第128号(2003年1月1日)〜謹賀新年〜

 2003年がスタートした。年の初めにジョークを一席。有名な話で、すでにご存知の方もおられるかもしれないが、最近、あるサイトに書かれていて、ちょっと気に入っている話だ。

 今にも沈没するという状況で、客を海に飛び込ませるために、船長が、言うセリフ。
 イギリス人には、
「紳士はこんなとき海に飛び込むものです。」
 アメリカ人には、
「いま海に飛び込んだらヒーローになれますよ。」
 ドイツ人には、
「この場合海に飛び込む規則になっています。」
 フランス人には、
「誰も海になんて飛び込みませんよ。」
 日本人には、
「みんなすでに飛び込みましたよ。」
 韓国人には、
「日本人も飛び込みましたよ。」
 ロシア人には、
「いま上等のウォッカが海に落ちてしまいました。」
 中国人には、
「あ、あそこに美味しそうな魚が…。」
 イタリア人には、
「そこに美女が泳いでいます。」

 この話には続きがあると、スウェーデンにいる義弟から連絡があった。スウェーデン人には、「各グループで十分討議した上で飛び込むかどうか議論してください。」と言いうそうだ。

 たぶん、他の国でも同様のジョークが作られているのだろう。ちなみに日本人には、耳元でそっと呟く事が秘訣だという。誰が作ったか知らないが、なるほど、と思わせる。が、これを見ると、自分にはフランス人の血が流れているかもしれないと思った。そう言えば、うちの母親は愛媛県出身で、「ボンジュール」のかわりに「ポンジュース」と言ったことがあったなあ。

 笑門来福。今年もよろしくお願いします。

第129号(2003年1月9日)〜古時計は何処?〜
 不振といわれながらも40%前後の高視率を維持している紅白歌合戦。今回最高視聴率をあげたのは中島みゆきだったとか。黒四ダムの地下トンネルからの熱唱。この中継には3千万円もかかったそうだ。そのNHKの努力には敬意を表したい。しかし、ウソはいけないと思う。

 今回の目玉のもうひとつは、平井堅がアメリカから歌った「大きな古時計」。モデルとなった時計の前で、しんみりと歌を聴かせるのには、現場のスタッフの並々ならぬ苦労があったことだろう。しかし、実際、この曲のモデルとなった時計は、イギリスの北東部ダーラム州ピアスブリッジという町のジョージ・ホテルにあるそうだ
世界の民謡・童謡のサイト「大きな古時計」特集より

 古時計の作曲者ワークが1874年に仕事でイギリスを訪問し、泊まったホテルで聞いたエピソードをもとに作詩・作曲したのがこの"My Grandfather's Clock"なのだそうだ。

 以前、このジョージ・ホテルはジェンキンズという兄弟が経営していたそうだ。二人は生涯独身で、地域の人々から信頼され、愛されていた。ホテルには兄が生まれた日に購入された大きな時計があり、一日も遅れることなく正確な時を刻み続けていたという。

 それが、ある日、弟が病に倒れ、先に亡くなってしまった。すると、今で狂ったことのなかった時計が、それを境に少しずつ遅れるようになった。その遅れは、いくら調整しても直らず、やがてどんどんひどくなっていったそうだ。

 弟の死後1年くらいし、今度は兄が後を追うように亡くなった。その死を聞いてロビーに集まった町の人たちは騒然となった。なぜなら、時計の針が11時5分を指して止まっていたからだ。その時刻こそ兄が亡くなったまさにその時間だったのだ。兄弟の死後、ホテルを継いだオーナーが、何回も時計を修理したが、その針は11時05分を指したまま、動こうとしなかったという。

 ホテルのオーナーからこの話を聞いたワークは感動し、寝ずに一晩でこの曲を仕上げた。彼自身が、子どものいなかったジェンキンズ兄弟の孫になった気持で作ったのだ。そして、早速アメリカへ持ち帰り1876年に楽譜が出版されると、ミリオンセラーになったそうだ。
 実際、ジョージ・ホテルは現存し、時計も未だにロビーにあり、11時05分を指して止まったままだという。このエピソードを伝える10数年前の新聞記事も残され掲示されているらしい。

 確か、以前見たNHKのドキュメンタリー番組では、ワークの子孫の家に伝わる古時計をモデルとして紹介していた。今回の紅白でも、その時計を再登場させている。しかし、モデルの時計が残っているはずは、ありえないのだ。

 余り知られていないことだが、「大きな古時計」には続編がある。同じ作者によって前作の二年後に楽譜が出版されている。その歌詞は、久しぶりにお祖父さんの家を訪れた主人公が目にした悲劇が描かれている。家には見知らぬ奴らがいて、壁には新しい時計が我が物顔で時を刻んでいる。新しい居住者は動かない古時計を役立たずと罵り、売り払ってしまう。そして時計はバラバラにされ…。そんな悲劇的な結末が歌われている
世界の民謡・童謡のサイト、続編の歌詞の解説より
 ワークはなぜ続編を作ったのだろう。もしかして、前作の大ヒットにあやかり、あちこちでGrandfather's Clockの偽物が現れたからではないだろうか。

 NHKさん、何千万もの金を出してアメリカから平井堅に歌わせる価値があったのでしょうか。そのお金って私たちの受信料では…。と、正月から吠えてしまいました。悪しからず。

第130号(2003年2月3日)〜紫式部が生きていれば…〜

 最近、本を読まなくなった。昔は大阪から京都まで電車で通学していたので、よく本を読んだ。たいがい冒険小説とか歴史物だが、面白い推理小説なんかだと、最後は手でページを隠しながら読んだこともあった。それが、去年、夢中になって読んだ本があった。新潮文庫で5冊だったが、読み出すと物語の世界に没入してしまい、抜け出せなくなってしまった。田辺聖子さんの『新源氏物語』だ。

 田辺さんは、原作をそのまま追いかけて現代語訳にせず、小説として不要と思うところは大胆に切り、登場人物の心理を描くのに必要なら自由自在に書き加え、現代の小説を読むように源氏物語の世界を堪能させてくれた。

 今、週に1回、大阪に電車で通勤するのだが、車内で、もし、紫式部が今ここにいたなら、卒倒するだろうな、と思ったことがある。二人掛けの隣席の女性がゴソゴソしている。横目で見るとコンパクトを出し化粧をしている。顔にいろんなものを付けて、目もいじって、忙しそうだ。揺れる電車の中、人も大勢いるのに一向に気にならない様子。見回すと、前方でも同様の様子が窺える。

 もっとも「通勤中 メールに化粧に 朝ごはん!」なんてOLの川柳があるくらいだから、そんなことにめくじら立てていても仕方ない時代なのだ。だが、源氏物語の時代、女性は、見ず知らずの男性に顔を見られることを極端に恥じ、扇で隠したり、御簾の内から出て来なかった。こんな醜態を紫式部が見たら…、なんて、つい考えてしまった。

 この話を留学生にした。韓国でも、ドイツでも、多くはないが、人前で平気で化粧する人はいるそうだ。しかし、中国の留学生から、「そんな人、中国には絶対にいません!」と断言された。嗚呼、愛すべき中国の女性よ、と思ったのも束の間、「だって中国人は化粧しませんから。」と言う声が追いかけてきた。

第131号(2003年2月7日)〜ヒットラーに会った人〜
 ヒットラーに会った人がいる、という話を聞き、驚いた。

 「98歳のモト女優の最期を看取ることになりそうだ。」
 縁も所縁
(ゆかり)もない彼女がそうなったのは友達に頼まれたから。しかし、この友人も親族ではない。名前を尋ね、「サワランコ」と言われても分からない。「逢いたさ見たさに怖さも忘れ♪」の流行歌とともに1924年に大ヒットした映画「籠の鳥」に主演した、戦前の無声映画時代の大女優と言われても、???だった。
 『銀幕の昭和〜スタアがいた時代〜』
(筒井清忠編著、2000年、清流出版)に、澤のインタビューがある。それをもとに、ネットでの情報も交え、波瀾の人生を辿ってみたい。

