「オッパイ○○」と叫んでいたのだ。

 こんな話を嬉しがって書いてしまうと、日本人は「ヤバンジン」と言われるかもしれない。だが、実際、トルコでは日本人は「ヤバンジン」なのだ。と言っても、アメリカ人もドイツ人もインド人も中国人も韓国人もブラジル人も……、みんなトルコでは「ヤバンジン」なのだ。

 この話もある留学生から聞いて、先日、トルコ人の学生に尋ねて確認したから間違いない。トルコ語で「外国人」は「ヤバンジン」と言うのだそうだ。しまった! トルコ語で野蛮人を何と言うか聞いていなかった。まさか「ニッポンジン」ではないだろう。

第187号(2005年7月29日)〜夏は一期一会だ〜

 夏は一期一会の季節だ、と思う。

 7月14日、京都の町がコンチキチンの祇園囃子(ぎおんばやし)でにぎやかだった頃、先輩のお父様が亡くなられた。お父様というより、私にとっては東山書房の会長さんだ。大正七年生まれというから、八十七才で逝去された。

 以前、私が韓国にいた頃、会長さんから聞いた話がある。会長さんは戦前、仕事で朝鮮半島に渡り、現地で海苔の養殖事業などに関係したそうだ。やがて、応召され、釜山近郊の高射砲部隊に配属となった。終戦間際、日本の敗色も色濃く、米軍機が頻繁に飛んできた時、上官から「撃つな!」と命令されたそうだ。この上官はよくできた人で、敗戦濃厚で無駄に発砲し、敵機の集中砲火を受けて無駄死にする必要はないと考えたのだと言う。

 「助かった。」会長さんの呟(つぶや)きが聞こえた。終戦後、すぐ、部隊は武装解除され、そのまま朝鮮半島に置いておくと危険ということで、一般人よりも先に船に乗せられ、日本に帰国できたそうだ。六十年前、会長さんは釜山で青い夏空を見上げていたのだろう。

 その韓国で、インターネットを使って日本のドラマを見る若者が多いという。もちろん違法だが、現在放送されている人気ドラマが、日本で放送されて2時間くらいしたら、字幕付きで、もう流れることもあるという。これらは金儲けではなく、日本語ができる学生達が、腕試し、あるいは自分の実力を誇示するためにするのだそうだ。

 とにかく今はインターネットの時代で、若者たちはネットで最新の日本語を勉強しているという。高校時代に日本語能力試験1級に合格していると、大学受験に有利に働くので、趣味と実益を兼ねて熱心に勉強している高校生も多いという。

 そんな韓国の若者に人気がある言葉が、「一期一会」だという。漢字を韓国読みするのでなく、そのまま「イチゴイチエ」という言葉で流行っているそうだ。イチゴイチエという名前のコーヒーショップがあったり、イチゴイチエのTシャツを着ていたり、あちこちで見かけるらしい。日本語を知らない若者でも、イチゴイチエ(出会いを大切に)は知っているという。

 先日も大学で「好きな言葉」をテーマにスピーチをしてもらったら、偶然、日本人の学生が一人、韓国人の学生が一人、この言葉を選んだ。しかし、以前、178号でも書いたように、「一期一会」は「独座観念」と対になった言葉で、桜田門外の変(1860年3月24日)で暗殺された井伊大老の言葉だ。

 「一期一会、独座観念」 もう会う事のない、一生に一度の出会いを振り返り、しみじみと味わう。日本の夏にはお盆がある。亡くなった方の霊が返ってくると考えられている。こういう時こそ、イチゴイチエの季節だと思う。

 今年の夏は、亡くなった父、友人、もちろん会長さんとの一期一会を思いながら、過ごしたい。

第188号(2005年8月11日)〜夕焼け小焼け〜

夕焼(ゆうや)け 小焼(こや)けで 日が暮れて          
山のお寺の 鐘(かね)がなる                  
お手手つないで みな帰ろう 烏(からす)と いっしょに 帰りましょう
〔童謡「夕焼け 小焼け」 (作詞)中村雨紅 (作曲)草川 信〕 (「ごんべ007の雑学村」)

 先輩の仕事を手伝って、新潟県村上市に行ってきた。新潟と言っても、ちょっと走ればもう山形県という県最北の城下町だ。この町は皇太子妃(こうたいしひ)雅子様の祖先が旧村上藩士だったという関係から、雅子様との縁(ゆかり)をアピールしている。また、海岸沿いには1904年に石油掘削(くっさく)中に噴出したという瀬波(せなみ)温泉がある。

 瀬波温泉で面白い宿に泊まった。無駄遣いで話題の厚生年金系の保養施設だ。目の前が海で、海水浴客でいっぱいだった。そんな関係で、予約の時、「別館しかありませんが…。」と言って、泊められた。ベッカンということは、さぞ豪勢な和室…と思っていたのだが。

 「まず、本館のエレベーターに乗って4階まで行って、右に曲がって、廊下の突き当たりで左に曲がって、次のエレベーターに乗って2階まで降りて、右に行くと別館です。」と説明された。ようやく辿り着いた部屋は、きれいだが、何となく不自然。

