椿井大塚山古墳の意義
「広報やましろ」の記事を参考にしました。
前史
昭和28年3月に椿井大塚山古墳の石室が発見されるまで、
この古墳はどのように捉えられていたのでしょうか。
貴人の墳墓とみられた大塚山

山城町所蔵の「仏法最初高麗大寺図」には、この古墳と考えられる場所に
「太政大臣(藤原)百川公墳」と書かれた高い大きな塚が描かれています。
この絵図は幕末に椿井政隆という地元の歴史家によって描かれ、
藤原百川の墓とされています。
また、明治一七年(一八八四)、「椿井村村誌」の陵墓の項には次のように書かれました。
「古墳 本村東北方字大塚山山中二アリ。封土(盛り上げた土)高五間(約9・1M)
、周囲一町(99・17アール)許(ばかり)。墳上、松及ヒ雑木ヲ生ス。伝へ云フ
、藤原百川ノ墓ナリト・・」
明治三十八年(一九○五)に岩井武俊という人がはじめてこの古墳を学界に紹介したときも
「円墳」としています。
その後、椿井大塚山古墳の形状は、明治二十九年(一八九六)に敷設された京都ー奈良間
を走る奈良鉄道(現在のJR奈良線)の鉄道工事で大きく損なわれました。このとき、
玉類や刀剣が出土したという噂を耳にしたことがありますが、はっきりしたことはわかっていません。
全景

前方部と後円部との間にJR奈良線が通っています。
前方部には何百年も前から人が住んでいて、
現在は古墳の保護活動をしています。現地説明会の協力、
見学者への説明、草刈り、掃除、ベンチの設置などボランティアでされています。
全国でも例のないことです。
椿井大塚山古墳 規模 と構造
全長 : 175m
後円部径: 110m
前方部長: 80m
前方部幅: 76m
後円部高さ:20m
前方部高さ:10m
後円部段築:4段
前方部段築:2段
主体部:竪穴式石室
長6.9m?幅1.1m?高3m
副葬品:中国鏡30数枚
武具、農漁具など
築造時期:3c後半?4c初め
昭和28(1953)年3月

太平洋戦争が終結して8年が経とうとする昭和28(1953)3月、木津川市
(当時は高麗村)の椿井で鉄道の改良工事が行なわれていました。現在のJR奈良
(当時の国鉄奈良線)は、ちょうど椿井大塚山古墳を横断する個所で、雨の後など
によく土砂崩れがおこり、鉄路を埋める事故がありました。この工事は、鉄道斜面の
傾斜を緩くして土砂崩れを防止するためのもので、古墳後円部を大きく削っていまた。
この時、椿井大塚山古墳の石室が発見され、後に「卑弥呼の鏡」として注目を集めた
三角縁神獣鏡がざくざくと出土したのです。
連絡を受けた京都大学考古学教室からは樋口隆康氏らの若手の研究者が駆けつけ、
早速古墳の調査にあたります。このとき梅原末治教授は岡山へ発掘調査に出張中でし
たが、このことが後に大きな問題へと発展していきました。
ところで、京都大学考古学研究室による現地の確認が行われ た時、すでに二つあった埋葬施設
(棺を納置した施設)のうち一方は完全に破壊され、
また一方も乱掘に近い状態で大量の副葬品(棺の中や棺の廻りに納められた品々)
が取り出された後だったようです。即刻、工事は中止され、翌日より調査が開始されました。
調査では、すでに取り出され、また、散逸していた副葬品の追及や、出土状況の聴取が行われ、
さらに、埋葬施設や墳丘の測量調査も実施されました。この調査は、椿井大塚山古墳での始めて
の本格的な考古学調査であり、第一次調査として位置付けされます。
破壊を免れた理葬施設は、高野槙の幹を半裁して作られた割竹形木棺と呼ぶ円筒形の棺を入れた
竪穴式石室で、主軸をほぼ南北にとり、長さ6 .9メートル、幅1.1メートル前後、
高さ約 3メートルの規模をもちます。
なお、調査前にすでに破壊されていたもう一つの埋葬施設からは、40面近い中国鏡や、
武器、武具、農工具、漁労具など貴重な副葬品が出土しました。
また、このとき行われた墳丘の測量調査の結果、始めてこの古墳が前方後円墳であることがわりました。
贓物牙保(ぞうぶつがぼ)事件*
昭和28年3月、京都大学考古学研究室のメンバーが椿井大塚山古墳に駆けつけたとき、
工事の人達らによって埋葬施設は破壊され、副葬品も散逸していました。
三角縁神獣鏡などの銅鏡は砕かれた破片となっていました。比較的質の良い銅鏡数枚は持ち去られ、
残った鏡はことごとく人夫によって鶴嘴で砕かれ、バケツに入っていました。
京都大学に持ち帰った破片をパズルのように組み合わせて行くと、どうしても
組み合わせることの出来ない破片が何枚か出てきました。
散逸していた副葬品の追及もされ、数年後天王寺警察署から大阪市の古物商で
椿井大塚山古墳出土の銅鏡が見つかった、との連絡が京都大学へ入り散逸した
鏡の一部は返還されました。しかしながら、当時の事情を知る人によると少なく
ともあと一枚以上の銅鏡が散逸していると証言しています。
持っている人は返して下さい!!
*(贓物牙保:刑法256条2項。盗品の処分の斡旋をしたものは10年以上
の懲役および50万円以下の罰金に処す。)
発掘調査報告書
昭和28年に行われた椿井大塚山古墳の発掘調査報告書は、京都大学に戻った樋口隆康氏が執筆し、
昭和38年に書上げて梅原末治教授に提出しました。梅原教授はこれに加筆し、
自身の名前で京都府埋蔵文化財報告書の一冊として刊行しようとしました。
ところが、昭和28年3月、大塚山古墳の石室発見当時梅原教授が現地に不在であったことから、
調査結果が無断で使用されたと、梅原氏を暗に批判する文章が雑誌に発表されるなどした結果、
刊行は中止され、椿井大塚山古墳の貴重な発掘調査結果は長い間日の目を見ることはありませんでした。
樋口隆康氏はこの事態に嫌気がさし、長く日本を離れシルクロードで遺跡の発掘調査にあたります。
時が流れ、梅原末治教授が没し、樋口隆康氏が手もとに残したノートをもとに平成10年になって
「昭和28年 椿井大塚山古墳発掘調査報告書」が山城町教育委員会から発行されることとなり、
発掘調査報告書の問題は落着しました。
三角縁神獣鏡