 仙台で父は漢学者の家に生まれた蘭子は、千葉で育ち、お嫁さんになるだけの平凡な人生が嫌で宝塚少女歌劇団の試験をこっそり受け、合格する。当然、父は激怒。家出同然に宝塚に入り、1921年泉蘭子の芸名でデビューした。その後、映画女優の地位が低かった当時、頼まれしぶしぶ出演した映画「籠の鳥」が空前の大ヒット。彼女は映画界へ転身することに。

 やがて澤蘭子と改名した彼女は、現代的な面立ちが素敵な女優で、瞳の魅力で「ひと目1000両」と人気を集めたそうだ。37年に米国映画「マダムバタフライ」の主演候補に指名され、横浜から船で渡米する。その船中で出会ったのが近衛秀麿
(1898〜1973)だった。

 近衛の兄は、戦時下で三度首相となった近衛文麿
(1891〜1945)。彼自身は、今ならさしずめ小沢征爾のような存在で、24年にベルリン・フィルを指揮してヨーロッパデビューし、35年以降、欧米に活動拠点を移し、活躍したようだ。現在のNHK交響楽団の前身、新交響楽団を創設したのも彼だ。近衛の棒はなかなかわかりにくく、当時ドイツ最高の指揮者と言われたフルトヴェングラー(1886-1954)をもじって「フルトメンクラウ(振ると面食らう)」と言われたエピソードも紹介されている

 アメリカに着き、近衛は蘭子を食事に誘った。その時、「あなた役者でしょ…。私が声楽のいい先生紹介しますから、私の奥さんの役をしてくれませんか。」と口説いて、愛人にしてしまったという。
 結局、日米関係が悪化し、蘭子の映画の話は中止。近衛も反日感情が悪化した米国から拠点をベルリンに移し、ナチス占領下のパリでオーケストラを結成するなどの八面六臂の活躍をした。この頃、蘭子はベルリンの演奏会でヒットラーと会ったことがあるそうだ。


 『私も「ハイル・ヒトラー」ってしながら、目と鼻の先の距離で見ました。茶色の瞳に同色のつやつやした髪。四十歳前後で怖い感じはしなかった。
 二時間ぐらいの演説も原稿を完全に暗記していて、いつまでも声が続くの。特技というしかないわね。』

 桑木務『大戦下の欧州留学生活』(中公新書621)にも澤蘭子の名前が見える。1943年1月23日、場所はハンガリーの首都ブダペスト、日本人のたまり場となっていた笹本駿二氏宅。

 『ちょうどベルリンから来ていた朝日新聞の山脇亀夫君と、交換留学生になって在住している菅博雄君、武官室の吉川さんほか日本人十名ばかり、笹本駿二氏のお宅によ招ばれて会食、快談した。女優の澤蘭子さんも、今日ドイツからやってきたとかで参加した。…(中略)…「澤蘭子にはさわらんことだよ」とだれかが囁いた。
 何故女優である澤蘭子がドイツにいたのか不思議であるが、欧州で活躍する指揮者近衛秀麿子爵の妻と記載された記録がある。子爵は元首相近衛文麿の弟である。それが下地にあって先の「澤蘭子にはさわらんことだよ」という発言が出たのかもしれない。』

 ドイツの敗色が濃くなると、近衛は蘭子を置いてきぼりに、一人日本に帰国してしまう。残された蘭子は他の日本人270人とベルリン郊外の城に籠城することになる。そこでタンポポの葉まで食べる窮乏生活を送ったあと、ソ連軍に連行される。

 当時の外務省としては、敵国である米英連合軍に捕まるより、まだ一応友好関係を保っていたソ連に捕まる方が得策と考えていたようだ。しかし、捕虜となった民間人たちはシベリアから満州まで貨車で運ばれ、過酷な扱いを受けた。
 蘭子も満州でソ連秘密警察の前に引き出され、銃口を向けられたという。殺される寸前、促されパスポートを見せたら、「近衛子爵夫人」と書かれていたのが目に留まり、危機一髪助けられたという。

 苦労して、やっとの思いで1946年帰国し、京都の姉の所に身を寄せる。49〜50年と数本映画に出るが、歌手へ転身。その後は、ずっと京都で友人に囲まれ一人で暮らしたという。戦後、一度だけ近衛から連絡があったそうだが、彼女は頑として会わなかったそうだ。


 『私はまっすぐ生真面目のドイツ流で、できうる限り独りの力で生きてきた。大変な度胸でね。私 は、私がいちばん好きなのは自分だと断言できるの。今は、親しい人たちの訪問を受けたり、大好きなシャンソンを歌って自由に暮らしています…。縁(ゆかり)の人々はみんな亡くなったけど、私はまだ役割があるから生かされてるんだと思ってます。』

 94歳の澤蘭子は最後にこう独白している。

 2003年1月13日京都新聞の訃報欄は「大正末期の大ヒット映画「籠の鳥」のヒロインを演じた女優・澤蘭子さんが11日午後11時55分、老衰のため京都市下京区の病院で死去した。99歳。」という文章で始まっている。

 「女優・澤蘭子」そこには「元」がなかった。私には、彼女を愛する友人たちの思いが伝わってくる。映画やテレビに出ていなくても、彼女の人生そのものが「女優」だったのだ。いちばん好きなのは自分だと断言できる人生を送った澤蘭子さん、心からご冥福をお祈りする。

第132号(2003年2月17日)〜愛の津波〜
 バレンタインデーが終わった。今年は、隣のやまむらさん、の隣で働いているイケノさんからいただいたのがヒトツだけ、だった。イケノさんありがとうございました(涙+涙)。しかし、今から十年と少し前、日本語学校で教えていた時は、十個以上もらったこともあった。その最盛期、不思議とチョコに縁があった年の話だ。

 友人と久しぶりに会って飲みに行った。その時、友人から聞いた話が今でも忘れられない。
 会社で仕事をしていると、バレンタインの義理チョコを配っている女子社員の声が遠くから近づいてくる。なぜか彼女は一人一人に「あいしてますー」という声をかけながら配っている。何の感情も込めない平板な「あいしてますー」という声が、だんだん彼の耳元に津波のように近づいて来て…、背筋に冷たいものが感じられ…。やがて彼のもとにもチョコが配られ、遠ざかって行ったという。

 こんな話に盛り上がって、最後にラーメン屋に入った。食べて勘定を済ませると、店員のお兄ちゃんが、「バレンタインですから…」と言って、小さなチョコレートをくれた。私の背筋にも冷たいものが…。

第133号(2003年2月27日)〜なんでだろう♪〜
 海外の方、今、日本では毎日テレビをつけると、赤と青のジャージを来たテツ&トモという二人組がギター伴奏で歌う、「なんでだろう♪なんでだろう♪コンブが海でダシが出ないの、なんでだろう♪」なんてのが流行っている。今回は、それにあやかって、私が教えたドイツ人の学生が言ってた「なんでだろうニッポン」を二題。 

1.ニュース番組にコマーシャルが入るの、なんでだろう。
 そもそも客観性が問われる番組なのに、コマーシャルが入るということは、当然、スポンサーのニュースに対しては営業サイドからのチェックが入るのでしょうね。そう言えば、これだけサラ金からの借金苦から自殺や強盗、殺人事件が連日起こっているのに、どこの局も政治家も安易に金を貸し付けたサラ金業者に対しては批判的な態度を見せていない。これに関連して、以前、留学生から、こんななんでだろうを聞いたことがある。
  「金もないのに、学生証一枚で何十万円借りられるの、なんでだろう」
2.医者が弱い薬を出すのは、なんでだろう。
 これはドイツで医学を勉強してきた学生が言ってたことだ。ドイツでは、同じ風邪薬でも、もっと強いのを出すそうだ。その代わり、一日1〜2回しか服用しないという。日本では、副作用の心配なのか、それとも営業利益を上げるためなのか、弱い薬をたくさん飲ませるそうだ。