 玄関を入ると10畳ほどの無駄に広い板の間がある。その奥に8畳ほどの和室。先輩を上座にと、床の間の前の席をすすめたが、そこだと出入り口に近く、普通なら下座の席だ。床の間の位置が変なのだ。よく見ると、いろいろな所に不自然な改装の跡が。

 洗面所の下の扉を明けると、ものを置くスペースが無く、そのまま板の間になっている。後から無理に洗面スペースを作ったのがよく分かる。一番不自然なのは、海の側にある宿泊施設なのに、この別館には景色のいい海側に客室がひとつもないのだ。板の間に小さなキッチンが残されているところから、昔は従業員か関連機関の職員用の宿泊施設だったのだろう。平成十年改装ということなので、その時に、客室用に変えたのかもしれない。

 不思議な宿だが、夕食は豪華だった。料理もさることながら、一番の御馳走は夕日だった。食事中に、突然、西日(にしび)が眩しいレストランのブラインドが上げられる。見ると、日本海に沈む夕日が、空と海を真っ赤に染めながら落ちてゆく。夏場は海面に水蒸気が発生して、夕日はストンと落ちてしまうが、秋や冬だと水平線に太陽が溶けていくのが堪能できるという。ここには、海に沈む夕日が見られない関東方面から、わざわざやってくるお客さんも多いという。

 しかし、私が驚いたのは、その後だった。太陽が沈んだ後も、しばらく空も海も茜色(あかねいろ)に染まって、なんとも言えない幻想的な情感を漂わせる。こんな綺麗な夕日を見たのは久しぶりだった。

 あとで知ったのだが、これが「小焼け」なのだそうだ。夕日が沈んで暗くなった後に10〜15分すると、もう一回赤く明るく光る「夕焼け」が見える。これを「小焼け」と言うのだそうだ。童謡「夕焼け小焼け」も、まず空が「夕焼け」して、次に「小焼け」になって、それから「日が暮れて」と、時間軸に沿って歌われていることが分かる。

 三木露風(みきろふう)作詩の童謡「赤とんぼ」では、「夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か」「夕焼小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先」と歌われている。(「ごんべ007の雑学村」)昔は「小焼け」も「夕焼け」も気にせず聞いていたが、あの茜色に染まった海と空を見てからは、この歌の情景も変わってしまった。

 暑い夏の夕間暮(ゆうまぐ)れ、昔にかえって、夕日を追いかけてみては。そんな人にはこんなサイトがオススメです。(「浅川写真散歩」

第189号(2005年8月26日)〜京都の町を救うのは…〜

 京都の町を南北に鴨川が流れる。その東側、川端(かわばた)通りを三条大橋から四条大橋にかけて車で走ると、対岸に木造の家並みが見える。先斗町(ぽんとちょう)だ。ポルトガル語のポント(先端の意)が由来とかのこの町は、今でも伝統的な家並みの残る街だ。道は狭く、二人並んで歩くと、人と擦れ違うのが難しい。西側には狭い路地が32本もあって、通り抜けできるものには入口に番号がある。それを通り抜けると木屋町(きやまち)だ。ここは高瀬川が流れ、昔から老舗(しにせ)の料理屋や飲み屋が何軒もあり、風情のある街……だった。

 ところが、木屋町の真ん中にあった小学校が1993年に閉鎖され、風営法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)の規制がこの街から外されることになった。すると、雨後の筍(たけのこ)のように、風俗店がどんどん出店し、今ではその数は1000店を超えると言う。この街で長年店を構えている人から聞いた話だが、一日中いかがわしい店の客引きがうろうろして、落ち着いて歩ける街ではなくなったそうだ。

 街の雰囲気も客層も変わり、治安も悪くなった結果、老舗の何軒もが閉店や移転を真剣に考え、何軒かはすでに実行したそうだ。そんな地元の窮状を見かねて、京都市が学校跡地を教育施設として再利用することにした。これで新規出店は止められるが、すでにオープンしている店の営業活動は止められない。自然淘汰(しぜんとうた)を待つしかないと言う。

 この木屋町から一本東、距離にしてほんの4〜50mだが先斗町には風俗店がない。実は、ないというより出せないのだ。その原因は、街の人でも行政でもなく、先斗町通りの中程、鴨川との間にある小さな公園なのだそうだ。

 公園が街を守る?、不思議に思う人も多いだろうが、この公園、歓楽街の真ん中にあるのだが、児童公園として登録されているそうだ。つまり、風営法の規制にかかる児童福祉施設と見なされ、風俗店が入って来られないのだ。京都の町を守るのは子どもなのだ。

 そんな子どもたちが、京都市役所前広場でヨサコイ踊りを披露する。よさこいは、徳島市の阿波踊りに対抗して1954年から始まった高知市の祭りだ。新しい祭ゆえ自由が利き、札幌市のYOSAKOIソーラン祭りをはじめ、全国各地に広がりを見せ、高知市観光協会の調査では、今や200カ所以上のイベントやお祭りで取り入れられているそうだ。京都ではまだ本格的なヨサコイは行なわれていないということで、地域の商店街が中心になって、「YOSAKOI 都 de おどり」が、次の日曜、8月28日4時から、京都市役所前広場で開催される。そのオープニングを飾るのが、地元の小学校の児童たちだ。

