それなえ

著者:山崎 治

兵庫県神戸市須磨区稲葉町5-3-20

mail:zcvwu38362@yahoo.co.jp

更新日:2024/04/26

【はじまり】

1957年、神戸生まれ。

1979年、免許を取得。さっそく、コツコツと講習会・研修会で勉強を開始。

1985年、 「山崎はり院」 開設。

1992年、勉強会の帰路、「素問」「霊枢」「難経」と「易経」を読んでいこうという話題になり、さっそくスタート。これが今も続いている。

【話し合い】

ひきつづき、素問、霊枢、難経、そして易経の話もできればいいですね。

繰り返すことで、少しは理解できてきたように思います。

一人では、なかなか古典を読み返すなんてできなかったと思います。

同感です。おかげで、臨床が変化してきました。

私は、はじめのころは、ただ痛い場所に鍼をするだけでしたからね。

このごろは、なんでも、陰陽、三才、五行に分ける、なんてことを考えるようになりました。そして、虚実というのが、今の私の課題です。

私も、虚実に迷うから、脈診に迷い、選経選穴にまよい、手法にまよいます。

思いがけず、良い結果になったり、まあまあの結果がでたり、まったくだったりです。 よい結果がでる理由があるはずなんです。

_よい結果がでる理由があるはずなんです_

◇ ◇ ◇

【1難_原文】

一難曰、十二経皆有動脈、独取寸口、以決五臓六腑死生吉凶之法、何謂也、然、寸口者、脈之大会、手太陰之脈動也、人一呼脈行三寸、一吸脈行三寸、呼吸定息、脈行六寸、人一日一夜、凡一万三千五百息、脈行五十度、周於身、漏水下百刻、榮衞行陽二十五度、行陰亦二十五度、爲一周也、故五十度、復会於手太陰、寸口者、五臓六腑之所終始、故法取於寸口也、

【1難_私の読み】

一難に曰く。十二経には、皆、動脈が有る。独り寸口を取り、五臓六腑死生吉凶の法を決す。何をいっているのか。答え。寸口は、脈の大会、手太陰の脈動なり。人は一呼に脈行くこと三寸、一吸に脈行くこと三寸、呼吸定息に、脈行くこと六寸。人は一日一夜に、凡そ一万三千五百息、脈行くこと五十度、身を周る。漏水、下ること百刻。榮衞、陽を行くこと二十五度、陰を行くこと、亦二十五度、一周となすなり。故に五十度で、復た、手太陰に会す。寸口は、五臓六腑の終始の所。故に法は、寸口に取るなり。

【1難_話し合い】

また、最初からですね。一難は、今回で何回目?

肺経の寸口だけで、五臓六腑の死生吉凶の法を決すという。

信じられないけど、信じるしかない。

乾さん。「しせいきっきょう」の漢字、あらためて、教えて。

電子ルーペ、起動するから待ってね。

死ぬと生きるで「死生」、吉日の吉と、凶悪犯の凶で吉凶です。

乾さん、ありがとう。

一日に一万三千五百息。

「ヘイ、シリ、一万三千五百、割る、24、割る、60は」

Siri

「一万三千五百、割る、24、割る、60は、9.375です」

一分に9.375。個人差はあるだろうけど、ゆっくりな回数やな。

栄衛のめぐりは、一日50回。

「へい、しり、24かける60割る50はいくつ」

Siri

「24かける60割る50は、28.8です」

何度読んでも、不思議がのこります。 寸口の脈が大事だということで、よろしいですよね。

寸口だけで、五臓六腑死生吉凶の法を決する。

寸口だけで目的のツボにたどりつけるといっていると思う。

不思議というほかはない。だから、私は、深く推し量ることはしないで、まるごと信じることにしている。

_沈黙_

たとえば、寸口を、テレビに例えると。 テレビにいろいろと映像が映るでしょ。私は不思議でしかたがありません。

そんな、テレビにたいして、私が願うことは、テレビが映る仕組みを知る事ではなくて、目的の番組を確実に見る方法を知ることです。

目的の番組を確実に見ることは、説明書を読みながら繰り返し練習すれば、私でもできるはずです。 こんなふうに考えています。

ということで、来月は二難ですね。

◇ ◇ ◇

【2難_原文】

二難曰、脈有尺寸、何謂也、然、尺寸者、脈之大要会也、従関至尺、是尺内陰之所治也、従関至魚際、是寸口内陽之所治也、故分寸爲尺、分尺爲寸、故陰得尺内一寸、得陽寸内九分、尺寸終始一寸九分、故曰尺寸也、

【2難_私の読み】

二難に曰く。脈、尺寸有り。何をいっているのか。答え。尺寸は、脈の大要会なり。関より尺に至る。是れ尺の内、陰の治める所なり。関より魚際に至る。是れ寸口の内、陽の治める所なり。故に寸を分けて尺となす。尺を分けて寸となす。故に陰は尺内一寸を得、陽は寸内九分を得。尺寸は終始一寸九分。故に尺寸と曰う。

【2難_話し合い】

  • 寸口を「関」を境界にして陰陽に分けています。
  • 全体が一寸九分。
  • 寸が関から魚際の方へ九分。
  • 尺が関から尺沢の方へ一寸。

  • 寸が九分で、尺が一寸で、合計が一寸九分。
  • 全体の長さをあらためて「終始一寸九分」と述べている。
  • 「関」は境界である。
「六部定位の、寸が六分、関が六分、尺が七分」とは、違いますね。

「六部定位脈診」については、いくつかの話を聞きました。

  • 「脈経」(王叔和、3世紀?)に書いてある。
  • 「診家枢要」(滑寿(1304―1386 年)に書いてある。
  • 「難経」に書いてある。
  • 昭和初期に考案されたらしい。
など、です。

難経には、ありませんでしたね。

「六部定位」については、18難のところで、また、話が出るでしょうね。

右手寸が虚のとき太淵は効果ありますよ。

_全員が賛成、うなずく_

初めのころ、右手寸口が虚ということで、太淵に刺鍼してもらって、微熱とだるさが改善されました。本気で鍼療法を勉強しようと思いました。

自分でも教わったとおり、マネをしてみました。

毎年、冬になると、よくでていた、微熱とだるさの症状が、いつのころからか、無くなりました。

2難では、

  • 寸が九分
  • 尺が一寸
  • 終始が一寸九分。
  • 関は境界。
ということで、いいですね。

◇ ◇ ◇

【3難_原文】

三難曰、脈有太過、有不及、有陰陽相乘、有覆、有溢、有関、有格、何謂也、然、関之前者、陽之動、脈当見九分而浮、過者、法曰太過、減者、法曰不及、遂上魚為溢、為外関内格、此陰乘之脈也、関以後者、陰之動也、脈当見一寸而沈、過者、法曰太過、減者、法曰不及、遂入尺為覆、為内関外格、此陽乘之脈也、故曰覆溢、是其真蔵之脈、人不病而死也、

【3難_私の読み】

三難に曰く。脈に太過あり、不及あり、陰陽相乘あり、覆あり、溢あり、関あり、格あり。何の謂ぞや。答え。関の前は、陽の動。脈当に九分に見われて浮。過は、法に太過と曰い、減は、法に不及と曰う。遂に魚に上りて溢となす。外関内格となす。此れ陰乘の脈なり。関以後は、陰の動なり。脈当に一寸に見われて沈。過は、法に太過と曰い、減は、法に不及と曰う。遂に尺に入り覆となる。内関外格をなす。此れ陽乘の脈なり。故に覆溢と曰う。是れ其の真蔵の脈。人病まずして死す。

【3難_話し合い】

  • 関より前、九分は、陽、浮。
  • 大過あり、不及あり、
  • 魚際に上れば溢。陰乘。
  • 関より後ろ一寸は陰、沈。
  • 大過あり、不及あり、
  • 尺に入れば覆。陽乘。
難しい内容のようですね?

_全員、右に同じ_

  • 関より前が、九分で、陽。
  • 関より後ろが、一寸で、陰。

2難と同じですね。

  • 寸、陽、九分
  • 尺、陰、一寸
寸口を寸尺の陰陽でみているところに注目しています。

ここでは、寸尺の陰陽に注目しているようですが、浮沈の陰陽との関係も、きっと大切なはずですね。

  • 全体として一寸九分
  • 陽の部として九分
  • 陰の部として一寸

ここでは寸口を寸尺の陰陽に分けて、陰にかたよりすぎても、陽にかたよりすぎても、いけないことを説明しているということですね。

◇ ◇ ◇

【4難_原文】

四難曰、脈有陰陽之法、何謂也、然、呼出心與肺、吸入腎與肝、呼吸之間、脾受穀味也、其脈在中、浮者陽也、沈者陰也、故曰陰陽也、心肺倶浮、何以別之、然、浮而大散者、心也、浮而短濇者、肺也、腎肝倶沈、何以別之、然、牢而長者、肝也、按之濡、挙指來実者、腎也、脾者中州、故其脈在中、是陰陽之法也、脈 有一陰一陽、一陰二陽、一陰三陽、有一陽一陰、一陽二陰、一陽三陰、如此之言、寸口有六脈倶動耶、然、此言者、非有六脈倶動也、謂浮沈長短滑濇也、浮者陽也、滑者陽也、長者陽也、沈者陰也、短者陰也、濇者陰也、所謂 一陰一陽者、謂脈來沈而滑也、一陰二陽者、謂脈來沈滑而長也、一陰三陽者、謂脈來浮滑而長、時一沈也、所言 一陽一陰者、謂脈來浮而濇也、一陽二陰者、謂脈來長而沈濇也、一陽三陰者、謂脈來沈濇而短、時一浮也、各以其経所在、名病逆順也、