 なんでだろう♪なんでだろう♪私たちの社会、ネタが尽きることはない。

第134号(2003年3月14日)〜ヘイ・フィーバー〜
 阪神タイガースの星野監督が花粉症でサングラスにマスクという完全武装の出で立ちでテレビに映っていた。テレビでも毎日花粉の飛散状況を流している。しかし、これは日本だけではないらしい。アメリカ大リーグに挑戦している松井選手もフロリダで花粉症に悩ませれているという。それもオレンジの花粉とか。
 この花粉症について、友人のナベちゃんがオランダからメールをくれたので紹介する。


 『花粉症等のアレルギー、ヘイ・フィーバー(hay fever)と英語で言われていますが、オランダでもホイ・コーツと言ってそろそろシーズンがやってきます。杉花粉ではないけれど、やっぱり花・木の花粉とか、あとは芝生の刈り取りなんかされたら、僕も一発でアウチです。でもこちらでは花粉症のマスクどころか、普通の風邪のマスクなんかしている人もいないし、マスク自体何処にも売っていません。みんな薬で症状を押えているようです。』

 ナベちゃん、ありがとう。  それから、花粉症の皆さん、お大事に。

第135号(2003年4月1日)〜星野監督への手紙〜
 戦争がまた始まった、と言ってもプロ野球の話。こんな戦争なら何回やってもらっても構わない。これからは、毎日見る阪神タイガース星野監督のHPもさらに熱くなってくるだろう。その星野監督へメールを送った。読んでもらえるだろうか。

 星野監督、開幕おめでとうございます。プロ野球人にとって開幕は正月のようなものだと聞いた ので、初メール、このような言葉で始めさせていただきました。ところで、正月と言えばカレンダーですが、阪神タイガースのカレンダーについてご意見を伺いたく、いや、お願いしたいことがあって、メールを送らせていただきます。
  
 私は岡田コーチが現役の頃から毎年カレンダーを飾っているファンです。それも写真を破らないよう針金ハンガーにひっかけて、毎月楽しみにめくっています。ところが、毎年毎年悲しい思いをする月があります。監督、今年の八月のカレンダー見て下さい。バルデスが阪神のユニフォームを着て大きく写っています。去年はもっと悲惨でした。心機一転星野阪神がスタートしたのに、肝心の監督は…。
  
 そこで、一昨年は梅田の阪神百貨店タイガースショップでカレンダーを買う時、店員の男性に、ファンの声を代弁してお願いをしました。聞くところによると、中・高生のファンが多いジャニーズ事務所のカレンダーは、学校暦に合わせて四月スタートになっているとのことです。野球も四月が開幕で、それに合わせてカレンダーを作れば、退団した選手を載せることもないですし、新入団の選手や、去年の分なら星野新監督も載せることができました。何とか善処していただけないでしょうか、という主旨のお願いでした。

 これを聞いた男性店員は、とても丁寧になぜできないか、説明して下さいました。
(1)選手との肖像権か何かの契約期間で四月からは不可能、
(2)他のどこの球団もやっていない、

というのが理由でした。言葉は丁寧でしたが、契約期間なんてカレンダーに合わせていくらでも変更可能のはずですし、他球団がやっていないからこそ、ファンのためになることなら、タイガースが率先してやるべきではないでしょうか。何か暖簾に腕押しのような感じで、初めからこちらの意見に耳を傾けようという気持ちは全然感じられず、がっかりしました。
  
 こういうことを星野監督にお願いするのはお門違いかもしれませんが、ぜひ球団の方に一ファンの願いを伝えて頂けないでしょうか。開幕に合わせて、その年ともに戦う選手達が写ったカレンダーを作って下さい。ジャニーズのように二月末発売の四月からのカレンダーであっても、ファンは喜んで待って買うはずです。よろしくお願いします。

 末筆ながら、今シーズンの熱い戦い、最後まで期待しています。お体に気をつけて頑張って下さい。


第136号(2003年4月26日)〜風評〜
 妹が夫の転勤で4歳と2歳の娘(白い羽を付けたデビルちゃん達)を連れてスウェーデンへ発って十日たった。先日、四歳の姪が電話をくれた。よくわからなかったが現地の様子を一生懸命に話してくれた。その後、二歳のが変わって出てきて一言、「オッタン!」。

 妹の出発時、航空券とともにマスクが三人分送られてきた。重症急性呼吸器症候群
(SARS)対策だ。
 この病気、今年2月26日ベトナムのハノイの病院で患者が報告されたのが最初と言われてきた。ところが、今日の報道では、昨年11月にすでに中国広東省で新型肺炎患者が発生していて、今年の1月には調査、2月には予防策を採るよう通達が出ていたのに、広東省が悪質な報道管制を敷いていたことが暴露されていた。

 新学期が始まり、中国の留学生達と話す機会があった。そのうち、広東省出身のO君は2月に帰省し、現地で悪い病気の噂を聞いたという。広州では、この病気に酢が効くという風評がたち、人々が買い占めに走り、値段が三倍にまで急騰したそうだ。

 現在は北京が大変なようだ。漢方薬が効くとなると行列ができ、北京が閉鎖されるとなると、食料品が買い占めにあうという。肝心な情報は隠す、自分たちの政府を信頼していないから、一度風評がたつと、大変なパニックになるようだ。
 その中国で現在流れている噂を、ある留学生から聞いた。なんでも、今回のウイルスはアメリカから持ち込まれたというのだ。

 日本でも対岸の火事と、のんびり構えてはいられない。実は、3月末にオランダの友人からメールが来ていたのだが、中国・香港・シンガポール・ベトナムだけでなく、日本も「要注意地域」に指定されたそうで、「これらの国へ旅行を控える様に」と通達が出たそうだ。
 この通達が現在でも解除されていないのか、どうかは知らないが、要注意地域に居住している我々は逃げるわけにもいかない。北京の大学生たちのように、オッタンもスポーツでもして体を鍛えるとしようか。

第137号(2003年5月10日)〜すてきなステーキ〜
 3日に大学院時代の後輩の結婚式が岡山であった。黄金週間でもあり隣のやまむらさんも一緒に小旅行をした。途中、神戸で昼食を食べることに。神戸と言えば神戸牛。三宮駅近くで店を探し、ステーキランチ980円という看板に惹かれて店に入った。

 「焼き加減は?」と聞かれ、「ミディアム」と答える。目の前で手際よく焼き、小さくカットして、皿に盛りつけてくれる。本格的なステーキに舌鼓を打ち、幸福感にひたっていると、後から若いカップルが入ってきて、隣に座った。

 「ステーキランチ」と同じものを注文する。その後から男が「これって神戸牛ですよね」と聞く。隣のやまむらさんの耳がピクッとなる。「神戸牛はこちらの高い方ですが」と店員が答える。「やっぱり神戸に来たら、神戸牛を食べないと」とカップルは会話を交わし、高い方を注文する。

 しばらくして、出てきた肉は、明らかにさっきのと違う。僕は値段が値段だから、それなりに満足して店を出たのだが、隣のやまむらさんの拳には力が…。
その後の悪口雑言は(書けません)

第138号(2003年5月11日)〜葵祭〜
 京都新聞に名前が出た。一面のコラムに研究を紹介してもらった。実は、この春休み、葵祭(あおいまつり)にはまってしまっていたのだ。

 専門外の人間でも情報化社会では、面白いことを見つけてしまう。東京大学史料編纂所が公開している大日本史料のデータベースで、葵祭の正式名称「賀茂祭」を検索した。従来は、応仁の乱以降1502年から、江戸時代の1694年に再興されるまで約200年中断していたとされる祭が、中断期間中なのにゾロゾロ出てくる。ここから深みにはまってしまった。