「魏志倭人伝」によると二三九年、卑弥呼は魏の皇帝に遣いを送り、
「銅鏡百枚」を授かります。実は、この鏡こそが全国の主要古墳から出土する
「三角縁神獣鏡」だとする有力な学説があるのです。
昭和二十八年(一九五三)、椿井大塚山古墳の後円部の石室からは、
四十面近い中国鏡が出土し、その内の三十数面が三角縁神獣鏡でした。
この数は、黒塚古墳で1998年に34面の三角縁神獣鏡が発見されるまでは、
全国の主要古墳で一〜二面、多くても数面程度の出土しか見られないのと比べると、
いかにその出土が桁外れであるかがわかります。しかも、その鏡が「卑弥呼の鏡」
と考えられるが故に、問題は大きいのです。仮に、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だとすると、
その鏡が大量に集積された土地が邪馬台国の候補地と考えられます。したがって、
椿井大塚山古墳の存在は、邪馬台国畿内説の最大の根拠ともなるのです。
前方後円墳の出現と古墳時代の始まり

古墳とは、通常「古代に造営された高塚をなす墓」と定義されます。
そして、この古墳に象徴される時代が「古墳時代」であり、ほぼ3世紀末から7世紀初頭の間
に相当します。なお、前代の弥生時代後期後半には、すでに大規模な墳丘をもつ墓が出現しますが、
これらは、古墳とは区別して「墳丘墓」と呼ばれます。しかも、その中には、奈良県馬口山墳丘墓
のように前方後円形(鍵穴状の形)をしたものも含まれるため、
弥生時代に大型の墳丘墓が存在する以上、古墳の出現時期も当然さかのぼらすべ
きだと言う意見があります。
しかし、古墳、特に前方後円墳の成立期は、各地域で割拠・対立していた首長どうしの
同盟・連合が生れた時期として、政治史的な観点を重要視するならば、弥生時代の墳丘墓は、
いまだその段階に至っていないと考えられます。なぜならば、この時期は、北陸から山陰地域
に分布する四隅突出形墳丘墓のような各地域ごとに独特の地域色が存在し、全国的な統一性
をみることはできないからです。したがって、古墳時代の成立とは、前方後円墳に象徴
される広域の政治秩序と突出した権力者の登場という前提が必要なのです。
ここでは、定型的な前方後円墳の出現をもって古墳時代は始まるものと考えます。
すると、全国を圧倒する巨大前方後円墳の初代は、奈良県箸墓(はしはか)古墳
(全長約276メートル)に求められます。現在、箸墓古墳は、御陵に指定されて
おり宮内庁が管理しているため詳細は不明ですが、この古墳と近似した墳形をもつ初期古墳は
、琵琶湖周辺から福岡平野にかけて点在することが知られています。そして、その範囲は、
「魏志倭人伝」が記す卑弥呼に従属した約30のクニの範囲に相当するとされこの古墳が
卑弥呼の墓であるとする意見もあるのです。ちなみに、椿井大塚山古墳は、この箸墓古墳の
3分の2の相似形であるとする見解が示されており、注目されます。もし、この共通の規格性
が発掘謂査によって証明されたなら、三角縁神獣鏡だけではなく墳丘においても、椿井大塚山
古墳と卑弥呼が結び付くことになるでしょう。
椿井大塚山古墳の意義