【4難_私の読み】

四難に曰く。脈に陰陽の法あり。何のいいぞや。答え。 呼出は心と肺、吸入は腎と肝、 呼吸の間に、脾が穀味を受けるなり。 其の脈は中に在り。浮は陽なり。沈は陰なり。故に陰陽と曰うなり。心肺は倶に浮、何を以てこれを別けるのか。答え浮にして大散は、心なり。浮にして短濇は、肺なり。腎肝は倶に沈なり。何を以てこれを別けるのか。答え。牢にして長は、肝なり。これを按じて濡、指を挙げて來たること実は、腎なり。脾は中州、故に其の脈は中に在る。是れ陰陽の法なり。 脈には、一陰一陽、一陰二陽、一陰三陽がある。一陽一陰、一陽二陰、一陽三陰がある。此れの言の如きは、寸口に六脈倶に動きがあるのか。答え。此の言は、六脈倶に動きがあるにあらず。浮沈長短滑濇をいうなり。浮は陽なり。滑は陽なり。長は陽なり。沈は陰なり。短は陰なり。濇は陰なり。いわゆる一陰一陽は、脈來たること沈にして滑をいうなり。一陰二陽は、脈來たること沈滑にして長をいうなり。一陰三陽は、脈來たること浮滑にして長、時に一沈するをいうなり。いうところの、一陽一陰は、脈來たること浮にして濇をいうなり。一陽二陰は、脈來たること長にして沈濇をいうなり。一陽三陰は、脈來たること沈濇にして短、時に一浮をいうなり。おのおの以て其の経の所在を、病の逆順と名づけるなり。

【4難_話し合い】

  • 一つ目、「脈に陰陽の法あり」
  • 二つ目、「脈には、一陰一陽、云々」

  • 一つ目は、浮沈の陰陽。
  • 二つ目は、脈状の陰陽。
浮沈も脈状といえば脈状ですけど、ここでは二つ目の脈状と区別していますね。

まず、一つ目から。

2難と3難は寸尺の陰陽でした。

ここで、具体的に臓腑がでてきました。

この4難も、同じ寸口の脈の話ですよね。

浮には、心と肺 沈には、肝と腎 中には、脾

心と肺は脈状で診わける。肝と腎も脈状で診わける。 中の脾というのは、浮と沈の間ということですよね。

  • 浮は心と肺。沈は肝と腎。中は脾。
  • 浮で大散は心。浮で濇短は肺。
  • 沈で牢長は肝。按じて濡、挙げて実は腎。
  • 中は脾。

一つ目と二つ目は関係があるのか、ないのか。

二つ目は、脈状の陰陽。

ここでは六種類の脈。

浮と長と滑が陽。

沈と短と濇が陰。

  • 一陰一陽は、沈滑
  • 一陰二陽は、沈滑長
  • 一陰三陽は、浮滑長で時に一沈
  • 一陽一陰は、浮濇
  • 一陽二陰は、長沈濇
  • 一陽三陰は、沈濇短で時に一浮

寅さんと同じ疑問ですが、二つ目は、五臓と、どう結びつくのかな。

寸口を浮沈の陰陽でみているということはわかるのですが、難しいですね。

◇ ◇ ◇

【5難_原文】

五難曰、脈有軽重、何謂也、然、初持脈 如三菽之重、與皮毛相得者、肺部也、如六菽之重、與血脈相得者、心部也、如九菽之重、與肌肉相得者、脾部也、如十二菽之重、與筋平者、肝部也、按之至骨、挙指來疾者、腎部也、故曰軽重、

【5難_私の読み】

五難に曰く。脈に軽重あり、何の謂いぞや。答え。初めて脈を持つのに、三菽の重さの如くにして、皮毛とともに相い得るものは、肺部なり。六菽の重さの如くして、血脈とともに相い得るものは、心部なり。九菽の重さの如くして、肌肉とともに相い得るものは、脾部なり。十二菽の重さの如くして、筋とともに平ぐるものは、肝部なり。これを按じて骨に至り、指を挙げて疾く來るものは、腎部なり。故に軽重と曰う。

【5難_話し合い】

  • 三菽、皮毛、肺
  • 六菽、血脈、心
  • 九菽、肌肉、脾
  • 十二菽、筋、肝
  • 骨の直上、腎
これで、まとめになっていますかね。

4難の浮沈の陰陽より、この5難の方が分かりやすいですね

実際の脈診時においても、この5難は、わかりやすくしてくれました。

といいますと?

私の場合、この5難を読むまでは、脈の浮沈については、あいまいなところがありました。が、この5難に注目するようになってからは、 三菽とか骨の直情とかをしっかり意識しながら脈を診るようにしています。

「三菽や六菽では、触れないが、骨の直情では触れるので、沈脈だ」といった具合ですか?

そうです。

以前は、「まず、三菽に指を触れてみる」とか「骨の直情に指を沈めてみる」とかしていませんでした。

いきなり九菽あたりから脈診をはじめていたようおに思います。

なるほど、

私の場合、患者の左の脈を九菽からいきなりみていることにきがつきました。このくせを修正するのに苦労しているところです。

私だけでなく、みなさんも、実際の浮沈の診方に、大きな影響が、あったんですね。

寸口の脈

  • 寸尺でみる
  • 浮沈でみる
  • 浮中沈でみる
  • 五段階でみる
  • さらに脈状でもみる

なんでも、陰陽で、五行で、理解しておくことが大辭。

4難の六つの脈状も、一つ一つ陰と陽に分類して話を展開しています。

陰陽とか五行のバランスを認識していけば、それでいいと思い込んでいたら、難経の後ろのあたりは、虚実の説明が中心になって、こんがらかってきたんです。 これからは、それを踏まえて、あらためて陰陽や五行でしっかりと分析できるようにしていきたいです。

◇ ◇ ◇

【6難_原文】

六難曰、脈有陰盛陽虚、陽盛陰虚、何謂也。然。浮之損小、沈之実大、故曰陰盛陽虚。沈之損小、浮之実大、故曰陽盛陰虚。是陰陽虚実之意也。

【6難_私の読み】

六難曰く。脈に陰盛陽虚、陽盛陰虚あり。何をいっているのか。答え。浮の損小、沈の実大、故に陰盛陽虚という。沈の損小、浮の実大、故に陽盛陰虚という。これ陰陽虚実の意なり。

【6難_話し合い】

  • 陽盛陰虚は、、浮、実、大で沈損小
  • 陰盛陽虚は、沈実大で浮損小

  • 陽盛陰虚は、実技研修のときに「浮脈」といっている脈ですよね。
  • 陰盛陽虚は、実技研修のときに「沈脈」といっている脈ですよね。

_皆、うなずく_

◇ ◇ ◇

【9難_原文】

九難曰、何以別知蔵府之病耶、然、数者府也、遅者蔵也、数則為熱、遅則為寒、諸陽為熱、諸陰為寒、故以別知蔵府之病也、

【9難_私の読み】

九難に曰く。何を以て蔵府の病を別ち知るや。答え。数は府なり。遅は蔵なり。数は則ち熱をなす。遅は則ち寒をなす。諸陽は熱をなす。諸陰は寒をなす。故に蔵府の病を別ち知るなり。

【9難_話し合い】

臓の病か、腑の病かを見わける方法。

  • 遅数は脈が遅いか速いか。
  • 寒熱は冷たいか熱いか。

脈の遅か数かは、脈診の時にそのまま応用しています。

そうですね。遅脈なら陰経を選び、数脈なら陽経を選びます。

私も、脈については、同じようにしています。

寒熱についてですが、陰経から施術していて、冷えが解消されてくることはあります。

熱については、あまり経験がありませんが、皆さんはいかがですか。

_沈黙_

実際の臨床で、遅脈と数脈はどのように診ていますか。

一呼吸に対して5度が基準とどこかに書いてありましたよね。

施術者の呼吸に対して患者の脈が5度というのも、どこかに書いてありましたよね。

実際には、結構、速い脈を数としてみています。 数については、私は、そんなにたくさん経験していません。 ほとんどが、5度前後で、微妙な早さです。 迷わず、数脈というのはメッタにありません。 みなさんは、いかがですか。

正直なところ、寅さんと同じようにしています。

私も、同じです。

たしかに、一回の呼吸にたいして5度を境目というのは微妙ですよね。 とりあえずと言ってはなんですが、 遅脈であれば蔵の損傷。 数脈であれば府の損傷。 という認識で、いいですね。