 「葵祭の由来は?」と聞かれると、行列を飾る葵の葉っぱからと答える人が多いだろう。それなら、源氏物語にも描かれた祭である、平安時代の用例があっていいはずなのに皆無である。日本国語大辞典第二版には1638年の用例までしか遡れない。

 「1638年?」確かこの時、行列はなかったはず。では、葵祭の葵は何の葵なのだろう。調べると、賀茂祭は中断したのでなく、祭の形態が変わって続けられていたことがわかった。神社での神事は引き続き行われていたし、天皇が暮らす御所でも内祭が行われていた。
 それで天皇近辺の日記を調べてみた。天皇に近侍する女官たちが輪番で書き継いだ『御湯殿の上の日記』という記録がある。ここには毎年四月の中の酉の日に宮中で「賀茂祭」が行われていたことが記録されている。そこから、1600年まで百年以上「賀茂祭」という名前で記録されていたものが、1625年に「賀茂の葵の祭」、1681年・1686年には「葵祭」と名称が変化していったことが確認できた。

 これまで考えられてきた葵祭の由来の間違い、従来を遡る用例の指摘、そういったことを問われるままに京都新聞の論説委員のMさんに電話でお話しした。
 私は名前の由来は、葵を紋所とする徳川家との関係もあると考えている。名前が変化した頃、宮中には徳川将軍の娘和子
(まさこ)が天皇と結婚して入ってきている。そんな時代を反映しているのでは、というようなことをあれこれ話した。面白がって聞いてくださった。それが今朝の朝刊コラムに紹介されている。

 嬉しかった。なぜなら、同じ話を、中学からの友人のROM君や隣のやまむらさんに話したのだが、「それが何の役に立つの」という超現実的なお言葉しか頂戴できなかったからだ。
 この研究は『祭祀研究』という雑誌の第3号に掲載される予定だ。年内には出ると思うのだが、その前に、今週木曜に祭が行われる。雨が降らないといいのだが。
(葵祭のみ)雨男の私は、今年は見ることができない。

第139号(2003年6月31日)〜一昔、二昔…〜
 誕生日は?と聞かれると、ロクガツサンジュウイチニチと答えることにしている。このボケがわからない人が時々いるが、毎年この頃になると、つい昔を振り返ってしまう。

 十年ひとむかし、と言うように、一昔前は韓国で日本語を教えていた。一年目の更新が終わり、日本に夏休みで帰ってきた頃だ。二昔前は、台湾に向けて出発した。YMCAの夏休みボランティアで日本語を教えに行った。経験も知識もなかったが楽しかった。パパイヤミルク500tを飲むのが楽しみだった。飲みすぎてお腹を壊しながら授業をしたこともあった。途中で何回もトイレに駆け込みながら、冷汗をかきつつやった。まさかこんなに長く日本語を教える仕事を続けるとは、その時は思いもしなかった。

 そのまた一昔前。高校に入って初めての夏休み、山岳部の合宿で長野県松本への夜行列車に乗った。列車に座る席はなかった。乗るなり先輩が新聞紙を手に持ち、「さあ、寝に行こう」と言った。先輩の後を着いていくと、急に通路で立ち止まり、新聞紙を広げて横になった。「おえまらも、好きなところに寝ろ」と言われたが、さすがに新人にはそんな度胸はなかった。私と友人の二人は車両と車両の間のデッキで新聞を広げて寝た。

 この夏は、今までの自分の人生がすべて覆
(くつがえ)された。山には水道なんて、もちろん無く、雪渓(せっけい)の雪解け水で飯を炊いた。それまでの自分がなんと恵まれた便利な文明生活を満喫していたのか、実感させられた。
 山を歩く時は、日射病に脱水症状、足は靴擦れ、背中はリュック擦れ、痛くて苦しくて、このまま山から転落して死んだら楽になれるなあ、と朦朧とした意識で考えたこともあった。そんな疲れ果てて、死の一歩手前と考えていた時、最後のテント場が見えるなり、どこにこんな力が残っていたのかと不思議に思えるくらい、急に力が湧いてきた。あの時の感動は忘れられない。昔々の話になってしまった。

第140号(2003年7月7日)〜1年前と18年前〜
 1年前と18年前、共通しているのは道頓堀(どうとんぼり)だ。この週刊?は私にとって日記がわり、1年前の116号に、ワールドカップで熱狂したファンが道頓堀川に飛び込んだ話を書いている。熱狂する日本人を見て、イギリス人も飛び込んだとか。18年前も阪神タイガースの優勝で多くの人が飛び込んだ。今年は、現在まで七割という驚異の勝率で突っ走っているタイガース。過去十年間、最下位6回、5位1回、4位3回というチームがこの変わりよう。ファンも大騒ぎだ。京都の北山では、ビルの上に黄色の横断幕が掲げられ「祝、優勝」の文字がある。

 人の記憶というのはいい加減なもので、1年前に静岡で見たワールドカップが、ずいぶん昔のように思われる。ところが、18年前に甲子園で見たバース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発は、昨日のことのように鮮烈に覚えている。当時は、亡父の関係で甲子園の切符が簡単に手に入った。あの日は、阪神の選手家族席を回してもらい、友人と観戦した。満員の球場、座ったのは巨人ベンチの後ろの三塁側。遠慮しながら応援した。

 阪神のピッチャーが誰だったのか覚えていないが、巨人のピッチャーが槙原で、そのボールはよく見えないぐらい速かったのを覚えている。その快速球を阪神の3番4番5番が続けてホームランを打った。思わず万歳をして、自分が三塁側にいることに気付き、周囲を見回すと、みんな阪神ファンだった。大きな拍手をやり続けて、手が真っ赤に腫れあがり、痛かったのを覚えている。

 18年前の阪神優勝と1年前のワールドカップ、記憶の濃淡の違いは、私が阪神ファンというだけではない。実は、ワールドカップの放映権を持っていたドイツの企業が倒産し、巨額のお金を払ったのに、日本のマスコミは、あの映像が使えないことにある。これからも阪神優勝の映像は繰り返しテレビで流されるだろう。しかし、一年前に日本中が熱狂したワールドカップの試合は、当分は見られそうもない。

第141号(2003年7月25日)〜京都の不思議〜
 京都も梅雨空の下、祇園祭山鉾巡行も終わり、あちこちで蝉が鳴き始めた。ちょっと前まで蛍が飛んでたというのに、もうすぐ夏本番だ。
 書店に行くと、よく「京都の謎」とか「不思議」とかいう本を目にする。テレビでも番組名に「京都」を付けると視聴率がアップするという。そういう京都の面白さを考えてみた。

 東京は今年が江戸開府400年ということで、いろいろなイベントがあるそうだが、たかだか400年で騒ぐのは可笑しい。京都では2年後に1200年祭が企画されている。京都遷都を実行し、延暦25年(806)3月17日に亡くなった桓武(かんむ)天皇を記念するためのものだ。

 京都の古さはそんなもんじゃない。はるか氷河時代にさかのぼる天然記念物もある。深泥池だ。普通は「みどろがいけ」と呼ばれているが、昔から地元では「みぞろがいけ」とも呼んでいる

 最初にこの池の名前を聞いたのは怪談だった。深夜、長い髪の女性を乗せたタクシーの運転手が、目的地に着いて客席を振り返ったら、乗客は消えていて、シートがびしょびしょに濡れていた、という話の目的地が深泥池だった。
 この池には流入する河川も流出する河川もない。池の中央には浮島があって、そういった特殊な条件が氷河期からの動植物を守ってきたという。