 このヨサコイの仕掛け人の一人が、我が友ROM君だ。この週刊?には度々登場するネタの宝庫、ROMという変名からベトナム人とかいう噂もあったが、歴(れっき)とした京都人だ。

 今春、地方財政削減の影響を受け、1994年から11回続いた「京都まつり」が中止になった。しかし、「市民が運営し、参加する」という京都まつりの精神は健在だった。地域の人々が知恵と金と体を提供して、町おこしの祭を手作りで開催するのだ。実際、賞品のいくつかはROM君が頑張って玉を弾(はじ)いて獲得してきたという噂だ。

 そのパワーに押され、京都府、京都市を始め、多方面からの協力も取り付けた。かく言う私も、ROM君のパワーに押され、Tシャツ一枚渡されてボランティアをすることとなった。したがって、今回の記事は、半分ROM君に脅されて書いているようなものだが…(苦笑)
                                  
 人が集まれば、さぞ店の売り上げにつながるのでは…と思いきや、当日は祭の手伝いで閉店とか。商売を捨てて祭に燃える、こういう人達のパワーが京都の町を守っているのかもしれない。

第190号(2005年8月31日)〜汗顔〜

 おかげさまで京都のよさこい踊りは無事終了した。踊り手は、下は2歳から上は72歳まで、みんな出演料などなく、交通費自腹(じばら)なのに、真剣で、心を込めて踊っていた。そのすごいパワーに感心した。祭の数日前、出場チームリストを見ながらROM君が言ったことが忘れられない。

 「なんでヨサコイが人気あるか、わかった。これ見てみ。」       
出場者の多数が女性、あるチームなどは女性30人あまり、男性は4、5人しかいなかった。今の日本は女性のパワーで支えられているのです。

 さて、八月も今日が最後、子どもの頃は、毎年汗を流していた頃だ。汗と言っても冷汗だ。子どもの頃は大家のやまむらさん(うちの母)に、今は隣のやまむらさん(うちの妻)に叱られまくっているが、何でもギリギリになるまで始められない。これは分かっていても、なかなか直せない。

 冷汗をかくことを汗顔(かんがん)とも言う。もっともこの場合は、顔に冷汗をかくほど恥ずかしいということだが。皆さんも、いろいろプチ汗顔をかくことが多いだろう。そんな汗顔話を二題。

 七月に大家さんが東京に行った。弟を訪ねて行ったのだが、久しぶりの東京ということで、弟と二人、銀ブラ(銀座をブラブラ)を楽しんだ。その時、宝くじ売り場の前で人だかりを目にした。尋ねると、今日は大安の金曜日、場所は銀座と、金に縁がありそうなので、サマージャンボを買う人達なのだそうだ。素直というか、すぐ影響される大家さんは、さっそく便乗して20枚買ってしまった。

 抽選日が来て、当然、調べるのは私の役目。思ったとおり、当たったのは6等300円が2枚だけ。すると、あんたにあげるから、すぐ替えてこいとのご命令が下った。ほいほいと近所の宝くじ売り場に6等の当たりくじを持っていくと、「交換は明日からです〜。」

 くそーっ、大家のせいで目から汗が出そうになった。この夏は、これだけではなかった、もっとドバーッと汗が出そうになったこともあった。

 母校の大学図書館に『和歌文学研究』という雑誌が納められている。実はこの雑誌、私が初めて論文を載せてもらった学会誌なのだが、その記念に大学図書館に購入希望を出したら通ってしまい、入れてもらったものだ。

 ところが、その時購入された1号から53号以降は、ずっと止まっていた。ある時、それに気付いて、以後、毎年我が家に送られてくるのを寄贈して、製本して書庫に納めてもらっている。先日、ちょっと調べ物をするため書庫に入って、パラパラとこの雑誌を見た。すると、雑誌以外に余計なものまで綴じられているのを発見した。

 会費納入の督促状だ。もちろん会費はちゃんと払っている。ただいつも「ちょっと」遅れてだったが…。それを雑誌に挟んだまま、寄贈してしまっていたのだ。見た瞬間、恥ずかしさで、目から汗が大量に……。

 もちろん家に帰って、隣のやまむらさんに叱られたのは言うまでもない。図書館には事情を説明して、全部切り取ってもらうようお願いした。

 夏休みの宿題で冷汗を流している皆さん、自業自得ではありますが、頑張って下さい。やはり、何事も早い方がいいですが、早すぎるのも駄目ですね。ほどほどが一番のようです。

 第191号(2005年9月7日)〜ハニーKの伝説〜

 この十年くらい毎年八月は祭祀史料研究会の旅行を楽しみにしている。今年の旅行は長野県松本市周辺。毎回、この旅行では現地でないと見られない発見があり、楽しい。行先は古い神社・仏閣。松本周辺には伊勢神宮の御厨(みくりや=伊勢神宮にお供えを貢進する所領)だった所がいくつもあって、そこに伊勢神宮本殿と同じ神明造(しんめいづくり)の社殿を持つ古い神社が残っている。