◇ ◇ ◇

【18難_原文】

十八難曰、脈有三部、部有四経、手有太陰陽明、足有太陽少陰、爲上下部、何謂也、然、手太陰陽明金也、足少陰太陽水也、金生水、水流下行、而不能上、故在下部也、足厥陰少陽木也、生手太陽少陰火、火炎上行、而不能下、故爲上部、手心主少陽火、生足太陰陽明土、土主中宮、故在中部也、此皆五行子母、更相生養者也、脈有三部九候、各何所主之、然、三部者、寸関尺也、九候者、浮中沈也、上部法天、主胸以上至頭之有疾也、中部法人、主膈以下至齊之有疾也、下部法地、主齊以下至足之有疾也、審而刺之者也、人病有沈滞久積聚、可切脈而知之耶、然、診在右脇有積氣、得肺脈結、脈結甚則積甚、結微則氣微、診不得肺脈、而右脇有積氣者、何也、然、肺脈雖不見、右手脈當沈伏、其外痼疾同法耶、將異也、然、結者、脈來去時一止無常數、名曰結也、伏者、脈行筋下也、浮者、脈在肉上行也、左右表裏、法皆如此、假令脈結伏者、内無積聚、脈浮結者、外無痼疾、有積聚、脈不結伏、有痼疾、脈不浮結、爲脈不應病、病不應脈、是爲死病也、

【18難_私の読み】

十八難に曰く。脈に三部あり。部に四経あり。 手に太陰と陽明があり、足に太陽と少陰があり、上下の部をなすとは、何をいっているのか。答え。手の太陰と陽明は金なり。足の少陰と太陽は水なり。金は水を生じる。水は下行し流れて、上ることあたわず。故に下部に在るなり。足の厥陰と少陽は木なり。手の太陽と少陰の火を生じる。火炎は上行して、下ることあたわず。故に上部をなす。手の心主と少陽は火。足の太陰と陽明の土を生ずる。土は中宮を主る。故に中部に在るなり。此れ皆、五行、子母、こもごも相い生じ養うものなり。

脈に三部九候あり。おのおの、いずれの所を主るのか。答え。三部は、寸関尺なり。九候は、浮中沈なり。上部は天に法り、胸より上、頭に至り、疾病があるを主るなり。中部は人に法り、膈より下、齊に至り、疾病があるを主るなり。下部は地に法り、齊より下、足に至り、疾病あるを主るなり。審らかにして、これを刺すなり。

人病みて、沈滞久しくして、積聚することあり。脈を切してこれを知ることができるか。答え。診して右脇に積氣が在れば、肺脈の結を得る。脈の結が甚だしければ、積も甚だし。結が微ならば、氣も微。診して肺脈に得ずして、しかも右脇に積氣あるものは、何ぞや。答え。肺脈、あらわれずと雖も、右手の脈は沈伏す。其のほかの痼疾も法を同じくするのか。はたまた異なるのか。答え。結は、脈の來去、時に一止して、數に常なし。名づけて結と曰うなり。伏は、脈が筋の下を行くなり。浮は、脈が肉上にありて行るなり。左右表裏、法は皆この如し。たとえば、脈が結伏で、内に積聚なし、脈が浮結で、外に痼疾なし、積聚があって、脈結伏せず、痼疾があって、脈浮結せず、脈が病に応じていない、病が脈に応じていない、是れ死病となすなり。

【18難_話し合い】

  • 18難の一つ目に、12経が全部、でてきます。
  • 18難の二つ目に、「寸関尺」が、でてきます。
  • 18難の三つ目に、積聚がでてきます。

この難を、順番に読んでみると、
  • 一つ目、脈に三部あり、部に四経あり。
  • 二つ目、脈に三部九候あり。
  • 三つ目、脈と積聚。

一つ目は、三部それぞれに四経を配当と書いてあります。 3と4で12経。 この12経は、右に12経、左に12経、、それぞれということですよね。

右の12経の相互のバランスがくずれたら右の脈に現れるということだと考えて追試しています。 もちろん、左でも同じように考えています。 さらに、左右のバランスも大切だと考えています。

二つ目の三部九候は、 寸口の脈を寸と関と尺にわける。そして、体の天と人と地に対応している。 さらに寸口の脈を浮と中と沈とにわける。 これで、3×3で9という理解でいいですよね。 浮中沈は、体の表部と深部。 たとえば絡脈と経脈と臓腑とか。 この18難の二つ目は、体の上中下の、どの部分に病があるのかを脈診でとらえるということですよね。

一つ目は、上と下と中宮。 二つ目は、寸関尺。 どちらも、寸口を三等分にして脈診するのですか。

二つ目は、わかりやすいです。寸口の一寸九分を三等分にして診るといってもさしつかえないのではないでしょうか。

三等分のそれぞれの割り当てとして

  • 寸には、頭頂部から鬲まで
  • 関には、鬲から臍まで
  • 尺には、臍から足底まで

この18難の二つ目は、体の部位に注目している。

18難の一つ目は、十二経脈に注目している。

18難の三つ目は、難しそうですね。

いつも問題になるのは、18難の一つ目ですね。

  • 上部
  • 下部
  • 中宮

_沈黙_

やはり、18難の一つ目ですよね。 十二経脈を三部に配当していますから。 上と下を寸の九分と尺の一寸とすると、中宮の場所がない。

中宮には場所がないのか。それとも一寸九分全体が中宮なのではないかとも考えました。

これについて私なりに追試検討をしています。

寅さん、どんな追試ですか。

寅さん、その追試について、詳しく聞かせて。

聞いてくれてありがとう。

18難の一つ目をみるたびに、「上と下」は「寸と尺」のことなのかどうか。「寸と尺」ではないのなら、この「上と下」は、どう考えればいいのか。何度も立ち止まるばかりでした。

そこで、次のように考えました。

  • 全身に十二経脈があってそれぞれに脈動があるのに、その中の一つである、寸口の脈動だけで、十二経脈の損傷をみていく。
  • 左右の寸口の脈に、それぞれ12経脈が配当されている。
  • 人体には左右それぞれに12経脈があるので、左右それぞれの寸口の脈にも左右それぞれに、12経脈が配当されている。

繰り返しますが、寸口脈は左右それぞれに十二経脈が配当されていると考えました。

そして、次に、

1、4難から

  • 浮は心肺
  • 中は脾
  • 沈は腎肝

2、18難から

  • 上は心小腸肺大腸
  • 中は脾胃心包三焦
  • 下は腎膀胱肝胆
  • 3、4難と18難から

    • 浮=上
    • 中=中
    • 沈=下

    浮中沈の三部それぞれに四経が配当される。

    そして、次に、 陰経と陽経に分類する(9難)。
    • 数脈は陽経
    • 遅脈は陰経

    たとえば、寸口脈が遅脈で沈脈で寸が尺より弱いならば、施術対象の経脈は、腎経と考えています。

    寸口脈で次のように選経しています。

    • 遅脈で浮脈で、寸が尺より弱い場合、肺経。
    • 遅脈で浮脈で、尺が寸より弱い場合、心経。
    • 遅脈で中脈で、寸が尺より弱い場合、脾経。
    • 遅脈で中脈で、尺が寸より弱い場合、心包経。
    • 遅脈で沈脈で、寸が尺より弱い場合、腎経。
    • 遅脈で沈脈で、尺が寸より弱い場合、肝経。

    「寸口脈で選経選穴」ですね。

    寸口脈だけで、選経選穴ですか?

    私は、難経に書いてあることを、私なりに追試しているところです。 他の書物を追試している人と、意見が合わないことは当然あります。 でも、とりあえず、いまの追試をつづけていこうと思います。

    追試検討していくうえで、例えばどんな工夫をされていますか。

    上部を浮、下部を沈、中宮を中と考えるようになったのが、5難を繰り返し読んでいるときでした。

    私の場合、脈を診るときは、脈動部に指をあてることに専念していました。 たとえば、いきなり9菽あたりの拍動だけをみるようにしていました。 講習会に参加すると「指が重たい」とか、「そんな軽いのではちゃんと脈診できていない」などと指摘されて、だんだんみやすいところへ指をあてるようになりました。

    しかし、5難を読むうちに、「いきなり、みやすいところ」は、やめてみようと考えました。

    この「いきなりみやすいところ」というか、そのあたりに指をもっていく習慣は、あらためるのにずいぶんと苦労しました。 何事も習慣をあらためるのには苦労がつきまといますよね。
    • 三菽の肺
    • 六菽の心
    • 骨直上の腎
    • 十二菽の肝
    • 九菽の脾
    脈が触れようと、触れまいとこの順番で脈診するという方法をとることにしました。

    そうしていると、浮沈が気になるようになってきました。

    ただ、いうのは簡単ですが、つい長年の習慣で「みやすいところ」で脈診してしまいます。

    すぐに気づけばよいのですが、習慣をかえるというのは、いつもながら、難しいです。

    「選経に工夫するための、新たな脈診」と気合をいれているのですが、はじめのころはたいへんでした。

    5難をはじめとして、1難から6難を、別の表現をしたのがこの18難の一番目ということですかね?