 我が家の近所には深泥池より不思議な店がある。肉屋なのだがシャッターに「ワニ・カエル・○○○○あります。」と書いているのだ。蛙はフランス料理の食材で、そういえば、昔ホームスティーした英国人のお父さんがフランス人のことをFrog(蛙)と呼んでいたなあ。ワニは昔ヤクルトスワローズにいたパリッシュ選手の好物だったことを思い出す。しかし、ダチョウはだれが食べるんだろう???京都は不思議な町だ。

第142号(2003年8月17日)〜掃除をしたら…〜
 パソコンの掃除を久しぶりにした。買ってそろそろ一年、いろんな不要なファイルが溜まっていると思って、気分一新、〔趣味〕の「初期化」をしてしまったのだ。

 手順どおりやって、まずウインドウズをアップデートしようとインターネットに接続すると、突然〔エラーメッセージ〕が出て、コンピューターが自動的に再起動する。ネットには無線で接続しているので、このトラブルかと思い、ケーブルを引っ張りだして、再度やり直す。ところが、またまた〔シャットダウン〕されてしまう。ケーブルを抜き、ネットに接続しないと、何ら問題ない。これはネットの問題と思い、早速ヤフーに電話してみた。

 延々と待たされ、やっとつながって、事情を説明すると、ウイルスの可能性が高いとのこと。「まさか!」と思った。メールを受信したわけでも、ホームページを見たわけでもなく、初期化したばかりで、そんなこと〔あるはずない〕はずだった。
 ヤフーでは対処の仕方を教えて、もし問題が発生しても責任がとれないので、マイクロソフトがパソコンメーカーに尋ねるようにアドバイスを受けた。結局、NECに電話し、今流行りの〔MSブラスター〕に感染していることがわかった。対処の方法を教えてもらい、まず"msblast.exe"を止めて、マイクロソフトの配布している修正モジュールやら、ワクチンソフトをダウンロードして、やっと事なきを得た。

 しかし、大変な時代になったものだ。ネットにつなぐだけでウイルスに感染するとは。これからは、ウインドウズとセキュリティソフトのアップデートを万全にして、自分で自分のパソコンを守らなければ。念のため、今回のウイルスについては以下のページを参照して下さい。
・Windows XP用
http://www.microsoft.com/japan/technet/security/virus/blasterE_xp.asp
・Windows 2000用
http://www.microsoft.com/japan/technet/security/virus/blasterE_nt4w2k.asp

 今年の夏は、大文字の送り火とともに、ウイルスも去っていった。合掌。

第143号(2003年8月28日)〜よさこい〜
 今年も8月9〜12日の4日間、高知では「第50回よさこい祭り」が行われた。187チーム、約2万人の踊り子が参加したという。7月にその高知で聞いた話。

 「よさこい」って「夜這(よば)い」のこと。「夜さり来い(夜に来なさい)」という意味だそうだ。といっても、もともと高知に夜這いの祭りがあったわけではない。今年で50回というのだから、意外に祭りの歴史は浅い。

 昭和29年(1954)全国的な不況の中、地元商店街への集客を目的に始められたそうだ。約300年の伝統を持つ隣県の「阿波踊り」を意識して作られた新しい祭りだから、逆に制約の少ないのが特徴だ。鳴子(なるこ)を持つこと、音楽は「よさこい鳴子踊り」のフレーズ「土佐の高知の播磨屋橋で、坊さんかんざし買うを見た…」を一部でもどこかに入れること、1チームの踊子数は150人まで等々で、この自由さが若者に受けた。

 人気チームには数万円も払ってやっと入れるとか。それでも順番待ちが多数だそうだ。この祭りの様子がインターネットで見ることができる。中でも帯屋町筋の映像には、地元出身タレント広末涼子が参加している。仕事休んで戻ってたんだ(練習からちゃんと参加していたとか)。踊り子たちの楽しそうな生き生きとした顔、お金払って全国から参加している人、この祭りに憑かれて高知へI(アイ)ターンしてきた人、大使が高知出身ということでアフリカのガーナでも始まったというから、もうこれは世界的だ。

 その高知市の人口がこの10年で1万人くらい増えている。過疎地帯からお年寄りが移ってくることが多いという。山間の地域には病院も商店もなく、郵便配達も車を降りて徒歩でという所もあるそうだ。いくら「住めば都」といっても病気を抱えた高齢者には暮らせない。そこで家屋敷田畑山林を処分して都会に出てくるらしい。

 高知の郊外には新興住宅がどんどん建っている。ところが…。例えば高知駅前。この辺りは昔は一面の蓮根畑、つまり沼沢地だったそうだ。掘っても掘っても水を含んだ粘土層で、高層マンションは建てられないという。こんな場所や、以前、洪水が起こると必ず水浸しになった土地に新興住宅は建設されるという。地元の人は怖くて買わないそうだが、地震や洪水が起こったらどうなるのだろう。

 高齢者が去った過疎地には、都会から田舎暮らしに憧れて「よさこい、よさこい」と、アイ・ターンの人々がやってくる。彼らの30年後、40年後は…?

第144号(2003年9月8日)〜残暑???〜
 九月になっても京都はアツイ。昼が暑いのは仕方ないが、例年なら涼しくなる朝晩、まだまだ暑い。この天候の異変は、18年ぶりに優勝目前の阪神タイガースのせいかもしれない。

 近くのスーパーでは、優勝カウントダウンということで、2倍から始まって、ついにポイントが5倍になった。あちこちでは優勝セールの準備がもう万端整っている。あるスーパーでも阪神が優勝したらセールを行う予定だとか。だが、ここは確か去年、巨人優勝セールをやっていたはず。節操がない、と思うのだが、以前の社長が長嶋ファンだったから行ったまでで、今は変わって阪神だと言っている。

 今週は、いよいよあちこちで阪神祭りが盛大に行われるのではないだろうか。大阪のホテルではビールかけが体験できるそうだ。へそ曲がりの私は、周りが熱くなればなるほど、ちょっと引いてしまう。ところで、この暑さ、今年は「残暑」と言えるのだろうか?八月が冷夏で暑くなかったから、残るなら「残冷」では、なんて考えるのは、へそ曲がりのせいか。

 冷夏の影響は、全国的な米の不作と野菜の高騰だけではないらしい。北海道ではニンジンが豊作で捨てているとか。海ではサンマが豊漁で暴落していると言っていた。街で聞いた話では、夏場に雨が多く、松茸が豊作になりそうだとか。

 9.11が近づいてきて、テロリストがまたまた大規模テロの計画をしているとか言っているが、「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」、要はどっちを向いて生きるかだと思う。しかし、暑い、熱い。

第145号(2003年9月16日)〜十八〜
 9月15日早朝、阪神優勝を見るため甲子園に一番に並んだ人へマスコミが尋ねた。「いつから並んでるんですか?」「18年前から!?」

 そんな話しも伝わってくるほど、長い18年だった。本当のところ、優勝するなんて思ってもいなかった。ただ秋まで野球が楽しめたらいいとしか思っていなかった。なんせこの10年、最下位6回の万年Bクラスのチームだったから。

 昨夜は遅くまで優勝祝賀番組を見て眠かったが、今朝は早起きして近くのコンビニでスポーツ新聞5紙セットを640円で買っききた。なぜなら、星野仙一監督がファンに応援感謝の広告を
(もちろん自腹で)載せているというからだ。

「昨日、球場に来られなかった人たちにもありがとう。〔デイリー〕
「日本経済のために優勝したんやないで(笑)。
〔ニッカン〕
「あー おもろかった。
〔スポニチ〕
「あ〜 しんどかった(笑)
〔サンスポ〕
「勝ち組、負け組、そんなん、ないんや。
〔報知〕