 今回の旅の目玉は大町市にある仁科神明宮(にしなしんめいぐう)だ。ここの本殿は寛永13年(1636)に造られ、現存最古の神明造として貴重で、国宝に指定されている。幸いにも、我々はここで滅多に見られないものを見ることができた。

 昨年10月日本全土に大災害をもたらした台風23号は、信州の山奥にあるこの神社にも大きな被害を与えた。本殿裏で鉄砲水が発生し、大規模な土砂崩れが起きたのだ。その結果、本殿倒壊は免れたが、柱が土台からずれたり、一部破損したりという惨状だったという。我々が訪れた日は、その修理が完成し、しばらく仮殿にお移ししていた神様を、本殿にお還しする直前だった。

 メンバーの一人が何気なく、神様をお移しする時、どうやって運ぶのですか?と、案内して下さった氏子(うじこ)の方に尋ねた。まさかとは思ったが、お願いすると、御神体を入れる箱が見せてもらえることになった。何の変哲もない木の箱だが、我々は「御船代(みふなしろ)だ!」と、心の中で歓声を上げた。本でその存在は知っていたが、まさか実物が見られるとは!

 伊勢神宮では御神体を二重の箱に入れる。その一番外側、船の形をしていると言われるのが御船代だ。が、どう見ても船には見えない。どちらかと言うと四角い舟形石棺(ふながたせっかん)に担ぎ棒を四本つけたような印象だった。この変な木の箱を、寄ってたかって写真を撮りまくる一団を、氏子の御老人は、どんな気持で見ていたのだろうか。

 今回の旅行には建築が専門のKさんが奥様連れで参加されていた。この奥様、旅行の最後にこう断言されました。「皆様、変な方ばかりですね。」だから、私はうちの奥様を連れて行けないのですが、そのKさんが今回の旅行では主役だった。

 最初の訪問地は松本の北東、麻績(おみ)村にある神明宮だ。ここも仁科神明宮同様古い神社だ。皆が村の方の説明を受けている時、私はひとり本殿の回りを歩いてみることにした。すると、私の先を誰か行く人がいた。写真を撮りつつ皆の所に戻ると、Kさんがスズメバチに刺されて、今病院に向かっているという話を聞かされた。もしKさんが狙われなかったら…と思うと、ぞっとした。以後、Kさんから聞いた話を、不確かな記憶で再現する。

 まず、一番近い診療所に走り込んだKさんに、看護士さんがあれこれ質問してくる。一刻も早く治療をしてほしいKさんだが、なかなか治療が始まらない。聞くと、先生は外出中だとか。「それなら先に言え!」という言葉を押し殺し、Kさんは急いで別の病院へ。

 状況を把握した先生は、患部を冷やすだけで、ここでもすぐに治療してくれない。不安でパニックになっているKさんに、しばらくして先生が、「もう大丈夫です。刺されて15分経っても生きてますから。」

 背筋が凍る思いを体験したKさんはお酒が好きな方だが、さすがにその夜は一滴も飲まれなかった。幸い怪我の方もたいしたことなく、翌日からは普通に行動されて最終日を迎えられた。

 この旅行では蜂だけでなく、蚊に刺される方も多かった。そんな話を聞いてKさん、「蜂に刺されてから、蚊には刺されなくなったんですよ。」と自慢げに話される。どうしてと聞かれて、「たぶん体質が変わったんでしょうね。蜂蜜の匂いがするからかなあ。」と、半分真顔で答えられる。「そんなバカな」とは思ったが、以後、Kさんはハニー(honey)Kと呼ばれることとなった。

 その後、Kさんはいかがお過ごしだろう。家に帰っても奥様から「ハニー」と呼ばれているのだろうか。

第192号(2005年9月20日)〜光が来た〜
 
 この週末工事が入って、ついに我が家にも光ファイバーがやってきた。光導入の決断はテレビとキャンペーンだ。

 ここ何年かアンテナの関係か、我が家のテレビは受信状態が悪く、特に大雨の時など、画面が粗(あら)くなってしまい、悲惨な映り方だった。いくらなんでもこの画像をDVDにして、スウェーデンの妹家族や、オランダの友人ナベちゃんに送るのは忍びない。そんな時、関西電力子会社の光テレビのキャンペーンを目にした。

 工事費無料。地上波デジタル放送も見られて、IP電話、高速ネットもついていて格安料金。しかも、近くの家電量販店で申し込むと、1万5千円以上買うと、店内の商品が1万円引きになるという。そういうエサに釣られて申し込んでしまった。

 さっそく工事の調査に来てくれたが、大問題発生。我が家と隣家との境が狭すぎ梯子(はしご)が立てられないという。「工事不可」となると、1万円引きで買った商品はどうなるのだ…。結局、お隣にご無理をお願いして、屋根に登らせていただいて、無事工事完了…のはずだった。

 テレビも電話もインターネットも可能という光ケーブルは、「えっ!」と思うぐらい細いものだった。以前、光ファイバーを導入した友人から、ポキッと折ってしまったという話も聞いたが、こんな細い線一本で大容量通信ができるとは、すごい時代になったもんだ、と感心していたら、肝心のテレビが映らない。