椿井大塚山古墳の意義は、単に全国の古墳の中でも多くの三角縁神獣鏡を出土したという、
その数だけにあるのではありません。椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡は、畿内を中心とした各地の
主要古墳に分有される同笵鏡(同じ型から造られた兄弟の鏡)を数多く含んでおり、
あたかも椿井大塚山古墳の主がこの鏡を全国に配付したかの様相を呈しているのです。
ところで、椿井大塚山古墳が造られた古墳時代とは、どのような時代だったのでしょうか。
文字どおり時代を象徴する古墳が盛んに造られた時代であり、ほぼ四〜六世紀の三百年間に相当します。
それ以前の弥生時代が、列島の各地域ごとにそれぞれ特徴釣な「墓」を築造していたのに比ぺて、
古墳時代になると鍵穴形の「前方後円墳」に象徴される全国的な統一性がみられる時代なのです。
そこには、広域の政治秩序と突出した権力者の登場という時代背景がありました。
まさに、列島の統一の時代と言えましょう。考古学者の小林行雄氏は、各地に前方後円墳が出現
したのは三角縁神獣鏡の配布の示される政治的関係の成立が契機となったと論じています。
つまり、弥生時代の末(三世紀半ば以降)に各地の有力者に配られた鏡は、
それぞれ各地で何世代か伝えられた後、その地域での首長権の確立と同時に古墳に葬られるに至ったのです。
そして、この政治的関係の成立にとって、三角縁神獣鏡の大量出土と分有関係の中心である椿井大塚山古墳
の持つ意義は、極めて重要と考えられます。
画文帯神獣鏡

邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から賜った「銅鏡百枚」が三角縁神獣鏡であるとする有力な説の他に、
近年では画文帯神獣鏡こそが卑弥呼の鏡であるとする説も唱えられています。
その訳は三角縁神獣鏡の副葬が棺の外で複数埋納を基本とするのに対して、
画文帯神獣鏡は棺のなかに遺体とともに置かれることがわかってきたからです。
平成11年にホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡は、中国の後漢時代(25〜220)末期のもので
三世紀前半に列島に伝えられたと考えられます。この画文帯神獣鏡は、椿井大塚山古墳や、
やはり三角縁神獣鏡が大量に出土した奈良県天理市の黒塚古墳でもそれぞれ一枚づつ出土しています。
当然、これらは邪馬台国の女王卑弥呼が遣いを送った三国時代の魏(220〜265)の年号をもつ
三角縁神獣鏡より古式のものであり、黒塚古墳では特別に布に包んで箱に入れられていました。
椿井大塚山古墳でも、他の鏡に比べ画文帯神獣鏡の状態は良好で、明らかに置かれていた状況が異なる
と考えられます。
しかしながら、卑弥呼の鏡が三角縁神獣鏡であろうとなかろうといずれにしても
三角縁神獣鏡が初期前方後円墳体制の最重要装置であることに変わりはなく、
古墳時代の成立を考えるうえでの歴史的価値を下げるものではありません。
また、画文帯神獣鏡の分布は、畿内と瀬戸内東部に偏っており、
明らかに三角縁神獣鏡の広域分布とは異なります。逆に、ホケノ山古墳と椿井大塚山古墳との
共通点を見ると、前方後円墳である点、後円部上での壺型土器の配置や竪穴式石室の初源形態を
もつ点があげられ、しかもこの古墳が箸墓古墳に隣接することが注目されます。
つまり、邪馬台国の時代の前方後円墳から大和政権の巨大古墳への連続性は、
邪馬台国畿内説の重要な根拠となるものです。
鏡の神秘