    そう、簡単にわりきれないんですけれどね。

    特に、6難や3難は、なかなか理解がすすみません。

    今後の課題というわけですね。

    今回は、ここまでということで

    ◇ ◇ ◇

    【19難_原文】

    十九難曰、経言、脈有順逆、男女有常、而反者、何謂也、然、男子生於寅、寅為木、陽也、女子生於申、申為金、陰也、故男脈在関上、女脈在関下、是以男子尺脈恒弱、女子尺脈恒盛、是其常也、反者、男得女脈、女得男脈也、其為病何如、然、男得女脈、為不足、病在内、左得之、病則在左、右得之、病則在右、隨脈言之也、女得男脈、為太過、病在四肢、左得之、病則在左、右得之、病則在右、隨脈言之、此之謂也、

    【19難_私の読み】

    十九難に曰く。経に言う。脈に順逆あり、男女に常と反とあり。何をいうのか。答え。、男子は寅に生す。寅は木となす、陽なり。女子は申に生ず。申は金となす、陰なり。故に男脈は関上に在り、女脈は関下に在る。是れを以て男子は尺脈、恒に弱く、女子は尺脈、恒に盛ん。是れ其の常なり。反するとは、男は女脈を得、女は男脈を得るなり。其れ病をなすこといかん。答え。男が女脈を得て、不足をなせば、病は内に在り、左に之を得れば、病は左に在り、右に之を得れば、病は右に在り、脈に隨うとは、之を言うなり。女が男脈を得て、太過をなすは、病が四肢に在り、左に之を得れば、病は左に在り、右に之を得れば、病は右に在る、脈に隨うとは、之を言う。 此れ之をいうなり。

    【19難_話し合い】

    • 脈の逆と順。
    • 男女の常と反。
    この男女は、性別ではなく陰陽のことだと理解しています。

    賛成です。 たとえば、昼と夜とか、夏と冬とかです。 夏は、陽の部に気が盛ん 冬は、陰の部に気が盛ん これが逆になると病、

    最後に、病脈が左にあれば、病は左に在り、病脈が右にあれば、病は右に在ると、述べています。

    「男は左、女は右」と、聞くことがあります。いかがですか。

    それについては、ちょっとくどくなりますが、よろしいですか。

    聞かせて下さい。

    素問の『玉版論要篇 第十五』の中に「男女」と「左右」の話があります。

    【素15_原文】

    色見上下左右、各在其要、上爲逆、下爲從、女子右爲逆、左爲從、男子左爲逆、右爲從、易、重陽死、重陰死、

    【素15_私の読み】

    色、上下左右に見われる。各、其の要が在る。上は逆をなす。下は從をなす。女子は右を逆となし、左を從となす。男子は左を逆となし、右を從となす。易に、重陽は死、重陰は死。

    【19難_話し合い、つづき】

    • 「色に見われる」は顔色のことだと思います。
    • 「女子は右が逆、左が従」
    • 「男子は左が逆、右が従」
    • 「重陽は死、重陰は死」
    1. 人体は左が陽、右が陰。
    2. 男は陽、女は陰

    まず、人体の陰陽について。

    • 上は陽、下は陰。
    • 四つ這いで背が陽、腹が陰。
    • 左が陽、右が陰

    左右の陰陽についてですが

    • 左に肝、右に肺。
    • 肝は左に在って、血を蔵す。
    • 肺は右に在って、気を蔵す(左右の肺の内、右が大きい)。
    • 肝は木、肺は金。木は陽、金は陰。

    つぎに、二つ目

    男は陽、女は陰についてです。

    • 易の陽爻「⚊」と陰爻「⚋」からきていると考えてます。
    • それぞれの爻が男女それぞれのシンボルを現していると認識しています。
    それとも、男女の相違の考え方が先で、陰陽に展開していったのかもしれないなどと、勝手な想像をしています。

    ちょと、外れますが、

    • 男は主体的で女は従属的は違うと考えています。
    • 性格をいえば、陽は主体的、陰は従属的(性別ではなく、性格)。
    • 陽は積極的、陰は消極的(性別ではなく性格)。
    • 陽は能動的、陰は受動的(性別ではなく性格)。

    話を戻します。

    • 人体の左(陽)と男(陽)が重なると死。
    • 人体の右(陰)と女(陰)が重なると死。

    結局は、「陰陽のバランス」が重要である。

    この男とか女とかも、性別にこだわることはなく、陰陽のことだと思うのです。

    では、これについてはどうですか。

    「君子、南面し」ときいたことがあります。

    朝礼の時、君子が南面するのは南からの光で、自身の姿がよく見えるからです。しかし、その時には臣民は北面しています。君子の左方向は東の木ですが、臣民の右方向も東の木です。それに、君子が南半球に出張したらきっと自分の姿がよくわかるように北面したと思います。

    この19難を、皆さんと、こうして読み合わせする以前は、なんとなく「男は左、女は右」でした。

    この19難も、素問15にも「男は陽、女は陰」とあるだけでした。

    『男は左、女は右』にたいする認識が改まりました。 今後新たな見解が出てくるまでは、あまり強くこだわらないことにします。

    話は違いますが、『陰主陽従』について、皆さんの考えをうかがいたいのですが、? 先ほどの 『性格をいえば、陽は主体的、陰は従属的(性別ではなく、性格)。陽は積極的云々・・』の話につうじると思うので、皆さんの考えを聞かせてほしいと思います。

    『陰主陽従』、聞いたことはあるけれど、何を意味するのかは知りません。

    東洋医学の基本概念だと聞いたこともありますが、どこからきたかんがえで  何を意味するのか知りません。

    私の勝手な考えを述べてもよろしいですか。

    _聞かせて下さい_

    東洋医学では、五臓が人体の根幹である。

    この考え方を強調するために出てきた言葉ではないのかと考えています。

    「主」と「従」を陰陽に分類すると

    • 主(主君)が陽
    • 従(従者)が陰
    「臓腑」と「四肢や頭」を陰陽に分類すると
    • 臓腑(人体の内部)が陰
    • 四肢や頭(人体の外部)が陽
    • 人体内部(陰)に存在する、臓腑(根幹、主体)
    • 人体外部(陽)に存在する、四肢や頭(根幹に従属)

    頭脳が人体を支配しているというような考え方に対して、この東洋医学の「五臓が身体の根幹」とする考え方を強調しようとしたのではないかと。

    絶対に「陰が主」で「陽が従」というのなら、それは陰陽論ではないと思います。

    • 立場で言えば、主君は陽、従者は陰
    • 動作でいえば、中心で指揮する主君(陰)、指揮に従って動き回る従者(陽)

    ヘタな譬えですが、このように、陰陽論は条件が変わればいくらでも逆転する。

    陽、または、陰に傾きすぎたり、固定したりすれば「死」だと。

    _沈黙_

    巽さんの話、分かりやすいです。

    素問「調経論篇第六十二」に、『人体の根本も、病の根源も、五臓である』という意味のことが書かれてあります。

    【素問62_原文】

    帝曰、人有精、気、津、液、四支、九竅、五蔵、十六部、三百六十五節、乃生百病。百病之生、皆有虚実。今夫子乃言有余有五、不足亦有五、何以生之乎。岐伯曰、皆生於五蔵也。夫心蔵神、肺蔵気、肝蔵血、脾蔵肉、腎蔵志、而此成形。志意通、内連骨髄、而成身形五蔵。五蔵之道、皆出於経隧、以行血気。血気不和、百病乃変化而生、是故守経隧焉。

    【素問62_私の読み】

    帝曰く、人に精、気、津、液、四支、九竅、五蔵、十六部、三百六十五節が有り、すなわち百病を生じる。百病の生、皆、虚実が有る。今、あなたは、有余に五あり、不足にも五ありと言われました。何をもってこれを生ずるのか。岐伯が曰う。皆、五蔵において生ずるなり。夫れ心は神を蔵し、肺は気を蔵し、肝は血を蔵し、脾は肉を蔵し、腎は志を蔵し、しかして、此れ形を成す。志意通じ、内は骨髄に連なり、しかして、身形五蔵を成す。五蔵の道、皆経隧に出、もって血気行る。血気が和せざれば、百病すなわち変化して生ず、このゆえに経隧を守る。

    ◇ ◇ ◇

    【48難_原文】

    四十八難曰、人有三虚三実、何謂也、然、有脈之虚実、有病之虚実、有診之虚実也、脈之虚実者、濡者為虚、緊牢者為実、病之虚実者、出者為虚、入者為実、言者為虚、不言者為実、緩者為虚、急者為実、診之虚実者、濡者為虚、牢者為実、痒者為虚、痛者為実、外痛内快、為外実内虚、内痛外快、為内実外虚、故曰、虚実也、

    【48難_私の読み】

    四十八難に曰く。人に三虚三実あり。何のいいぞや。答え。脈の虚実あり、病の虚実あり、診の虚実あるなり。脈の虚実は、濡は虚となし、緊牢は実となす。病の虚実は、出は虚となし、入は実となす。言は虚となし、不言は実となし、緩は虚となし、急は実となす。診の虚実は、濡は虚となし、牢は実となし、痒は虚となし、痛は実となし、外痛内快は外実内虚となし、内痛外快は内実外虚となす。故に虚実と曰うなり。

    【48難_話し合い】

    一つ目、脈の虚実

    濡は虚。堅牢は実

    二つ目、病の虚実

    • 出は虚、入は実
    • 言は虚、不言は実
    • 緩は虚、急は実

    三つ目、診の虚実

    • 濡は虚、牢は実
    • 痒は虚、痛は実
    • 外痛内快は外実内虚、外快内痛は外虚内実

    • 「濡」は、ぬれる、うるおう、とどこおる、などの意味があるようです。
    • 「堅牢」は、丈夫で壊れにくいという意味に理解しています。

    堅牢と濡

    はじめは、堅いと柔らかいで考えてました。

    脈の実(じつ)としての、堅牢は、丈夫でしっかりしていても、気血のめぐりが順調ではないという理解でいいのかな?

    脈の濡は、気血のとどこおり?