 工事のお兄さんが家の天井裏を探し回り、その原因を捜し当てた。テレビ電波を増幅させる機械が取り付けてあったのだ。これが邪魔をして映りを悪くしていた。ようやく問題解決、見られるテレビのチャンネルは増えたが、見る方の目はそのまま二つなので、これからが大変だ。

 ふと見上げると、家の前の道はケーブルだらけだ。電気、電話、ケーブルテレビ、光ファイバー等々、町の美化ということで、欧米のように電柱撤去が言われて久しいが、子供の頃より電柱は増加し、ますます日本の町はケーブルだらけになっている。我々は便利さと引換えに、青空に殺風景な線を何本も引きまくっているのだ。

第193号(2005年10月11日)〜ハニーKの真実〜

 前々回191号で「ハニーKの伝説」を書いた。これは私が不確かな記憶をもとに綴(つづ)ったもので、早速ハニー氏より訂正のメールが入った。 以下、ハニー氏のメールを、固有名詞など若干手を加え、そのまま掲載する。

    *    *    *    *    *    *    * 

週刊?やまむらの愛読者諸氏へ                    
                              
Kより 

 先ごろ配信された191号に学者として容認できない事実誤認があるので、訂正記事の掲載をもとめるととに、若干の補足もしておきます。

 問題は蚊のくだりです。KはB型なので、まず蚊にとっては非常にまずい血液です。しかもおじさんなので、B型以外で、しかも若い女性と一緒にいれば、蚊は女性のほうへ集まり、Kは、まず、さされないのです。

 ところが蜂に刺された翌日、若い女性と一緒にいたにもかかわらず、Kも同じくらい蚊にさされたので、これは蜂の毒が体に廻って、何か甘い匂いが、つまり蜂蜜のような匂いがしているのではないだろうか。ということでした。これがハニーの起源です。

 ちなみにKの家庭は、そんな愛称で呼び合うほど甘い家ではないようです。

〔補足その1〕
 診療所に向ったときの車もすごかった。Y沢さんが非常に心配してくれて、救急車なみに走ってくれたのです。細い道路で大きなトラックを追い越せず、ほんとに1m以下の近距離で、大きなトラックのすぐ下をエンジンふかしながら、そのトラックがそれるまで走ってました。

 そのときKは、蜂毒の方に頭がいってたのでなんとも思いませんでしたが、結構危なかったです。人間どこで命を落すやらわかりまへん。

〔補足その2〕
 現在、痛くも痒(かゆ)くもありませんが、太ももに大きなうすい色の痣(あざ)が残っていて、お酒がまわると、その痣の部分だけが熱をもちます。きっとまだ蜂毒が残っているのでしょう。同時に抗体もできているでしょうから、今度はあぶないです。くわばらくわばら。

    *    *    *    *    *    *    * 

◆以上、ハニーKさんからのメールでした。ハニーさん、人の記憶とはいい加減なもので、大変な間違いをしてしまって申し訳ありませんでした。ちなみに、トラックの「すぐ下」をもうスピードで走ったというY沢氏の名誉のために一言。Y沢氏は私が尊敬する長野県人の一人で、温厚誠実で、普段はそんな無謀な運転をする方ではありません。

 ハニーさん、お酒がまわると、ウルトラマンのカラータイマー(地球にいられる3分が近づくと点滅する胸のランプ)のように、太ももが疼(うず)くんですか。これはきっと、「パパ飲みすぎないで」と、お宅のキューティーハニーから信号が送られてくるのでしょう。お大事に!

第194号(2005年10月16日)〜変わらないこと〜

 土曜に日本語を教えている同僚のOさんを偲ぶ会に参列した。今年8月29日に亡くなった彼女も、このメルマガの読者(勝手にこちらが送り付けていたのだが)だった。女性の年齢を書くのは失礼かもしれないが40歳という若すぎる、そして突然の死だった。

 彼女は大学院の二年後輩で、同志社の中・高校のハルカ後輩でもあった。中学から管弦楽部でチェロを弾いていたという彼女は、友人たちの音楽に送られて永遠の時を迎えることとなった。ご家族をはじめ、友人知人、教え子まで、彼女を悼む人々が集まり、素晴らしい会だった。

 会場は私たち同志社中学出身者の心の故郷、同志社礼拝堂で行なわれた。思 えば大人への階段の第一歩はこのチャペルから始まったのだ。そんな思いで座っていたが、なんとなく違和感が拭(ぬぐ)えなかった。どこか違う。

 私たちがいた頃は、白壁の下の板が黒茶色で重厚な感じがしたが、妙に明るい茶色に塗り替えられていた。天井の梁(はり)も明るく塗り替えられていたし、明るくきれいにはなっていたが、あの頃の雰囲気とは違った。

 変わっていたのは建物だけではなかった。讃美歌もだった。中学の頃、初めて接した讃美歌は荘厳な歌詞と歌いやすいメロディーで好きだった。キリスト教徒ではない私は、最後の「アーメン」という部分だけは歌わなかったが、讃美歌は好きだった。その中でも「頌栄(しょうえい)27番」は、入学式、卒業式など特別な式典でいつもで歌われ、今でも耳に残っている。