 こんなところにまで気を配る星野監督なればこそ、万年Bクラスのチームが一つになったのだ。

 星野の優しさは、子供の頃から有名だったそうだ。病気で歩けない同級生を二年間、毎日、背負って小学校に通った話を先日テレビで紹介していた。その番組では、普段絶対に見せないプライベートな生活まで見せていた。例えば、優勝目前のタイガースが広島とのゲームに負けた後、星野が広島市内の焼き肉屋で酒を飲みながら食事をしているシーンがあった。横にいたのは打撃コーチの田淵と広島カープの山本監督だ。学生時代からの親友とはいえ、シーズン中に三人が仲良く食事をしているところを、よく許可したものだ、それも阪神のライバル巨人の系列のテレビ局にだ。

 ところが、翌日、監督自らHPで言っていたのだが、親友の山本監督の息子さんがそのテレビ局にいて、そのルートから頼まれたからOKしたのだそうだ。それぐらい星野は人を大事にする。こういう人だから、選手みんなの力が一つになって、優勝できたのだろう。

 巷
(ちまた)では優勝セールが始まった。オランダの友人の話では、アムステルダムでも日本食材屋さんが一日限りで全品18%引きセールをするそうだ。この店のオーナーも、さぞ長く長く待っていたのだろう。ファンであってもなくても、しばらくは世界中で優勝を楽しむことができそうだ。

第146号(2003年10月8日)〜つれづれなるままに〜
 作家の宮本輝みやもと・てる/1947〜 /が、大学入試の問題になった自作の模範解答を見て、「俺、そんなつもりで書いたんちゃうねんけど…」と言ってたというようなことを、昔読んだことがある。それと同じことを、『徒然草』の作者兼好も、洩らしているかもしれない。

 「『徒然草』は随筆文学というもののあり方と可能性を示した名作である。」なんてことが、ある教材会社が出しているビデオ古典名作撰の内容紹介に書かれていた。だが、『徒然草』で「随筆文学のあり方と可能性を示した箇所」なんてどこにあるのだろう? 新潮文庫で本文約155頁、どこを探してもそのような記述はない。それらしき箇所と言えば、いわゆる「序段」の「つれづれなるままに、日ぐらし、硯に向ひて、心に映りゆくよしなしごとを、そこはかなとく書きつくれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」、かもしれない。

 この「序段」、学校で暗記させられた人も多く、日本古典文学でも一二を争うほど有名な所だ。しかし、その内容は??? である。特に、つれづれ一日あれこれ気ままに物書きしている静かな状態が、なぜ、突然「物狂ほし」という激しい狂気じみた状態になるのか、わからなかった。

 話に夢中になるということはわかる。しかし、「書く」という行為は、もっと客観的、理性的であるはずだ。我を忘れた状態でモノを書いたって、結局、独善的で、ろくな物なんて書けるわけない。なんで兼好はこんなこと書いたんだろう?ずっとその意図をはかりかねていた。このことを何年も考えていて、ついに、『方丈記』にその鍵を見つけた。

 「世に従へば、身苦し。従はねば、狂せるに似たり」。『方丈記』にこの言葉を見つけた時、これは『徒然草』の「物狂ほし」と同じだとピンと来た。語釈を見ると、「行基菩薩遺誡」からの引用とあった。ギョーキボサツユイカイって何? さっそく調べてみた。

 行基の遺誡とは、行基
(668〜749)に仮託して書かれたもので、平安後期にはすでに成立していたという。先の『方丈記』を始め、『宝物集』『沙石集』あるいは西行の和歌などに引用されたりして、中世では広く知られた言葉だという。

※行基菩薩遺誡の言葉〜
「世に従へば望あるに似たり、俗に背けば狂人の如し」
(原本の漢文表記を読み下し、関係する部分を『宝物集』から引用した。)

 この発見は嬉しかった。兼好は随筆文学のあり方なんて書いてるんじゃない。行基の言葉を踏まえて、世に従わない、つまり、出家して一日机に向かってあれこれ思いつくままに書き物をしている自分を評して、「物狂ほし」(狂人のようだ)と書いているのだ。ここからすべてはスタートした。

 再度、『徒然草』の本文を調べてみた。江戸時代に印刷され、現在広く使われている烏丸本といわれる版本を始め、それ以前の室町時代の古写本すべて「あやしうこそ物狂ほしけれ、いでや、この世に生まれては願はしかるべきことこそ多かめれ」と、本文は続けて書かれている。

 そもそも「序段」なんて区分は、兼好が付けたものじゃない。江戸時代の注釈者達が勝手に本文を変えてしまったのだ。その理由は、一つは彼らが行基菩薩遺誡を知らなかったこと、もう一つは、「あやしうこそ物狂ほしけれ」の係り結び「こそ…けれ」を強調・詠嘆と解釈したことにある。

 「こそ」は、確か学校で「強調」と習った記憶がある。ところが、本来の用法は「逆接」である。『徒然草』でも逆接で使われている箇所がいくつもある。この「あやしうこそ」の部分も、文が後に続くとなると「逆接」で使われいると見なさなければならない。さらに、陽明文庫にある室町時代の古写本がそれを裏付けてくれる。この本では、「あやしう物狂ほしけれど、いでや…」と、係り結びではなく、逆接の接続助詞「ど」が使われいるのだ。

 結局、『徒然草』の冒頭部は、古写本の本文をもとに考えると、序段と一段というように区分するのではなく、逆接で文章がつながっていると解釈しなければならない。その兼好の意図が分からない後世の注釈者が、勝手に文を切ってしまい、我々はその解釈を疑いもなく受け入れていただけなのだ。

 「序段」だから、そこには作品全体の「序」が書かれているという思い込み、「序」だから、謙遜の辞が書かれているという思い込み、これまでの解釈は、すべてそういう思い込みのメガネをかけて本文を解釈してきた。我々に必要なのは虚心坦懐に本文と向かい合い、作者の意図を汲み取ることではないだろうか。

 この部分、「行基菩薩遺誡」を踏まえて解釈すると、無理なく逆接でつながる。

 世を背き、一人籠居のつれづれに、日がな一日、心に浮かぶとりとめもないことを、あれこれと書き付けていると、行基菩薩の「俗に背けば狂人のごとし」さながら、我ながら妙に狂人めいた感じがするものだが、でも実際、この世に生まれたからには、「世に従えば望みあるに似たり」、誰もが望む、ああなってほしい、こうありたいという、願望や欲望、名利名声は多いものだが…。

 このようなことを、この二、三年考えてきた。大学の講義で学生相手に話して、反応を確かめてきた。そして、いよいよ10月26日に中世文学会で発表することになった
(午前10時から25分ほど、場所は同志社今出川キャンパス明徳館21番教室)。現在の心境はまるであのガリレオ・ガリレイ。

 マスコミでは、こんなのネタにしてもらえないかなあ。でも、古典文学も暗記だけじゃないってこと、もっともっと知ってもらいたいと、つれづれなるままに思っている。

第147号(2003年10月27日)〜秋、秋、秋〜
 秋の田に黄金(こがね)の波を立てていた風が友を失い、刈田を打つ雨が山々を錦に織りなしてゆく。京都も時代祭が終わり、日々秋の色が深まりつつある。

 秋と言えば、スポーツの秋。今年は、18年ぶりで日本シリーズを堪能した。結果は伴わず、大家のやまむらさんはカリカリしていたが、精一杯やった選手たちの健闘を讃えたい。

 また、秋と言えば、読書の秋。今年は、春からずっと読み続けている『鬼平犯科帳』、ついに17巻目まで到達した。結婚した妹が置いて行ったものだが、もう十年以上本棚に積読状態だったのに、読み始めたら止まらなくなった。

 さらに、秋と言えば、勉強の秋。日曜の学会発表も無事終了した。大きな大会での発表もこれで4回目。以前「神風」という言葉について、右翼のような人に質問され、冷汗をかいた経験からすると、今回の発表は自分自身大いに楽しめた。こっそり会場にもぐりこんでいた隣のやまむらさんは、居眠りせずに聞いてくれたのだろうか。