はじめて日本列島に鏡が登場したのは、今のところ弥生時代の中頃(紀元後一世紀)と考えられます。
それは円盤形の青銅製品で、鏡の背面に紐を通す輪(鈕、ちゅう)がニつあり、
細い線で刻んだ文様をもつ多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)と呼ばれるもの
(佐賀県宇木汲田遺跡出土)です。
ところが、この鏡は、本来姿を写すべき表側の面が凹面であり、うまく映像を結ぶことができません。
つまり、化粧道具として姿を写すための鏡の面は、平面または凸面でなければならないので、
この鏡は映像の道具ではないことがわかります。それは、普通、呪術(じゅじゅつ、シヤーマニズム)との関係、
太陽崇拝の祭祀具としての機能が説かれています。
かつて、倭人と呼ばれた原始古代の日本列島の住民の目に、太陽光線を受けて白銀色に 妖しく輝く鏡は、
どのように写ったことでしょう。
邪馬台国の女王・卑弥呼が「汝の好物」として魏の皇帝から賜った「銅鏡百枚」も、
その用途はけっして映像の道具としてではありません。神の祭を伝える「宝器」であり、
宝器の管理者である首長の権威の象徴であったと考えらます。
三角縁神獣鏡に描かれた世界

三角縁神獣鏡は、文様面に神仙世界で遊ぶ神人や仙人、そして不思議な獣としての霊獣を配し、
縁が断面三角形を呈するところからこの名称が付けられました。
三角縁神獣鏡に表現された主な登場人物・獣としては、世界の果てに住む東王父(とうおうふ)
や西王母(せいおうぼ)、琴の名手の白牙(はくが)にその良き理解者の鍾子期(しょうしき)、
神仙世界を邪悪から守護する巨(きょ)という棒状品をくわえた霊獣などがいます。
そして、その組み合わせや配置によつて様々に区別・分類されているのです。
これら三角縁神獣鏡のなかには、年号をもつ舶載鏡があり、それらはいずれも景初(けいしょ)
三年・正始(せいし)元年などの魏(ぎ )の年号をもちます。
しかも、三角縁神獣鏡は中国鏡のなかでも比較的大型品に属しますが、
一種類の鏡としては直径二〇〜二五センチとかなり規格性の高い大きさをもつ点が注目されます。
このことは、三角縁神獣鏡が卑弥呼の「銅鏡百枚」の最も有力な候補であることを示しているのです。
以上見てきたように、鏡は、当時の大陸における思想・文化状況を大きく反映していることがわかります。
しかし、当時の日本列島において、それらの図像の示す意味が理解できていたかどうかとなると、
はなはだ疑問です。 ただ、「汝の好物」として卑弥呼が欲した鏡が、「鏡の神秘」
に示される宝器だとしたら、それを所有する意義は大きいといえましょう。
そして、代々宝器として受け継がれた鏡は、強大な支配者の登場によって、
主権の象徴としての意味を喪失し、首長の死とともに古墳に埋納されるものと考えられます。
古墳時代の幕開けです。
こっそり運び出された椿井大塚山の天井石

昭和28年4月4日に京都大学による調査は終わり、石室は鉄道工事の人々によって埋め戻される
ことになりました。当時、調査関係者に宿舎を提供された庄司一昭さんは、
この遺構はもう二度と見ることはできない。せめてその一部でも人の目に触れるようにはできないか
と考えこまれました。
「そっと工事の方に話を持ちかけ、静かに中学校の北庭に運ばれて行ったのが
、今、山城中学校々門の南脇に横たわっている、・・・現地から訣れて抜け出した天井石そのものである」
と、『ふるさとの暮らしを語るー激動の昭和を生きてー』の中で圧司さんは記しています。
後円部の北側斜面をそろそろと降ろされた天井石の一部は、当時まだめずらしかった小型貨物車
に乗せられて中学校へ運ばれたのです。
この天井石は、今日まで中学生をはじめ数限りない人々の目にふれ、学習の教材になってきました。
ミスター文化財保護 「みんなの心が、文化財を守る」