 「ちち みこ みたーまの おおみかーみにー ときーわに たえーせず みぃーさぁーかえー あれー みぃーさぁーかえー あれー♪」だったと思う。それが、「父・子・聖霊のひとりの主よ、栄えと力はただ主にあれ、とこしえまで」となっていたのだ。歌えなかった。

 万物は生々流転と変わっていくものだが、新しいものに馴染めない自分がいる。これが老化の始まりなのだろうか。こんな時、変わらないものがあると感動する。十月の初めに行った岩崎宏美(いわさきひろみさんのコンサートがそうだった。

 岩崎さんは1975年にアイドル歌手としてデビューし、その伸びやかな高音は「天まで響け」というキャッチフレーズ通りだった。彼女の歌唱力はスローバラードを歌わせたらよくわかる。77年「思秋期(ししゅうき)」により第19回日本レコード大賞歌唱賞を、81年には「すみれ色の涙」で第23回日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞、82年には最大のヒット曲「聖母(マドンナ)たちのララバイ」が出て、名実共に日本を代表する歌手となった。

 その後、結婚・出産などで一時活動を休止した時期もあったが、離婚し、現在はミュージカルを中心に歌手として活動している。その彼女のコンサート、実は隣の山村さんに引っぱられて行ったのだが、素晴らしかった。

 2000人収容の大ホール、見渡せば白髪や頭髪の薄い方々が大多数。昔のファンだった人というよりは、彼女の両親の世代(70代前後)の方が多かった。彼女は今年46歳で、デビュー30周年。さすがに1時間歌った後、15分の小休止。振り付けの激しい曲だと、歌った後でゼーゼー息を荒らげている。それなら、振り付けを変えればいいのだろうが、そうすると歌詞が出てこないのだという。身体の動きで歌詞を覚えてしまったのが原因だとか。

 体つきも当然10代の頃とは違って、腰回りがゆったりしているのは隠せない。前の方でオペラグラスで見ている客を見つけて、「この歳になると、それって嫌味ですよ。」なんて喋っていた。しかし、歌声は10代の頃と全然変わっていなかった。あの「天まで」の高音が響き、低音も伸びやかに歌いあげていた。

 圧巻だったのは、最後。アンコールで「思秋期」を歌った後、ピアニストひとりを残し、彼女はマイクを使わず、地声で「すみれ色の涙」をしっとりと聴かせてくれた。万雷の拍手が止まなかった。

 実は、彼女も一時声が出なくなった時期があったそうだ。離婚して、愛する息子さんたちと離れ、辛い時期もあったそうだ。そんな時、シャンソン歌手の石井好子さん(1922〜 )のコンサートに行って、70を過ぎて現役歌手として頑張っている彼女に触発されたのだそうだ。岩崎さんの夢は、現在高校生と中学生になった息子さんたちが来てくれるまで、歌手として歌を歌い続けることだそうだ。

 私たちの肉体は日々変わっていく。変わっていくのが生きている証(あかし)だ。けれど、それに合わせて心まで変える必要はない。夢を捨ててはいけない。そんなあれこれ考えながら、音楽が好きで、皆から愛されていたOさんのことを偲びつつ、懐かしのチャペルに座っていた。さようなら。

第195号(2005年11月11日)〜ピロロかピロリか〜
 
  秋本番、京都は今年も多くのお客さんを迎えている。そんな京都で先日、留学生から聞いた話。

 彼がバイトしているガイジン・パブに今週はじめアメリカ人のグループが来た。筋肉モリモリのいかにも軍人さ〜んという一団だったが、陽気な彼らと仲良くなったバイトの彼は、同じテーブルでビールを飲むことになった。

 「何しに来たの。観光?」 「いや仕事。」
 「どのくらい京都にいるの?」 「二週間。」
 「何の?」 「大使館の。」
 どう見ても外交官に見えない連中の風貌から、彼はピンと来たそうだ。「CIAだ!」。

 CIAかどうかは分からないが、彼らが来週14日の月曜から三日間京都に滞在するブッシュ大統領の警護の仕事で来たのは間違いないだろう。最近御所の近くで警察がやたらとパトロールしている。こんな時にROM君のような怪しいオッサンがうろうろしてたら、職務質問されて大変だろう。

 ブッシュさんとはいかないが、十月末から私も次々とお客さんをお迎えしている。その一人、ナベちゃんは学生時代の友人で現在オランダ在住。仕事に便乗して久しぶりに京都に帰ってきた。そのナベちゃんから聞いた話。

 一年以上前、ナベちゃんは十二指腸潰瘍(じゅうにしちょうかいよう)を患(わずら)ったそうだ。オランダの病院で検査してもらったら、医者から「いやー、ぞろぞろいるよ。」と言われたそうだ。ヘリコバクター・ピロリだ。日本ではピロリ菌
と言われている。今年ノーベル医学賞を取り、一躍有名になったが、1982年に発見されて以来、1994年にWHO(世界保健機構)が「確実な発ガン因子」に指定したことから、オランダでは、検査・治療ともに保険が適用されるのだと言う。