    実際には、やわらかい、堅い、脆いなどをイメージしているのだが。

    二つ目の病の虚実は、どうですか。

    えーっと「出る」は

    汗が出る。便が出る。声が出る、とか。

    「入る」は

    飲食物が入る、息が入る、とか。

    「言」と「不言」は

    よくしゃべるか、しゃべらないか。

    「緩」と「急」は

    いろんな症状が緩やかか、急か。

    三つ目の、診の虚実はどうですか。

    濡と牢は 濡れてやわらかと、ぎっしり詰まって下腿と理解しています。というか、患部に触って感じたままというか。

    そして、痒いは虚、痛いは実というのは、そのまま信じるしかありません。

    「痛」や「牢」は直接、施術せずに周囲の「濡」をみつけて施術して、変化を確かめるという方法をとっています。

    _うなずく_

    ◇ ◇ ◇

    【49難_原文】

    四十九難曰、有正経自病、有五邪所傷、何以別之、然、経言、憂愁思慮則傷心、形寒飮冷則傷肺、恚怒氣逆、上而不下、則傷肝、飮食勞倦、則傷脾、久坐湿地、強力入水、則傷腎、是正経之自病也、何謂五邪、然、有中風、有傷暑、有飮食勞倦、有傷寒、有中湿、此之謂五邪、假令心病、何以知中風得之、然、其色当赤、何以言之、肝主色、自入為青、入心為赤、入脾為黄、入肺為白、入腎為黒、肝為心邪、故知当赤色也、其病身熱、脇下滿痛、其脈浮大而弦、何以知傷暑得之、然、当悪臭、何以言之、心主臭、自入為焦臭、入脾為香臭、入肝為臊臭、入腎為腐臭、入肺為腥臭、故知心病傷暑得之也、当悪臭、其病身熱而煩、心痛、其脈浮大而散、何以知飮食勞倦得之、然、当喜苦味也、虚為不欲食、実為欲食、何以言之、脾主味、入肝為酸、入心為苦、入肺為辛、入腎為鹹、自入為甘、故知脾邪入心、為喜苦味也、其病身熱、而体重嗜臥、四肢不收、其脈浮大而緩、何以知傷寒得之、然、当譫言妄語、何以言之、肺主声、入肝為呼、入心為言、入脾為歌、入腎為呻、自入為哭、故知肺邪入心、為譫言妄語也、其病身熱、洒洒悪寒、甚則喘欬、其脈浮大而濇、何以知中湿得之、然、当喜汗出不可止、何以言之、腎主液、入肝為泣、入心為汗、入脾為涎、入肺為涕、自入為唾、故知腎邪入心、為汗出不可止也、其病身熱、而小腹痛、足脛寒而逆、其脈沈濡而大、此五邪之法也、

    【49難_私の読み】

    四十九難に曰く。正に経が病を自らにすることあり。五邪の傷る所あり。何をもって、これを別けるのか。 答え。経に言う。憂愁思慮は則ち心を傷る、形を寒して冷を飮めば則ち肺を傷る、恚怒して氣逆し、上りて下らずは則ち肝を傷る、飮食勞倦すれば則ち脾を傷る、久しく湿地に坐して、強力して水に入れば則ち腎を傷る。是れ正に経の自らの病なり。

    何をか五邪という。答え。中風あり、傷暑あり、飮食勞倦あり、傷寒あり、中湿あり、此れ五邪という。

    たとえば、心病、何をもって中風これを得たるを知るのか。答え。其の色、当に赤。何をもってこれを言うのか。肝は色を主る。自らに入れば青をなし、心に入れば赤をなし、脾に入れば黄をなし、肺に入れば白をなし、腎に入れば黒をなす。肝、心邪となる故に、当に赤色なるを知る。其の病は、身熱、脇下滿痛す。其の脈は浮大にして弦。

    何をもって傷暑、これを得たるを知るのか。答え。当に臭を悪む。何もってこれを言う。心は臭を主る。自らに入れば焦臭をなし、脾に入れば香臭をなし、肝に入れば臊臭をなし、腎に入れば腐臭をなし、肺に入れば腥臭をなす。故に知らんぬ、心病は傷暑これを得るなりと。当に臭を悪む。其の病は身熱して煩す。心痛む。其の脈は浮大にして散。

    何をもって飮食勞倦これを得たるを知るのか。答え。当に苦味を喜ぶ。虚は食を欲せず、実は食を欲す。何もってこれを言うのか。脾は味を主る。肝に入りては酸をなし、心に入りては苦をなし、肺に入りては辛をなし、腎に入りては鹹をなし、自に入りては甘をなす。故に知らんぬ、脾邪が心に入れば、苦味を喜ぶをなすなり。其の病は、身熱して体重く臥を嗜み、四肢は收まらず。其の脈は浮大にして緩。

    何をもって傷寒これを得たるを知るのか。答え。当に譫言妄語す。何をもってこれを言うのか。肺は声を主る。肝に入れば呼をなし、心に入れば言をなし、脾に入れば歌をなし、腎に入れば呻をなし、自らに入れば哭をなす。故に知らんぬ、肺邪が心に入れば、譫言妄語をなすなり。其の病は、身熱し、洒洒悪寒し、甚しければ則ち喘欬する。其の脈は浮大にして濇。

    何をもって中湿これを得たるを知る。答え。当に喜く汗出て止まらず。何をもってこれを言うのか。腎は液を主る。肝に入れば泣をなし、心に入れば汗をなし、脾に入れば涎をなし、肺に入れば涕をなし、自らに入れば唾をなす。故に知らんぬ、腎邪が心に入り、ために汗が出て止まらないなり。其の病は身熱して、小腹痛み、足脛寒して逆す。其の脈は沈濡にして大。此れ五邪の法なり。

    【49難_話し合い】

    • 一つ目、経が自ら病む。
    • 二つ目、五邪が傷る。

    一つ目

    • 恚怒して氣逆し上りて下らずは肝を傷る
    • 憂愁思慮は心を傷る
    • 飮食勞倦は脾を傷る
    • 形寒え冷を飮むは肺を傷る
    • 久しく湿地に坐し、強力して入水するは腎を傷る

    二つ目、五邪

    • 肝、中風、色
    • 心、傷暑、臭
    • 脾、飲食労倦、味
    • 肺、傷寒、声
    • 腎、中湿、液

    五臓と色・臭・味・声・液と脈状

    • 主。肝、心、脾、肺、腎
    • 色。青、赤、黄、白、黒
    • 臭。臊、焦、香、腥、腐
    • 味。酸、苦、甘、辛、鹹
    • 声。呼、言、歌、哭、呻
    • 液。泣、汗、涎、涕、唾
    • 脈。弦、散、緩、濇、濡
     

    辻さん、まとめてくれて、ありがとう。はじめは、長いから、難しそうに思ったけど、一つ目の経が自ら病むも、二つ目の五邪が経を傷るのも、その結果としての様々な変化も、全部五行に分類されていますよね。 脈状やその他の診察に必要なことが、五行に分類されて書かれていますよね。とても大切だなと考えています。

    _全員、うなずく_

    病の原因も、症状も、五行に分類される。臓腑や経脈や経穴も、五行に分類される。 そして、五行の法則に基づいて施術する。 不思議です。信じられません。

    信じて、あるいは、信じたふりをして、やってみるしかありません。

    五行の法則を信じないと、要穴の使い方も分かりませんからね。

    ◇ ◇ ◇

    【50難_原文】

    五十難曰、病有虚邪、有実邪、有賊邪、有微邪、有正邪、何以別之。然。従後来者為虚邪、従前来者為実邪、従所不勝来者為賊邪、従所勝来者為微邪、自病者為正邪。何以言之。仮令心病、中風得之為虚邪、傷暑得之為正邪、飲食労倦得之為実邪、傷寒得之為微邪、中湿得之為賊邪。

    【50難_私の読み】

    五十難に曰く。病に虚邪あり、実邪あり、賊邪あり、微邪あり、正邪あり、何をもってこれを別たん。答え。後より来る者を虚邪となし、前より来る者を実邪となし、勝たざる所より来る者を賊邪となし、勝つ所より来る者を微邪となし、自ら病む者を正邪となす。何をもってこれを言う。たとえば、心病、風に中りてこれを得るを虚邪となし、暑に傷られてこれを得るを正邪となし、飲食労倦これを得るを実邪となし、寒に傷られてこれを得るを微邪となし、湿に中りてこれを得るを賊邪となす。

    【50難_話し合い】

    たとえば、中風が

    • 肝に中れば、正邪
    • 心に中れば、虚邪
    • 脾に中れば、賊邪
    • 肺に中れば、微邪
    • 腎に中れば、実邪
    ここまでは全員OKですよね。