 そして、秋といえば食欲の秋。今、とても食べたいものがある。ナガエノスギタケと言う。モグラの研究には欠かせない茸
(きのこ)で、これが松茸やトリュフのように美味だという。なぜモグラかと言うこと、この茸、かなり特殊で、モグラの便所からしか生えないそうだ。モグラの排泄物、つまりウンチから生えてくる珍しい茸なのだ。地面からは10センチくらいの白い傘が出ているのだが、引っ張ると、思った以上に長く、全部掘り出すのに丸一日かかることもあるらしい。

 この茸のこと、自分ではどうしようもないので、こっそりテレビに投稿した。トリビアの泉という、バラエティーだ。もう二週間になるが、未だに返事はない。何かと待ち遠しい秋である。


第148号(2003年11月8日)〜タイムスリップ〜
 奈良・斑鳩(いかるが)1dayチケットを買って奈良に行った。京阪神の各私鉄、各地下鉄から近鉄奈良まで、それぞれの路線が一日乗り放題で1500円〜2000円という切符で、2004年3月31日まで京阪神の私鉄地下鉄の駅で販売されている。
 最寄りの京都市地下鉄北大路から奈良まで片道840円、1dayチケットだと1600円、単純に往復するだけでもお得なのに、一日京都市営地下鉄全線と京都〜奈良、奈良〜大阪間の近鉄線が乗り放題+観光施設の割引クーポンまでついてくる。これは絶対にお得だ。

 奈良へは正倉院展を見に行った。その前に途中下車して田辺で仕事、さらに西大寺で下車して、秘仏の愛染明王を拝観した。この像は1281年にモンゴルが攻めてきた時、叡尊が祈祷に使い、敵を敗退させたものだという。
 そして博物館の正倉院展へ。平日だが大勢の人の背中越しに急いで展示を見る。人が多いとゆっくり見ることはできない。個人的には、ゆっくりと国宝や重文の仏像を見ることができた平常展の方が印象に残った。

 急ぎ足で奈良を見て、帰ろうとした時、急に思い立って生駒の聖天さん(宝山寺)へ行った。ここは、小学生の頃、大阪でささやかな商売をやっていた我が家が、家族でよくお参りした所だ。

 近鉄生駒駅は再開発されて当時の面影はまったくない。ここから1918年に日本で最初に敷かれたというケーブルカー(片道280円)に乗って宝山寺駅へ。ケーブルの沿線もすっかり開発され、家やマンションが立ち並び、往時の面影はなかった。

 ケーブル宝山寺駅から石段を登って8分くらいでお寺に着く。途中の道は昭和の雰囲気がそのまま残っていて、無性に懐かしかった。あの頃は、亡くなった父に連れられて、母と弟、妹の五人でこの石段を息も切らせず、競走しながら登ったものだ。今は、フーフーと喘ぎながら何とか門前へ。

 1960年代の宝山寺門前には、白い服を着て片足や片手の傷痍軍人の人がいたのを記憶している。門をくぐって鳥居のある境内へ。お寺か神社か分からない不思議な空間だ。びっくりしたのは、お寺の裏に岩窟がそびえていることだった。小さい頃の記憶には全く残っていなかった。
 逆に、聖天堂の前にある大香炉はしっかりと覚えていた。なぜなら、お参りするたびに、この煙を頭にかけられたからだ。母はこの煙をかけると頭がよくなると信じていたのだ。さて、その効能はあったのだろうか。この歳になっても親から叱られるということは、正直疑問に思わざるを得ない。

 お寺の境内を抜け、3分ほど歩くと小さな滝があって行場となっている。ここは30年40年前とまったく変わっていなかった。しいて言えば、寄付を記した看板の文字が薄くなってしまったことぐらいだ。タイムマシンに乗った気分でケーブルカーに乗り、山を下りた。
 1dayチケットでタイムスリップができるとは思わなかった。

第149号(2003年12月5日)〜京都のタクシー〜
 今、京都の一部のタクシーでは「きもの割引」ということをやっている。着物はもちろん、作務衣(さむえ)、法被(はっぴ)、柔道着、剣道着を着ている人、お坊さんや神主さん、七五三の子供さんなどでも一人いれば、料金を10%割り引いてくれると言う。いかにも京都らしいサービスだ。(MK タクシー :2004年1月31日迄、京聯タクシー:2004年3月31日迄、帝産観光タクシー:2004年3月31日迄)

 その京都のタクシーの話。現在、市内には約8500台ものタクシーが走っているそうだが、そのタクシーをドライバーに代わって運転したという人がいる。昔からの友人のRom君だ。なぜ彼が運転することになったのか、本人の了承は得ていないが、面白かったので、勝手に紹介させてもらう。
(もし、記憶違いや創作があれば、御免。)

 彼が以前住んでいた京都の西方、嵯峨のあたりは、嵐山に行く人で観光シーズンともなると、幹線道路はひどい渋滞に悩まされるそうだ。かといって裏道を行こうとしても、JR線や京福電鉄線が東西に走り、南北は大覚寺の方から流れてくる有栖川
(ありすがわ)が道をブロックしていて、なかなか通り抜けができない地域なのだ。

 ある日、Rom君がタクシーに乗ると、運転手が裏道を走り出した。日頃ワンちゃんの散歩などで、この辺りの道を熟知しているRom君は、その道が行き止まりになっていることを運転手に伝えたのだが、この運転手、なかなか強気で、
大丈夫です!
と狭い道を突っ込んで行く。
運転手さん、ほんまに、この先、道ないよ〜
「お客さん、大丈夫です!!
と、運転手も引かない。結局、道はRom君が予想した通り。運転手さん、泣く泣く狭い道をバックで引き返そうとするが、かなりヤバイ状況に。
 運転手さん、怖い顔した客を後ろに乗せているだけでもビクビクなのに、道を間違えたことで、さらにパニックに。そこで恥をしのんで、
お客さん、すみませんが、降りて後方を確認していただけないでしょうか
と、Rom君に頼んできた。
自信ないのか?
はい。申し訳ありませんが…。」
わかった。俺が運転したる。どうせこの車、車両保険に入ってないやろ。それやったら、あんたがぶつけても、俺がぶつけても同じことや。

 藁にもすがりたい運転手は、Rom君の自信タップリの言葉に、ついハンドルを任せてしまった。そして、Rom君、運転手に代わって狭くて怖い道を10メートル、タクシーを無事にバックさせたという。

 蛇足だが、ほとんどのタクシーは車両保険には入っていないそうだ。30万円の免責額を超える事故の場合は、車を買い換えた方がいいし、それ以下の軽微な事故なら、自社の整備工場で直せる。それなら、高額の保険料を払う意味がないからだ。

 しかし、我が友ながらRom君は大したオッサンです。尊敬してます。

第150号(2003年12月8日)〜初雪〜
 北米ニューヨークの辺りでは大雪で死者まで出ているとか。日本でも、仙台、金沢で初雪の便りが聞かれ、北海道ではお天気の雪マークが並ぶようになってきた。ようやく冬将軍も玄関先まで来たようだが、京都の冷え込みはまだまだ緩く、初雪はいつ頃になるのか見当もつかない。部屋から見える大文字山に、白く「大」の字が浮かび上がるのが待ち遠しい。

 ところで、初雪というと、思い出すことがある。十数年前の韓国でのことだ。大学で授業をしていた時、突然雪が降りだした。窓の外を見て、きれいだなと思っていたら、教室の中は大騒ぎになっていた。いったいどうしたのかよく分からなかったが、女の子たちが初雪を見て、大喜びしていたのだ。その時は、なぜ彼女たちが初雪に有頂天になっていたのか、「?」だったが、最近になって、やっとその理由が分かった。そのわけは、彼女たちの爪にあったのだ。