 ナベちゃんが受けた検査は血液検査だったそうだ。ピロリ菌がいると血液に抗体が生まれ、それを調べれば簡単にわかるらしい。治療も薬を朝晩二回服用すれば、一週間か二週間できれいに消えてしまうのだと言う。ナベちゃんは薬のおかげで、二週間できれいに十二指腸潰瘍が消えてしまったと言っていた。

 こんな話を日本から出張で来た人に話したら、その人も長年胃潰瘍か何かを患っていて、早速帰国して医者に「ピロリ菌」の検査を頼んだそうだ。すると、「してもいいけど、高いよ。日本では検査も治療も保険がきかんから。」と言われたそうだ。

 日本人の約70%がピロリ菌保菌者だという。もっとも保菌者だからと言って病気というわけではない。ストレスとか体のバランスのくずれとかでピロリ菌はバイ菌となって暴れ出すそうだが、普段はおとなしく目立たないように存在しているのだそうだ。

 ピロリだかピロロだか知らないが、簡単に調べられて治療もできるのなら、早く保険がきくようにしてもらいたい。こんなことにお金をケチっていて、結局、大病になったら、もっと高額の保険請求が来るのに。せめて次からはちょっと奮発して、高いヨーグルトでも食べようかなあ。
第196号(2005年11月11日)〜今日は何の日〜
 
 本日二回目の配信です。というのは、ピロリ菌に関して新たな情報が入ったことと、今日学生さんに教えてもらった乙女チックな話が面白かったので。

 まず、前号でピロリ菌は保険がきかないと書きましたが、医療関係者に囲まれて仕事をしている隣のやまむらさんから、早速クレームが来ました。なんと2000年11月から我がニッポン国でもピロリ菌の検査および治療に保険がきくようになっていたそうです。お詫びして訂正致します。

 ただし、調べてみてビックリしたのだが、我がニッポン国はそんなに甘い国ではなかった。保険適応と言っても、それは胃潰瘍・十二指腸潰瘍のみだ。医学的に見ても除菌が望ましいと言われる胃炎の患者は適応外で、検査代・薬代あわせて1万円程度の負担になるらしい。

 さらに、ピロリ菌の検査に対する保険点数が70点(700円)と低く押さえられたため、病院が検査をすると逆鞘(ぎゃくざや)が生じて、赤字になるそうだ。病院が検査を依頼した会社から請求される金額が1500〜2000円なのに対し、病院が患者や健康保険組合に請求できる金額は700円にしかすぎないと言う。これでは病院はやりたがらないし、やりたがる患者には保険がきかないと言って脅すしかないだろう。だから、保険がきかないというのは、まんざら嘘でもなさそうだ。
※参考〜Dr. KAKEI Medical Web Page (http://www.ne.jp/asahi/kakei/medicine/faq.html)、ただし2010年現在、このページは存在せず。

 ところで、今日は何の日かご存知でしょうか?1111と棒が四本並ぶのがヒントだ。国文の学生に教えてもらったのだが、「ポッキー&プリッツの日」だそうだ。何でも平成11年11月11日と、1が六個並ぶおめでたい日にスタートしたとか。

 このメルマガを読んでおられる外国の方でご存知ない方もおられるかもしれないので補足すると、ポッキーもプリッツも江崎グリコ株式会社が販売している棒状のスナック菓子の名前で、これらのお菓子の形が数字の1のようにも見えることからグリコが記念日を作って、わざわざ「日本記念日協会」に申請し、認定してもらったそうだ。
(※グリコ〜11月11日はポッキー&プリッツの日

 同じような話を韓国人の留学生からも聞いた。韓国では11月11日は「ペペロday」と言うそうだ。ペペロもポッキー同様(というかコピー商品では?)の棒状のスナック菓子で、この日は好きな人にペペロをプレゼントする日なのだそうだ。

 日本ではあまり評判にならなかったポッキーの日だが、お隣韓国ではペペロデーで結構盛り上がるのだそうだ。でも、私が韓国にいた92〜94年頃にそんな風習は聞かなかったから、これもポッキーの日を見事にパクったものなのだろう。(※参考〜お菓子のパクリ

 この話を家に帰ってしてら、隣のやまむらさんから「おもしろくない」と却下されてしまった。でも、やっぱり書いてしまった。僕は乙女チックな話が好きなのだろうか。。。。。

第197号(2005年11月26日)〜妄想〜
 
 鵺(ぬえ)が舞い降りた。千年前、平安時代の都人なら、夜な夜な都を騒がす怪鳥ヌエかと思い、腰を抜かしたかもしれない。2005年11月15日18時33分、アメリカのブッシュ大統領が専用ヘリで京都御所の御苑に着陸した。

 いやはや平成の京都は大騒動だった。この日に備えて全国から警察官が動員され、京都御所とその周辺の警備に当たった。さながら幕末維新の頃に諸藩こぞって御所の警備にあたったのと変わらない。烏丸通りで愛知県警が検問をしていたのを見て、「尾張藩か」と思ってしまった。出雲路(いずもじ)橋には島根県警。なるほど出雲藩か、よくできた配置だ。御所の回りには警視庁。東京ということは幕府か…、新撰組か、などと考えると楽しい。