    はじめのころは、五邪は49難で十分なのにと思っていました、どうも違うようですね。

    これについて私なりに追試検討をしています。

    寅さん、どんな追試ですか。

    寅さん、その追試について、詳しく聞かせて。

    聞いてくれてありがとう。

    69難に二つの疑問がありました。

    • 疑問1「虚するものはその母を補う」
    • 疑問2「実せず虚せずは、経、自らこれをとる」

    まず、疑問1「虚するものはその母を補う」です。

    75難に「母能令子虚」とあります。これは母穴を使うことで子である経脈を虚せしむることができるという意味だと理解しています。

    そうであれば、虚しているときに母を使うということが補法とするのは矛盾ではないかという疑問です。

    次に疑問2

    「不実不虚は、経、自らこれをとる」です。実、でもなく、虚、でもないのに、何かをする必要があるのかという疑問です。

    50難がその答えだと考えたわけです。

    どういうふうにですか。

    ながくなりますが、いいですか。

    _説明して_

    疑問1『虚者補其母』です。

    はじめの頃は「虚するものは」と読み、虚している経脈の母のツボや、虚している経脈の母の経脈を補うと考えていました。母を補えば子が充実してくると認識していました。

    しかし、75難の「『母能令子虚』(母よく子を虚せしむ)」と矛盾することに気がつきました。

    • 母を使って、虚している経脈を回復させる(69難)
    • 母を使って、実(じつ)している経脈を虚せしめる(75難)
    たしかに矛盾ですね。

    そこで、50難の虚邪をあてはめて考えてみました。

    たとえば、中風は心の虚邪。

    言いかえると木邪は火経脈の虚邪です。

    木と火は母と子の関係です

    虚邪と経脈は母と子の関係です。

    母穴に常にいたずらをしてくるのが虚邪だと考えました。

    そして、虚邪は母穴で処理せよということではないかと考えました。

    69難が、虚邪は、その経脈の母穴を使って処理せよといっているのであればピタッと当てはまるのではないかと考えました。

    そして、母穴は経脈を虚せしめる「切り替え装置」ではないかと。
    • 邪がこの「切り替え装置」を作動させれば、経脈が虚す(69難)
    • 誰かがこの「切り替え装置」を作動させれば、経脈が虚す(75難)
    こう考えて、います。

    _沈黙_

    疑問は、もう一つ、ありましたね。

    疑問2「不実不虚」 たとえば、傷暑は、心の正邪となります。

    言いかえると、火邪は火経脈の正邪です。

    「不実不虚」は、「実邪でもなく、虚邪でもなく」、正邪が入っているといっているのではと考えました。

    疑問1も、疑問2も邪が在れば、施術して正気を集めて、邪気に出て行ってもらう。

    このように考えています。

    五行穴が「切り替え装置」だとすれば、

    • 各「切り替え装置」が作動すれば
    • 母穴は、虚せしめる、
    • 子穴は、実せしめる、
    ということを認識しておかなければいけないことになります。施術者が安易に母穴に施術しておけばいいだろうと思っていてはきけんだということになります。母穴という「切り替え装置」を作動させると虚せしめてしまいますからね。
    • 虚の原因
    • 母穴への安易な考えの施術
    • 虚邪の存在
    • 実の原因
    • 子穴への安易な考えの施術
    • 実邪の存在
    「邪」と「安易な施術」、どちらでも、同じ状態をまねくことになりますね。

    それぞれに対応した五行穴として

    • 剋穴は賊邪
    • 母穴は虚邪
    • 自穴は正邪
    • 子穴は実邪
    • 畏穴は微邪
    こんなふうに使い分けているんですか。

    母穴に施術することが

    • 虚邪が在れば、補うという結果に通じ(69難)
    • 邪が無ければ、虚せしめる結果に通じる(75難)
    ということだと寅さんは考えているのですね。

    • 母穴という「切り替え装置」に邪がいたずらをしている。
    • そこへ、正気が集まるように施術する。
    • 正気が集まれば邪は出ていく
    • 邪による「切り替え装置」へのいたずらが止まれば、虚せしめる作用が止まる。

    本筋からそれるようで申し訳ありませんが、 針を施術するということの意味が違ってくるような話に聞こえましたが、いかがですか。

    寸口の脈が柔らかいから虚、堅いから実、というようなとらえ方、ではないようですね。

    たとえば、49難の緩脈が、

    • 肺経に侵入したときは虚邪
    • 心経に侵入したときは実邪
    と、とらえるわけですね。

    • 緩脈は柔らかな脈だから、いつでも虚というわけにはいかないというのですね。
    • 弦脈が堅い脈だから、いつでも実、というようなわけにもいかないんですね。
    同じ手法で施術しても、ツボが変われば、補うになったり、瀉するになったりするわけですね。

    今日のところは、ここまでとしましょう。

    ◇ ◇ ◇

    【69難_原文】

    六十九難曰、経言虚者補之、実者瀉之、不実不虚、以経取之、何謂也。然。虚者補其母、実者瀉其子、当先補之、然後瀉之。不実不虚、以経取之者、是正経自生病、不中他邪也、当自取其経、故言以経取之。

    【69難_私の読み】

    六十九難に曰く。経に言う。虚は之を補い、実は之を瀉し、不実不虚、経を以て之を取る。何を謂っているのか。答え。虚は其の母を補い、実は其の子を瀉す。当に先は之を補い、然るに後は之を瀉す。不実不虚、経を以て之を取るとは、是れ正に経自らが病を生じて、他邪に中らざるなり。当に自ら其の経を取る。故に言う、経を以て之を取ると。

    【69難_話し合い】

    まず、経脈が虚して、邪が侵入すると考えているのですが、いかがですか。

    経脈を補うために、母穴を補うと考えていたのですが、いかがですか。

    そのうえで、日ごろ疑問に思っていることを述べてみたいと思います。

    たとえば、火経が虚す。土邪が侵入する。土穴を使うのは、間違いですか。

    火経に土邪が在れば、私は土穴に施術しています。

    長くなりますが、私の考えを述べてもいいですか。

    _どうぞ_

    私は、寸口脈で選経選穴をすることを目標にしています。

    この目標を達成するために、この69難についても、いろいろ考えてきました。

    49難、50難、69難と合わせて読むと、選穴方法が述べられているのではと考えました。

    まず、69難の読みですが

    • 虚は其の母を補う。
    • 実は其の子を瀉す。
    • 先は之を補う。
    • 後は之を瀉す。
    • 不実不虚は之を取る。

    つぎに、50難と69難を結び付けてみました。

    • 50難の虚邪は、69難の「虚」
    • 50難の実邪は、69難の「実」
    • 50難の賊邪は、69難の「先」
    • 50難の微邪は、69難の「後」
    • 50難の正邪は、69難の「不実不虚」

    さらに49難と合わせて、邪と脈状と、経脈と五行穴との関係をまとめると

    • たとえば心病
    • 中風(木)弦、虚邪、母穴
    • 傷暑(火)洪、正邪、自穴
    • 飲食労倦(土)緩、実邪、詁穴
    • 傷寒(金)濇、微邪、畏穴
    • 中湿(水)沈濡浮かせて実、賊邪、剋穴。

    これで寸口脈で選経につづいて、選穴もできるということを難経は述べていると考えました。

    母穴に施術することで、虚が補われるのではと思っているのですが?

    75難に「母よく子を虚せしむ」とあります。

    75難では肝実を虚せしめる目的で母である水を補うと述べています。

    母に作用が加われば虚が発生すると理解しています。

    母への作用が邪によるものであれ、施術であれ、結果として母が作用して虚せしめることになる。

    邪が母に作用したために虚した場合、 母に施術して、正気を集めれば、結果として邪気が除かれる。母の虚せしめる作用が停止する。虚の状態が改善される。

    子穴に施術すれば、 実が解消されると思っているのですが?

    75難に「子よく母を実せしむ」とあります。

    75難では肝実を虚せしめる目的で子である火を瀉すと述べています。

    子に作用が加われば実が発生すると理解しています。

    子への作用が邪によるものであれ、施術であれ、結果として子が作用して実せしめることになる。

    邪が子に作用したために実した場合、 子に施術して、正気を集めれば、結果として邪気が除かれる。子の、実せしめる作用が停止する。実の状態が改善される。

    こう考えていますが、いかがですか。

    「先は之を補う」と読まれていますね。

    「先」を賊邪と考えているのですね。

    たとえば、75難に「木が実を欲すれば、金が平にする」と述べられています。

    剋が作用すると、 虚せしむると考えました。あとは母穴のときと同じ考え方です。

    「後は之を瀉す」と読まれていますね。

    「後」に微邪をあてはめたのですね。

    これについては、説明するような文章を見つけられずにいます。 「後は之を瀉す」とあるので、「子よく母を実せしめる」と同じ考え方でよいのではないかと思っているところです。

    「不実不虚、之を取る」。

    「不実不虚」は正邪としていますね。

    不実不虚なのだから、何もしなくてよいようにおもうのですが、「之を取る」と述べられています。 他邪に中らないというのですから「正邪」で間違いないとおもいます。

    正邪があれば施術して正気を集めれば、邪が除かれると信じています。

    自穴の作用は、「虚せしむ」でも「実せしむ」でもないとすれば、経脈本体の盛衰に関係が在るのでしょうか

    _正邪が一番危険なのか?_

    脈状を的確にとらえて、選穴をしなければ「虚を虚し、実を実し(81難)」ということになりかねないことが分かったように感じました。

    とりあえず確認ですが

    • 風邪は弦脈で木穴。
    • 暑邪は洪脈で火穴。
    • 飲食労倦は緩脈で土穴。
    • 寒邪は濇脈で金穴。
    • 湿邪は沈濡で浮かせて実の脈で水穴。

    ◇ ◇ ◇

    【75難_原文】

    七十五難曰、経言東方実、西方虚、瀉南方、補北方、何謂也。然。金木水火土、当更相平。東方木也、西方金也。木欲実、金当平之、火欲実、水当平之、土欲実、木当平之、金欲実、火当平之、水欲実、土当平之。東方肝也、則知肝実、西方肺也、則知肺虚。瀉南方火、補北方水。南方火、火者、木之子也、北方水、水者、木之母也、水勝火、子能令母実、母能令子虚、故瀉火補水、欲令金不得平木也。経曰、不能治其虚、何問其余、此之謂也。