 今でも、まだやっていると思うが、韓国では夏になると、母親や祖母などが女の子の爪を鳳仙花(ほうせんか)で赤く染めてあげるのだそうだ。(*この風習については、東京大学大学院人文社会系研究科留学生作文集『ぎんなん』2000年度第12号朴甫卿さんの作文が詳しい。)
 日本でも、昔、七夕に鳳仙花を使って爪紅(つまべに)、つまり現代のマニキュアをする風習があったそうだが。

 私が初めて韓国の大学に仕事で行ったのは1992年の10月頃だった。たまに学校で爪にヨーチン(ヨウ素とヨウ化カリウムとをエタノールに溶かした、暗赤褐色の消毒・刺激剤。ヨードチンキ)を塗ったような女子学生がいて、それも全部の爪に塗っていて、「変なことしてるなー。ファッションかなー。」と首を傾げたものだった。

 その時は、爪のヨーチン?が初雪と関連して来るとは、知らなかった。なぜなら、その時説明してくれた学生の日本語能力が低く、何のことかよくわからないまま、いつのまにかこの事も忘れてしまったからだ。

 今年になって、韓国の留学生と話す機会があり、ふいに爪のヨーチンのことを思い出した。聞いてみると、「鳳仙花で染めた爪の色が、初雪まで残っていると、初恋の人と結ばれる」という言い伝えがあるということだった。なーんだ、それであんなに大騒ぎしていたのか。分かるのに、10年以上かかってしまった(苦笑)。あの時大騒ぎしていた彼女たちも、もう立派なアジュマ(おばちゃん)になっているだろうが、伝説の結果はどうだったのだろう。

 そんなことを思い出しながら、初雪を待っている。見ると、比叡山には丸い月が…。今夜は冷え込みそうだ。

第151号(2003年12月24日)〜クリスマスイブ〜
 クリスマスイブはクリスマスの前夜祭ではない、という話を聞いた。なんでもキリストの生まれたユダヤの一日は、日没から始まり日没で終わるらしい。だから、イブはクリスマスの祝祭日の始まりを意味するのだそうだ。つまり、もうクリスマスは始まっているのだ。

 その関係からか、ドイツではイブの夜は、キリスト生誕の頃の食事を思い出し、粗食で済ませるとか。ドイツ人の学生から教えてもらった。その学生が驚く日本のイブの夜の光景は、ケンタッキーフライドチキンの前の行列だ。隣のやまむらさんも、何でみんな○○の一つ覚えみたいに並ぶのかなあ、と憤慨しておられた。もちろん日本人である我が家の夕食にはチキンやターキーなど並びません。今夜は「すき焼き」に「ケーキ」でした
(苦笑)

「最近は門松、あまり立てなくなったなあ!?」

 年々豪華になっていくクリスマスツリーを見て、年配の方がつぶやいておられた。そう言われれば、近年クリスマスの飾りつけは早く、豪華になっていくのに、正月は、晴れ着を着る人も少なくなり、注連飾りも、特に車など少なくなり、地味で、なんか普通になってしまったような気がする。この歳では、お年玉も貰えないし。

 この風潮は、日本の家庭の変化と対応しているような記事を、『文藝春秋』2004年1月号で見た。立ち読みだったから、じっくりは読んでいないが。ちなみに、この雑誌の巻頭は京都の特集で、その一部を友人のカメラマン小林君とライターの奥さんが担当していた。こういう形で友人の仕事ぶりを見るのは、嬉しいものだ。

イブの夜、読者の皆さんに、プレゼントは何もありませんが、一言。
「happy Christmas!」

第152号(2003年12月31日)〜さよなら2003〜
 今年最後にかかってきた電話は、海外にいる妹からだった。クリスマス休暇でスウェーデンを脱出し、カナリア諸島でバケーションを楽しんだ妹からのメッセージは、「紅白録っといて!」だった。

 帰ってから衛星放送で見るのを楽しみにしていたのだが、時間を勘違いしていて、見られないのに気づき、あわてて電話してきたという。隣のやまむらさんは、「そんなに見たいのかなあ」とつぶやいていたが、同じ海外生活体験者として、この気持ち、よく分かる。

 今年もあとわずか。2003年に思い残すことは一つ。台湾に行けなかったことだ。

 今から20年前、私は5人の仲間と、夏休みボランティア日本語教師として台湾に行った。私が働いたのは、南部の台南YMCA。毎日、朝と夕方に授業があり、ホームスティ先から自転車で通った。初めは、どうも自転車が走りにくかったが、それは私が日本式に左側通行していたからだった。

 日本語を教えるのは初めての体験で、かなりいいかげんな先生だった。「このクラスに学生は何人いますか?」と初級のクラスで質問する。「シニンいます」と答えが帰ってくる。「シニンですか。それは日本ではこう書きます。」といって、〔死人〕と板書する。それを見て、日本語の話せない学生が笑ってくれる。ひたすら、笑いを求めた6週間だった。(※このスタイルは今も変わっていない。)

 笑いと言えば、こんな悲惨な体験もした。当時、暑い台湾で一番の好物だったのが、ムークワニューナイウーパイシーシー(木瓜牛乳500t)と、今でも耳に残っているパパイヤミルクだった。

 授業の後、よく学生たちとこれを飲みに行った。初めは500t飲むのがやっとだったが、慣れてくるとお代わりをするようになる。といっても、料金は、さすが儒教の国、学生が競って出してくれた(多謝)

 台湾では、外が暑い代りに、ビルの中では冷房がガンガン効いていて、ビルから出た瞬間、メガネが真っ白に霞んでしまう。もともと胃腸が丈夫な方ではない私は、ある日、学生に勧められ、500tのをダブルで飲んでから授業に出た。ところが、授業中、突然、お腹がゴロゴロ言い出したではないか。冷汗をかきながら、頑張ったが、もう辛抱できない。学生に「御免!」と言って、トイレに駆け込む。涼しい顔して教室に戻り、「お腹を下す」という言葉教える。しかし、一回では納まらなかった。次は「下痢」という言葉を教え、その次は…。その時、不思議と、教室の窓の外にヤモリが張り付いていたのを覚えている。

 台湾での思い出は、他にもいろいろある。生まれて初めてコンパクトディスク(CD)なるものを聴いたのもここだった。ホームスティ先に、日本で売り出したばかりのCDプレーヤーがあったのだ。その時、聴いた音楽は松田聖子。彼女の伸びやかな高音が、耳にグーッと迫ってくる感触は、今でもよく覚えている。

 私のホームスティした家は病院で、小学生の子供2人はアメリカ留学中、お手伝いの「おばさん(台湾語でお手伝いさんをこう呼んでいた)」がいて、毎日美味しい料理と果物がお腹いっぱい食べれて、週末はおばさんが休みなので、家族と外食。フランス料理、高級中華、和食、いろいろ御馳走になった。

 当時のボランティア仲間は、板のベットに寝たとか、シャワーがなく、風呂の水道水を使ってシャワーしたとか、皆かなり苦労したようだが、私一人、冷房完備の個室で、ふかふかベット。日本の我が家より、かなりリッチな生活を楽しむことができた。

 私たち日本人は、台湾のことに無関心な人が多いが、逆に台湾では、お年寄りは日本語で話しかけてくれたし、若者たちは日本の文化に憧れ、いろいろなことに興味を持つ人が多かった。20年前に感じたことは、今でも変わっていないのではないだろうか。ただ、台湾の経済成長は目覚ましいものがあると聞くし、その変貌振りを見たい気持ちに変わりはない。

 ああ、あれから20年の月日が流れてしまった。当時の仲間と、同窓会も兼ねて、もう一度、台湾に行ってみたかったのだが、行けなかった。今でも、あの頃の仲間とは賀状の交換をしたり、この「週刊?」を送ったりして、交流は続いている。しかし、今でも日本語を教えているのは、私一人になってしまった。



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