 16日の水曜は早朝に小泉首相と金閣寺散策。おかげで町は大渋滞。京都産業大学などは一時間目を休講にせざるをえなかったとか。私は御所に近い同志社新町キャンパスで授業があったが、一日中ヘリが飛び回り、ウルサイことこの上ない。そんな時、ふと、三条大橋を思い出した。

 京都の三条大橋は、かつて江戸(東京)と東海道で結ぶ起点だった。そこの東のたもとに高山彦九郎(1747〜93)の銅像がある。彼は江戸時代の尊皇思想家で、全国を行脚(あんぎゃ)して勤皇論を説いて回ったという。その天皇を敬う気持ちから、彼は京都の町に入る時と出る時に、天皇の住まわれる御所に向かって土下座をして礼を尽くしたという。その故事にちなんで、この銅像も御所のある北西の方向に向かって、今でも土下座をしている。

 その彦九郎さんのことを思い出した。15日の夜、ブッシュ大統領が泊まった迎賓館は御所の中にある。ということは、彦九郎は今夜はアメリカ大統領に向かって土下座をしていることになる。勤皇の志に厚い彼がもし今の時代に生きていたら、刀を振り回して大暴れしたのではないか。

 もし坂本龍馬(1836〜1867)が生きていたら、呵々大笑(かかたいしょう)愉快愉快と豪快に笑い飛ばしていただろう。その龍馬が京都の河原町蛸薬師(たこやくし)で暗殺されたのが11月15日(新暦だと12月10日)だという。

 かつて京都の町はテロと殺戮の町だった。金閣寺で「ここは平和だ〜。」と言ったブッシュさん。昨夜は日本の怨霊や亡霊たちに悩まされなかったのでしょうか。出たとしても、「スバラシイ」しか話せないブッシュ相手では、怨霊も退散するしかないか。妄想は尽きない。

 
第198号(2005年12月26日)〜天津飯の謎〜
 
 長い間、不思議に思っていた謎がやっと解けた。そもそもの始まりは、ある中国人留学生の発表だった。日本に来て目にした不思議な食べ物として、彼女は「天津飯」を紹介してくれた。

 日本ではごく普通の中華料理だが、本場中国にはない「中華料理」なのだそうだ。「甘酢餡かけ蟹玉子丼」とでも言うべきものを、なぜ「天津飯」というのか、ずっと不思議だった。天津から来た別の留学生は、こんな食べ物、天津で見たことも、聞いたこともないと断言した。じゃ、なぜテンシンハンなの??と、ずっと不思議だった。

 その謎がやっと解けた。先日、同志社で行われた留学生スピーチコンテストで、上海から来た留学生が、天津飯は日本で作られた、新しい玉子丼なのだと説明してくれた。

 子供の頃、「あまつあまぐり」と誤読した人もいたらしいが、日本で有名な天津甘栗、ところが天津は栗の産地ではない。中国国内から集められた栗が天津港から日本に輸出されたことから、中国産甘栗を代表して「天津甘栗」と名付けられたそうだ。

 もちろん中国を代表する港は天津だけではない。その時代、その時代で変わるそうだ。これは中国通の友人ヤマモト君から聞いた話だが、ある時代は内陸部にある南京の川港がその地位にあったとか。だから、今でも、南京錠・南京豆・南京玉簾(たますだれ)・南京虫など、中国から入ってきたものに南京の名前を冠する物があるのだと言う。

 ところで、話を天津飯に戻す。かつて天津から栗以外で大量に輸入されたものがあった。当時は高級食材だったが、今は庶民の食材として多方面で利用されているものだ。玉子である。だから、玉子を使った新しい料理に「天津飯」という名前が付けられたのだと言う。

 関西では有名な中華料理チェーンの王将が2005年夏に中国大連に進出し、現在2店舗あるそうだ。日本と同じメニューで現地の人も多いとか。気になるなあ。天津飯はやはり「天津飯」なのだろうか。

 あれこれ書いてきたが、どうやら年内に200号突破は無理みたいだ。なぜなら、現在、京都文化博物館のD橋さんにお借りした韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」中毒に、隣のやまむらさん共々かかってしまい、年賀状もままならない有様だ。

 もっとも、可哀相なヤマチャングムは、隣の最高尚宮さまのご命令で、自分の賀状より先に作らされて、ますます窮地に陥っておりますが…。ほんまはこんなん書いてる場合と違うのですが、ROM君からプレッシャーを受けて…。トホホホです…。

 最後に、また別の天津からの留学生のエピソードを紹介して終わりたい。実は、彼女は天津で「天津飯」を食べたことがあるのだそうだ。日本語を勉強していて、偶然知った「天津飯」なる食べ物を、日本に行く前にどうしても食べたくて、天津中を探し回って、やっと見つけてのだと言う。なんと、日本料理屋で。 (^。^)

 読者の皆様方、健やかで、よいお年をお迎え下さい。そして、この「週刊か月刊かなあ〜」も、引き続きよろしくお願い致します。 
 

この印鑑をクリックするとページの上に戻ります。