    【75難_私の読み】

    七十五難に曰く。経に言う。東方、実、西方、虚、南方を瀉し、北方を補う。何のいいぞや。

    答え。金木水火土、当に更ごも相い平ぐ。 東方は木なり。西方は金なり。
    • 木、実(じつ)を欲せば、金、当に、これを平ぐ。
    • 火、実(じつ)を欲せば、水、当に、これを平ぐ。
    • 土、実(じつ)を欲せば、木、当に、これを平ぐ。
    • 金、実(じつ)を欲せば、火、当に、これを平ぐ。
    • 水、実(じつ)を欲せば、土、当に、これを平ぐ。
    東方は肝なり、則ち知る、肝、実を。西方は、肺なり、則ち知る、肺、虚を。 南方、火を瀉し、北方、水を補う。 南方火、火は木の子なり。北方水、水は木の母なり。
    • 水勝火。
    • 子は能く、母を実(じつ)せしむ。
    • 母は能く、子を虚せしむ。
    • 故に瀉火補水は、欲する、金が木を平にせしめ得ないことを。 経に曰く。其の虚を治すること、あたわずば、其のほかに、何を問うのか。 此れこれを謂うなり。

      【75難_話し合い】

      「東方、実、西方、虚、南方を瀉し、北方を補う。何のいいぞや。」 これが、問い。以下、答え。 このように理解しているのですが、よろしいですよね。 そのうえで、以下の、答えについて、いろいろ意見もあるようです。いかがですか。

      私の意見を述べていいですか。

      _聞かせて_

      「金木水火土、まさに、こもごも」から「土、当に、これを平ぐ。」 この部分は、自然治癒機能の説明だと思います。

      何かの事情で、実(じつ)が生じてきたら、自動的に修復するという意味ですか・。

      そうです。本来、持っている機能です。

      そして、ここにないのが

      「○○、虚を欲せば、○○が、当に、これを平ぐ。」

      です。

      ここには、虚したときには、自動修復機能は働くのかどうかは述べられていないのです。

      実(じつ)への反応については、これだけ丁寧に述べているのに、虚について述べていないのは、虚したときには、自動修復機能が働かないというのではないかと理解しています。

      それが「まさに、先ずこれを補う」の答えだと、いうのですか。

      実(じつ)が在ると自動修復機能が作動するが、虚が在っても、自動修復機能は作動しないと考えているのですか。

      そう、考えています。

      さらにいうと、虚が在ることで、自動修復機能は、うまく作動しないと考えています。

      そこで、自動修復機能を稼働させる前提条件を調整修復することが「まさに先ず」行う」べきことという理解でいいですか。

      そんな、感じです。

      そのあとについても意見がありますか。

      • 「水勝火」
      • 「子よく母を実(じつ)せしむ」
      • 「母よく子を虚せしむ」
      これも、五行の大切な法則ですよね。

      _うなずく_

      このあとに、「東方実、西方虚・・」の結論です。

      肝実に対する施術方法ですよね。

      ここから、最後までは、私は「肝、実、肺、虚」にたいする施術原則だと考えています。

      どう違いますか。

      「火を瀉し、水を補う」

      「肝実(じつ)」だけを処理しようとしているのが、75難のこの部分だと思います。

      そして、この部分だけの結論が 「故に瀉火補水は、欲する、金が木を平にせしめ得ないことを。」だと。

      「瀉火補水」の結果は「金が木を平にせしめ得ない」と。

      言いかえると「瀉火補水」は人体が本来持っている自動修復機能が作動することを「せしめ得ない」ことを目的にしていることになります。

      先に75難が述べてきた、自動修復機能が機能しえないことを欲していることになります。

      肺虚については何も述べていない。

      「瀉火補水」で「肝実」を整えるというのが、ただのルール違反だということですか。

      そう考えないと、この後に述べられている結論と矛盾すると思います。

      _75難は、これで終わりでは?_

      まだ続きがありますよ

      「経に曰く。其の虚を治すること、あたわずば、其のほかに、何を問うのか。此れこれを謂うなり。」

      _沈黙_

      ◇ ◇ ◇

      【76難_原文】

      七十六難曰、何謂補瀉。当補之時、何所取気。当瀉之時、何所置気。然。当補之時、従衛取気、当瀉之時、従栄置気。其陽気不足、陰気有余、当先補其陽、而後瀉其陰。陰気不足、陽気有余、当先補其陰、而後瀉其陽。栄衛通行。此其要也。

      【76難_私の読み】

      七十六難に曰く。何を補瀉という。当にこれを補う時、何の所に気を取る。当にこれを瀉す時、何の所に気を置く。答え。当にこれを補う時、衛にしたがい気を取る。当にこれを瀉す時、栄にしたがい気を置く。其の陽気不足、陰気有余は、当に先ず其の陽を補い、しかして後に其の陰を瀉す。陰気不足、陽気有余は、当に先ず其の陰を補い、而して後に其の陽を瀉す。栄衛通行す。此れ其の要なり。

      【76難_話し合い】

      • 当にこれを補う時、衛にしたがい気を取る。
      • 当にこれを瀉す時、栄にしたがい気を置く。
      • 其の陽気不足、陰気有余は、当に先ず其の陽を補い、而して後に其の陰を瀉す。
      • 陰気不足、陽気有余は、当に先ず其の陰を補い、而して後に其の陽を瀉す
      • 前半は補瀉の方法
      • 後半は補瀉の順番
      • まず、補は衛に従い気を取る。
      • 瀉は栄にしたがい気を置く。
      補瀉について、いかがですか。

      私は1999年6月に参加した研修会で、この難についての話を聞きました。 以来、「衛にしたがい気を取る」ことについて、質問したり、試行錯誤しながら現在にいたります。

      何か成果はありますか。

      それまで、気を理解できないでいました。そこで、気を信じる振りをするようにしていきました。自分としては、押し手がずいぶん動かしやすくなりました。針を刺入しても、ツボに知被けるだけでも効果に違いがないことを確信するようになりました。自然に気を信じるようになってきました。 この研修会に参加できたことは、たいへんありがたいと今も感謝しています。

      「衛にしたがい気を取る」とはどんなことというか、イメージというか?

      現在の私の方法は、押し手をツボに近づけるだけです。 自分自身としては、「気を取る」とかは、いまだに、よくわかりません。 イメージとしては、天地の気を丹田に、そして押し手に。それだけです。 そこからは施術した、ツボに患者の正気が集まることを信じるだけです。 暖かくなったり、潤ったりすることもあります。

      私なりの考えを述べてみてもいいですか。

      _巽さん、聞かせて_

      補法の具体的な方法は、「まさに、補うのとき、衛にしたがい、気を取る」。「衛」にしたがうのだから、経脈の外側、表面側ということですよね。

      寅さんのいわれている、ツボに近づけるは、この外側にあたりませんか。

      つまり、虚を正しく整えれば、あとは自動修復機能にまかせるという考え方ですか。?

      • 賊邪と虚邪と正邪を虚と考えています。
      • 賊邪は剋穴、虚邪は母穴、正し邪は自穴に補法をします。
      • 実邪と微邪は、実邪と考えています。
      • 実邪は畏経の子穴、微邪は畏経の畏穴に補法をします。
      • 実邪は77難に基づいています。

      「実」については、あくまでも自動修復機能にまかせるという考え方ですね。

      76難の、後半部分については、いかがですか。

      陰であれ、陽であれ虚を先ず補えと述べています。

      陰が先とか、陽が先とかではなく、虚を先にと述べていますね。

      ◇ ◇ ◇

      【77難_原文】

      七十七難曰、経言上工治未病、中工治已病者、何謂也。然。所謂治未病者、見肝之病、則知肝当伝之於脾、故先実其脾気、無令得受肝之邪。故曰治未病焉。中工者、見肝之病、不暁相伝、但一心治肝。故曰治已病也。

      【77難_私の読み】

      七十七難に曰く。経に言う。上工は、未病を治し、中工は、已病を治すとは、何のいいぞや。答え。いうところの、未病を治すとは、肝の病を見て、則ち知る。肝、当に脾にこれを伝えることを。故に先ず其の脾気を実して、肝の邪を受けて得せしめること無し。故に曰く。未病を治すと。中工は、肝の病を見て、相い伝えること暁(あきらか)ならず。ただ一心に肝を治す。故に曰く。已病を治すなり。

      【77難_話し合い】

      肝病。上工は未病を治し、中工は已病を治す。 私の考えを述べてもいいですか。

      _聞かせて_

      この肝病は、肝実(じつ)、と考えています。 肝虚であれば、これまでの流れから考えて、「補う」でなければならないはずです。 77難では、もう一歩すすんで、つぎに、肝病が、やがて引き起こすであろう、脾病を予防する方法として、脾を実、せしめることを、教えていると考えています。 そこで、具体的に実、せしめる方法です。 ここには、くわしく述べられていません。 これが、「子よく母を実(じつ)せしめる(75難)」を使えばよいのだと考えています。

      虚邪をみつければ、「補う」

      実邪をみつければ、その経脈の畏経脈の子穴に施術する。

      具体的には次のようにしています。

      • 賊邪は剋穴。
      • 虚邪は母穴。
      • 正邪は自穴。
      • 実邪は畏経の子穴。
      • 微邪は畏経の畏穴。
      施術方法は、すべて同じです。 賊邪・虚邪・正邪のあるところに施術すれば、正気があつまり、結果として邪気が退散する。 畏経の子穴や畏穴に施術すれば、「実せしめる」ことになるのではと考えました。みなさん、いかがでしょうか。