井大塚山古墳の発見から今日までの長い時間の中で、行政機関である京都府教育庁文化財保護課の
方々による指導や援助が、絶えることなく続いてとなく続いてきたことも、忘れることができません。
その代表といえる人が、堤圭三郎さんでした。
堤さんは昭和8年春京都大学卒業と同時に、当時、奈良県、大阪府についで
全国三番目の埋蔵文化財担当技師
として京都府教育庁に入られ、平成8年3月指導部理事で退職されるまで、
埋蔵文化財の調査と保護一筋の道を歩まれました。
何時からか、誰からともなく「ミスター文化財保護 」と呼ばれるようになりました。
堤圭三郎さんの南山城での夥しい活躍は省略しますが、
なかでも椿井大塚山を史跡に指定するために尽力されました。
平成11年4月2日、生涯を文化財保護に捧げた堤さんは亡くなりました。
その二週間前、死を覚悟されていた堤さんは、城陽市で行われた講演「南山城の埋蔵文化財と発掘調査」
の中でも、椿井大塚山の史跡指定のための調査にふれられています。講義の最後は、
「…残された史跡を私たち一人ひとりが常々大事にしていくことが大切なことだと思います。
文化財を守っていくのは、行政機関だけではありません。一部の好きな人々だけでもありません。
私たちみんなの心が、文化財を守っていくのだと、私は信じております」と結んでいます。
「椿井大塚山古墳を守る会」
椿井大塚山古墳周辺の「隣組」では、毎年秋に女性の一泊親睦旅行が行われています。
1996年の旅行の夜、話題はお互いが住んでいる大塚山のことに及びました。
各家庭での神の信仰、大塚山に守られているような不思議な縁のことなどに話がはずみ、
大塚山の「供養」やその環境を守ることは、住んでいる自分たちの務めではという意見になっていきました。
当時、町教育委員会では、95年から4年計画で遺跡の範囲を確認する調査を始めていて、
後円部で新しい発見が相次いでいました。旅行から帰った皆さんは、隣組の長老を訪ねて相談しました。
力強い支援の意見があり、行政は行政で大塚山の保存に取り組んでもらっているが、
古墳の上に住んでいる私たち自身でもしっかり守っていこう。力を合わせる組織を創ろう、
ということになりました。そしてこの年の12月、大塚山古墳の上などに住んでいる10世帯、
30数人の人たちは、こうして「椿井大塚山古墳を守る会」を結成しました。
「守る会」の代表である大山順子さんはこう語っています。
『「私たちの古墳をもっと多くの人たちに知ってもらおう」と、誰いうとなく
自然発生的に話が持ち上がり、「守る会」を発足しようということになりました。
平成8年9月ごろ、地元主婦の集まりの席でのことです。「守る会」の活動では、
発掘調査現場の見学、町教育委員会職員との勉強会、京都大学に保管されている
三角縁神獣鏡の見学、他の古墳の見聞などを積極的に行っています。
発掘調査説明会では、全国の見学者を温かく迎えようと、甘酒、コーヒーの接待など行い、
多くの方の好評をいただいています。
今回、国の史跡指定という栄誉を賜り、本当に光栄でありがたいことだと思います。
「守る会」としても、その重さを身に泌みて感じています。
先祖伝来この古墳の上に住み、古墳と共生してきた私たちにとって、
椿井大塚山古墳は夢とロマンをふくらませてくれる場所であり、いつまでもやすらぎと憩いを
与えてくれる存在であってほしいと願っています。
私たちは、今後も「守る会」の輪を広げていきたいと思っています。
水面に投じられた私たちの一石が核となってうねりの輪を周辺に広げていく原動力になればと思います。
環境の整備と保護にどう取り組むか。偉大な遺産を顕彰し、いかに高揚させていくか。
いろいろな行事を通じて、他の地方の人々との交流をいかに幅広く積極的に進めていくか。
このような課題にみんなで取り組み、立派な祖先の遺産をしっかりと守り抜いたという
自負と誇りを私たちみんなで共有したいものです。』
椿井大塚山古墳のミステリー
1 椿井大塚山古墳の墳頂には、守る会の手で見学者のためのノートが置かれ、
この古墳を訪れた人々の感想が書かれています。
三年前のある朝、不登校の高校生がこの古墳を訪れ、景色を眺めるわけでもなく、
墳頂でボーっとしていました。少年の心の中は窺うことは出来ませんが、
彼は30分くらいすると元気を取り戻し、ノートに「いまから学校へ行きます」と記し、
古墳を降りて行きました。
2 椿井大塚山古墳の前方部には「守る会」の人々が8家族住んでいます。
今から5年前、古墳の上に住む人々が一年間に5人も亡くなるという不幸が「守る会」の人々を襲いました。
地元では卑弥呼の霊のなせる業かと騒がれました。恐ろしいことです。
亡くなった方々の年齢は、102歳、97歳、95歳、93歳、そして一番若い方が85歳。。。。 合掌
大塚山古墳に住む人々は卑弥呼の霊に守られているようです。
3 三年前古墳の上で出会った婦人は、道に捨てられた椿井大塚山古墳のシンポジウムのチラシに霊気を感じ、
古墳までやって来たが、私と出会う直前に天女が古墳の上空を舞っていたと言いました。
私が、大塚山古墳について、三角縁神獣鏡や卑弥呼の話をすると、婦人は思い当たる節があったようです。
婦人は霊能力が強い人ですが、椿井大塚山古墳はもとより、歴史や考古には全く無関心な人で、
枚方市からやってきたそうです。なんとも不思議な出会いでした。