      「実邪」と「微邪」には直接施術しないのですね。

      自動修復機能を過大評価しているのではないですか。

      いままで、気が付かなかった、考え方ですよね。 過大評価なのか、過小評価なのか、わかりませんよね。

      選穴の考え方の、幅が広がるかもしれませんね。 追試検討をしようと思います。

      ◇ ◇ ◇

      【79難_原文】

      七十九難曰、経言迎而奪之、安得無虚、随而済之、安得無実、虚之与実、若得若失、実之与虚、若有若無、何謂也。然。迎而奪之者、瀉其子也、随而済之者、補其母也。仮令心病、瀉手心主兪、是謂迎而奪之者也、補手心主井、是謂随而済之者也。所謂実之与虚者、牢濡之意也、気来実牢者為得、濡虚者為失。故曰若得若失也。

      【79難_私の読み】

      七十九難に曰く。経に言う。迎えて之を奪う、安んぞ虚、無きを得ん。随いて之を済う、安んぞ実、無きを得ん。虚と実は、若しは得て、若しは失う、実と虚は、若しは有り若しは無し。何をいっているのか。答え。迎えて之を奪うとは、其の子を瀉すなり。随いて之を済うとは、其の母を補うなり。仮令ば心病、手心主の兪を瀉す。いわゆる迎えて之を奪うものなり。手心主の井を補う。いわゆる随いて之を済うものなり。いわゆる実と虚は、牢濡の意なり。気来たりて実牢は得ると為し、濡虚は失うと為す。故に曰く若しは得、若しは失う。

      【79難_話し合い】

      • 迎えて奪う、虚を得る
      • 随って救う、実を得る
      この難しそうな問いにたいしての答えが
      • 迎えて之を奪うとは、其の子を瀉すなり。
      • 随いて之を済うとは、其の母を補うなり。
      ここまで読むと、母に施術するのが補、詁に施術するのが瀉と、簡単なように思えます。

      私も、母穴に施術するのが補と信じていました。

      はじめの頃、右手寸口の弱いのは、肺経の母穴に施術すれば、効果がありました。自分の体がよくなったと確信できました。 しかし、いつも右寸口が弱いときに肺経の母穴というわけにはいかないことに気が付きました。脈が沈のとき、浮のとき、中のとき、それぞれ違うことが分かりました。。

      さらに邪の違いによって、母穴とは異なる経穴に施術することも考えるようになりました。

      なんどもその話は聞かせていただきました。

      そのたびに、少しずつ、違う意味に感じましたよ。

      言っている私自身も、おかげで成長させてもらっています。

      • 母穴に施術するのが補
      • 子穴に施術するのが瀉
      こう覚えるのが簡単でいいと思っていたのですが。

      • 寸口の脈診で選経するにしても
      • 浮中沈でも、また、陰乘陽乘でも、損傷している経脈が異なる。
      • また寸口の脈診で選穴するにしても
      • 邪の種類で、経穴が代わる。
      • 虚邪は母穴に施術する。
      • 実邪は子穴に施術する。
      • 正邪は自穴に施術する。
      次々にわかってきました。

      はじめて「母、よく子を虚せしむ(75難)」が話題になった時には、混乱しました。

      困ったときは、母穴に施術しておけば無難だろうと思っていましたが、虚を作り出していたかもしれませんね。

      それで、81難で、あんなにあたりまえのことを念を押すように注意していたんではないかと、今は思っています。

      経穴は「切り替え装置」という寅さんの説明は、理解しやすいです。

      • 母穴という切り替え装置に邪がいたずらしている。
      • このとき母穴に施術する>
      • 衛気が集まる
      • 邪気が退散する。
      • 母穴の「虚せしめる」機能が停止する>
      こう考えると75難と矛盾しないと思ったんです。

      _困ったときには、とりあえず母穴に施術しておこうは、使えなくなりましたけどね、(笑い)_

      寅さん、確認ですが
      • 母穴は虚せしめる装置
      • 子穴は実せしめる装置
      • 虚邪が母穴を起動させるので虚す
      • 実邪が子穴を起動させるので実す
      • この邪気を除去すれば装置は停止して虚実は消滅する
      こんな、説明でいいのかな。

      私はそう考えています。

      この79難では、具体的に心病のときに井穴で補い、兪穴で瀉すと述べています。

      「迎・随(79難)」や「後・前(50難)」は、

      五行が常に変化していることを認識すれば、わかるように思います。 過去から未来へと変化していると思えば、後から母がついて来るし、未来へと子供がすすんでいくことになる。

      • 自分の後をついてくる母が障害物で遅れていればこれをたすける(随いてこれを救う)。
      • 前を行く子供が障害物で立ち往生していればこれを除いて助けてやる(迎えてこれを奪う)。

      障害物を取り除く具体的な方法ですが、76難にある補法でよいのでしょうか。だとすれば、
      • 母の障害物を取り除く
      • 子の障害物を取り除く
      • そして、自らの障害物を取り除く
      経穴が違うだけで、施術の手技は同じということですよね。
      • 虚邪(母の障害物)のしょりが補法
      • 実邪(子の障害物)の処理が瀉法
      こんな理解でいいのですかね。

      • 賊ジャの処理は補法なのか、瀉法なのか
      • 正ジャの処理は補法なのか、瀉法なのか
      • 微ジャの処理は補法なのか、瀉法なのか

      私の考えを述べてもいいですか。

      _聞かせてください_

      • 賊邪の処理は補うに通じる、
      • 正邪の処理は補うに通じる、

      具体的な手技についていえば、一つです。経穴に鍼を近づけるだけです。選穴によって目的(結果)は異なると考えています。

      こんなふうに仮説を立てて追試しています。。

      寅さん、実邪と微邪についてはどんな追試をしていますか。

      77難を追試しています。
      • 実邪は、畏経の子穴に施術(実せしめる目的)
      • 微邪は畏経の畏穴に施術(実せしめる目的)
      手技については、先に述べた通りです。

      巽さんの意見を参考にさせてもらってます。

      邪が在るときの施術と、無いときの施術では、、結果が異なると考えておかなければいけないですよね。

      そのように考えています。

      この79難の「迎えて」や「随いて」という表現は、五行や陰陽が変化して止まないということが前提にあるから出てきた言葉だということなのでしょうね。

      ◇ ◇ ◇

      【81難_原文】

      八十一難曰、経言無実実虚虚、損不足而益有余、是寸口脈耶。将病自有虚実耶。其損益奈何。然。是病、非謂寸口脈也、謂病自有虚実也。仮令肝実而肺虚、肝者木也、肺者金也、金木当更相平、当知金平木。仮令肺実而肝虚、微少気、用針不補其肝、而反重実其肺。故曰実実虚虚、損不足而益有余。此者中工之所害也。

      【81難_私の読み】

      八十一難に曰く。経に言う。実を実し、虚を虚し、不足を損じ、有余を益する無かれ。是れ、寸口脈か、将た病自ら虚実有るか。其の損益は、いかん。答え。是れは、病です。寸口脈を謂うに非ず。病自ら虚実有るを謂うなり。仮令ば肝実して肺虚す。肝は木なり。肺は金なり。金木当に更ごも相い平ぐ。当に知る、金が木を平らげることを。仮令ば、肺実し、肝虚し、微少の気。針を用いて其の肝を補わず、反って重ねて其の肺を実す。故に曰く。実を実し虚を虚し、不足を損じて有余を益すと。此れ中工の害するところなり。

      【81難_話し合い】

      害を生じる原因は「病自ら虚実あり」である。寸口脈は、害を生じる原因に非ず。

      このように断言していますね。

      同じ、寸口脈について、1難では、「五臓六腑の死生吉凶の法を決す」と断言していますね。

      1難も81難も、寸口脈が有効であると述べている。

      こんなふうに、私は理解しています。

      寸口脈で正確に選経選穴することが大切だと、難経は述べているのだと思うのです。

      75難の肝実肺虚は、病の虚実をみて、肝実の処理をした。結果、「金が木を平ぐることを得ない」という結果を欲することにつながった。

      この時の寸口脈は、どんな脈だったのか書いておいて欲しかったですよね。

      この81難にも「寸口脈」と「五行が更ごも相い平ぐ」が出てきました。

      このような勉強会に参加しなければ、

      患者さんに、「目が疲れて」と疲れた声で言われたら目の周囲や肩背に施術していただけでした。

      太淵穴に施術することなど思いもよらないことでした。

      寸口脈でも、選経だけしか考えていないころには「母穴」専門でした。

      脈状を考えて選穴を考えて、やるようになって、69難の「虚するものはその母を補う」に迷いが出てきて、50難の虚邪をあてはめて、虚邪は母穴で処理するなんてことを追試するようになりました。

      寸口脈で選経して、選穴して、施術することで

      知らないうちに、「害を生じる」ことを回避できているのでしょうね。

      言いかえれば、五行の「更ごも相い平ぐ」が正しく機能しているということですよね。

      寸口脈や五行論の理解をさらに深めていくことで、「害を回避」して、さらに患者さんの回復力のお手伝いをしていきたえですね。

      ということで次回は、また、最初からですね。一難は、今回で何回目?

      ◇ ◇ ◇

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